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第 4 章 近世の絵画からみるアイヌ衣服およびその文様の 比較

第 3 節 村上貞吉による『図説』に関して

文政6(1823)年に完成した図説(『蝦夷生計図説』などと呼ばれる)は、村上島之允、間宮

林蔵、村上貞吉の三人により、約20年かけて完成したものである。図説では、貞吉の在勤 地が主としてクナシリ、エトロフの両島であったため、太平洋岸のコタンは行き帰りの都 度に立ち寄る機会が多く、その土地の様子が窺える。貞吉は、アイヌとの接触によって習 俗の見聞を深めており、その結果描かれたこの図説は、現在でもアイヌ文化誌として最高 の水準にあるとされている(河野・谷澤 1990:1)。なお、『蝦夷嶋図説』、『蝦夷生計図説』

を含めた村上貞吉の著作目録に関しては、資料編第7表に示した。

これら「図説」には、それぞれ名称の異なるものが存在し、内容においてもそれぞれ欠 落・創作の部分が所々にあるとされるが、現時点で「完成本」とされる『蝦夷生計図説』(東 大本)は、アイヌの習俗や生産技術などの詳細が描かれた近世アイヌ史料である。河野本道 によると、写本には部分的に取り上げられたものや、一部分が別のものと合わせられた写 本があるが、原本またはそれに近いものでは『蝦夷嶋図説』、『蝦夷生計図説』、『蝦夷画帖』

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の3つが挙げられるとしている(河野・谷澤1990:337)。しかしながら、現時点では、どれ が最も原本に近いかどうかといったことは判明していない。ただし、『蝦夷生計図説』(東大 本)に関しては、貞吉自身が「題言」の部分で、「茲年左衛門尉遠山景晋君予が輩に命じ写し て…(後略)」(河野・谷澤 1990:7)と述べていることから、貞吉が加筆や修正を行い完成さ せたものであるにせよ、『蝦夷生計図説』(東大本)は写本であるとされる(河野・谷澤1990:

338)。さらにその後、「題言」が後に写し加えられた『蝦夷嶋図説』(函館本)に関してもま た写本ということになる(河野・谷澤 1990:338)。上述の「題言」の部分は、資料編第 40 図に示した。また、『蝦夷画帖』に関しても、やはり原本とは断定できず、所々に省略や創 作の部分がある(河野・谷澤1990:344)。

河野によると、まず村上島之允によって元となったものが作られ、それを貞吉が間宮林 蔵の助力を得て、説明文を筆記するなどして完成させたものの 1 つが『蝦夷画帖』である とされている。さらに、それに近い時期に貞吉によって題言および『蝦夷生計図説』とい う主題が付けられた決定本が仕上げられ、『蝦夷嶋図説』(函館本)も同時期頃に作成された ものと考えられている(河野・谷澤1990:344)。3点とも、それぞれ省略や創作の部分はあ るものの、絵図の細かな差異については民族誌的理解にとってあまり問題ないとされ、「後 世に民族誌的知見を得る上で、それら三者の価値はあまり変りがないであろうとみられる」

(河野・谷澤1990:344)とも述べられている。

以上の点から、本論文では、「図説」の中でも筆者が村上貞吉であると判明している『蝦 夷嶋図説』(函館本)と、「題言」が加筆された決定本とされる『蝦夷生計図説』から、描か れている衣服およびその文様に関しての検討を行うこととした。

『蝦夷嶋図説』函館市中央図書館所蔵 (函館本)にみられる衣服

函館本に描かれた衣服およびその文様は、次のような場面に多くみられた。道具の作製 や農作業など日常の場面が多く、儀礼に関する絵は『蝦夷島奇観』と比較すると全体的に 少ない。儀礼の場面を多く描いた『蝦夷島奇観』よりも、アイヌの暮らしの日常に注目し て描いていることが『蝦夷嶋図説』などの「図説」の特徴であるといえる。

