第 1 章 語りの様相の考察
3 語りの様相
3.2 地の文(語り)の分類
3.2.1 ジュネット・ジェラールの分類
物語論は 1970 年代にジュネット・ジェラールによって一応の完成をみた。日本でも石原 千秋他(1991)等によってその理論が検証されている。そのため、日本における語りの問 題はジュネットの理論によって分析されることが多かった。そこで、ジュネットを指標に 本稿の考えを整理してみたい。
語り手が語る場合、焦点となる人物を定めて語る場合が多いが、この場合、ジュネット
27
(1985 訳a)では「焦点化ゼロ」「内的焦点化」「外的焦点化」の分類をしている。
ここで問題になるのは、「焦点化」という用語の意味である。ジュネットは視点というと 視覚的なものがまつわりつくという理由で、焦点という用語を提案し、人物の知覚全般を とおした語りの意味で使っている。しかし、「外的焦点化」というのは、同書に「主人公の 思考や感情については、われわれは決して知ることができない。」(p.223)とあるとおり、
作中人物を外から語ることであり、語り手以外の誰の知覚もとおしていないことになり、
誰の知覚かということからは離れてしまう。また、「内的焦点化」についてもジュネット
(1985 訳a)の続編であるジュネット(1985 訳b)では、「彼自身を対象とする知覚も含 まれる」「この人物が知覚するすべてのことがらと、彼が考えるすべてのことがらとをわれ われに伝えることができる」(p.78)と付け加えられ、誰の知覚なのかということは問題 にされなくなっている。ジュネットの意図する焦点化とは、どの人物に焦点をあてて語る か、という程度の意味だと考えられるのである。そのため、作中人物の知覚による語りと いうものについて、正確な規定が必要である。
また、「内的焦点化」の物語言説だけで語られるテクストはほとんどありえないのであっ て、作中人物の知覚したものを語るだけでなく、作中人物の様子を外から見て語ったりも している場合が大部分である。また、「外的焦点化」といっても、一人の作中人物のみを語 り手が外から語るだけでテキストが出来上がっているということはなく、場面の描写や他 の人物の描写が必ず語られている。
「焦点化ゼロ」についての説明は、「語り手はどの作中人物が知っているよりも多くのこ とを語る」(p.221)としている。ジュネット(1985 訳b)では、「その『焦点』を、まこ とに非限定的な、あるいは非常に遠い地点に、言い換えれば、きわめて遠望的な視野の利 く地点に設定するため、『焦点』はどの作中人物とも一致しえず、したがってやはり、非焦 点化あるいは焦点化ゼロといった術語の方が古典的小説にはふさわしい」(p.77)として いる。これは、個々の人物のさまざまな視点よりも上位にある視点と知識をもって語り手 が語る、という意味だと考えられる。言い換えれば、語り手だから知っているのだという 立場で語るということを指していると思われる。このように考えると、具体的な物語世界 の場面を語るときなど、「焦点化ゼロ」の言説はごく自然にテクストに含まれていると考え られる。もちろん、それを、作中人物の誰も知らない情報に限定すれば少ないのかもしれ ない。しかし、ここでは作中人物の誰も知らないことに限定しておらず、語り手の立場で の語りという意味のように受け取られる。
このようなことから、本研究では新しい分類を提出し、テクストはそれらが混在してで きあがっているものとした。それは、①語り手が語り手の立場で語る、②語り手が作中人 物の知覚を利用して語る、③作中人物の内的独白、の三種である。
ジュネットの分類でみた場合に①に入るのは、「焦点化ゼロ」の言説、「外的焦点化」の 言説、「内的焦点化」の言説のうち作中人物を対象として客観的に語られた思考や感情、な どである。つまり作中人物についての語りでも、語り手の立場で語るものは①とした。ま た、語り手しか知らないことも①に入る。また、石原(1986)で指摘されている「三四郎 の無知を示唆して、明らかに彼の言葉をこう読んでほしいと方向付け(コード化)してい る」ような表現、また「これに類するはっきりと三四郎を外側から語るような、語り手が
28
ト書き風に顕在化したような表現」や、語り手が自分の感想・意見や見解を示す言説も① とした。
②に入るのは、「内的焦点化」の言説のうち、作中人物の知覚・認識した物事である。
次の用例は夏目漱石『道草』の冒頭近くのものであるが、①と②の例が見られる。
【20】 1 彼は知らん顔をして其人の傍を通り抜けようとした。2 けれども彼にはもう一遍 此男の眼鼻立を確かめる必要があつた。3 それで御互が二三間の距離に近づいた頃又眸 を其人の方角に向けた。4 すると先方ではもう疾くに彼の姿を凝と見詰めてゐた。
(『道草』一:4)
【20】の 1 の「彼」は、主人公の健三のことである。1~3 は語り手の語りで①であるが、
