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衣服の形態・機能による分類 ―性別、年齢、身分による 衣服の差異に関して―

第 4 章 近世の絵画からみるアイヌ衣服およびその文様の 比較

第 4 節 衣服の形態・機能による分類 ―性別、年齢、身分による 衣服の差異に関して―

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さらに、「アツシカルの部」の中では、アイヌの衣服およびその製作に関する詳細な内容 も描かれている。資料編第51 図のアツトシミアンベ(アットゥシ製着物)の図では、図とと もに樹皮衣などの衣服について貞吉が見聞した内容が詞書で記されている。その詞書をみ ると、資料編第51図にあるような文様入り樹皮衣は、日常において着用はするものの、獣 皮衣や鳥羽衣とは違い、格式高いものであるとされている。女性はとくに厳しく、儀礼の 時に獣皮や鳥羽を着用したら必ずその上から樹皮衣を羽織ることとされ、獣皮や鳥羽のみ の着用は「甚の無礼」であった。また、男性であっても同様で、獣皮や鳥羽のみの着用は 禁止されていた。樹皮衣、獣皮衣、鳥羽衣はどれもアイヌ自製の衣服であるが、なかでも 格式高いものは樹皮衣とくに刺繍入りのものであることが分かる。自製の衣服であるから といって必ずしも格式高いものではなく、その中でも位の違いが生じている。

このような衣服に関するアイヌの認識は、木綿衣が普及した後も残っていたと考えられ る。すなわち、和人との交易によって木綿衣が多く手に入ると、数が減少した獣皮衣や鳥 羽衣、樹皮衣にとって代わり、木綿衣が着用されるようになる。しかしながら、アイヌ絵 に見られる当時では、木綿衣よりも文様入り樹皮衣が、依然、格式高い礼服としてアイヌ に認識されていた。その様子は、第2節でも述べたように、『蝦夷島奇観』からも確認でき る。儀礼の場において、木綿衣を単独では着用せず、木綿衣の上から文様入り樹皮衣を羽 織っている姿をみると、上述した獣皮や鳥羽のみで着用しないという考えと同様の認識が 窺える。すなわち、『蝦夷島奇観』および『蝦夷嶋図説』からは、まだ樹皮衣が多く残存し ていた頃の当時において、文様入り樹皮衣が最上の礼服とされたことが分かる。その他の 素材から成る衣服に関しては、重要な儀礼時において単独で着用されることは少なく、樹 皮衣および文様入り樹皮衣の着用が一般的であったと推察できる。その後、木綿衣のさら なる普及と、樹皮衣の製作者不足による減少によって、徐々に儀礼の場においても現代の ような文様入り木綿衣の着用へと変容していったと考えられる。

樹皮衣を上から着るといったアイヌ衣服の着用の事例や着用方法からは、文様入り樹皮 衣を重要視するアイヌの人々の価値観が窺える。『蝦夷島奇観』では儀礼時を中心とした衣 服、『蝦夷嶋図説』では日常における衣服を中心にみたが、上述の内容をふまえ、次節では さらに細かく検討する。衣服の単なる素材の違いだけでなく、着用の事例や性別による違 い、年齢の違い、身分(階級)差といった観点からも検討し、これまで把握されていなかった 部分も含めた衣服の形態と機能による分類を行う。

第 4 節 衣服の形態・機能による分類 ―性別、年齢、身分による

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アットゥ研究を中心に行っている本田優子による「日常着」の定義は次の通りである。す なわち、「ここでいう「日常着」とは、儀式の際に着用する装束に対し、普段着として着用 している衣服のほかに、狩猟漁労などの生業の際に着用する衣服をも含むものとする」(本

田2005:75)。また、アットゥが「日常着」、「礼服」としてアイヌ社会でどのような位置

を占めていたかという従来の研究は、次の通りである。

① アットゥは近世期を通して外来衣に席捲されつつも、一貫して「日常着」として重要 な位置を占めていた(本田2005:96)。

② 「対和人儀礼」では、外来衣があくまで基本であり、アットゥは副次的な衣服に過ぎ なかった。外来衣の中でも最上位に位置付けられる「蝦夷錦」については、和人から 貸与されたものなどであり、現実を反映していない「虚構」であるという議論がある。

しかし、アイヌの衣服について資料を丹念に検討するならば、「蝦夷錦」を着た首長の 姿を散見出来るのであり、ある時代における実態の反映であると考えられる(本田 2005:96)。

③ アイヌ社会における最も重要な宗教儀礼だとされる「クマ送り儀礼」を描いた絵画で は、外来衣の浸透が見られるものの、アットゥは基本的な儀礼装束として描かれてい る。それは当時の現実を反映したものだと考えられる(本田2005:96-97)。

以上のことから、アットゥの着用は「御目見得」やオムシャなどの対和人儀礼と熊送り 儀礼とでは、対照的な性格を持っていたと考えられている。前者は和人への従属を強めて いく「服属儀礼」であり、後者はアイヌ文化の核心にある宗教的な儀礼であるため、着用 に違いが生じていると考えられている (本田2005:97)。

