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第5章   「社会的自我」と「個人的自我」

第2節  更新される創造的自我

 社会と個人の問題は、ベルクソンとアルヴァックスの双方によって説明されようとして いたのだが、社会一個人両立の永続(持続)という観点からいうと、ベルクソン自我論に より多くの可能性を見いだせるように思える。ただし、アルヴァックスが社会と個人の両

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立しようとしなかったわけではない。アルヴァックスは客観主義的で、集団主義的な記憶 内容にこだわって、集合的記憶論を構築したといえよう。そして、ベルクソンは、その客 観と主観を結びつけることを目指したのである。ここまでの議論を踏まえて、ここでは、

彼らの理論の意義と本論の意義を明らかにしたい。

 アルヴァックスは、デュルケムが提示した社会的連帯と個人の関係を、一歩進めて、個 人が複数の集団に同時に帰属することへ着目して、集合的記憶論へと発展させた。アル ヴァックスは、この複数の帰属集団によって社会一個人関係を築こうとした。 〈現在〉と いう同時的瞬間が、 「社会的持続」のはじめと終わりを客観的に表し、また、他者と共有 される「集団の視点」を客観的に表す。たとえベルクソン的な観点から見た場合でも、ア ルヴァックスの幾何学的な記憶論の客観的な妥当性は、確かに保たれているといえるだろ

う。

 同時性は客観的な「物的環境」を生み出し、この空間枠組みによって、客観的な時間(103)

が持続すると考えられる。アルヴァックスが持続を「諸瞬間の非連続な連続」(Halbwachs 1950:149)と捉えるのは、多くの個人に共有される時間間隔を複数並列させて、その間隔の 中に自由に瞬間を介在させられるからである。こうして、その時間間隔が交錯する瞬間の 全体に「社会的持続」という枠組みを構成する。したがって、 「社会的持続」は、同時性 という似かよった〈現在〉の積み重ねによって再構成されることになる。このように持続 する〈過去〉の記憶内容は、 「類似の描写」(Halbwachsl 950:140)を蓄積しているといえる。

 ベルクソンによれば、アルヴァックスが考えるような客観主義的な「社会的持続」は、

持続の始まりと終わりの瞬間に囲まれた持続であり、分割を意味する。持続は、いうまで もなく、不可分なものである。ここから、ベルクソンは自らに独自の持続と、客観主義的 な持続とを区別し、この区別から独自の自由な持続を展開する。

 この区別は、ベルクソン的な「想像上でしか存在しない瞬間」と、アルヴァックス的な

「想像的停止」としての瞬間とを意味する。後者の瞬間は、相対主義的な観察者の視点か ら説明される。前者の瞬間は、絶対的な瞬間であり、行為者の視点から見た持続に含まれ る。この二つの視点は、明確に区別されることが必要で、この区別はベルクソン的な自我 にも当てはまる。

 しかし、ベルクソンの自我論は、この区別を接合するところに主客二元論克服という意 義を認めることができる(第4章第2節)。

 アインシュタインが相対性理論によって明らかにしたように、行為者の内的な運動と観 察者の外的な観察は、同じ行動を見ていても、二人の体験を交換することはできない。交

(1°3)

Aルヴァックスが数学的時間と社会的持続を区別したのはいうまでもない。客観的な時間の持続 も、数学的時間を意味しない。本論においては、そのような前提の下で、アルヴァックスとベルク ソンの持続を比較した。

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換不可能であるにもかかわらず、人びとは外部にいる観察者の視点によって、運動を捉え ることからしか、内部の行為者の視点を持つことができない。なぜなら、空間と時間はど ちらの成立の条件にもなっている(Bergson 1922a:51−58ニ1965:212−218)からである。つまり、

内的な運動を空間に表すことによって、言い換えると、外部の視点をとることによって、

内部の視点は明らかになる。空間を占めるには時間が必要であるし、時間を生きるにも空 間を占めることが必要だからである。外部の視点、すなわち持続に外在的な視点は、持続 内在的な視点の前提となっている。このことからベルクソンは、多様な持続、時間の多様 性を認めることができ、なおかつ、客観一主観の二元論克服を意図できる。

 ベルクソンによる二つの視点の接合は、デカルト以降の大命題であった主客二元論の克 服を試みるものである。つまり、外部の視点と内部の視点の合一は、客観と主観の接合と して捉えることができる。そして、この接合は、相対的客観性と、絶対的主観性の成立が、

相互に補い合っていることを示している。

 ベルクソンは『創造的進化』 (lgcr7年)において、数学的な法則に内在する相対的な「幾 何学的秩序(ordre g60m6trique)」が、諸現象の一つ一つが持っている個性、一回性、独創性 を表す「生命秩序(ordre・vital」を真似ていたという(Bergson l 907:227−229=1965:258−260)。