4 は健三の知覚を利用した語りの②だと考えられる。1 は健三についての語りで、客観的に 語り手の立場で語っている。2 は、健三の置かれた状況についての説明であるが、健三がこ の場で「確かめる必要がある」と認識したということではない。言い換えると、「確かめる 必要がある」という表現が健三の認識を表現したものではないということである。そのた め、この文は語り手が状況を説明して語ったものといえる。3 も、語り手が健三を客体とし て語っている。このとき、自分が「眸を其人の方角に向けた」ことを健三自身が認識して いるのは当然であるから、この文は健三の知覚を利用した語りと考えるべきだという意見 もあるかもしれない。しかし、「眸を其人の方角に向け」という表現は健三のものとは考え られない。つまり、健三が自分の行為を「眸を其人の方角に向け」と客体化してとらえて いないと考えられるということである。そのため、3 は健三の知覚を情報源とした語りでは なく、語り手の立場での語りと考えるのが適当である。4 は、その場面での「先方」の状態 を語ったものであるが、「先方」が「見詰めてゐ」ると知覚しているのは健三であり、この 文は健三が見た事柄を語ったものである。正確にいうと、健三が知覚したことを情報源に した語り手の語りであるということである。このように、物語世界の事物を表現するとき に、主人公が見たり聞いたりして知覚したことを情報源にして語ることが多い。このよう な語りを本稿では②の語りとしている。
ところで、「先方は」「あちらが」「~て来る」など、表現者の位置がわかるかのような表 現のある場合は、作中人物の視点に立っていると言われることが多い3)。しかし、これらの 表現は、誰の側に寄り添って語っているかということであり、ここでいう視点は作中人物 の知覚・認識と完全に一致するものではない。誰の視点に立っているかということと、誰 の知覚・認識の語りかということは、一致することが多いとしても、必ず一致するとはい えないのである。次の『道草』の例では、「先方」という表現が用いられている。
【21】 健三が外国から帰つて来た時、彼女は自家の生計に就いて、他の同情に訴へ得る やうな憐れつぽい事実を彼の前に並べた。仕舞に兄の口を借りて、若干でも好いから 月々自分の小遣として送つて呉れまいかといふ依頼を持ち出した。健三は身分相応な 額を定めた上、また兄の手を経て先方へ其旨を通知して貰ふ事にした。すると姉から 手紙が来た。長さんの話では御前さんが月々若干々々私に遣るといふ事だが、実際御 前さんの、呉れると云つた金高は何の位なのか、長さんに内証で一寸知らせて呉れな
29
いかと書いてあつた。姉は是から毎月中取次をする役に当るかも知れない兄の心事を 疑つたのである。
(『道草』六十九:209)
下線部「先方」を含む一文は、語り手が過去のことを説明している部分であり、作中人 物である健三のこの場での知覚を利用した語りではない。
このようなことから、「先方は」「あちらが」「~て来る」などの表現が②の指標であると は必ずしも言えないといえる。
また、①と②は、曖昧で決定できない場合もあるが、決定の難しいものは②に入れて考 えることにした。また、②の場合、語られた内容を作中人物が同様に認識しているという のが前提になる。
3.2.2 客体化と語りの関係
自分の思いなどをそのまま主観的に語るか、事態を客体としてとらえて語るかという違 いは、語り方にも関係してくる。
前掲の【20】の 1 は、健三を客体化して語った、健三についての語りである。誰が健三 を客体化しているのかというと、ここでは語り手である。したがって、1 は語り手の立場の 語りということになる。作中人物が自分について客体化して語ることは、過去を語るとき などの特殊な場合であり得るが、多くない。そのため、焦点となっている作中人物(主人 公)を客体化して語る場合の多くは、3.2.1 で示した①「語り手が語り手の立場で語る」語 りになる。一方、自分以外の物語世界の事態を客体化してとらえることは、語り手でも作 中人物でもあり得る。特に、物語世界のその場面(その時、その場所)で直接知覚した事 態については、作中人物が客体化してとらえている場合がほとんどである。【20】の 4 は、
その例である。このように、焦点となっている作中人物以外の物語世界の事態を客体化し て語る場合は、3.2.1 で示した①と②の両方が考えられる。
また、作中人物が自分の思いなどをそのまま語る場合は、客体化されていない語りであ る。この場合は、3.2.1 で示した②「語り手が作中人物の知覚を利用して語る」語り、③「作 中人物の内的独白」の場合が多くなる4)。
3.2.3 分類の基準
これまで示した本稿の分類について詳述したい。
地の文(語り)の様相分類するにあたり、次の基準をもうけた。
(1)文末表現は、誰が語る形式になっているか。
(2)作中人物の知覚をともなうか。
(3)作中人物が発言か心内で言語化した内容であるか。
この基準にしがたって、次のように分類した。
語り手が語る形式 ――語り手が知っていることを語る…………A語り手の立場の語り ―作中人物の知覚を情報源として語る……B-1知覚利用の語り① 作中人物が語る形式――作中人物が言語化していない内容………B-2知覚利用の語り② ―作中人物が言語化した内容………C内的独白、自由間接話法