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調査報告書からみるアイヌ衣服およびその文様の特徴

60 ラ集II』三省堂、pp258-259より引用。

ここでは、アイヌラックルが魔神を討つ際に、すね当てや鎧を纏い、さらにその上から

「裾の燃える厚司」を着用している。この「厚司」を、神あるいは神と同等の存在である 人間の始祖(文化神アイヌラックル)が着用していることから、オイナにおける高貴な者が纏 う正装であると考えられる。同時に、鎧やかぶと、帯といった装身具も付けられ、色に関 しても「金色」が位の高い色であることが分かる。ただし、「金襴の小袖」などは和人から 得た物である。そのため、古い時代のアイヌの衣服を確認することは出来ないが、この当 時において、すでに普及していたと考えられる木綿衣は登場せず、胆振地方の幌別、日高 地方の新冠ともに、神に着用されるのは樹皮衣(アットゥ)である。この「赤みのあるattush」

の素材(植物)は、オヒョウではなくハルニレである。すなわち、両地域ともにハルニレの

attushがオイナにおける神の着衣として認識されている衣服であると分かる。

上述のオイナの中では、木綿衣よりも樹皮衣の着用がみられることから、アイヌが樹皮 衣を重んじている意識が窺える。この理由として考えられるのは、樹皮衣は古くからアイ ヌの自製の衣服であるため、木綿衣よりも伝統的であるというアイヌ民族共通の認識が、2 つの地域のオイナにみられる要因であると思われる。

以上のように、ユーカラからは、アイヌの世界観や宗教観を窺うことが出来るが、ユー カラ上の衣服には「kani chikirbe」のように想像上の衣服もある。そのため、ユーカラか らは、登場する神々や英雄の衣服の描写は分かるものの、日常のアイヌの着衣に関する様 子が分かりづらい。そこで、次節では、調査報告書を主な資料として、実際の日常でアイ ヌが纏っていた衣服およびその文様に関して検討を行う。

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ら1999年までの全18冊を使用する。この中に記述されていた儀礼にみられる衣服の事例 を取り上げた。なお、この調査報告書は、北海道教育委員会で昭和 56(1981)年度から文化 庁の助成を受けて調査されたものである。北海道内の各地に居住するアイヌに伝承されて いるアイヌ文化に関する情報が数多く報告されており、経験談などを語る伝承者の情報(氏 名、出身地、生年、調査年など)も細かく記載されていることから、信憑性も高く貴重な資 料である。

その結果、資料編第5表のようにまとめられた。比較結果は、以下の通りである。

A. 上川地方、旭川

礼服…ユーカラなどではコソンデkisonteといい、絹(サランペsaranpe)で出来ている。ク マ祭に着るような晴れ着は、チミクニプに刺繍を施したチカラカラチミクニプcikarkar

cimikunipや、チカラカラペcikarkarpeなどと呼ばれるものである。ニールniruとい

う首飾りは、布の帯に金属板が張ってあり、首にそれを巻く。クマ祭の時には布だけを 替えた。

普段着…チミクニプcimikunipと呼ばれるもの。

男性のみ…サパウンべsapaunpe冠。普段は付けずにイオマンテなどで付ける。

ニンカリと呼ばれる ninkari 耳輪は、エカシ(祖父)によると、シナ(中国)から伝わったも のだとされる。アトゥィヤコタンAtuyyakotan(シナ、中国)からエサンノッ esannot とい う所を通ってもたらされたという。これは伝承者の母が普段付けていた。クマ祭の時には2 つ下げることがあったが、普段は1つだけ下げていた。しかし、山に行く時には必ず外し た。男でもニンカリを付けている者がいたが、女のものよりも小さく、直径2~3cmである。

タマサイtamasay首飾りは普段は付けない。テクンカニtekunkani手首輪。よそ行きに付

けるものとされる。日高から来たナヌウェンNanuwenという女性が持っていた。歌う時、

手で拍子をとる度に袖口からキラキラ光って見えた。テクンペ tekunpe手甲。死人には白 と黒だけで作る。生きている人が付けるものは、毛皮や色の付いた布で作る。

旭川では、礼服と普段着が明確に分かれている。首飾りや耳輪などの装飾品に関しては、

ニールは祭りの時に布を替える、タマサイは普段は身に付けないことから特別な日(祭など) に付けられることが予想される。テクンカニに関しても同様で、「歌う時、手で拍子をとる 度に袖口からキラキラ光って見えた」という内容から、女性の歌や踊りが行われる祭りで の着用の様子が窺える。

