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アイヌの衣服に関する研究は、古くから関心が向けられており、昭和 14(1939)年には、

縄文土器やアイヌ工芸の研究・収集家であった杉山壽榮男によって、アイヌの「ハヨクペ」

と呼ばれる服が「原始服装」であると論じられた(杉山 1939:7)。さらに、昭和 31(1956) 年、北海道考古学を専門とする名取武光も、「ハヨクペ」が最も原始的な「まとい物」と考 えられるとしている(名取 1956:26)。名取によると、アイヌにおいて古くは獲物であるシ カ、アザラシ(ゼニガタアザラシPhoca vitulina L.など)、水鳥(マガモAnas platyrhynchos platyrhynchos LINNÉなど)、サケ、イトウ(Hucho perryi BREVOORT)等の皮で衣服を作 り、また草を編んで草衣を作ったとされる。いざり機の技術を得てからは、樹皮やイラク サ(エゾイラクサUrtica platyphylla Wedd.)の繊維で糸を作り、アットゥ布を自製して衣 服地とした。毛皮は交換品にし、そこで本州と満州の古着を入手するようになったといわ れている。さらに本州の木綿布、糸、針、はさみが普及すると模様を飾った自製の衣服、

本州からの小袖や陣羽織、満州からの山丹錦などは式服に用いられた(名取 1956:26)。男 性の礼装には、陣羽織、飾太刀、礼帽があり、女性には飾鉢巻、胸飾りの玉、耳輪、腕輪、

首飾帯留(千島アイヌ)の他にイレズミを飾る。また、獣皮や魚皮で靴、脚袢、手袋、帽子な ども自製し、植物繊維で草靴、脚袢、ももひき、帽子、笠などを作った。この他に、ハヨ クぺ(まといもの)と呼ぶ自製の胴衣あるいは鎧があった。動物の毛皮や羽毛を身にまとい、

最も原始的なまとい物を呪術宗教と関係してハヨクぺと呼んだ時代があったと考えられる (名取1956:26)。

昭和 36(1961)年には、被服研究が専門である荒井純子、村中智恵子によって、アイヌが

着用していた衣服が大別され、自製材料によるもの・輸入材料によるものの 2 種類に分類 が行われた。さらに、衣服の繊維材料が、動物質と植物質のものに分けられ、その利用度 は衣服の製作地あるいは収集地の地理的関係から、手近に得られるものに依存していたと 考えられている(荒井・村中 1961:10)。つまり、この時点で、衣服の材質・文様・呼び方 などが時代と共に変容した様子があり、それぞれ地域差があると考えられている(荒井・村

中1961:15)。このことから、先述したように北海道に居住するアイヌは、すべての地域で

一様な文化を持っているわけではなく、地域あるいはコタンごとによって違いが生まれて いると推察できる。それは衣服に限らず、文様に関しても同様の地域差があると考えられ る。

衣服に関する研究は、その後、岡村吉右衛門によってアイヌの衣服の素材や衣服以外の 首飾り等の着用品、繊維、染色、織り、仕立てといった細かな作成方法についてまとめら れた。同時に、それらが北海道周辺の北方民族の、どのような地域に伝播しているかとい った事が検討された(岡村1979)。文献に記されているアイヌ衣服に関する研究(児玉1995、

小荷田1972)も行われ、小荷田泰子によると、アイヌの衣服であるアットゥは、いつ頃か

ら着用されていたか明らかではないが、古い時代の可能性が高く、日本との交易が始まる

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以前であったのではないかとされている。また、江戸時代初期において、先述した通り、

日高地方のアイヌがまとっていた物の多くはクマ皮、シカ皮、キツネ皮で、アットゥは貴 重品とされていたと考えられており、それ以前には、ハヨクぺ(hayokpe)と呼ばれるトド (Eumetopias jubatus SCHREBER)の皮で作られたものがあったと述べられている。後世 になり、アイヌが多く用いていた獣皮皮、鳥羽衣、草衣は、蝦夷地の特産で、本州には大 量に安く持ち出されていたと推察されている(小荷田 1972:14)。さらに、アイヌの衣服は 生地が丈夫であることからも、本州の仕事着に最も多く使用され、材料も身近にあり、手 軽に入手することが出来たとされている。アイヌが作り出したチヂリやチカルカルペは、

刺子と同じように、暖かさや丈夫さなどの点から、松前藩や和人の圧制の中においても、

高度な芸術品として作り出されたと述べられている(小荷田1972:14)。

その他、考古学の立場からみた衣服研究(河野 1997)、または、衣服の中でも、とくに蝦 夷錦に焦点を当てた研究(児島1996、関根・柴2003など)がこれまで検討されている。

中でも、昭和16(1941)年に、金田一京助・杉山壽榮男によって記された『アイヌ藝術 第 一巻服装篇』(1941 年)は、アイヌの生活や文化も考慮された上で、衣服の調査・検討が細 かく行われており、当時の様子が確認できる貴重な資料であるとされている(北原 2016)。

さらに、昭和43(1968)年には、『アイヌ民俗資料調査報告』の中で記された、児玉作左衛門 ら 4 名による「アイヌ服飾の調査」では、北海道内の地域ごとにみられるアイヌ衣服とそ の文様などに関する調査・研究が行われている9)。これは、児玉作左衛門や、その娘である 児玉マリらによって、地域別にアイヌ衣服の製作技法やアイヌ語の衣服名称にいたるまで の詳細を、当時の古老たちから聞き取り、記されたものである(北海道教育委員会1968)。「ア イヌ服飾の調査」では、児玉作左衛門らによって多種多様なアイヌ語が付けられている衣 服名称に、衣服の見た目をそのまま漢字で表した日本語名称が付けられ、それぞれ「黒裂置くろぎれおきもん