第3節でも述べたように、樹皮衣であるアットゥはアイヌ民族のなかで「最上位の服」

という意識が生じていたことは、ユーカラ、アイヌ絵をみると分かる。本田の述べる①の ように、現実として外来衣すなわち木綿衣に席捲されつつも、認識のなかでは樹皮衣が最 上という意識があった。

以上のことから、着用の事例に関しては、外来衣(木綿衣)の普及以前、以後でその様相が 変容していったと考えられる。普及前の「礼服」は樹皮衣であり、獣皮などは厳禁で、必 ず上から樹皮衣の着用が行われた。また、「最上の服」としての認識も樹皮衣であった。と くに「刺繍の施された樹皮衣」が最も重要視された。「日常着」においても、樹皮衣が多い。

ただし、「礼服」と違い、日常着では獣皮衣なども着用されている。しかし、狩猟や木の伐 採等の際に山に踏み入り、木の下で祈りを捧げる時には樹皮衣を着用している様子が窺え る。つまり、アイヌでは日常においても頻繁に祈りを捧げる場面が多く、こうしたカムイ ノミの際に、「日常着」であっても樹皮衣とくに刺繍入りのものが多く見られるのは、日々 のカムイノミ等の行為が関連していると思われる。

一方で、外来衣が普及後、すなわち和人たちとの関わりが多くなった頃には、「対和人儀 礼」において外来着の着用が主流になる。外来衣は、威信としての役割も持っていた。日 常着においても、保温性、保湿性の高い木綿衣は重宝され、貴重なものであったものの、

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樹皮衣の製作者減少に伴って、昭和期以降は木綿衣の着用が多くなる。さらに、刺繍に関 しても、樹皮衣よりも柔く刺繍が施しやすいことから、多種多様な文様が生まれ、文様構 成も複雑なものになった。しかしながら、昭和期に調査されたユーカラからは、依然、「刺 繍入り樹皮衣」を重視するアイヌの様子が窺える。時代が進むにつれて、樹皮衣のほとん どは外来衣とくに木綿衣へ取って代わっていったが、ユーカラに残るアイヌの認識には、

変わらず「刺繍入り樹皮衣」への念がみられる。つまり、「刺繍(文様)」と「樹皮衣」とい う2つの要素が、「アイヌ民族に属している」という帰属意識を生んでいる可能性を持って いる。現在において、樹皮衣の製作者はほとんどおらず、依然減少しているものの、刺繍 技術や文様構成は継承されており、現在製作されている木綿衣の多くにも引き継がれてい る。ただし、以前のような文様構成の地域差はほぼなく、芸術性を重視した混在した衣服 が作られている。また、後述するが、現在、祭りなどで行われる観光向けの事業イベント 等で着用される衣服の多くは、華やかな「刺繍入り木綿衣」になっている。「樹皮衣」の着 用を重んじていた近世期頃までとは違い、観光向けに目につく華美な文様入り木綿衣が好 まれていると思われる。

着用の事例においては、樹皮衣と外来着の着用が、「礼服」、「日常着」それぞれ時代とと もに変容している。また、近世においては、「対和人儀礼」、現在では観光向けに他者へ向 けた儀礼や祭へと、その都度求められるかたちへアイヌが対応していき、衣服のかたちの みならず、着用目的・機能も変容していったと考えられる。

「色」に関する検討

アイヌ衣服は時代とともに変容しているが、ユーカラやアイヌ絵などの残された資料か らみると、文様入り衣服の色に関しても記述されている部分がある。第3 章、第2 節でも 述べたように、幌別のユーカラのなかでは神または神と同等の存在である人間の始祖のア イヌラックルが「裾の燃える厚司」を着用している。この「燃える」という表現は、アイ ヌ語で「ouhui」という語で度々登場しており、「裾の焼けている赤織の厚司」など、「燃え る」または「赤織」という表現からも赤色の使用が窺える。また、「美丈の黄金の帯」や「数 多の金色の小渦紋」、「ぴかぴか」といった表現から、金色に関しても使用がみられる。こ の 2 色に関しては、高位の者が纏う色とも考えられ、とくに赤色に関しては、ハルニレか ら製作されたアットゥであるため、和人との交易で木綿等の外来の生地や糸が手に入る以 前から、古くから存在していた衣服だと思われる。そのため、文様入り樹皮衣を重要視す る姿勢とともに、幌別に居住していたアイヌにおいては、「赤」という色に関しても特別視 していたことが窺える。

「赤」を特別視する理由に関しては、次のような点が考えられる。自然界の動植物にお いて他の色よりも目にすることが少ない赤色であるが、「燃える」という表現からも分かる ように、「火」のような表現が窺える。アイヌにおいて火は貴重なものであり、『アイヌ民 族誌』によると、「火の神すなわち炉火の神は、もろもろ神の中でも高位にあって、大事な 祭儀に際してはこの神(アベウチカムイ)にまずカムイノミをしたのである」(アイヌ文化保