B. 日高地方 a. 静内

男性…和人と変わらない着物を着用。その着物には切り伏せなどの模様(イカルカル ikarkar)は付いていない。男性は、膝かぶが隠れるくらいの高さに裾を上げていた。伝 承者はくるぶしの上5cmほどの高さに裾がくるように帯をしめるとよいと言われていた。

女性…暖かい時は大抵モウルmourだけで過ごした。

カムイノミや葬式の時…羽織る着物は、帯を締めず、裾をひるがえすようにした。女性は

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ニンカリ ninkari、タマサイなどの装身具を着用。礼服として男女ともにカパル アミプ

を着るが、イオサクリiosakuriやチンジリcinciriはそれよりも貴いものとされ、持って いる者はこれを着た。イオサクリは男が着て、女はカムイノミなどの祭の時にチンジリ を、葬式の時にカパル アミプを着た。礼服を持っていない人に貸すこともあった。これ をウカッピルカレ ukatpirkare と言う。高級な着物として、絹布、サクリ、チンジリが 挙げられる。サクリやチンジリは、センカキで作った着物よりも大切なものと考えられ 礼 服 と し て 用 い ら れ た 。 花 模 様 の 入 っ た 布 や 、 そ れ で 作 っ た 着 物 は ハ ナ ン ゾ メ

hanansomeとも呼ばれ、男女とも儀礼で着用した。カスプ kasup(杓子)おつゆを作る時

に使う。イオマンテ(クマ送り)、イチャルパ(先祖供養)には模様付の立派なものを使う。

日高地方の静内では、男性の普段着には切り伏せなどな付いておらず、衣服は普段引き ずったり踏んだりせずに、くるぶし上5cmほどの丈で着用されていた。チンジリ、ハナン ゾメなどの名称から、和人の衣服文化の影響が窺える部分がある。これらの衣服は、伝承 者の前の世代では浜での労働賃金として得られていた。旭川同様に、礼服と普段着に区別 があり、礼服は帯を締めず前を開いて着用される。礼服は素材によって価値に上下がある ことが分かる。

b. 沙流

女性…昔のフチ(おばあさん)たちは、普段はもめんの服を着ていた。儀式の時、モウル

mour(下着)の上にチカラカラcikarkar(切り伏せ文様着)を着た。女の人が亡くなったら、

煙草、米、はさみ、かみそり、針、糸とともに埋葬する。

日高地方の沙流では、儀礼の時のみ文様入り衣服を着用していた様子が窺える。

C. 北見(網走)地方 a. 美幌

上衣にシカの毛皮を縫い付けることがある。アットゥattusの背に縫い付ける。これを ルシセトゥル russeturu という。葬儀の時は、男性の死人にはセプパ seppa(鍔)とトゥキ

tuki(盃)を持たせてやった。マキリmakiri(小刀)も持たせた。中にはエムシemus(刀)を持た

せることもあった。女にはタラ tar(荷縄)、ニンカリ、ポン ス(15cm くらいの鍋)を持たせ る。

美幌では、普段着にはアットゥ(樹皮衣)が着用され、その上にまれにシカの毛皮が縫い 付けられる。

D. 十勝地方

上利かみとしべつのクマ送りでその家のフチが熊檻のまわりで踊る時、コソンテ kosonte を着用。

薄いカパルぺ kaparpe(極上の布)に刺繍がされている。サクリ sakuri はアットゥシ attus のように固い木綿の着物で、伝承者の母は、それに刺繍をしていた。漁師たちが仕事の時 着るものでもあり、地は縦縞の模様が付いている。刺繍した着物はチカルカルイミという。

文様に裂を置いた着物(切り伏せ文様)は日高の方のものだ。十勝ではそのような事はしな いが、伝承者の母はまねして作っていた。十勝は本来、刺繍だけで模様を付けた。

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着物の文様は、皮をむいていない家の柱の皮をむくと、虫(キキリ kikir)がすじを付けて いることがあるが、その跡から刺繍の模様を考え付いたというテエタ ウチャシコマ(昔の言 い伝え)がある。キキリ ノカ カルペ(虫が模様をつくったもの)を研究した。その伝承は以 下の通りである。

小屋を作る時は皮もむかずに 柱を立てて家を作る

何年かするとその木の皮がむけて、見ると 虫が通った痕がひどくきれいだったので

どうにかしたらいいのではないかと言われて年月がたったが 利口な人たちが着物の上に刺繍したらきれい

だろうと言ったので、上手な人たちが

考えてチカルカルイミという名の着物が出来たのだ

また、幼児は少し大きくなるとシカ皮の柔らかい着物を着用していた。脚絆には普段履 くもの、旅に履くもの、イオマンテの時に付けるものの3種類がある。模様のついた脚絆(黒 地に赤と青で山型の模様を付ける)はイオマンテの時に付ける。こはぜを付けた物もあった。

