第5章 アジア太平洋戦争期の日本人教員派遣と華北日本語教育界の変容 はじめに
第3節 「新政策」後の華北日本語教育界 1.日本人教員を取り巻く状況
まず華北の日本人教員の概況を振り返っておくと、その総数は、1940年11月調べで313 人、1943年3月調べで 549人であった。その内訳は、1940年11月調べで大学に 82人
(26.2%)、師範学院・直轄学校に28人(8.9%)、中学に125人(39.9%)、小学校に55 人(17.6%)、各種学校に23人(7.3%)であった。1943年3月調べでも、大学に163人
(29.7%)、師範大学・直轄学校に53人(9.7%)、中学に203人(37.0%)、小学校に107 人(19.5%)、各種学校に23人(4.2%)と、内訳の比重は大きく変化していない(上記の
「中学」には、師範学校・女子中学・実業学校を含む)33。
興亜院の現地における日本語教育は、華北日本語普及協会34が担当していた。その活動 内容の1つは、直轄日本語学校の経営である。1940年9月、北京で中央日本語学院(一般 向け)が開校した35。その後、1941 年9月には河南省に開封中央日本語学院が、1942 年 4月には天津中央日本語学院が成立した。さらに1943年9月から、同じく華北日本語普 及協会の施設として、山西省に太原日語専科学校が開校している36。
そしていま1つは、華北日本語教育研究所(以下「華日研」とする)による調査研究、
講習会開催、雑誌の刊行等の活動である。
華日研の成立は 1940 年9月、機構は当初4部構成(総務・調査・研究・指導)であっ たが、42年6月には3部構成(研究部・文化研究部・事業部)となっている。所長は北京 中央日本語学院の院長(中目覚→1943年9月以降は王玉泉)が務め、1941年5月に中央 日本語学院教務長として赴任してきた秦純乗が実質的運営を行っていたといわれている。
その他の事務担当者も、中央日本語学院の職員がこれにあたった。秦のほかにも、北京師 範大学所属の藤村作・小泉藤三・筧見五百里・篠原利逸、北京興亜高級中学校の国府種武、
新民学院の山口喜一郎・日野成美、高等警官学校の益田信夫等の日本語教師が中枢部分で 指導的立場にあった37。また華日研は1942年2月から1945年3月まで、機関誌『華北日 本語』を発行した。華日研は派遣前に語学教師としての研さんを十分に経ないまま各地に 分散する日本人教員を技術的にフォローする役割を果たしていたのである。
2.「新政策」後の華日研
ところが汪政権のアジア太平洋戦争参戦をうけて、華北占領地における文化施策の優先 事項も、時局に応じた教学刷新、食糧増産運動、集団訓練の実施、生活・思想の粛正、生 活の簡素化など、戦争協力色が強まっていく38。そして日本語教育界も、次第にその影響 を受けるようになった。例えば1943 年2月からは、語学学校であるはずの中央日本語学 院に、「食糧増産運動とにらみ合せて」労作科が設置され、清掃などの労働のほか、敷地内 の緑化活動や、ナスや豆といった農作物の育成が試みられた39。
華日研も 1943年2月、大使館調査官、西田匠の華日研入りを機に、大東亜省現地機関
(北京大使館事務所)主導による機構改革が進められ、活動にも変化が見られた。以下具 体的に見ていきたい。
①日本語教育講習会の変化と現地採用者の資格認定
活動の変化が顕著に表れているのが、華日研による日本語教育講習会40の内容の変化で ある。【表5-4】に掲げた通り、先行する第3回の講習内容に比べ、第4回目(1943年
2月15~20日)になると、その講義内容は、明らかに日本語教育関係の講習時間の比重
が少なくなっている。ここでは「新民青年団組織及訓練」「華北に於ける食糧増産運動につ いて」「学生勤労作業の精神及方法」など、日本語教育とは直接関係ないが、戦争完遂や、
先に見た文化施策の優先事項に沿った科目が設置され、時局ものの比重が高くなっている のである。こうした転換は、技術の研さんを期待してやってきた参加者を大いに落胆させ た。参加者の1人、太田義一(山東省立教員訓練所教官)は以下のように心情を吐露した41。
この会の名称が、日本語教育講習会となつてゐることから、この会に出席受講を命ぜ られた私が、 光(ママ)づ本会に期待した最大のものは、当然日語教育の実施にあたつて、