初めに、資料編第 41 図のイナヲ(木幣)を製する図では、樹皮衣を着用した男性三人がイ ナウを作製している様子が窺える。そのうち、文様入り樹皮衣を着用しているのは一人だ けである。刺繍されている文様はアイウシのみであり、背上部にもわずかに切伏の布がみ える。このようなイナウの作製といった日常場面においては、衣服に決まりはなく、耳輪 などの装飾品も付けられていない。前節の『蝦夷島奇観』でみられた正装とは異なり、非 常に簡素な服装である。

第 42図のムンカル(草刈り)の図では、煙管を吸う男性と文様入り樹皮衣を着た女性が描 かれている。女性は草刈りをしているが、儀礼とは関係がない日常時に文様入り樹皮衣を 着用している。刺繍の入った樹皮衣は仕事着としても着用されることから、刺繍入り樹皮 衣は礼服のみならず普段着としても着用される場合があることが分かる。

第 43図ムンウフイ(草焼き)の図では、奥の女性が樹皮衣、手前の男性が点線刺繍の入っ

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た樹皮衣を着用している。木村謙次の収集した樹皮衣や『蝦夷島奇観』の絵にもみられた が、アイウシやモレウのない点線刺繍のみの樹皮衣は、当時、多々存在していたことが分 かる。また、日常着において、この太平洋沿岸の地域では、男女ともに文様入り樹皮衣の 着用が認められるため、男女によって文様の有り無しといった着用の決まりは明確に存在 していない。第44図トイラヽツカ(土ならし)の図では、女性が仕事をしているが、第42図 とは違い、文様のない樹皮衣を着用している。装飾品もなく、簡素な服装である。

第45図のヒチヤリパ(種まき)の図では、老人(男性)が文様入り樹皮衣を着て種まきをして いる。やはり儀礼の場面とはかけ離れた日常での着用から、文様入り樹皮衣は礼服として の機能も持ち、一方で日常着としても着用される汎用性の高さが窺える。

第 46図のテケヲツタセイコトク(貝製穂摘み具を手にする)の図では、イレズミをしてい る腕から、この人物が女性であると推測できる。穂摘みの作業においてもアイウシ文の刺 繍された樹皮衣の着用が窺える。第 47図のウブシトイ(穀類の穂摘み)の図でも同様に、樹 皮衣を着た女性による農作業の場面が描かれている。アイヌにおいて農作業は女性の仕事 であるため、男性よりも女性が多く描かれている。また、第48図プヲツタシツカシマ(摘み 採った穂の収納)の図では、中央の梯子に登っている女性が首に赤い飾りのようなものを付 けているが、それ以外の装飾品はとくにみられない。

資料編第 49図のアマヽシユケ(穀物を煮る)の図では、屋内での姿が描かれている。女性 が鍋で穀物を煮ており、その周りに 3 人の子どもが座っている。女性は文様入り樹皮衣を 着ているが、子どもたちは裸が多い。髪を伸ばしている女児と、丸刈りにしている男児が 二人いるが、右側の男児は獣皮のような衣服を着用している。子どもに関しては、樹皮衣 よりも獣皮の着用が多い可能性がある。また、『蝦夷島奇観』においても、子どもが樹皮衣 を着用している様子は窺えず、裸が最も多くみられたことから、アイヌの子ども(幼児)服は それ自体が非常に稀なものであることが推測できる。

第50図の舟敷となすへき木を尋ね山に入んとして山神を祭る図では、イタオマチ(板綴 り舟)呼ばれる舟を作る際に、まず山へ入り木を伐採する時に山神へ祈る様子が描かれてい る。片膝をつき、木の前にイナウを 2 本立ててカムイノミを行っている。初めに、山へ入 る際には、「キムンカモイ、ヒリカノ、イカシ、コレ」(山の神よ、善(よ)く、守護、賜れ) という祈りをし、その後、第50図のように伐採する木を見つけると、木の下にイナウを捧 げ、「シリコルカモイ、タンチクニ、コレ」(地を主(つかさど)る神よ、この木を、賜れ)と言 う。これは、舟の敷にする木だけでなく、大小関係なくすべての山の木を伐採する際にカ ムイノミを行う(岩本2013:13-14)。図説における男性の服装は、文様のない樹皮衣、首輪、

