第2章 動詞文・テイル文・デアル文(タ形と非タ形)が語りの表現に与える影響
4 むすび
1節で、タ形文末と非タ形文末の表現効果の違いと、動詞文・テイル文・デアル文の表
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現特徴について論じた。次に2節では、動詞文・テイル文・デアル文、推量系文末の文が 小説テクストの中でどのような表現効果をあげているか、タ形・非タ形の違いと語り様相 を関連させながら論じた。最後に3節では、小説テクストにおいて、タ形文末と非タ形文 末がどのように語りを構成しているか論じた。
小説のような「語り」のテクストと日常の「報告」のテクストでは、使用される言語に 違いがある。特に、文末形式には大きな違いがあることが認められた。これは、語り手と 聞き手の設定が、「語り」テクストと「報告」テクストで異なっていることが大きな原因で あった。また、「語り」テクストには、作中人物の知覚の反映された表現もあり、それによ っても文末表現に影響が与えられていた。
このような種々の文末表現により表現効果がそれぞれ異なっていることが認められた。
【注】
1)金水(1989)では、「日常的対話で聞き手にある状況を知らせる行為またはその言表を
『報告』と呼ぼう。また、小説や物語の地の文を『語り』と呼ぼう」とし、「報告」「語 り」の2種類のテクストに分けて考察している。同様に、工藤(1995:167)では、「発 話行為の場へのアクチュアルに関係づけられたテクストのタイプ」を「はなしあい」、
小説の地の文のような「発話行為の場へのアクチュアルな関係づけがない、特別なテ クストのタイプ」を「かたり」としている。なお、「かたり」はいわゆる三人称小説を 典型としている。本稿では、「報告」「語り」として区別することとする。
2)本稿のタ形を指すと思われる。
3)金水(1989:123-124)、益岡(1997:4、7)など。
4)仁田(1989:21)では「運動会のビデオか何かを見ていて、『あっ、私が走っている。』
『ほら、君が走っている。』ということはあるだろう。」と指摘している。
5)尾上(1982:383)、工藤(1995:161)など。
6)工藤(1995:200)にも指摘がある。
7)川端康成・三島由紀夫(1997 編)等による。
8)時枝(1960:58)にその指摘がある。
9)『読売新聞』(1907.1.20)に掲載された。(『漱石全集』第 16 巻:48-56)
10)北住(1973)によると、子規は、明治 32 年 12 月 30 日『日本』に、「餅の花」と題す る文章を掲げた後にも、「注意」として、「歳晩歳始の事に関する文章御投寄被下候節 は成るべく只今見た事を只今見たやうにお記し被下候(中略)実地を見て其時其場の 事を面白く写され候はん事を希望致候」(下線は引用者)と記した。
亀井(1980)で、正岡子規が自己を媒介とする時間的空間的な展開が具象的に描か れることに重きをおいていたことを指摘した上で、明治 30 年代の国木田独歩、島崎藤 村などの写実形式の作品が回想形式の作品であったのに対し、子規は、対象化された
「自己」の感性で(作品における)現在の状況を描き出す散文の方法を確立したとす る。そして、これを吸収し、想起された出来事をいわば現在進行形の形で描きうる方 法が、明治 30 年代後半から拡がっていったと指摘する。
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11)山岡(2000:105-112)では、このような場合は作中人物が知覚して語っていると考え ている。
12)神郡(1990)、山岡(1997)などに指摘がある。
13)ここにあげた漱石の3テクスト作品は 1905 年~1915 年に発表されている。テクスト全 体の地の文は、『三四郎』4886 文、『道草』3340 文、『吾輩は猫である』4744 文であっ た。「 」に入っていなくても、他の指標により引用あるいは引用に準ずると判断され るものは地の文として数えていない。また、全体の地の文の量が作品によってまちま ちであるため、20%という同じ比率で今回は採集した。冒頭の採集としたのは、冒頭 において語り手の役割が示されることが多いということから、傾向がはっきりするだ ろうと考えたからである。
14)ここでいう疑問というのは、「いつのことだろう」のような文を指す。
15)「自分が野々宮君であつたならば、此妹の為に勉強の妨害をされるのを却つて嬉しく思 ふだらう。(三の十一:335)」のような文を指す。
16)工藤(2004)でも、同種の用例について、「典型的には主体の死亡(非現存)を表すこ とになる」と指摘している。
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