第3章 教育をめぐる相克――支配当局と第三国系高等教育機関との関係を軸と して
第1節 事変直後の状況
最初に、事変前の概況を確認する。アヘン戦争以後、中国には欧米諸国のキリスト教各 会派が流入した。特に19世紀以降、カトリックに遅れて進出したプロテスタント各派は、
社会事業・医療・教育活動を通じ布教に努めた。同派は特に高等教育機関の設置を重視し、
近代的な教育サービスを提供することでエリート層と接点をもち、影響力を拡大した。20 世紀に入ると、米国の教育文化方面での積極的な進出が、在華キリスト教系学校の更なる 発展を促した8。これら学校は不平等条約による特権的地位、近代的な教育内容や設備、
堅実な就職先等により人気を集めるが、五四運動以後、反帝国主義運動が高まると教育権 回復運動の攻撃目標になり、時の北京・広東政府からも、経営・人事面で「中国化」強要
等の統制を受けた。ところが蔣介石国民政府下で1931年に満洲事変が起こると、日本との 対抗上英米との関係が強まり、政府はキリスト教系学校(ミッションスクール)への規制 を緩和し、両者の関係は好転する。かくてキリスト教系諸学校は、1930年代に再び勢力を 盛り返していた9。
このように事変前のキリスト教系高等教育機関は、民族独立という観点からは克服すべ き対象であると同時に、当局の統制や政局の影響を受けず近代的な教育サービスを享受で きる場として社会的地位を確立していた。大塚豊によれば、満洲事変で占領された東北地 方にはミッション系大学は皆無に近かったので、日本は事変後はじめて、これら学校への 本格的対応を迫られることになる10。
さて事変勃発当初、高等教育機関を含むキリスト教系学校を、日本側がどのように認識 していたかを、外務省と第三国間のやり取りを通じ確認しておきたい。
1937年7月19日、河北省唐山市で、英メゾジスト系の「『ミッション』家屋」に対する 日本軍の無断占拠事件が起った。これに対し在天津英国総領事から在天津総領事堀内干城 に抗議がなされた。そこで堀内は、現地軍と「話合」の結果、「若シ『ミッション』自体 ノ(単ニ教会ノ所有スル家屋ニ非ストノ意)敷地内ニ立入ノ事実アラハ速ニ撤退セシムヘ................
キ.
旨」公文で回答している。さらに英国総領事から「『ミッション』ノ家屋」は何を指す のかとの問合せに対し、堀内は「学校及附属住宅」と回答した11。
次に日本外務省が1937年9月29日、在北京英・米・仏等各国大・公使館宛に出した口上 書を見てみよう12。これは、日本軍の空爆によって第三国人財産が被害を受けることを防 ぐために出されたものである。この口上書は「帝国ハ支那ニ於ケル軍事的機関及施設ノ攻 撃ニ当リ能フ限リ被害ノ第三国人財産ニ及ハサランコトヲ期シ居ル」ので、各国に自国の
「所有ニ属スル病院、教会、及学校等ノ文化的施設................
ノ成ルヘク詳細ナル所在表」を提出す るよう求めている。
以上から、少なくとも外務省筋において、学校を含む第三国所有のミッション系施設は、
日本軍による侵犯が許されない/交戦に伴う損害を回避すべき領域と認識され、その前提 のもと現地軍との調整が行われていたことがわかる。それゆえ事変下のこうした施設は、
支配権力からの避難所としての価値を再浮上させるのである。
国民政府下大学が集中していた北京では、1937年7月末に成立した北京地方維持会13が、
まず公私立各大学を接収した。このうち私立大学に対しては、敵国財産でない以上、いつ
の国立大学は、第1章で既述のように、臨時政府成立後、政府直轄北京大学の各学院とし て再編された)。
北京地方維持会下の中国人大学生・教員の様子については、在北京米国総領事による観 察がある。ここでは、日本軍の進撃による交通線の分断と家族の経済的損失が原因で学業 資金が不足し、登校できなくなった学生が発生、その多くが奉仕活動や抗日活動に加わる 様子が伝えられている15。教員に関しては、教育の自由が奪われ、中国人によるいかなる 形態の教育機関の設立も妨害されるため、その多くが大学と共に「南下」したこと、占領 地に残った教員も、反日・共産主義者だという日本軍の猜疑により、危険に晒されている 状況が述べられている。
占領地に大学を復活させることには日本側からも反対意見がみられた16。しかし結局官 立の高等教育機関が設置された背景には、これらエリート層の収容先を設けない限り、彼 らが第三国系をはじめとする私立大学に流れてしまう状況があったのである。
ここで事変前後の高等教育機関の状況を確認しておくと、事変前の華北には高等教育機 関として、大学が14校、独立学院が12校、専科学校が11校の計37校存在した。一方事変後
1939年の調査では、大学3校、独立学院5校、専科学校6校の計14校になっている17。こ
のうち第三国系のものは、大学では燕京大学(プロテスタント、米系、以下燕大とする)・
輔仁大学(カトリック、独・米系、以下輔大とする)、独立学院では協和医学院(米財団 法人)、天津工商学院(カトリック、仏人学長)の計4校である。臨時政府教育部は1938 年4月に訓令を公布し「外国人経営ノ学校ハ宜ク切実ニ監督指導シ務メテ新政府教育方針 ニ順応セシムヘシ」18と規定、これらの学校に対し監督権を行使した。
先の日本領事館の対応に見られるように、9ヵ国条約の枠内で処理しようとすれば、第 三国系学校は不可侵の領域のはずだった。しかし実際には、軍によってかなりの圧迫が加 えられていたことが確認される。例えば1937年12月末より1ヶ月現地軍の要請を受けて華 北を視察し、文教方面を担当する将校と面談した政治学者の矢部貞治は、帰国後以下のよ うに記している19。
成田少佐の話、空っぽの兵隊式で実に愚劣。…政治思想も三民主義、共産主義を排斥 し、文化思想も日本伝統のそれを吹き込み、成るべく早く総合大学を作って外国系大 学に対抗し、行くヘは権力を以てでも外国系大学を退却せしめるつもりだと言ふ
ここには中央や外務省筋の国際情勢への「配慮」が、現場では容易に貫徹せず、現地軍 将校が強硬な姿勢で彼らと対峙していた状況が看取されよう。
こうした日本側の規制や圧迫に拘らず、後述するように、第三国系高等教育機関は多く の学生を集めた。支配者側とこれら機関の間の相克とは、1つは、他国の権益をいかに占 領下の秩序に服従させるかという相克であり、いま1つは、エリート青年層をいかに獲得 するかというヘゲモニー争いであったと言うことができる。さらに留意すべきは、占領下 の治安の安定にとって脅威であっても、背後にどの国との関係が横たわっているかによっ て、支配当局側の対応が異なったことである。
以下これらの点に留意しつつ、第三国系教育機関と占領当局の相克が、華北占領地でい かなる展開をみせたかを見ていきたい。