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(1)自然環境と集落

北海道は、日本の国土の 22%ほどを占める面積、比較的平坦部が多い地形、国内の他地 域に比べて大きく広がる山林がある。しかし、北海道の自然は昔と今では大きく変わって おり、国有の天然林の伐採が活発に行われて人工林の造成が遅れたために、森林の蓄積量 が少ないという問題を抱えている(田端他2000:2-3 )。

北海道内の各地域の調査報告書にあったアイヌコタン(集落)は、道北・道東・道南に広く 存在している。西蝦夷地では、宗谷を除きイオマンテを行った記録については乏しいが、

この場所は早くから漁場として開かれ、和人も多く入り込んだことや、場所請負制の後期 になってアイヌの消耗が激しく、他の場所からの出稼ぎが増えたことからイオマンテを行 う余裕がなくなったとされている。イオマンテが行われた記録の地域をみると、東蝦夷地 内のものが多い。東蝦夷地においては、西蝦夷地に比べてアイヌの消耗は比較的少なく、

他の場所からの出稼ぎも少なかったため、儀礼が保存しやすかったことが挙げられる(佐々

27 木1990:119)。

アイヌの人々の社会生活の基本はコタンと呼ばれる集落であり、コタンは主に大きな川 の岸辺や、海へ注ぐ河口に近い場所に数戸から十数戸で構成されている。このコタンを中 心に狩猟・漁撈・採集などの生活が行われている。この領域は山や川によって境界が明確 であり、これを侵すと太刀や漆器などの宝物で償わなければならないとされていた(田端他 2000:95)。コタンは父方の血縁の人々が中心となって構成され、古い家系の長老がコタン コロクルと呼ばれる長役を務める。このコタンコロクルは、世襲制ではなく優れた人物が 務め、村の秩序を守っていく能力や他のコタンとの交渉の力量などに優れていなければな らなかった。コタンコロクルを中心になり、狩りや漁、家屋の建設などの共同作業、日常 生活、交易などの対外関係の調整などが行われ、アイヌ社会において重要な意味を持つ祭 祀や儀礼の中心にもなった(田端他2000:95)。

コタンの各家族の生活は、一組の夫婦とその未婚の子どもたちで営まれる。子どもが成 人し結婚すると、新たに一軒の家を建てて独立した家庭をつくる。生活上の仕事について は、男女の分業が明確であり、男性は狩猟・漁撈・交易・儀礼に関わるものであり、女性 は食事・衣服・採集・畑仕事・子育てなど、日々の生活すべてにわたるものであった。ま た、このコタンをいくつもまとめて代表する地位にあり、和人から「総大将」というよう な呼び方をされる有力者もいた(田端他2000:96)。

アイヌ社会は閉鎖的な自給自足の社会ではなく、交易関係は周辺に広範に渡っていた。

樺太経由では、大陸に繋がる交易経路を通してアイヌ首長の豪華な正装に用いられる山丹 錦や女性の装身具に使われる玉類が伝わってきた。また、和人との交易も松前藩の規制が 強められる前までは、松前・蝦夷地の内ばかりではなく津軽海峡を渡って東北地方へも出 向いて行われた。儀礼の際の重要な漆器類・宝刀・米・酒なども、和人との交易を通じて 入手していた。アイヌの人々の社会生活・文化の展開において、交易活動は欠かせないも のであった(田端他2000:96)。

アイヌ社会を構成する様々な文化要素のうち最も重要なものは、日々の生活がアイヌ(人) と、カムイ(神)の交流の中に置かれていると考えるアイヌの心のもち方である。狩猟の際の 獲物は、神から受け取るものと考えているため、山へ猟に行く際は祈りの言葉であるカム イノミを捧げ「出迎えに行く」「受け取りに行く」と表現する。日用品などの道具にも神の 存在を認めているため、使い古されて壊れたものは「破棄」ではなく、人の世での役割を 終えたものとして「神の所へ送り返す」という表現がされる。特に、子クマが捕れること には特別な意味があり、山の神であるキムンカムイがその子どもを託してくれたことを意 味しているため、子クマは丁寧に育てて神の元に送り返される(田端他2000:97)。

(2)分布と地名 分布

『アイヌ民族誌』によると、アイヌは北海道を中心に東はカムチャッカ半島南部と接し、

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北は樺太南部においてオロッコやニブフ、南は本州で大和民族(和人)と接し、それぞれの影 響を受けつつも、体質的にも言語、風俗、習慣、信仰においても上述のような周囲の民族 とは異なる集団であったとされている。こうしたアイヌの起源や移動経路に関しては、未 だ定説がない(アイヌ文化保存対策協議会編1969a:3)。

