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第2章 動詞文・テイル文・デアル文(タ形と非タ形)が語りの表現に与える影響

2 小説テクストにおける、文末形式による表現効果

2.3 デアル・デアッタ文末の小説テクストでの使われ方

2.3.1 『三四郎』『道草』『吾輩は猫である』における「である」「であった」の使用 小説テクストの中で、デアル文末とデアッタ文末がどのような割合で使用されているか、

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これまで検討してきた『三四郎』『道草』『吾輩は猫である』について調査してみた。

次の表3は、各テクストの地の文全体の 20%の冒頭部分を調査したものである13)。『三四 郎』977 文、『道草』668 文、『吾輩は猫である』948 文が対象となる。「ものである」「だけ である」などの命題相当あるいは活用語に後接するデアル文(形式名詞+「である」、助詞

+「である」)は数に含めていない。また、調査用例全体の文末をタ形と非タ形に分けてみ た。

表3で示したとおり、『吾輩は猫である』、『三四郎』は、デアルの方がデアッタよりも多 く用いられている。『道草』ではデアルは用いられず、すべてデアッタが用いられている。

『吾輩は猫である』と『三四郎』では、用例全体の非タ形の割合に比べてデアルの非タ形 の割合が高い。また、用例全体に占める「である」文末(デアル文末・デアッタ文末の合 計)の占める割合は、テクストによる顕著な差は見られない。

以上のことから、『道草』では表現者の主観的判断が他のテクストに比べて少なく、客観 的に語っている印象を与える傾向があることがわかる。それに比べると、他の二つのテク ストは、表現者が受信者に対して主観的判断を語っている傾向が『道草』よりも強いとい える。『吾輩は猫である』は、いわゆる一人称小説であることから、語り手でもあり作中人 物でもある猫の判断が表出されることが多いのは当然だと考えられる。『三四郎』は、第一 章で述べたように、作中人物の知覚を利用した語りのB-2が多く、三四郎の判断が表出さ れることも多い。また、語り手は、物語世界の現場で知覚しているかのように語ることも よくあり、さらに自分の判断を表出したりする場合もある。このようなことが、『三四郎』

において非タ形のデアル文が多いということと結び付くと考えられる。

【表3】

「である」・「であった」

の使用

『吾輩は猫である』 『三四郎』 『道草』

文数 (用例数)

調 査 対 象 全 体 に対する割合

文数 (用例数)

調 査 対 象 全 体 に対する割合

文数 (用例数)

調 査 対 象 全 体 に対する割合

調査用例全体 タ形 164 17.3% 533 54.6% 647 96.9%

非タ形 784 82.7% 444 45.4% 21 3.1%

合計 948 100.0% 977 100.0% 668 100.0%

体言等に後接 す る 「 で あ る 」 文末

タ形 7 0.7% 35 3.6% 72 10.8%

非タ形 107 11.3% 82 8.4% 0 0.0%

合計 114 12.0% 117 12.0% 72 10.8%

2.3.2 語り手が現場で語るデアル文末の文

1.3.4.1 で示したように、非タ形のデアル文末の文の内容は、物語世界の具体的な現場で の知覚に関わる場合と、具体的な現場の知覚に関わらない場合や時間に幅のある場合があ る。前者の場合で物語世界の知覚可能な事態を具体的に語るときは、原則として物語世界 の現場に身を置いているかのような語りになる。【46】、【47】の下線部は、その例である。

一方、後者の場合は、非タ形のデアル文であっても物語世界の現場にいないで語ることが できる。【48】は、その例である。

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通常、具体的な場面で現場の状態を描写する語りは、作中人物の知覚を利用しているこ とがほとんどである。その場の状況を語るには、その場で知覚しているように語る必要が あることが多いからである。特に、具体的な現場での知覚に関わる非タ形のデアル文や「の だ」文は、物語世界の現場で判断し語っている表現なので、原則として具体的な現場にいる 作中人物の判断である。しかし、テクストによっては、物語世界に存在しない語り手が物 語世界の具体的な現場で知覚しているかのように語る場合もみられる。

この際、【46】、【47】のように語り手が物語世界の事物を知覚しているかのように語る場 合には、語り手は物語世界の現場にいるかのように知覚・認識を語り、なおかつ想定され る聞き手に語ることになる。

【46】の下線部は、作中人物の誰かが観察した内容ではない。この老人のほかには不特 定の銭湯の客しかこの場面では登場しない。そのため、この老人の肉体を観察しているの は語り手だと考えられるのである。下線部に続くテイル文末の2文も観察していることが 感じられる。