すなわち、個体としての生命が種によって一般化(塵n6ralisation)されるところに由来し、こ の一一般化が「幾何学的秩序」の法則を生起させる(横山 2001:4D。ここでいう「生命秩 序」はベルクソン的持続であり、 「幾何学的秩序」は「想像的停止」の継起、外部の視点 から観察した相対的運動を指すと考えられる。つまり、ベルクソンは、交換不可能な持続 が相対的に可分されてしまうことへの批判から、 「生命秩序」に根ざした独自の持続を説

明する。

 この「生命秩序」は、生物の新しい個体種を創造する予測不可能な秩序として扱われて いる。つまり、 「生命秩序」はベルクソン的持続を示していることになる。時間と空間の 相互的関係から、ベルクソン的持続が空間化された時間と選り分けられて成立することを 思い起こせば、この「生命秩序」は「幾何学的秩序」との差異によって成立することを指 摘できる。したがって、ベルクソン的持続の「生命秩序」は、 「幾何学的秩序」からの区 別によって成立するだけではなく、 「幾何学的秩序」に成立条件を付与していることにも

なる。

 「幾何学的秩序」はベルクソンが「生命秩序」と区分した数学的な秩序であり、数学的 な時間はアルヴァックスによっても彼の持続と区別されていた。しかし、ベルクソンによ れば、アルヴァックスの社会的持続も同時性の反復を射程に入れていることから、 「幾何 学的秩序」として判断されるだろう。そうだとするならば、ベルクソン的持続とアル ヴァックス的持続は、 「生命秩序」と「幾何学的秩序」の相補的な成立関係を保つことに

なる。

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 〈現在〉の知覚を一回限りの独自なものとして記憶する「自発的記憶」と、 〈過去〉の 反復として〈現在〉の知覚を実現する「身体の記憶」とは、 「生命秩序」と「幾何学的秩 序」の相補的関係、ベルクソンとアルヴァックスの相補的関係を示しているといえよう。

さらに、この相補的関係は二重化する自我   「社会的自我」と「個人的自我」  をも 示していることになる。

 そして、一}三客二元論の克服と同じく、ベルクソン自我論の意義として据えることができ るのが、この自我の相補関係によって明示される自我の創造だといえよう。ベルクソンは、

記憶や秩序の相補的関係によって、記憶内容や個体がもつ一一一一回性・独自性・差異を、 〈未 来〉においても存在することを論証してきた。その存在とは、例えば、潜在的な記憶内容 の存在であり、 「行動の不確定性」であり、 「個人的自我」である。

 〈未来〉における不確定性は、 〈過去〉とは異なるものの創造を意味する。 「個人的自 我」は〈過去〉において実現されなかった自我を表し、潜在的な記憶内容も〈過去〉にお いて実現しなかった知覚を表す。したがって、 「個人的自我」の実現とは、常に新たに創 造された自我を想像する、イメージすることだと考えられる。イメージを超え、実現され るのは「社会的自我」であるとするならば、 「個人的自我」の創造性は想像上でしか存在

しない自我ということになる。

 例えば、ドゥルーズの『アンチ・オイディプス』を基礎にして、市倉宏祐は、自然科学 と同様に、近代資本主義にその繁栄をもたらす民主主義において、 「いっさいが量的に規 定される。質の相異は重要視されない。すべてが等質であり、万人は平等である。あらゆ るものが平均化される」(市倉1994:21)という。さらに、市倉によれば、民主主義において 万人に等しく認められた平等と自由、人権は、別の観点からいえば、 「万人が等しく奴隷 となって主人が消滅したこと」、万人が等しく数量化され、多数決と多数派工作に依存す ることになる。(市倉1994:61)という。

 ある個人が少数派に属していた場合、もしくは、自分だけ異なる意見を有した場合、や むなく多数派の意見を共有することになる。多数決において、人びとは多数派の意見を平 均化された意見として受け入れざるをえない。この平均化された意見としての総意を受け 入れることが、通約され、一般化された「社会的自我」を意識することに相当すると考え

られる。

 けれども、そのように平均化した意見を総意として受け入れるには、あるいは拒否する には、総意を諸個人の意見のを平均化されたものであると承認すること(社会的自我)だ けでなく、その総意とは異なる個人的な意見(個人的自我)を創造することが伴うと考え られる。この総意と独自の意見を同時的に意識することは、 「社会的自我」と「個人的自 我」との二重化を現している。すなわち、人びとが自らの個性を認識するのは、他者と通 約されない自我を見出したときであり、「社会的自我」との対比によって「個人的自我」

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