十勝地方では、イオマンテで、フチ(老婆)が刺繍されたコソンテを着用している。また、

十勝では切り伏せではなく刺繍による装飾が本来のかたちである。脚絆に関しても、普段 と祭りの時とでは異なる。

E. 胆振い ぶ り地方 a. 鵡川む か わ

耳飾り(ニンカリ)は丸く、大小色々で、大は径 5cm くらいあった。カムイノミなど、よ そ行きの時にする。うちの母親たちは持っていなかった。レクトゥンベrekutunpe は首に 巻く黒い切れで模様が中央に付いている。伝承者の母親の物は見たことがないと言われる。

胆振地方の鵡川では、耳飾りはカムイノミ(祭り)など特別な日に付けられる。

b. 有珠

建て網(定置網)の親方の奥さんは刺し子という着物を着ていた。女の人は三角に折った風 呂敷をかぶる。人に会ったら静かに外し、折って肩に掛ける。これはカッケマッkatkemat(男 と対等の能力のある年寄りの女)のたしなみであるとされる。

昔のばあさんたちがお祈りをするときは、頭の被り物を取ってする。子どもは膝までの 丈のオウシコトゥィouskotuyという着物を着ていた。ケリkeri(サケの皮の靴)は女が履く もので、男はイヌの皮の靴を履いていた。

胆振地方の有珠では、裕福な家の女性が着物(刺し子)を着用している。老婆(カッケマッ) は頭に風呂敷の被り物をするが、祈りの時はこれを外す。靴は男女で違いがあり、サケの 皮の靴は女性、イヌの皮の靴は男性が履いていた。

F. 石狩地方 a. 千歳

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衣服…アミプという。千歳ではアットゥがほぼ作られなかった。もんぺは伝承者の代から 履くようになった。着物の材料となる布地にはウンサイ、センカキ、サクリがあった。

また、サラㇺべ sarampe というのは縮緬ちりめんのような立派な布地をいう。ウンサイ、サクリ からは男物の着物を作り、センカキからは女物のもんぺを作った。女にはセンカキ、ウ ンサイを用いない。

刺繍…伝承者の母の代にはもう刺繍(イカルカルikarkar)するものはいなかった。刺繍をし ているのを見たことがないので、何というのか分からない。渦巻のような形の刺繍を母 がモレウノカmorew nokaと言っていた覚えがある。

装飾品…ニンカリはオシャレでする。径が10cmくらいで玉は径2cmくらい。家にいる時 も耳輪を下げる人がいる。外出する時は片方の耳に 2 つも下げていた。マタンプシや着 物に付ける刺繍の模様をモレウmorewということを母から聞いた。モレウは丸く渦のよ うな形をいう。どんな意味があるかは聞いていない。マタンプシの布地の色は黒で、ク ンネ センカキを用いる。マタンプシmatanpusは女が祭のとき頭に付ける鉢巻だが、黒 い布で出来ており、刺繍の模様は入っていなかった。

祭りの時の服装…クマ祭などのお祭りの時は、老人の男女はチカルカルベ(刺繍の入った着 物)を着た。普段は着ないものである。葬式やシンヌラプパ(先祖供養)の時にチカルカル ベを着たのは見たことがない。

この頃の千歳ではアットゥはほとんど作られていない。着る衣服は素材によって男女の 差があるが、祭りの時は男女ともにチカルカルベを着用している。ただし、葬式や先祖供 養の時には着られない。ハチマキに関しては、女性が付けるものでされている。

以上の調査報告書から、アイヌ衣服には礼服と普段着を分けているアイヌ居住地区(地域) が多いことが分かる。すなわち、礼服と普段着の境界は、衣服では「文様入りか否か」と いう点が重要であると考えられる。また、千歳では、イオマンテの時に着用されるチカル カルベが、葬式やシンヌラプパでは着用されないことから、文様入り衣服着用には何らか の基準があり、地域によって異なることが分かる。タマサイやニンカリなどの装身具に関 しても、祭り(イオマンテ)の時にしか付けられない事例が多数見られた。以上の点から、ア イヌ衣服の着用方法、衣服の素材、文様の有無、装身具は、アイヌの社会の中で、日常と 祭りなどの非日常との境界を生じされている要素であると考えられる。こうした境界性を 生じさせる理由に関しては、第4章第4節において詳しく検討する。

また、衣服および装飾品の違いは、コタン内における身分(階級)差や貧富の差から生じて いるとも考えられる。その事例として、コタン内で酋長同様に力を保持していたと考えら れるトゥスクル(巫術者)に関して、次節で検討する。