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衣服…アミプという。千歳ではアットゥがほぼ作られなかった。もんぺは伝承者の代から 履くようになった。着物の材料となる布地にはウンサイ、センカキ、サクリがあった。

また、サラㇺべ sarampe というのは縮緬ちりめんのような立派な布地をいう。ウンサイ、サクリ からは男物の着物を作り、センカキからは女物のもんぺを作った。女にはセンカキ、ウ ンサイを用いない。

刺繍…伝承者の母の代にはもう刺繍(イカルカルikarkar)するものはいなかった。刺繍をし ているのを見たことがないので、何というのか分からない。渦巻のような形の刺繍を母 がモレウノカmorew nokaと言っていた覚えがある。

装飾品…ニンカリはオシャレでする。径が10cmくらいで玉は径2cmくらい。家にいる時 も耳輪を下げる人がいる。外出する時は片方の耳に 2 つも下げていた。マタンプシや着 物に付ける刺繍の模様をモレウmorewということを母から聞いた。モレウは丸く渦のよ うな形をいう。どんな意味があるかは聞いていない。マタンプシの布地の色は黒で、ク ンネ センカキを用いる。マタンプシmatanpusは女が祭のとき頭に付ける鉢巻だが、黒 い布で出来ており、刺繍の模様は入っていなかった。

祭りの時の服装…クマ祭などのお祭りの時は、老人の男女はチカルカルベ(刺繍の入った着 物)を着た。普段は着ないものである。葬式やシンヌラプパ(先祖供養)の時にチカルカル ベを着たのは見たことがない。

この頃の千歳ではアットゥはほとんど作られていない。着る衣服は素材によって男女の 差があるが、祭りの時は男女ともにチカルカルベを着用している。ただし、葬式や先祖供 養の時には着られない。ハチマキに関しては、女性が付けるものでされている。

以上の調査報告書から、アイヌ衣服には礼服と普段着を分けているアイヌ居住地区(地域) が多いことが分かる。すなわち、礼服と普段着の境界は、衣服では「文様入りか否か」と いう点が重要であると考えられる。また、千歳では、イオマンテの時に着用されるチカル カルベが、葬式やシンヌラプパでは着用されないことから、文様入り衣服着用には何らか の基準があり、地域によって異なることが分かる。タマサイやニンカリなどの装身具に関 しても、祭り(イオマンテ)の時にしか付けられない事例が多数見られた。以上の点から、ア イヌ衣服の着用方法、衣服の素材、文様の有無、装身具は、アイヌの社会の中で、日常と 祭りなどの非日常との境界を生じされている要素であると考えられる。こうした境界性を 生じさせる理由に関しては、第4章第4節において詳しく検討する。

また、衣服および装飾品の違いは、コタン内における身分(階級)差や貧富の差から生じて いるとも考えられる。その事例として、コタン内で酋長同様に力を保持していたと考えら れるトゥスクル(巫術者)に関して、次節で検討する。

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トゥスクルはいわゆる巫術者であり、アイヌの儀礼や信仰と密接に関わり、アイヌ社会全 体を動かしていた存在であるとされている(知里1953,1954:23-24)。知里真志保によると、

アイヌでは古くには男性も巫術を行っていたとされるが、首長も同じような巫術者であっ たとされている(知里1953,1954:26)。近年では、少なくとも1982年から1999年の調査 報告書において、一部地域にトゥスクルの存在がみられ、集落内での日常の秩序維持を担 う存在としてや、子どもの名付け親、または罪を犯した人物を裁くといった行為を行って いる様子が見られる(北海道教育庁社会教育部文化課編1982など)。さらに、口承文芸の中 にもトゥスクルと思われる人物が登場している(大場2001、丹菊2003など)。このトゥスク ルも、首長と同等の位を持っていた人物であったと考えられるため、同様の衣服を身にま とっていた可能性があると推察できる。

アイヌで「トゥスクル」と呼ばれる巫術行為を行う者は、北海道周辺に居住する北方少 数民族の巫術者とも類似している。アイヌにおける巫術に関する研究は、アイヌ研究者で ある知里真志保などによって、古代のアイヌには上述のような巫術行為を行っていた者が いると結論付けられ、その説が現在まで定着している。

アイヌにおいて巫術者は、重要な儀礼であるイオマンテや、病気を治す治療、占い 18)等 の日常生活に関する事例まで、古くには巫術者がその役目を担い、集落の秩序を保ってい たとされている。しかし、アイヌ社会は場所請負制の影響も伴い、日常生活はもちろん、