耳輪、腰に小刀、すね当て、かんじきを身に付けている。また、所持品として地面に置か れているのは弓と矢筒、青い木綿布のようなものと、獣皮、斧である。矢筒があっても矢 がないことから、弓矢の実用性は低く、儀礼的な役割が大きいと考えられる。これまでの 日常着と比べて、この男性は装飾品も多く身に付けているが、文様入り衣服の着用はされ ていない。

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さらに、「アツシカルの部」の中では、アイヌの衣服およびその製作に関する詳細な内容 も描かれている。資料編第51 図のアツトシミアンベ(アットゥシ製着物)の図では、図とと もに樹皮衣などの衣服について貞吉が見聞した内容が詞書で記されている。その詞書をみ ると、資料編第51図にあるような文様入り樹皮衣は、日常において着用はするものの、獣 皮衣や鳥羽衣とは違い、格式高いものであるとされている。女性はとくに厳しく、儀礼の 時に獣皮や鳥羽を着用したら必ずその上から樹皮衣を羽織ることとされ、獣皮や鳥羽のみ の着用は「甚の無礼」であった。また、男性であっても同様で、獣皮や鳥羽のみの着用は 禁止されていた。樹皮衣、獣皮衣、鳥羽衣はどれもアイヌ自製の衣服であるが、なかでも 格式高いものは樹皮衣とくに刺繍入りのものであることが分かる。自製の衣服であるから といって必ずしも格式高いものではなく、その中でも位の違いが生じている。

このような衣服に関するアイヌの認識は、木綿衣が普及した後も残っていたと考えられ る。すなわち、和人との交易によって木綿衣が多く手に入ると、数が減少した獣皮衣や鳥 羽衣、樹皮衣にとって代わり、木綿衣が着用されるようになる。しかしながら、アイヌ絵 に見られる当時では、木綿衣よりも文様入り樹皮衣が、依然、格式高い礼服としてアイヌ に認識されていた。その様子は、第2節でも述べたように、『蝦夷島奇観』からも確認でき る。儀礼の場において、木綿衣を単独では着用せず、木綿衣の上から文様入り樹皮衣を羽 織っている姿をみると、上述した獣皮や鳥羽のみで着用しないという考えと同様の認識が 窺える。すなわち、『蝦夷島奇観』および『蝦夷嶋図説』からは、まだ樹皮衣が多く残存し ていた頃の当時において、文様入り樹皮衣が最上の礼服とされたことが分かる。その他の 素材から成る衣服に関しては、重要な儀礼時において単独で着用されることは少なく、樹 皮衣および文様入り樹皮衣の着用が一般的であったと推察できる。その後、木綿衣のさら なる普及と、樹皮衣の製作者不足による減少によって、徐々に儀礼の場においても現代の ような文様入り木綿衣の着用へと変容していったと考えられる。

樹皮衣を上から着るといったアイヌ衣服の着用の事例や着用方法からは、文様入り樹皮 衣を重要視するアイヌの人々の価値観が窺える。『蝦夷島奇観』では儀礼時を中心とした衣 服、『蝦夷嶋図説』では日常における衣服を中心にみたが、上述の内容をふまえ、次節では さらに細かく検討する。衣服の単なる素材の違いだけでなく、着用の事例や性別による違 い、年齢の違い、身分(階級)差といった観点からも検討し、これまで把握されていなかった 部分も含めた衣服の形態と機能による分類を行う。

第 4 節 衣服の形態・機能による分類 ―性別、年齢、身分による