第2章 動詞文・テイル文・デアル文(タ形と非タ形)が語りの表現に与える影響
2 小説テクストにおける、文末形式による表現効果
2.2 テイル文末とテイタ文末の使用による文章特性
「ている」「ていた」という文末表現が小説テクストにおいてどのように使用され、語り にどのような影響を与えているかを検証したい。その際、これまでと同様に『三四郎』と
『道草』を中心にとりあげるが、ここではタ形と非タ形の両方の用例が多く見られる『三 四郎』を重点的に取り上げる。この二つのテクストは、夏目漱石の書いたテクストであり ながら「ている」「ていた」の使い方に大きな違いが見られ、比較しやすい。『三四郎』で は、非存在の語り手の語っている時間が過去といえないにもかかわらず、「ている」と「て いた」との使い分けがある。また、『三四郎』は『道草』より物語世界が語り手によって客 観的に対象化されて語られている印象が弱い。以上のことを中心に検討していきたい。
2.2.2 調査範囲
2 節での調査範囲と同様に『三四郎』冒頭の地の文の 15%にあたる 830 文を調査範囲と した。比較のため、同様に『道草』の冒頭 15%の 510 文、『吾輩は猫である』の冒頭 10%
の 662 文も対象とした。
2.2.3 視点人物
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『三四郎』、『道草』ともに物語世界に非存在の語り手が語るという形式である。そのと きに、『三四郎』では三四郎、『道草』では健三の知覚を通して、語り手が語る場合がある。
これらの人物を先行研究にならい視点人物と呼ぶ。「視点」と言っているが、視覚だけでな く他の知覚や感覚も含んでいる(以後、特別に断らない限り「視点」は他の知覚・感覚を 含む)。視点人物の認識を多く含んでいると思われる文を、1章の分類に基づいて次のよう に分類した。B-1視点人物の知覚を情報源としているが、語り手が語る形式の文。B-2 視点人物は実際に言語化していないが、視点人物が語る形式の文。C視点人物の内的独白 の文。以上のB-1、B-2、Cの文を三四郎の直接認識と考えられる用例と呼ぶこととし たい。また、便宜上2章で説明したAの内容を、A-1語り手が視点人物の内的状態を語る 文、A-2語り手が視点人物の内的状態以外を語る文、と分けることとした。
2.2.4 『三四郎』のテイル・テイタ文末の文の特徴 2.2.4.1 三四郎の直接認識と考えられる用例
2.2.4.1.1 三四郎の直接認識と考えられるテイタ文末の用例
三四郎の直接認識としてタ形が使われるのは、三四郎の気づき・発見か、三四郎の回想 だと考えられる。まず回想について検討したい。調査範囲の中には、三四郎の回想するテ イタ文末の文の用例が見当たらなかったため、次の用例は、調査範囲以外からの引用であ る。下線部は、三四郎の知覚が反映されているテイタ文末の文である。
【32】 三四郎の眼の前には、ありありと先刻の女の顔が見える。其顔と「あゝあゝ……」
と云つた力のない声と、其二つの奥に潜んで居るべき筈の無残な運命とを、継ぎ合は して考へて見ると、人生と云ふ丈夫さうな命の根が、知らぬ間に、ゆるんで、何時で も暗闇へ浮き出して行きさうに思はれる。三四郎は慾も得も入らない程怖かつた。たゞ 轟と云ふ一瞬間である。其前迄は慥かに生きてゐたに違ない。
三四郎は此時不図汽車で水蜜桃を呉れた男が、危ない危ない、気を付けないと危な い、と云つた事を思ひ出した。危ない危ないと云ひながら、あの男はいやに落付いて 居た。つまり危ない危ないと云ひ得る程に、自分は危なくない地位に立つてゐれば、
あんな男にもなれるだらう。世の中にゐて、世の中を傍観してゐる人は此処に面白味 があるかも知れない。どうもあの水蜜桃の食ひ具合から、青木堂で茶を呑んでは烟草 を吸ひ、烟草を吸つては茶を呑んで、凝つと正面を見てゐた様子は、正に此種の人物 である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家と云ふ字を使つて見た。
使つて見て自分で旨いと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しや うかと迄考へ出した。あの凄い死顔を見るとこんな気も起る。
(『三四郎』三の十:332-333)
この下線部の用例は、下線部の前文の「思ひ出した」という表現から、三四郎にとって 過去のことを三四郎が思い出しているという回想の用例だと理解できる。この用例のよう に、三四郎の直接認識で過去を回想するテイタ文末の文は、内的独白かそれに近い表現と なる。ほぼ三四郎が言語化した表現のままであり、「ていた」の「ている」への置き換えが 不可能である。
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次の用例は、回想ではないと考えられる用例である。
【33】此時三四郎は空になつた弁当の折を力一杯に窓から放り出した。女の窓と三四郎の 窓は一軒置の隣であつた。風に逆つて抛げた折の蓋が白く舞ひ戻つた様に見えた時、