儀礼、言語に至るあらゆる面において変化を遂げた。それは巫術者に関しても同様であり、

江戸時代中期から明治時代にかけてはアイヌにおけるシャーマニズムの衰退期であるとさ れている(知里1953,1954:23)。

また、アイヌにおける巫術者は、1982年から1999年までの調査報告書(北海道教育庁社 会教育部文化課編1982-1999までの全18冊)を見ると、主に病気や集落内の揉め事に巫術 者が介入している様子が分かる。

巫術者(トゥスクル)に関する記述 (北海道・網走地方)

①「クマを飼っている間、その家の主人夫婦は「男女交際」しない。クマ送りの一週間前 からは、村中の人がこのきまりに従う。主人夫婦は一年間禁止。もし禁を犯せば、トゥ

スクル tusukur(巫術者)が裁く。もし、このおきてを破ると、クマは二日も三日もイペ

ipe(物を食う)をしない。だから、クマの仔を飼っている間は、夫婦別れをしているよう なものだ。毎年クマの仔を捕る人でも、クマの仔を送ってから次のクマの仔をとるまで には少し間があるから大丈夫だ。これは、まじめな話だ。アイヌ語でいえば、ウトゥラ ホクケ コチャンutura hokke kocan(一緒に寝るのを厭う)ということだ」(北海道教育庁 社会教育部文化課編1986:15)

②「魚の骨チェプポネcep poneはゴミと一緒にはしない。ゴミ捨て場の少し南に捨てる。

魚の骨は粗末に扱えないからである。粗末に扱えば、トゥスクル(tusukur巫術者)がトゥ スして騒ぎ出す」(北海道教育庁教育文化課編1987:112)

③「カムイノミの時はアイヌの名前を用いる。自分も実はそれを持っている。祖母の妹で

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拝む婆さんがおり、子どもの頃体が弱かったので、この人にアイヌの語の名前を付けて もらった。…(中略)…名付け親の婆さんはトゥス tusu をやる人だった。このトゥスは一 人で勝手に起こるもので、自分の名を付けてくれたのも、向こうから勝手にやってくれ たので、頼んでみてもらったのではない」(北海道教育庁社会教育部文化課編1987:14-15)

④「病気にかかった人や、病弱な人は何かのさわり(ニシネカムイ nisnekamuy―ニッネカ

ムイnitnekamuyのことか?)があると考えて(ネプ トゥレンnep turen「何かがさわっ

ている」、それを取り除くため、トゥスtusuする人(カムイ ランケkamuy ranke)を呼 ぶ。その人は、神がのり移り、気違いのようになって話しだす。それを聞いて、薬を作 ったり、お払いをしたりする。お払いをするときは、さわりのある人の体に網をかぶせ て、鎌とヤナギの薬を持ってその上からさすり、「なぜ、この子についている?早く離れ て、神様になりなさい」ということを唱える」(北海道教育庁社会教育部文化課編1989:

107-108)

ここでは、イオマンテをはじめとしたアイヌにおける重要な儀礼に率先して巫術者が関 わっている様子は窺えない。そのため、アイヌにおける巫術者は儀礼よりもむしろ日常の 秩序維持に重きを置いた存在である可能性が高い。調査報告書ではイオマンテに巫術者が 関わっていないことから、時代が経るに従って、巫術者の役割がコタンの首長あるいはフ チ(尊敬する老婆の意)と呼ばれる人物に取って代わっていった可能性がある。この理由とし ては、アイヌおよびそのコタンの減少や、同化政策によるアイヌ文化全体の衰退により、

トゥスクルの必要性が薄れ、徐々に変容したと考えられる。もしくは、巫術者の存在が樺 太方面から伝わったものだとすると、1875年の樺太・千島交換条約締結に際して北海道へ 移住していた樺太アイヌの大多数が1906年頃までには帰還していたこともあり、巫術を含 めた樺太の文化が北海道ではそれほど根付かなかったという可能性もある(田村 2007:

37-38)。

さらに、アイヌと関連性があると指摘されている北方民族であるが、樺太に居住するオ ロッコに関する調査報告書によると、文字を持たないオロッコの社会では社会秩序を維持 するための法はなく、アイヌ社会での首長などの特権者は存在しないと記されていた。オ ロッコは祈祷によって神と交信できる特異な能力を持つ者をサマ(Sama)と呼んでおり、彼 らの社会秩序を維持しているのは、シャーマニズムから生まれる禁忌や戒律と結びついて いるとされている (北海道教育委員会 1995:17-19)。さらに、スカンジナビア半島北部ラ ップランドおよびロシア北部コラ半島に居住している北方少数民族のサーメでは、クマ狩 りの出陣から帰還までシャーマンが先導して行っている様子が窺える(エルイストレム画・

井上紘一解説1977)。

佐々木宏幹によると、北アジア・極北諸族のシャーマン 19)は、社会の「安全弁」として の役割を果たす重要な存在であるとしている。シャーマンは守護霊の助力を借りることで 様々な精霊を制御し、この精霊統御が上手くいっている間は社会が安定すると述べていた

(佐々木1992:122)。確かに、オロッコでは病気の際には木で作られた動物の偶像のお守り

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(セワ)がシャーマンによって作られ、調査報告書の中でもシャーマンには「悪の化物を取り 去って病気を治癒する」という役割が詳しく書かれており、その役割が重要であることが 分かる。このことからシャーマンは、佐々木の言うようにオロッコ社会での「安全弁」と もいえる。また、古代社会や未開社会の王にあたる人物は、祭司とシャーマンの性格・役 割を兼備していたと考えられているため、シャーマンである王は、社会(村)の不幸や災厄を 除去し、幸福繁栄をもたらす人物として信じられ、尊崇の対象になり、住民に対して権威 を持つことになったとされている(佐々木1992:122)。

樺太に居住するオロッコやサーメ 20)などでは、シャーマンが中心的役割を果たしている 社会(村)になっていることから、シャーマンが存在することで村(社会)という一つの共同体 の一体感をより一層強くしているように思える。例えば、オロッコでは窃盗・婦女暴行・

殺傷などが起きた場合、個人同士で話し合いが行われる場合もあるが、時には仲介者が介 入し、加害者を村八分にするといった記述も報告書にあった。つまり、シャーマンは所属 している「村」の中での秩序維持を行っている存在であったとも考えられる。

上述したように、オロッコではアイヌ同様に巫術者の存在が窺え、祈祷により神と交信 する者をサマ(Sama)と呼んでいる(北海道教育委員会1995:18)。サマの服装は、頭には柳 の木の削りかけで作った冠(アーヘラ)、上衣(テトア)、スカート(ホッシ)、短靴(タプチカ) である。祈祷用具としては、ダーリーと呼ばれるトナカイの皮で作られた太鼓を持ち、腰 には沢山の金属片を腰鈴のように結び付ける。これがサマの祈祷時の正装姿であるとされ ている(北海道教育委員会 1995:18)。また、樺太に居住するニブフでも、チャムと呼ばれ る巫術者が独特の正装をする(北海道教育委員会1995:31-32)。このことから、文様の様子 までは確認できないものの、オロッコにおける「サマ」あるいはニブフの「チャム」と呼 ばれる巫術者が、明らかに他の人物とは異なった独特な服装をしていることが分かる。日 本周辺の北方民族と類似点の多いアイヌにおいても、この点は共通すると考えられるため、

アイヌにおける巫術者も、首長同様に独特な服装があったと考えられる。

しかしながら、以上で述べた現在の報告書からはその僅かな事例でしか確認することが 出来ない。同時に、調査報告書における時代は、すでに和人との接触後のアイヌの姿に変 わっているため、男性が巫術に関わっていたとされる「古い時代のアイヌ」の姿を辿るこ とは極めて困難である。

一方で、アイヌのユーカラに度々登場するオキクルミ、サマイクルの両者は男性とされ、

口承伝承において両者が上述のような巫術行為を行っている様子が窺える。また、知里に よると、アイヌの首長も古くは同じような巫術者であったとされており、定期的に行われ る儀礼では司祭者となり、あるいは戦の場では指揮者であったともいわれている(知里 1953,1954:26)。アイヌの神謡に登場するオキクルミとサマイクルの両者には占いの力(巫 術)のようなものがあり、男性が巫術に関わっていたと考えられる。

アイヌは北海道内の各地にいたが、その中でも特に、日高地方の平取びらとりはアイヌの聖地と 呼ばれている。ここには、この土地の文化の源をひらいたオキクルミの居城があり、ここ