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第3章 「のだ」文の使用のされ方がテクストに与える影響

1.2 タ形と非タ形に注目する

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きると考えた。なお、今回は否定の「のではない」等の表現は対象としなかった。

参考までに、文末形式によって、『雪国』と『潮騒』の地の文を分類すると表1・表2の ようになった。この表から、『雪国』と『潮騒』の文末形式の出現傾向に違いが見られる。

これは、語り手の物語内容の捉え方や語り手と作中人物との関係の違いが影響していると 考えられる。

【表1】『雪国』

非タ形 タ形 計

である 28 12.5% 196 87.5% 224

のである 11 20.8% 42 79.2% 53

動詞 58 9.4% 557 90.6% 615

ている・てある 22 11.5% 170 88.5% 192

形容詞 16 25.8% 46 74.2% 62

推量文末 43 81.1% 10 18.9% 53

その他 11 100.0% 0 0.0% 11

計 189 15.6% 1021 84.4% 1210

【表2】『潮騒』

非タ形 タ形 計

である 62 38.0% 101 62.0% 163

のである 115 72.8% 43 27.2% 158

動詞 188 14.9% 1073 85.1% 1261

ている・てある 152 52.6% 137 47.4% 289

形容詞 34 34.0% 66 66.0% 100

推量文末 28 82.4% 6 17.6% 34

その他 10 100.0% 0 0.0% 10

計 589 29.2% 1426 70.8% 2015

※否定形も含む

※百分率(%)で示したのは、非タ形とタ形の割合

テクスト全体の中での「のだ」文の占める割合が、『雪国』より『潮騒』の方が多めであ ることが認められる。また、『雪国』の方が『潮騒』よりもタ形の多い傾向が認められる。

「のだ」文のタ形と非タ形の割合は、『雪国』と『潮騒』では対照的である。次から、この 二つのテクストの「のだ」文のタ形と非タ形について詳しくみていきたい。

1.2.2 「のだ」文の非タ形とタ形による違い

「のだ」文と非タ形・タ形の結びつきは、「~ルのだ」「~タのだ」「~ルのだった」「~タ

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のだった」の4通りが考えられる。なお、本稿では非タ形を「ル」と表し、また、「のだ」

と「のである」、「のだった」と「のであった」の区別はしないこととした1)。また、非タ形 とタ形の違いについては2章で述べたので、本章では細かいことにはふれていない。

1.2.2.1 「のだ」「のだった」の違い

「のだ」と「のだった」の違いについては、先行研究でも微妙な問題とされており、使 用される環境による多様な表現効果の違いが指摘されている2)。このような中、本節ではい わゆる三人称小説の地の文に限定して、その用法について考察する。

非タ形の「のだ」文は、1.1 で述べたように、名詞化したものを、受け手に断定して提示 するので、受け手に対する働きかけの強い表現だといえる3)。しかし、タ形の「のだった」

では、性質が変わってくる。丹羽(1992)では、「のだった」に回想視点があると説明され ている。また、吉田(1988)では、物語的過去として、現在の現実との関係を断ってしま うのがこの表現だという。両論とも、表現者が物語世界から離れて語るという指摘だとい える。本研究では、これを表現者が物語世界の内容を対象化してとらえる表現だと考える。

つまり、「のだった」は、表現者がその「~のだ」という判断内容を客体として外から確認 した表現だということである。そのため、次の【1】のように、「~のだ」の場合とは異な り、受け手に対する強い働きかけはなく、傍観者が冷静に語るような表現効果を与えてい ると考えることができる。また、「のだった」文末の文では、この【1】のようにはっきり した前提の話題がなく、漠然としたその場の状況を話題としている場合がしばしば見られ る。これは、傍観者が冷静に語るような「のだった」文末の文は、具体的な話題と事態を 結びつけずにその場の状況を説明するときに有効であるためであろう。

【1】国境の山を北から登つて、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはそ の地中の闇へ吸ひ取られてしまつたかのやうに、また古ぼけた汽車は明るい殻をトンネ ルに脱ぎ落して来たかのやうに、もう峰と峰との重なりの間から暮色の立ちはじめる山 峡を下つて行くのだつた。こちら側にはまだ雪がなかつた。

(『雪国』:70)

下線部の「のだった」を「のだ」あるいは「のである」に置き換えると、表現者が受け 手に強く働きかけているように感じられるようになる。これは表現者の判断を外から確認 して対象化していないためだと考えられる。

漱石の小説テクストでは、タ形の「のだった」がほとんど用いられていない。例えば『道 草』では、ほとんどの文末がタ形であるのに、「のだ」文だけは非タ形がほとんどである。

このことから、漱石の小説テクストでは、「~のだ」という判断を対象化することはなく、

そのままその判断を表出しているということになる。2節で詳述するが、小説における「の だ」文は、前提となる話題と関連づけて用いられることがほとんどで、そのように関連づ けて語るときに、漱石のテクストの語り手は、判断を対象化せずに表出しているといえる。

1.2.2.2 「タのだ(タのだった)」と「ルのだ(ルのだった)」の違い 次に「のだ」「のだった」に前接する部分の非タ形とタ形の違いをみたい。

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尾上(2001:423)には、動詞のスル形として次のような例が挙げられている。どの例文 でも、事態は継続していて、完了したものとしてとらえられていない。