」、「色裂置いろぎれおきもん」、「白布しろぬの切抜きりぬきもん」、「無切伏きりぶせなし刺繍ししゅう」の 4 種に分類された。この日本 語名称は、現在でも博物館や美術館施設など日本全国の様々な場所で使用されている(北原 2016)。

一方で、アイヌ文様に関する研究も古くから行われている。アイヌ文様の起源に関する 関心を集めたのが、昭和 39(1964)年に、鷹部屋福平によって唱えられた、アイヌ服飾文様 が中国の饕餮とうてつ紋に類似するという説である(鷹部屋1964:7)。しかし、この説は、中国の西 周・殷の時代の文様と、もう一方は時代が大きく異なる近世以降のアイヌ衣服の文様を比 較している。そのため、文様自体の類似性は認められるものの、あまりにも両者の時代が 異なることから、信憑性は薄く、アイヌ文様の起源と断定するのは難しい。しかし、この ような文様の起源に関する研究の道を拓いた、初期の研究者としては十分な価値があると 考える。

また、昭和 45(1970)年には、錦谷正によってアイヌ文様は北方民族の結縛文様から由来 したのではないかと考えられている(錦谷 1970:39)。錦谷は、文様の付け方の違い、文様 の意匠の時代的変遷などを検討しており、その結果、アイヌと北方民族との繋がりを指摘

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している(錦谷 1970:39)。確かに、北海道周辺の北方民族と、アイヌの文様は似ている点 が多く、当時において、両民族間で交流・接触があったとすると、文様の類似性も十分考 えられる。

その他には、昭和48(1973)年に、荒井純子によって文様と色彩に関する研究が発表され、

さらに平成 11(1999)年には、アイヌ文様の研究者として、阿部友寿が、衣服以外のアイヌ 文様に関する研究を行っている。アイヌにおいて男系血族 10)を表すとされる「特定」文様 をもつ木製品のイトクパ(家紋)・キケウシパスイ(削箸)・エペレアイ(花矢)の 3 種類を例に 挙げ、これらの木製品の文様の型式がどのような要因によって広がっていったのかについ て調査・検討を行っていた。その結果、このような木製品の地域ごとの特徴及び共通性は イオマンテ 11)に代表される宗教的繋がりのみならず、コタン内における地縁関係や経済的 繋がりも象徴していると考えられている(阿部1999:171)。

さらに、平成 14(2002)年には、服飾研究を専門とする諏訪原貴子、鷹司綸子によって地 方ごとに収集された衣服文様の分類が行なわれている。文様の種類によって地域差が出て おり、中でも胆振地方、上川地方では「家紋」としての意味を持つ文様があるとされてい る(諏訪原・鷹司2002:193)。しかし、文様自体に家紋としての意味があるかどうかは、実 際にその衣服を製作した本人しか分からないため、本当に家紋の意味があった否かは断言 するのが難しい。一方で、この調査によって、少なくとも家ごとに文様の違いが表れてい たという事実から、結果として文様型式の分布は、血縁関係等にも影響を受けており、呪 術的な意味とは異なる理由で文様が付けられている可能性がある。また、文様の広がりが 生物学的な血縁関係のみではなく、異なる血縁関係にある者が「家紋」を与えられて血縁 関係を結ぶということから、衣服文様に関しても「家紋の授受」が行われていた可能性を 考慮しつつ、文様の地域的な特徴・共通点を見ていく必要がある。

近年では、アイヌ衣服に関して平成 16(2004)年に、津田命子がアイヌ衣服と文様の変遷 を研究しており(津田2004など)、同時に、アイヌ衣服の複製・刺繍方法も含めて、全体像 が捉えられるようになっている。また、平成14~19(2002~2007)年にかけて、本田優子が 主 に 文 献 史 料 か ら 、 樹 皮 衣 で あ る ア ッ ト ゥを 中 心 と し た 研 究 を 行 っ て い る(本 田

2002-2005,2007)。本田は、アイヌにおける日常着としてのアットゥを、文献史料・絵画

の両方から調査検討を行っているが、この「日常着」については、次のように定義してい る。「ここでいう「日常着」とは、儀式の際に着用する装束に対し、普段着として着用して いる衣服のほかに、狩猟漁労などの生業の際に着用する衣服をも含むものとする」(本田

2005:75)とし、アットゥが「日常着」や「礼服」として、アイヌ社会でどのような位置

を占めていたかについて検討している。本田によると、アットゥの着用には地域差があり、

また、身分や貧富の差によっても着衣は異なっていたとされている(本田2005:77-78)。こ のような衣服に関する記述は、近世の文献に多くみることが出来るが、和人の記録にはア ットゥに対する和人側の偏見、とくに18世紀末以降は幕府によるアイヌ和人化政策を背 景とする価値観が色濃く反映している可能性もあり、場合によっては考慮する必要あると

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また、平成 19(2007)年には、斎藤祥子、藤田和佳奈によって、アイヌ衣服に使われる文 様の役割に関する研究がなされている(斎藤・藤田2007)。

以上、アイヌ衣服およびその文様に関する研究動向をみたが、全体として、衣服資料を 用いた研究の少なさが窺える。また、文様入り衣服の着用の違いなど、衣服の形態と機能 に関する検討もあまりみられない。本論文では、次章においてアイヌの歴史背景、自然環 境、衣服の製作・染色・刺繍方法について概観し、儀礼などのアイヌ社会における事象に 関しても取り上げ、文様入り衣服との関連性に関して検討する。

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第 2 章 アイヌの社会とアイヌ衣服およびその文様