1938年秋の武漢・広東占領の後、日本軍は中国の要衝の大部分をおさえたが、蔣政権を 屈服させられないまま軍事力は限界に達していた。そのため、陸軍省では長期持久戦に対 処するため「十三年秋季以降戦争指導方針」(1938年11月18日)及び「昭和十三年秋季 以降対支処理方針」(同年12月6日)を決定、以後占領地は拡大せず占領地内の治安の 回復を第一義におくこと、また、戦争の政治的解決、すなわち政略・謀略工作を強化し、
親日政権の育成を目指すことを方針とした77。
序の建設」、及び「日満支三国」が「政治、経済、文化等各般に亘」って提携することを 明言した78。これ以後、占領初期に見られた国際社会への配慮が相対的に後退し、日本政 府の積極的・排他的な中国占領地行政への関与が強まった。同月30日には「日支新関係調 整方針」が御前会議で決められ、中国占領地における「分治合作」方針、要衝への駐兵、
中央政府・軍隊・警察等への日本人顧問派遣、重要な交通機関の「日中協力」等、占領地 に対する日本の独占的管理が方向づけられた79。これら諸策の実行機関として、日本国内 では「対支院」(対中国中央行政組織)の設置が急がれることになるのである。
しかしその設置をめぐっては、各省間の調整は容易ではなかった。特に外務省は、同 年夏以降軍が強力に推進した「対支院」設置問題に対して、その権限が中国全土に及ぶこ とに強く反発し、これを占領地に限定して非占領地に外交の余地を残そうと抵抗を試みて いた。しかし、1938年9月26日に宇垣外相が辞任して外務省は事実上屈服、同年12月16 日に興亜院が成立した80。
同院は内閣に設置され、総裁を総理大臣、副総裁を外務・大蔵・陸海軍大臣とした。
その管掌業務は、日中戦争期間に処理が必要な政治・経済・文化に関する事務、及びこれ ら事項に関する政策の立案、中国における国策会社の業務監督・統制、さらに各省庁の中 国占領地に関する行政事務の統一であった。機構は総裁官房のほか、政務・経済・文化の 3部がおかれた81。文化部長は当初部長事務取扱として総務長官柳川平助が兼務したが、
1939年1月には千葉医科大教授の松村䏋が就任した82。さらに文化部には3課が設けられ
ることになっており、それぞれ以下の業務を分掌することになっていた83。
第十二条 文化部第一課ニ於テハ左ノ事務ヲ掌ル
一、 支那新政権ニ対スル文化的協力ノ実施準備ニ関スル事務 二、 民生ニ関スル事務
第十三条 文化部第二課ニ於テハ衛生、防疫、医療、救恤ニ関スル事務ヲ掌ル 第十四条 文化部第三課ニ於テハ思想、教育、宗教、学術ニ関スル事務ヲ掌ル
ところで政務部には第3課まで、経済部には第4課まで設置されている(経済部は 1942年には第5課も設置)。このことから、少なくとも機構上は、興亜院の業務におい て、他領域に比して、文化領域の位置付けが高かったとは考えにくい。興亜院の業務に関 しては、浅田喬二によっても、その大半を占めたのが経済問題で、日本の経済関係各省の
おいては、一定の権威のある、新たな「指導」系統の創出に他ならなかった。
2.興亜院の現地機構
続いて、興亜院の華北における現地機構の動向を確認したい。1939年3月、北京に興 亜院の華北連絡部が成立した85。その人事については、陸海軍、各省の割り当ての調整に 困難を極め、「均衡人事、各省利益代表者の寄り合い所帯」86になったと評される。華北 連絡部の長には、元北支軍特務部長の喜多誠一陸軍中将(1939年4月少将から昇格)が そのまま長官に、同次長心得には、同じく特務部において総務課長として実務にあたって いた根本博陸軍大佐が就任した。その後も、重要なポストが北支軍参謀で占められた87。 さて華北連絡部の機構については、官房のほか、政務・経済第1・経済第2・文化の 4局が設置された。初代文化局長には外務省の坂本龍起が就任し、その後松井真二(北支 軍)、別所孝太郎(文部省)が歴任した。現地で文教関係の業務にあたったのは、元外務 省文化事業及び北支軍特務部関係者、文部省スタッフであった88。外務省所管の対支文化 事業費は1939年度から大蔵省所管となり、「内閣興亜文化事業費」として編成された。