本論文で主として取り上げる、北海道に居住していたアイヌに関しては、文政 5(1822) 年の人口調査によると東蝦夷地(噴火湾西岸の山越内から知床岬)には 12120 人、西蝦夷地 (爾志 郡乙部村から知床岬)には9648人、樺太には2571人で、合計24339人であった13)(ア イヌ文化保存対策協議会編1969a:4-5)。東西蝦夷地の境界に関しては、資料編第1図の通 りである。アイヌの人口は正確に把握することが困難であり、和人との混血や貰い子、養 子等が非常に多い(アイヌ文化保存対策協議会編1969a:6)。資料編第2図のように、昭和 10(1935)年頃になると和人との混血化も伴い、アイヌの人口減少が進行していることが分 かる。アイヌのコタン(集落)は、昭和25(1950)年頃から急激に消えていき、アイヌの家屋や 戸外の祭壇なども次第になくなり、アイヌ語の話者やイレズミを施している古老たちも減 少したとされている。しかし、日高地方では和人との混血化も伴いつつも人口は減らなか った(アイヌ文化保存対策協議会編1969a:6,12)。資料編第 3 図をみると、昭和 25(1950) 年頃の日高地方にはアイヌ集落が多く残っている様子が窺える。アイヌは漁撈活動が多く、

生活上、アイヌコタンはいずれも海沿いまたは川沿いに多いことが分かる。

先述した通り、アイヌは北海道、樺太、千島列島に居住していた民族であったが、それ 以外では日本列島の東北地方(奥羽地方)にかつて居住していたことが推測されている。言語 学の方面からの研究では、金田一京助によると東北地方の地名には「川」を意味する「ペ ツ」「ナイ」が多く、また、「ウシ(~がある)」、「ポロ(大きい)」などの語が付く場所が多い。

また、文献学の研究では『日本書紀』の斉明紀にある「蝦夷(エミシ)」が後世になってエゾ、

アイヌと呼ばれたものであるとされ、考古学では下北半島の調査で31カ所の遺跡がみられ、

アイヌの祖先に関係のある集団の生活が営まれていたことが推定されている(アイヌ文化保 存対策協議会編1969a:17-19)。

地名に関しては、北海道内でも「ペツ」や「ナイ」の付く場所は多く、アイヌ語が元と なって命名されていることが分かる。こうした地名は、地名の由来が地形や神話と関連し ていることもある。

地名

アイヌ地名研究の第一人者である山田秀三 14)によると、北海道の地名の主なものは、ほ とんどがアイヌ語系のものであり、それが北海道の際立った地方色であるといわれている

(山田1984:1)。アイヌ語は母音も子音も日本語とほとんど変わらないが、音の配列は異な

っており、例えばp音や r音が多く、子音で終わる音(閉音節)もある。例えば、「札幌 サ ッ・ポロ sat – poro」という。

一般の和人では知らない言葉の地名なため、江戸時代の旅行者たちも関心をもち、旅行 記には地名の語義が書かれてきた(山田1984:1)。アイヌ社会には文字がないため、和人が

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その音を聞いて仮名書きする際に、若干の訛りがあったと考えられている(山田 1984:1)。

幕末から明治にかけて、それらを二字か三字ぐらいの漢字で書くようになったが、上手く 当てはまる字がない場合が多く、大多数は似た音の字を当て、その後に、その漢字が普通 に読む形に呼び変えられていったとされている。例えば室蘭は、最初はその字を当ててモ ロランと呼んでいたが、いつの間にか「むろらん」になったとされる(山田1984:1)。

北海道の各地方およびその区域(境界)に関しては、資料編第4図に示した通りである。な お、本論文では、後述するがアイヌ衣服における文様構成の伝播の可能性として、アイヌ コタン間の人の行き来が一つの要因として予測される。そのため、日高地方の地域の特徴 を把握するためにも、山田秀三の訪れた場所から、まず当時の集落や地形の様子を窺うこ ととした。本論文では、北海道の中でもとくにアイヌの古俗が残る日高地方を中心に日高 東部の地名とその成り立ちに関して、以下で概観する。

日高地方

北海道南岸の中央部、胆振と十勝の間の地方を、明治初年に一国として日高国の名を付 けたのは松浦武四郎の国名建議書によったものであった。彼は国史に現れた日高見という のは蝦夷の土地であったとして、その名を太平洋岸のうららかなこの地方の国名に採り入 れることを考え、「土地南向きにして靄(もや)等も早く相晴れ、天日を早く仰ぎおり候こと 故、日高の名いかがと存じ奉り候。土人も至て相悦候事に御坐候」と自画自賛したが、確 かに良い名で、あの地方の明るい土地柄が出ている(山田1984:335)。

・日高東部

幌泉町(えりも町)から静内町までの地名。日高東部は言語、習俗、地名等の上でも、西日 高と若干違っていた土地である(山田1984:336)。

・猿留 さるる

日高の東端部えりも町の川名、地名。今目黒と呼ぶ辺り。十勝境のビタタヌンケから南 に約4キロ下った所。断崖続きの海岸の中で、この川口の辺はやや広い平地になっている(山 田1984:337)。