【46】宮田照吉は銭湯へ行つた。彼は傲慢な身振でのれんを頭ではねのけ、むしりとるや うにシャツを脱いで籠に投げこむので、ともするとシャツや帯は籠の外に四散した。

すると照吉は、いちいち大きな舌打ちをして、足の指でそれらをつまみ上げて籠に放 り込んだ。まはりで見てゐる連中はおそれをなしたが、これこそは老いても気力の衰 へてゐないことを公衆の前に示すべく、照吉に残された数少ない機会の一つであつた。

しかしその老いの裸はさすがに見事である。赤銅色の四肢には目立つたたるみもな く、鋭い目と、頑強な額の上には、獅子の鬣のやうな白髪が乱れ逆立つてゐる。酒焼 けのした胸の赤らみと、この白髪がいかにも魁偉な対照をなしてゐる。隆々たる筋肉 は久しく使はれないために硬くなり、それが波に打たれていつそう峻しくなつた巌の 印象を強めるのであつた。

(『潮騒』第十章:312)

次の【47】では、作中人物「宗近」と「甲野」が船に乗る場面である。文末表現はすべ て非タ形であるが、作中人物が現場で知覚していることを語っているのではなく、語り手 が物語世界の現場で語っていると考えるのが適切である。二段落目や三段落目の船頭や竿 の説明は、作中人物がじっと船の様子を見て知覚していることを表現していると考えず、

物語世界に身を置いているかのように語り手が聞き手を対象に語っていると考えた方が自 然である。

【47】 「妙な舟だな」と宗近君が云ふ。底は一枚板の平らかに、舷は尺と水を離れぬ。

赤い毛布に烟草盆を転がして、二人はよき程の間隔に座を占める。

「左へ寄つて居やはつたら、大丈夫どす、波はかゝりまへん」と船頭が云ふ。船頭 の数は四人である。真っ先なるは、二間の竹竿、続づく二人は右側に櫂、左に立つは 同じく竿である。

ぎいぎいと櫂が鳴る。粗削りに平げたる樫の頸筋を、太い藤蔓に捲いて、余る一尺 に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手の節の隆きは、真

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黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんと掻く力の脈を通はせた様に見える。藤蔓に 頸根を抑へられた櫂が、掻く毎に撓りでもする事か、強き項を真直に立てた儘、藤蔓 と擦れ、舷と擦れる。櫂は一掻毎にぎいぎいと鳴る。

岸は二三度うねりを打って、音なき水を、停まる暇なきに、前へ前へと送る。重な る水の蹙つて行く、頭の上には、山城を屏風と囲う春の山が聳えてゐる。逼りたる水 は已むなく山と山の間に入る。帽に照る日の、忽ちに影を失ふかと思えば舟は早くも 山峡に入る。保津の瀬はこれからである。

「愈来たぜ」と宗近君は船頭の体を透かして岩と岩の逼る間を半丁の向に見る。水 はごうと鳴る。

(『虞美人草』五の三:92)

以上に挙げた『潮騒』『虞美人草』は、引用していない部分も検討した結果、語り手が物 語世界の現場で知覚しているかのように語るという設定であることが明らかであった。こ のような設定の場合、「である」文末の文では、語り手が知覚しているかのように語るため に、語り手の主体的判断が語られることになる。語り手であるために知っている真実を客 観的に語る(神の視点で語る)というものではない。そのため、語り手の存在が意識され る。

2.3.3 語り手が現場で語っているかのような設定でないデアル文末の文

また、1.3.4.1 で示したように、現場にいなくても語れるデアル文末の文もある。事物の 性質や状態、習慣、繰り返される出来事などを語る場合である。

次の用例のデアル文末のでは、「奇麗でしたろうは」が主題となっており、物語世界に身 を置かなくても語ることはできる。しかし、この文は語り手が自分の判断を想定される聞 き手に強く働きかけて語っている。

【48】 「昨夕博覧会へ御出に……」とまで思ひ切つた小野さんは、御出になりましたか にしやうか、御出になつたさうですねにしやうかの所で一寸ごとついた。

「えゝ、行きました」

迷つてゐる男の鼻面を掠めて、黒い影が颯と横切つて過ぎた。男はあつと思ふ間に 先を越されて仕舞ふ。仕方がないから、

「奇麗でしたらう」とつける。奇麗でしたらうは詩人として余りに平凡である。口 に出した当人も、是はひどいと自覚した。

(『虞美人草』十二の十二:248)

このように語り手が現場に身を置かなくても語れるデアル文末の文も多くあるが、その ような文であっても、デアル文末の文は語り手の存在が強く感じられる。上に挙げたよう な語り手が物語世界の現場で知覚できる設定のテクストでは、非タ形のデアル文末の文が 多く、語り手の存在が目立つ傾向がある。

2.3.4 デアル文末、デアッタ文末の文からみた『虞美人草』の表現特徴

『虞美人草』の地の文 4607 文には、非タ形のデアル文末の文が 557 文、デアッタ文末の