第 1 章 語りの様相の考察
6 語りの様相と文末表現のかかわり
地の文は語り手と作中人物の関係によって種々の様相をもつ。そのため、文末表現が誰 の認識・判断なのかは、語り(地の文)の様相を考えるうえで重要な意味をもつ。そこで、
文末表現が誰の認識・判断を表しているかをポイントとして、語り(地の文)の様相につ いて検討することとした。
6.1 文末表現とB-2の語り-デアル文末を例として
はじめにデアル文末の文をとりあげたい。「である」は、読者に対して自分の認識・判断 を断定する対読者意識の強い表現である。その「……である」は誰を聞き手と想定してい るのかが問題である。作中人物の知覚を利用した語りの場合、どのように考えるべきなの か。
次の【36】を例に取りたい。2 の「である」文末の文は、三四郎の知覚を利用した語りで ある。1 の「ている」文末の文は、非タ形で三四郎の知覚内容を表している。それに続く 2 は三四郎の認識・判断といってよい。この文は三四郎が言語化した心理内容とも考えられ るが、三四郎が自分に対して言語化して言い聞かせているとは考えにくいので、内的独白 でなく知覚利用の語りとする。また、「慥かに」とあることから物語世界の出来事の現場で の判断だといえるので、三四郎の判断としてよいだろう。
この場合の文末の「である」は、特定の聞き手を意識しての表現ではない。また、三四 郎が自分に言い聞かせて「である」と表現したとも考えにくい。そのため、三四郎のその ときの認識・判断を言語化したもので、聞き手が想定されない表現だと考えられる。つま り、このような断定判断の言語化は、三四郎によって実際はなされなかったと考えられる のである。表現者が特定の聞き手に対して語りかけているというよりは、三四郎の知覚を 語り手が言語化して示すことによって、聞き手に情報を与えていると理解できる。
【36】 1 うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めてゐる。
2 此爺さんは慥かに前の前の駅から乗つた田舎者である。3 発車間際に頓狂な声を出し て、馳け込んで来て、いきなり肌を抜いだと思つたら脊中に御灸の痕が一杯あつたの で、三四郎の記憶に残つて居る。4 爺さんが汗を拭いて、肌を入れて、女の隣りに腰を 懸けた迄よく注意して見てゐた位である。
(『三四郎』一の一:273)
以下の【37】の 16、29、31、35 も同様の例である。
【37】1 そこでひよいと頭を上げた。2 すると筋向ふにゐたさつきの男がまた三四郎の方を
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見てゐた。3 今度は三四郎の方でも此男を見返した。
4 髭を濃く生してゐる面長の瘠ぎすの、どことなく神主じみた男であつた。5 たゞ鼻 筋が真直に通つてゐる所丈が西洋らしい。6 学校教育を受けつゝある三四郎は、こんな 男を見ると屹度教師にして仕舞ふ。7 男は白地の絣の下に、丁重に白い襦袢を重ねて、
紺足袋を穿いてゐた。8 此服装から推して、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。
9 大きな未来を控へてゐる自分から見ると、何だか下らなく感ぜられる。10 男はもう 四十だらう。11 是より先もう発展しさうにもない。
一の六
12 男はしきりに烟草をふかしてゐる。13 長い烟りを鼻の穴から吹き出して、腕組を した所は大変悠長に見える。14 さうかと思ふと無暗に便所か何かに立つ。15 立つ時に うんと伸をする事がある。16 さも退屈さうである。17 隣に乗り合た人が、新聞の読み 殻を傍に置くのに借りて看る気も出さない。18 三四郎は自ら妙になつて、ベーコンの 論文集を伏せて仕舞つた。19 外の小説でも出して、本気に読んで見様とも考へたが面 倒だから、已めにした。20 それよりは前にゐる人の新聞を借りたくなつた。21 生憎前 の人はぐうぐう寐てゐる。22 三四郎は手を延ばして新聞に手を掛けながら、わざと「御 明きですか」と髭のある男に聞いた。23 男は平気な顔で「明いてるでせう。御読みな さい」と云つた。24 新聞を手に取つた三四郎の方は却つて平気でなかつた。
25 開けて見ると新聞には別に見る程の事も載つてゐない。26 一二分で通読して仕舞 つた。27 律義に畳んで元の場所へ返しながら、一寸会釈すると、向でも軽く挨拶をし て、
「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。
(中略)
28 三四郎はそれを機会に、
「あなたは何方へ」と聞いた。
