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第 5 章 資料からみたアイヌ衣服における文様の地域的比 較

第 3 節 寛政期における木村謙次収集の樹皮衣

118 によって得られていた可能性がある。

これまではアイヌの各家で着られるだけであった衣服が、上述のように和人などを相手 に、徐々にアイヌ衣服の販売などの機会が増すと、刺繍を施す製作者側も、アイヌ衣服の 商品としての価値を高めるために、より手の込んだ美しい衣服を作ろうとする。そのため、

文様が多様化し、旧来の文様であるアイウシ、モレウに留まらず、釣鐘形やハート形、さ らにはツタなどの草花といった意匠も付けられるようになった可能性がある。このことか ら、この時代の旭川などでは、衣服に刺繍する際には、古くからの伝統の文様構成を重視 するよりも、新しい文様を取り入れた衣服が作られている様子が窺える。

河野コレクションと土佐林コレクションの衣服における文様の比較・検討で新たに分か った点は、上川地方旭川における衣服の文様の特徴である。旭川の文様構成は日高地方の 文様構成と類似した印象を受けるが、その要因としては、以下の点が推察される。すなわ

ち、明治5、6(1872、1873)年頃に上川地方のアイヌとの交易を目的に来た鈴木亀吉35)とい

う商人が、漁村で日高アイヌの女性を娶り、明治 10(1877)年頃に、石狩川と忠別川との合 流地点(現地区名「亀吉」)に定住した(旭川市史編集会議1994:770-771)。このことから、

鈴木亀吉の妻となった日高アイヌの女性によって、この地に日高地方の特徴的な刺繍技法 が伝わった可能性がある。

以上、河野コレクションの衣服およびその文様に関する検討を行った。次節では、木村 謙次が収集した国内最古級とされる樹皮衣を中心に比較・検討を進める。

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②古い文様とされるアイウシや、他の目立った文様(モレウ等)が全く見られない。

③筒袖で、置布に施された刺繍以外の文様は見られない。

正面側の最も目立つ特徴としては、①の点線での刺繍である。これは、他のアイヌ衣服 には見られないものであり、現代には受け継がれていない手法であるとされている(公益財 団法人アイヌ文化振興・研究推進機構編2017:26)。さらに、置布の角が棘のように尖って おり、先端を尖らせるオホヤンケ(角突起)の技法がみられる。尖った形がアイウシの棘とも 類似しており、両者の特徴が共通している。刺繍するアイウシよりも、布を切って置くだ けの比較的簡単な工夫であるため、アイウシよりも時代が古く、のちのアイウシを形作っ た原型の一つではないかと推察した。少なくとも、アットゥにおいては、筒袖のものと、

アイウシ、モレウ等といった文様が付けられていないものが、最も古い衣服の形態の一つ である。

また、背面側に当たる資料編第54図を見ると、次の通りになる。

①正面同様に、置布と、刺繍は点線と直線のみ。

②アイウシに似た文様が置布で僅かに見られるが、刺繍によるアイウシは見られない。

③背の上部に集中して置布がされており、他は袖、裾に沿って僅かな置布のみ。

背面は上部のみの置布、他は袖、裾のみの置布といった配置が古い形であるといえる。

そのため、木綿衣の白布切抜文衣のように、背面全体に布を置く形は、比較的新しい時代 のものではないかと推測できる。さらに、刺繍によるアイウシ文は、同じアイウシ文の中 でもやや新しく、置布によるアイウシの方が古い形態であるとも考えられる。

以上のことを総括し、木村の収集したアットゥから推測できる内容は次の通りである。

a. 刺繍によるアイウシよりも、置布を施し文様を作る形態の方が、古い形である。

b. 資料編第55図にあるように、オホヤンケ(角突起)の技法が諸所に見られ、布の端を尖 らせる形は、既にこの時期には存在していた。ただし、刺繍によるオホヤンケはない。

c. 点線刺繍は、他のアイヌ衣服に見られないものであるため、虻田郡洞爺湖町あるいは、

寛政11(1799)年以前の特徴的な刺繍方法である。

d. 置布は濃紺(黒)で、色布は使われていない。このことから、『アイヌ民俗資料調査報告 書』(1968)「アイヌ服飾の調査」で取り扱われていた 4 種類の木綿衣を比較すると、同様 の形態である「黒裂置文衣」が、木綿衣の中でも古い形態の衣服である。

木村謙次の資料はアットゥ(樹皮衣)であるものの、収集地や年代が特定できている資料 であるため、それ自体が貴重な資料であることと同時に、他の資料との比較では、年代・

