第4章 北支那方面軍による「渉外関係」業務の展開 はじめに
第3節 『月報』に見る「渉外関係」業務の展開
参謀部第4課は、『月報』を作成しており、これによって、その業務内容を断片的にで はあるが掴むことができる。本章ではこの『月報』を手がかりに、参謀部第4課による渉 外関係の実態を明らかにし、その意味を考察したい。
1.『月報』について
まずここでは、『月報』について、配布先や構成等、基本的な事項を確認する。
まず配布部数は1939年8月号では65部で、1939年11月号以降は75部となっている。
配布先は時期により多少変わるが、陸軍中央(次長、次官)、総軍(支那派遣軍)、駐蒙軍、
第一軍、第十二軍、軍司令部内の各部課、直轄師団、各地の特務機関等であった。
なお、筆者が把握している『月報』の発行年月と所蔵先は【表4-1】の通りである。
『月報』の基本的な構成は、「政務関係事項」「渉外関係事項」「交通関係事項」「産業経 済関係事項」の4章構成となっている。これによって参謀部第4課が所掌する業務の具体 的内容がわかり、興亜院の現地機関(華北連絡部)が成立したにもかかわらず、同課があ らゆる政務を処理していたことを改めて確認することができる。
さて『月報』における「政務」「渉外」「交通」「産業経済」それぞれの項目の全体に占め る比率の変化は【表4-2】のようになっている。本章で扱う「渉外」の比率は、1941 年半ばくらいから全体の10~20%ほどに落ち着くものの、それまでは全体の40~50%位 の間を占めることもあり、業務全体のなかでそれなりの比重をもっていたことが確認され よう。
なお「渉外」で扱われる関係国別の件数とその経年変化を示したものが【表4-3】で ある。ここではアメリカに関係する案件が突出し、ついで英仏に関連するものが多いこと が確認される。時間の経過による変化については、本文中にて言及することになろう。
以上『月報』の基本的な状況をおさえたうえで、以下内容について見ていきたい。
2.英仏への圧迫と対米慎重――1939年
①対英仏関係
1939年の英仏関係の記事は、租界封鎖中のためこれに関連する記事、また反英運動・排 外運動に関する記事などが確認される。また両国に対する記事で注目すべきは、検問・検 束に関する記事が散見されることである。
例えば1939年8月号では、⑴「徐州英国人宣教師検束ノ件」(英)、⑵「河間仏国教会
の記事では、徐州の英国教会の牧師等が「布教ノ美名ニ隠レ援蔣抗日ノ策動ヲナシツツア ル」ということで、カナダ人及び中国人 10 数名を検束している。⑵では、教会の神父が
「夜間礼拝堂楼上ヨリ灯火ヲ以テ城内ノ日本軍情ヲ城外ノ敵匪ニ報スル等通敵ノ事実アリ」
という理由で検束されている。⑶は西安在住の英国人がデンマーク人の女性と移動中、開 封で日本軍憲兵の検問を受け、女性が脱衣のうえ粗暴な扱いを受けたという案件である。
これはイギリス側から抗議があり、北支軍は関係部隊を取調中であることを伝えている。
さらに1939年11月号には、「在北京仏国系教会藍衣社抗日分子検索問題」という記事 がある。これは北京の交民巷(各国の大・公使館が集中するエリア、中国人の居住が禁じ られ、租界のように外国人が行政権を行使した42)のフランス系教会で、「抗日分子容疑者 ヲ隠匿シアルヲ探知」し、仏側に容疑者の憲兵隊への引き渡しを求めたものである。最終 的には北支軍が日本大使館と共同し、容疑者の憲兵隊への引き渡しを果たした。同記事で はこうした前例が、今後の「対交民巷工作」を有利にするだろうとの見通しが述べられて いる。
以上の数例から見ても、総じて対英仏関係機関に対しては、日本側の強硬な姿勢が確認 されよう。この時期実力行使によって抗日・通敵への手入れが行われていたことは、反英 運動や租界封鎖と連動し、日本側が構築する秩序に英仏関係機関を従属させようという動 きであることが推測される。
こうした強気な姿勢の背景には、緊迫する欧州情勢が反映していた。1939年9月第2次 世界大戦が勃発後、『月報』同年11月号は、英仏の天津駐屯軍の主力が本国の命により撤 退したことを伝えている(「北支駐屯英仏軍撤退問題」)。しかしこの機に乗じた英仏人及び その権益への圧迫の集積が、アメリカの東アジアへの関与を具体化させていくことは、前 章で既に述べた通りである。