29「東京」とゆつくり云つた限である。30 何だか中学校の先生らしく無くなつて来 た。31 けれども三等へ乗つてゐる位だから大したものでない事は明らかである。32 三 四郎はそれで談話を切り上げた。33 髭のある男は腕組をした儘、時々下駄の前歯で、
拍子を取て、床を鳴らしたりしてゐる。34 余程退屈に見える。35 然し此男の退屈は話 したがらない退屈である。
36 汽車が豊橋へ着いた時、寐てゐた男がむつくり起きて眼を擦りながら下りて行つ た。37 よくあんなに都合よく眼を覚ます事が出来るものだと思つた。38 ことによると 寐ぼけて停車場を間違へたんだらうと気遣ひながら、窓から眺めてゐると、決してさ うでない。39 無事に改札場を通過して、正気の人間の様に出て行つた。40 三四郎は安 心して席を向ふ側へ移した。41 是で髭のある人と隣り合せになつた。42 髭のある人は 入れ換つて、窓から首を出して、水蜜桃を買つてゐる。
(『三四郎』一の五~一の六:284-287)
『吾輩は猫である』の猫のデアル文末の文であれば、誰かに対して直接語っている表現 だと考えられるが、三四郎の場合は、誰かに報告しようとしているわけではなく観察して 判断しているだけであり、また自分に対して言い聞かせているわけでもないから、特定の
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聞き手が想定できない。要するに、三四郎の意識として言語化されていない表現である。
この点は、このような知覚を利用した語りの特徴である。
このように、三四郎の判断表現である「である」文末の文や推量系文末の文では、受け 手が想定されていないことがある。判断表現は受け手に対して判断を提示・表出するもの であるから、この判断表現は特殊な使われ方である。実際の日常生活の語りにはありえな い、知覚利用の語りという特殊な状況の表現だと考えることができる。
『三四郎』の知覚・認識を利用した語りにおいて、「である」という文末表現は、三四郎 の認識の言葉であって、受け手を想定していないといえる。
また、判断表現でない非タ形文末の文(特にテイル文末の文)でも同様のことが言える6)。 例えば、【36】の 1 のテイル文末の文を三四郎の知覚を利用した語りだと考えるならば、「~
ている」と知覚したのは三四郎であり、読者を意識した表現だとは考えられない。
これらの知覚利用の語りに対して、内的独白は自分自身を受け手にした語りである。内 的独白は感情・感覚を表すことが多く、タ形は少ない。また、「である」「かもしれない」「違 いない」などの判断文末の文が多い。このような内的独白の文は、自分に言い聞かせる文 になっている。内的独白の中には、状態をあらわすテイル文末の文や動詞の終止形文末の 文もあるが、それらの文も自分に言い聞かせる描写である。他の聞き手に対しての語りで はないが、受け手は存在しているのである。
しかし、ここで示したような作中人物の知覚を利用した、特に「である」等の表現は、
三四郎が誰かに報告している表現として使うこともでき、そのまま報告の表現として使っ ても文法や語法に矛盾は生じない。「である」文末の文や判断系の文末、推量系文末の文は 判断を表出・提示する文であるため、特に受け手意識が強い表現であるので、そのような 文末表現は、報告の文にふさわしく感じられる。このような三四郎の知覚・認識を利用し た語りは、聞き手に対して語る文の表現としてそのまま通用するため、形式的には内的独 白に近い表現である。
6.2 タ形文末の語り、対象化された語り
6.1 では、主に知覚利用の語りのB-2を問題としたが、6.2 ではこれまで指摘してきた ものよりも語り手の手がより加わっているB-1について問題としたい。既に引用した『三 四郎』「一の五」の、次の 2、4、7 のようなものである。
【38】1 そこでひよいと頭を上げた。2 すると筋向ふにゐたさつきの男がまた三四郎の方を 見てゐた。3 今度は三四郎の方でも此男を見返した。
4 髭を濃く生してゐる面長の瘠ぎすの、どことなく神主じみた男であつた。5 たゞ鼻 筋が真直に通つてゐる所丈が西洋らしい。6 学校教育を受けつゝある三四郎は、こんな 男を見ると屹度教師にして仕舞ふ。7 男は白地の絣の下に、丁重に白い襦袢を重ねて、
紺足袋を穿いてゐた。8 此服装から推して、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。
9 大きな未来を控へてゐる自分から見ると、何だか下らなく感ぜられる。10 男はもう 四十だらう。11 是より先もう発展しさうにもない。
(『三四郎』一の五:284-285)