【2】ねこがいる。(現在の描写)

ほら、ごらん、鳥が飛ぶ。(眼前描写)

アルコールは水にとける。(真理)

また、次の例は森田(2001:279)のものであるが、動詞以外の非タ形の文も、事態を完 了したものとして対象化してとらえていない。

【3】地球は青い。(状況認識)

彼は係長だ。

このようなことから、非タ形に「のだ」が後接した「ルのだ」文は、日常的な状態・繰 り返される事態、時間に幅のある事態、具体的時間に関わらない事態、眼前描写など、あ るいは「~ている」のように現在に持続している事態や現在との関連で捉えられる事態に

「のだ」が後接していると考えられる。

次の【4】のはじめの下線部は具体的時間に関わらないことに「のだ」が後接し、二つ目 の下線部は習慣として繰り返される事態に「のだ」が後接している。

【4】この村の正月は二月の一日だから、注連縄があるのだ。さうして子供等は雪の堂の屋 根に上つて、押し合ひ揉み合ひ鳥追ひの歌を歌ふ。それから子供等は雪の堂に入つて 燈明をともし、そこで夜明しする。そしてもう一度、十五日の明け方に雪の堂の屋根 で、鳥追ひの歌を歌ふのである。

(『雪国』:76)

次の【5】の下線部のはじめの文は時間的に幅のある事態に「のだ」が後接しており、二 つ目の文は具体的時間に関わりのないことに「のだ」が後接している。

【5】 鏡の底には夕景色が流れてゐて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しの やうに動くのだつた。登場人物と背景とはなんのかかはりもないのだつた。しかも人 物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合ひながらこ の世ならぬ象徴の世界を描いてゐた。

(『雪国』:13)

また、次の【6】は、物語世界の現場で現在知覚しているような語りである。

【6】「こんな日は音がちがふ。」と、雪の晴天を見上げて、駒子が言つただけのことはあつ た。空気がちがふのである。劇場の壁もなければ、聴衆もなければ、都会の塵埃もな ければ、音はただ純粋な冬の朝に澄み通つて、遠くの雪の山々まで真直ぐに響いて行 つた。

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(『雪国』:60)

以上の例では、全体をまとめて外から対象化してとらえるということをしていない事態 に「のだ」が後接している。

次に、タ形に「のだ」が後接する場合を述べたい。2章で述べたように、文末がタ形文 末の場合、事態全体をまとめてとらえ、文の内容を対象化して語ることになる。そのため、

その事態を語る時点では、その事態はまとめられたひとかたまりの事柄として認識される。

いわば「タ」によってひとくくりにされた事態としてとらえられているのである。

このため、「タのだ(のだった)」文は、ひとかたまりとして対象化された事態を提示した 語りとなる。次の【7】の二つ目の下線部はその例である。

【7】 新治は力の入れどころに困つた。足を踏ん張らうとしても風がさういふ姿勢を許さ ない。うつかり綱に力をとられると、海の中へ引きずり込まれさうになるのである。

(中略)

命綱を浮標に一巻きすると、作業は楽になつた。それに力の支点が生じて、逆に太 い命綱に新治の身がたよれるようになつたのである。

(『潮騒』第十四章:361)

この二つ目の「のだ」文は、語り手が事態を「それに力の支点が生じて、逆に太い命綱 に新治の身がたよれるようになつた」という完了したひとまとまりのこととして捉えた上 で、「のだ」文にしている。そして、この「のだ」文は、「命綱を浮標に一巻きすると、作 業は楽になつた。」という前提の話題に対する説明として機能している。このため、この「タ のだ」文は、完了した事態を前文に結びつけて論理的に読者に説明している。この例では、

前提の話題もタ形であり、完了した事態二つを結び付けて「のだ」文で提示している。こ のため、語り手の論理的な表現という印象を与える。

「のだ」に前接する部分がテイル以外の非タ形の場合は、素材をそのまま提出して名詞 化されるため、語り手の態度は表現されない。それに対して、「タのだ(のだった)」「テイ ルのだ(のだった)」では、「のだ」に前接する部分を語り手が外から対象化してとらえた うえで名詞化される。さらに、「タのだ(のだった)」の場合、その部分がひとかたまりの 事態としてとらえられている。

特に、非タ形の「タのだ」文末の文は、表現者が事態全体をまとめてとらえた内容を、

受け手に対して強く働きかけて提示すため、表現者の説明するような態度が強く表れる。

前出の【7】の二つ目の下線部はその例である。それに対して、次の【8】は、「ルのだった」

の例で、表現者の説明的な態度は強く感じられることはない。

【8】島村の頭にはまた徒労といふ言葉が浮んで来た。駒子がいひなづけの約束を守り通し たことも、身を落してまで療養させたことも、すべてこれ徒労でなくてなんであろう。

駒子に会つたら、頭から徒労だと叩きつけてやらうと考へると、またしても島村に はなにか反つて彼女の存在が純粋に感じられて来るのだつた。

(『雪国』:51‐52)

【8】の「のだ」文は、島村の心理の状態を、持続する時間的に幅のあるものとしてとら