この予算を実行するために、興亜院文化部は各連絡部に文化事業協会を設置し、その助成 及び指導監督にあたることを決定した89。そして同年8月には興亜院華北連絡部内に華北 文化事業協会が設置され、主に文化局員がその役員となり運営に携わった90。華北連絡部 文化局はさらに総務・民生・文教の3班に分かれ、総務班が文化工作を策定・討議し、臨時 政府首班との定例懇談や、臨時政府教育部長との定例会談を実施したとされている。文教 班は思想・教育・学術・宗教に関する業務を担当し、初代班長には文部省出身の朝比奈策 太郎が就任した91。
興亜院の成立により、対占領地事業における外務省文化事業部の参与が後退し、代わっ て文部省が参入を図ったことは、既に先行研究が指摘している。教学局を中心に「東亜教 育」「興亜教育」と称される一連の政策が打ち出され、現地においても、華北連絡部に多 くの文部省スタッフが入り込んだ92。これによって、⑴現地政権の教育行政機関⑵教育部 直轄編審会⑶興亜院華北連絡部、と3つの機構において文部省が一定の影響力をもつこと となるのである。
3.現地の反応
ところで興亜院現地機構設置に伴い、北支軍はどのような反応を示したのだろうか。
同軍は1938年12月末に特務部を廃止し、軍司令部内に「北支那方面軍司令部特務班」と して吸収した。これと同時に、軍司令部参謀部に第4課が編成され、引き続き占領地政務
をつかさどることになった(参謀部第4課については、第4章で詳述する)。
森岡皐(1939年8月興亜院華北連絡次長に就任)の回想によると、現地軍としては、
「系統を異にする現地機関が軍占拠地内で業務を行うことは、政戦略の一致を妨げる」93 ものとして反対の立場をとり、前述の参謀部第4課に、連絡部とほぼ重複する仕事をやら せたという。そして地方行政機関に対する特務機関の権限を強化させ、興亜院→中央、特 務機関→地方とその「内面指導」系統を固定化させた94。このように、陸軍中央の強い要 請もあって成立した興亜院は、国内的には強力な対中国行政機関であっても、現地におい ては政務を主導する北支軍より、優位に立つことはできなかったのである。
このことは、文化局の業務に関しても例外ではなかった。つまり、北支軍の特務機関 の協力を仰がない限り、同局の業務を地方レベルで実行することは困難だったのである。
例えば、興亜院華北連絡部作成の『北支に於ける文教の現状』では、興亜院連絡部と軍特 務機関との関係について、「興亜院の諸工作は原則として軍の作戦に協力」し、「現地第 一線との関係に付ては軍を通じ現地特務機関と連絡を密にし、第一線の文化指導に協力」
95すると述べられている。これはすなわち、興亜院の業務は軍の作戦を優先し、治安の安 定しない第一線においては、北支軍特務機関との調整を経ない限り政策を実行できないこ とを意味している。
それでは中国側教育行政機関と興亜院との関係はどうであっただろうか。これに関し ては、中央に対しては興亜院連絡部が直接に、各省市に対しては主に軍特務機関を通じて 間接に指導するとされた96。かくして地方行政機関の末端は北支軍の特務機関が掌握し、
興亜院がその影響力を地方に及ぼすことは容易でなかったのである。
4.「指導」をめぐる混迷と矛盾
①教育をめぐる政務の多元化
以上見てきたように、1938年末から翌年初頭を境に、占領初期の北支軍特務部の監督・
指導のもと、日本人教育関係者及び文部省官僚が中国側機関の「内面指導」にあたる、と いう方式には変更が加えられ、興亜院という新たな「指導」系統が成立した。初代興院政 務部長であった鈴木貞一の回想によれば、興亜院の成立を推進した政府(なかでも近衛首 相)の意図は、興亜院に政治力をつけさせて軍を抑制し、日中戦争を早期解決することに あったという97。しかしながら上述のように現地軍が政務において優位に立つ構造下では、
興亜院連絡部は十分な実力を備えることはできず、政策主体の多元化を招き、現地「指 導」系統はより一層混迷をきたすことになった。