平常悩み続けていることの解決であつた。…曰く、日本語自体の問題、曰く教授法の 問題曰く教材選択の問題、曰く日本語教師に関する問題等々、…もちろんこれらの全 てが、たつた一回の、而も一週そこそこの講習によつて、完全に解決されるとは私も 考へてゐなかったのであるが、その中の幾つかについては、既に日本語教育が始めら れて数年の歴史を持つ華北に於いては、かうあるべきだと明確に解答が与へられるも のと期待したのは無理であつたらうか。然るに、率直に正直に言はせた場合、この会 が我々に与へた明答は何もなかつたと言はざるを得ないのは私一人ではあるまい。
いかに日本人教員に語学教師にとどまらない政治的役割が期待されていようとも、彼ら は教壇に立てば、中国人の学生に日本語を教えなくてはならない。しかし、年1回彼らを 北京に集め、技術を向上させるために開かれていた講習会の内容変更は、日本語普及の担 い手としての派遣教員の役割の動揺を示していよう。
そして1943年7月には、興亜院・大東亜省の選考・「錬成」を受けていない現地採用の 日本人教員の資格試験があり、それに通った約130名に2週間の「錬成」が行われた42。 もはやこの段階では、日本語教師として現地学校に入り込む日本人は、語学教師としての 自己認識のみで存在することは許容されず、現地採用者は、その「適正」を厳しく問われ る事態となったのである。
②地方の取り込みと脱「日本」化 次に機構改革から、従来の日本人中心の華日研のあり方が変わり、地方の包摂がなされ
たことを指摘したい。
先述した大東亜調査官西田匠の主導により「新しい華北の諸情勢と従来の機構上との欠 陥とを睨み合せて」華日研の機構改革が構想され43、1943年5月以降、本格的な改組と人 事刷新が実行に移され、同年10月改組が終了した。
改組後の機構は、1943年7月『華北日本語』誌上で発表された「華北日本語教育研究所 規定
(ママ)
草案」によれば、研究部・事業部、及び常任委員会がおかれることとなった。研究部 は「日本語普及並ニ日本文化紹介ニ関スル研究調査」を、事業部は「日本語普及並ニ日本 文化ノ研究紹介ニ必要ナル事業」を、常任委員会は華日研の活動の「企画審議立案」をな
さらに注目すべきは、同号記載の「華北日本語教育研究所細則草案」において、華日研 の所員規定が、以下のように改められていることである45。
一、日本語及日本語教育ニ関シ学識経験アル者ニシテ現ニ華北ニ於テ日本語普及ニ従 事セル日華両国人
二、日本語文化ニ関シ深キ学識或ハ理解アル中国人ニシテ、現ニ華北ニ居住セルモノ 三、現ニ華北ニ於テ日本語又ハ日本語教育或ハ日本文化ニ関スル事業ヲ行ヘル団体ノ
代表者
すなわち、「現ニ華北ニ於テ日本語普及ニ従事セル」中国人、あるいは「日本語文化ニ 関シ深キ学識或ハ理解アル中国人ニシテ、現ニ華北ニ居住セルモノ」も、華日研のメンバ ーとして包括されることになったのである。
そして主要メンバーの顔ぶれにも変化があった。所長には王玉泉(北京中央日本語学院 教授)46が就任し、常任委員会委員長に張我軍(国立北京大学文学院教授)、陳松齢(教育 総署編審会)と2名の中国人が加わった47。以上から、華日研が、脱日本主導化の方向に 転換し、中国系教員を包含する形で機構が改められたことがわかる。
さらにこの機構改革により、地方支部も設置されることになった。そして毎年1回総会 と協議会を開催し、地方との連絡が図られることとなった48。興亜院時代には、日本語教 育をめぐる軍特務機関との複雑な関係が存在し、華日研が各地方までに政策を及ぼす手段 が限られていた。しかし「新政策」によってこの問題が解消され、華日研は、地方の日本 語教育をもその管下に置いたのである。
そして 1943年7月には、母語を介さず日本語によって教授する直接法の権威山口喜一 郎が新民学院を退職し、華北の日本語教育界から去った49。華北の日本語教育界が、日本 人によって主導されており、華日研が日本人の日本語教員だけを対象にしているうちは、
直接法は大きな力を持ち、対立する間接法との間で激しい論争を巻き起していた。しかし 政策の転換とそれに伴う中国系教員の包含は、直接法の敗退を必然化させたのである。
そして同じころ、華北の日本人教員のなかの「政治型」の典型、工藤哲四郎50が華日研 入りする。1943年9月に中央日本語学院に赴任し、その「手腕力量」を買われた彼は、華 北研の「万端の世話役」を兼ねることになった。そして同研究所の運営は、実質西田調査