三四郎は飛んだ事をしたのかと気が付いて、不途女の顔を見た。顔は生憎列車の外に 出てゐた。けれども女は静かに首を引つ込めて更紗の手帛で額の所を丁寧に拭き始め た。三四郎は兎も角も謝まる方が安全だと考へた。
(『三四郎』一の二:276)
この用例は回想ではない。この場合、「ている」に置き換えても、文脈は通る。しかし、
タ形の「ていた」になっていることによって、表現の効果が異なっている。
「報告」のテクストにおいて、眼前の事態にテイタ文末の文を使う用例は限られている と考えられる。いわゆる「想起」や「発見」のときで、工藤(1995:184-185)で引用され ている次のような用例の場合である。
【34】 「ほら、やっぱり起きていた」
(曽野綾子「たまゆら」新潮文庫)
【35】 その時、杉戸が、
「おれ、おふくろから菓子を頼まれていた」
と、いまそのことを思い出したように言った。
(井上靖「北の海」新潮文庫)
しかし、「語り」のテクストでは、通常語り手が想起や発見をすることがないため、この ような用法はほとんど見られない。【33】の用例の場合も、そのような「発見」の語りと考 えることもできるが、三四郎の知覚を利用した語り手の語りと考える方が妥当だと思われ る。三四郎がその場の状況に改めて気づき、事態を「発見」したと考えることはできるが、
近傍の表現から見てこの文だけが三四郎の語る形式(B-2)や三四郎の内的独白とは考え られない11)。そのため、三四郎の知覚を利用した語り手の語り(B-1)と考える方が自然 だと思われる。この文が三四郎の語る形式(B-2)や三四郎の内的独白であれば、「報告」
のテクストと同様に「発見」と考えられる。しかし、ここではそのようには考えられない ので「発見」とはみなさない。
この用例では、語り手がテイタ文末で語ることにより、事態をひとまとまりとして対象 化して確認しているため、冷静な語りとなっている。かえってそれが文体的なおかしみを かもし出している。
次に、比較のために、三四郎の直接の発言・認識と考えられる用例で、文末が「ている」
の用例を見たい。
2.2.4.1.2 三四郎の直接認識と考えられるテイル文末の用例
次に三四郎の認識と考えられるテイル文末について検討したい。下線部が該当するテイ ル文末である。
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【36】 うとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣りの爺さんと話を始めてゐる。
此爺さんは慥かに前の前の駅から乗つた田舎者である。発車間際に頓狂な声を出して、
馳け込んで来て、いきなり肌を抜いだと思つたら脊中に御灸の痕が一杯あつたので、
三四郎の記憶に残つて居る。
(『三四郎』一の一:273)
【37】所へ窓の外を楽隊が通つたんで、つい散歩に出る気になつて、通りへ出て、とうと う青木堂へ這入つた。
這入つて見ると客が二組あつて、いづれも学生であつたが、向ふの隅にたつた一人 離れて茶を飲んでゐた男がある。三四郎が不図其横顔を見ると、どうも上京の節汽車 の中で水蜜桃を沢山食つた人の様である。向ふは気がつかない。(1)茶を一口飲んでは 烟草を一吸すつて、大変悠然構へてゐる。(2)今日は白地の浴衣を已めて、背広を着て ゐる。然し決して立派なものぢやない。
(『三四郎』三の五:319-320)
【36】、【37】とも2章で述べた語りの様相ではB-2に分類される文である。三四郎が言 語化していないが三四郎の知覚のままの文だと考えられる。文末が「ていた」のものと比 較すると、テイル文末の文は、ただ自分の知覚でとらえたままの状況を語っているといえ る。テイタ文末の文の場合、三四郎が知覚した内容をさらに三四郎あるいは語り手が対象 化していると考えられる。
2.2.4.2 語り手が語っている用例
次に、語り手が語り手の立場から語っている用例を見たい。その中から、三四郎につい ての用例を取り上げてみた。この用例は、語り手が三四郎を対象として語っているので語 り手の立場からの語りであることが最もはっきりわかる。
2.2.4.2.1 三四郎について語り手が語っているテイタ文末の用例
【38】 其寐てゐる間に女と爺さんは懇意になつて話を始めたものと見える。眼を開けた 三四郎は黙つて二人の話を聞いて居た。女はこんな事を云ふ。――
(『三四郎』一の一:274)
【39】 講義が終つてから、三四郎は何となく疲労した様な気味で、二階の窓から頬杖を 突いて、正門内の庭を見下してゐた。只大きな松や桜を植ゑて其間に砂利を敷いた広 い道を付けた許であるが、手を入れ過ぎてゐない丈に、見てゐて心持が好い。
(『三四郎』三の二:312)
【38】、【39】は、「ている」に置き換えても文脈は通る。
以上のテイタ文末の用例を「ている」に置き換えた場合を想定して、改めて見直してみ る。「ている」にして「聞いて居る」「見下してゐる」とした場合、語り手が現場で知覚し ているかのように語っている語りになる。眼前描写、実況中継の語りとなる。それに対し て「ていた」文末の文の場合は、時間の流れを捨象して事態全体をまとめてとらえていて、
現地で知覚していなくても語ることができる文となっている。語り手は物語世界外で語っ