地域特定を行う際の指標にもなる。

(3)比較・検討

土佐林コレクション、河野コレクション、木村資料のそれぞれの検討をまとめ、改めて アイヌ衣服文様の新旧を整理すると、次の通りになる。

a. 18世紀末の虻田ではアイウシなど文様がほとんど見られない衣服もある。

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b. 文様が登場する前は、オホヤンケや点線刺繍などが施されている。登場した後は、アイ ウシが最も古い形である。

c. アイウシが無く、代わりに他の文様が付いているものは比較的新しい。

d. オホヤンケ(角突起)の技法は少なくとも18世紀末には既に存在していた。

e. 色裂が使用されているものは比較的新しく、白布切抜文衣は白布が多く手に入った明治 期以降である。

f. .ハート形・釣鐘形の文様は、アイヌ語がないため、かなり新しい時代ものである。

このアイウシは、江別式土器などとの類似の指摘があるが 36)、本論文では衣服を資料と しているため、現時点では土器の文様などとの関連を述べることは難しい。

一方で、モレウに関しては、渦巻文がウィルタ、ニブフなどにもみられることから、北 海道周辺の北方諸民族との繋がりも否定できない。アイウシを伴ったアイヌ文化を基盤と して、そこに北方からの新たな形であるモレウが伝わり、各地へ伝播していった可能性も ある。アイウシ、モレウ以外のその他の文様に関しては、名称の通り、「アイウシモレウ」

など、アイウシとモレウなどの複合型の文様が多く、元の基礎文様から発展して作られた 文様であると推察できる。中でも、ハート形・釣鐘形に関しては、前述の通りアイヌ語の 名称がなく、新しい時代に伝わった外来の文様であることが分かる。

製作地については、特徴的なアイヌ語名称から、ある程度地域を推定することができた。

製作年代については、第 1 節で述べたように土佐林が収集を始めた時期から考えて、現時 点では昭和4年~32年頃のものと推測した。先述したが、現段階では、木村謙次が収集し た衣服が現存する最古の樹皮衣であり、現在、衣服資料はそれ以降のものしか残っていな い。そのため、衣服における文様変遷に関しては、木村謙次収集以降の資料からみた変遷 を検討するのが、現時点では妥当と考えられる。また、木村謙次収集の18世紀末のアット ゥは、点線のような刺繍や、アイウシに似たような刺繍の先が尖っている文様をもつ。こ のことから、アイウシ文様をもつ土佐林コレクションは木村謙次が収集したアットゥより も後に作られた衣服であり、アイウシ文様は、木村謙次収集の衣服にある刺繍の先端を尖 らせた棘のような文様が変化したものと考えられる。以上のことを踏まえ、衣服と文様の 変容についてまとめると、以下のようになる。

まず、18世紀末(1799年頃)の木村謙次収集のアットゥからも分かるように、この頃 の衣服の特徴は、樹皮衣には濃紺布での置布(背面は上部のみ)、筒袖、点線での刺繍、オ ホヤンケといった要素が見られ、文様に関してはまだアイウシは確認できない。ただし、

置布の部分に、アイウシに似た装飾は見られるため、置布でのアイウシが刺繍によるアイ ウシよりも以前に存在している可能性が高い。その後、和人との交易などにより、色布な どが多く手に入ると、衣服にも色布が用いられる。明治期になると、大幅の白布が手に入 るようになったことから、日高地方周辺でカパラミプと呼ばれる白布切抜文衣も普及した。

その他、アイヌ衣服には絹やビロードといった生地の衣服も登場している。文様に関して は、アイウシをはじめ、モレウなどの多くの文様が衣服に付けられるが、土佐林コレクシ

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ョンからはハート形、釣鐘形といった新しい文様も見られる。現代においては、点線での 刺繍は消滅し、アイヌ衣服自体も獣皮衣、魚皮衣はもちろん、木綿衣も復元や展示・研究 などの目的でしか製作されなくなっている。

前述したように、アイヌ文化はこれまで様々な他民族との接触・交流によって形成され てきた。アイヌ文様も同様であり、アイウシを基盤としながらも、モレウ、ハート形、釣 鐘形といった、北海道周辺の北方民族など他地域からの影響の可能性がある文様も多く含 んでいる。つまり、文様の系譜は、単純な一つの文様の進化・発展だけではなく、他地域 の要素も含んだ繋がりになっており、アイヌの接触・交流の歴史とも密接に関わっている と考えられる。

本論文では、現時点で日本最古と考えられている樹皮衣として、木村資料を取り上げ、

その特徴に関して土佐林・河野コレクションとの比較・検討を行った。

一方で、木綿衣に関しては、上述した木村資料と同様に、18 世紀頃に製作および収集が 行われたと考えられている資料がある。

第 4 節 最古の可能性のある釧路市立博物館所蔵の木綿衣1点に関