・庶野 しょや

えりも町内。猿留と襟裳岬の中間に庶野の集落があり、国道236号線(黄金道路)は山越え して西海岸の歌別に出ている。アイヌ語ではシャ行とサ行は同音で、庶野は宗谷と同じ地 名であった。ショ・ヤ(磯岩の・岸)の意。ただし現在はその磯谷は海岸や築港工事の元に埋 め立てられ、僅かにその付近に名残が見られるだけである(山田1984:337)。

・百人浜 ひゃくにんはま

えりも町内。庶野から南にかけての砂浜地帯の名。一般に、文化 3 年南集落の御用船が 大しけで難破してここで乗組員が死んだことから来た名であるとされているが、上原熊次 郎地名考(文政 7 年)には「ヱリモの長夷ニコウといふもの、寛文の頃シヤムシヤイノ(注:

シャクシャイン)と同意にして、この辺に居る金掘の和人を多く殺害せしゆへ地名になす由。

又説にニコウ、シヤムシヤイノに組せし金掘を数十人、九郎次なる士殺害せしゆへ此名あ

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りともいふ。両様未詳」と書かれてある。また松浦氏東蝦夷日誌には「昔し一夜の時化に 大船多く打上、水夫百余人死せしを埋めしとも、又往古幌泉土人十勝土人と戦て其死骸を 埋めしとも言り」とある。和名であるが様々な説がある(山田1984:337)。

・襟裳 えりも

日高東部の、南に向かって太平洋に突き出している土地の名、岬名、町名。元来は襟裳 岬の名で、エンル(enrum 岬)と呼ばれた音から出たもののようである。室蘭の絵鞆(えと も)がエンルであったのと同じである。なお襟裳岬は特に目立つ岬なため、オンネ・エン

(大・岬)と呼ばれた。なお、エル(erum 鼠)と音が近いため、諸地のエンルは鼠とも

理解され、鼠伝説が残されている所が多い。上原熊次郎地名考は「エリモ。夷語エルムな り。則鼠といふ事。此崎岩の内に鼠の□□あるゆへ地名になすといふ」と書いた。今でも 岬の先の海中の岩を鼠になぞらえている。松浦氏東蝦夷日誌もこのエリモを鼠と解してい る。この辺は前のころは幌泉町であったが昭和45年えりも町と改名された。名勝地襟裳岬 が町内にあることからその名に改めたとされる(山田1984:338)。

・幌泉 ほろいずみ えりも町

幌泉は郡名、旧町名。昭和45年から町名を「えりも」町と改めた。襟裳岬があるからで あると考えられている。松浦武四郎東蝦夷日誌は「過てエンルン、大岬。本名がポロエン ルンと言う也。ホロイヅミは則此訛りのよし」と書いた。つまり、幌泉の原名がポロ・エ ンルム(大きい・岬)であったことを物語っているのだが、それより少し前の上原熊次郎地名 考は「ポロイヅミ。夷語ポネンルムの略語にて小さき砂崎という事」と書いた。つまり、

ポン・エンルム(小さい・岬)だとの解である。この地の名は「元禄郷帳」の昔でもホロイヅ ミなので、松浦武四郎のポロエンルム説を採りたいが、ここはそんなに大岬ではない。上 原熊次郎の伝えたポネンルムの名でも呼ばれたものかと考えられる(山田1984:338-339)。

・幌満 ほろまん

様似町内の大川の名、地名。旧来多くの解が書かれた。秦檍麻呂はポロ・オマン・ペッ(大・

入・河)と書いた。上原熊次郎はポルマベツ、つまりポル・ヲマ(窟・有る)川説。松浦武四 郎もまず同説を書き、「水源は洞中より流れ出るが故号し」と書いた後に「又此川口二つの 高山の間に有故とも云り又水勢急なるが故とも云。いずれが是ならん」と続けた。明治の 永田地名解は「ポロ・シュマ・ペッ(大・石・川)。ポロマンペッと云は非なり」と書いた。

これでは判断にも困るが、洞穴説を採り、ポロマンペッ←ポル・オマン・ペッ「poru – oman

– pet(川を上り)洞穴に・行っている・川」と一応は読んでおきたいと考えている(山田1984:

339-340)。

・浦河 うらかわ

郡名、町名。現在の浦河市街のある所は元来の浦川ではない。浦川の会所をここに移し、

その名を持って来たのであった。この地について松浦氏東蝦夷日誌は「ホンナイブト。小 沢口の儀。ホンナイノツ。小岬。此処即ち会所。ウラカワと云う。昔(会所が)ウラカワに有 しを此処へ移せし故なり」と書いた。今の国鉄浦河駅とトンネルの間にある沢がそのポン・