②対米関係
ではこの時期突出して多かった対米案件の内容はいかなるものであったのだろうか。こ の時期の『月報』で確認されるのは、⑴爆撃による損害⑵財産への侵入・侵害⑶個人への 暴力・検束など⑷学校の統制などである。以下具体的に見ていきたい。
⑴(爆撃による損害)の事例には、「河南省確山所在米国信義会附属病院再度爆撃ノ件」
「山東省萊州米国教会及河南省南陽諾威教会ノ爆撃被害ニ関スル件」(いずれも 1939 年 10月号)がある。いずれも米国大使館が日本大使館へ抗議した案件で、当該地の教会が日
関係ないと応酬している。
次に⑵(財産への侵入・侵害)の事例としては、「河北省通州所在米国教会学校運動場 日本軍使用ニ関シ米国大使館ヨリ申出ノ件」(1939年10月号)「河北省通州所在米国教会 学校運動場日本軍使用ニ関スル問題」(同年11月号)がある。これは同教会学校運動場を 日本軍が不当に教練場に使用したという案件である。そのほか、「日本兵北京市内米人牧師 宅侵入問題」(1939年11月号)、「山東省萊州米国教会へ日本軍侵入問題」(1939年11月 号)、「河南省羅王所在米国石油会社財産占拠問題」(1939年12月号)などが確認される。
⑶(個人への暴力・検束など)の事例は、「米国人宣教師ノ被殴打事件」(1939年8月号)
がある。これは日本軍の検問を無視したアメリカ人宣教師に対する暴力事件である。また
「徐州米国教会幹部検束ノ件」(1939年8月号)「徐州カトリック教会ニ於ケル米人検索ノ 件」(1939年10 月号)は、同教会が教徒を主体として「抗日工作ニ努メアリタル事実ヲ 探知セル」という理由により、幹部一同を検束したものである。これに対しては、「教会側 ヨリ誠意ヲ示シ釈放方嘆願シ一同モ前非ヲ悔ヒ改悛ノ情顕著ナリシ為」、誓約書を書かせて 同年7月15日に釈放した。この他、「軍自動車運転手ノ米国陸軍武官夫人自動車運転手ニ 対スル非礼云々問題」(1939 年12 月号)という、日本軍による暴言が引き起こした案件 もあった。
最後に⑷(学校の統制)に関する事例を見てみたい。「河南省開封静宜女子中学校ニ関 シ米国大使館ヨリ申出ノ件」(1939年10月号)、及び「河南省開封静宜女子中学校閉〔開〕
校問題」(同年11月号)がこの件を伝えている。これは同学校が河南省政府から閉鎖を命 じられ、「伝道学校ハ日本人顧問ヲ招聘スヘク又更ニ保証金ヲ供託スヘシ等」の要求を受け たという案件であった。日本側と学校の折衝の結果、同学校は同年 10 月から日本人教員 を採用することを決めて開校を許可され、日本語教育を開始した。第2・3章で確認した 日本人教員派遣による各学校への「内面指導」が、地方の第三国系学校でも展開していた ことが、この事例からも窺うことができよう。
以上見てきたように、アメリカ系機関との間には、様々な形態の摩擦が発生した。いか に外交上は対米慎重が貫かれたとはいえ、現場レベルで容易に貫徹していない状況がここ に表れている。このように各地で頻発するトラブルに対しては、北支軍上層部は「現地解 決」に躍起になった。例えば先に紹介した「日本兵北京市内米人牧師宅侵入問題」(1939 年11月号)に対しては慰藉料を支払っている。また、「河北省通州所在米国教会学校運動
誤解ヲ生スル地域ニ許可ナク立入ラサル様」現地部隊を指導すると、アメリカ大使館に応 酬している(「河北省通州所在米国教会学校運動場日本軍使用ニ関スル問題」、同年 11 月 号)。「軍自動車運転手ノ米国陸軍武官夫人自動車運転手ニ対スル非礼云々問題」(1939年 12月号)に対しても、同様に「今後斯ル事件ヲ発生セサル様指導スルト共ニ注意ヲ喚起シ アル」と応酬している。
さらに1939年11月19日、北支軍は隷下一般に以下のような通牒を出すに至った(「対 米問題現地処理ニ関スル問題」、同年11月号)。
在北京米国大使館当局ハ北支在住米人及米系教会ニ対シ日本軍トノ間ニ問題ヲ生起セ ル場合ニハ細大トナク直チニ報告スル様指令シアルガ如シ、察スルニ些細ナル問題ヲ 外交問題トシテ取上ケ或ハ針小棒大ニ抗議シ或ハ本国ニ於ケル反日的世論指導ノ具ニ 供シ以テ北支ニ於ケル米国権益ノ擁護ヲ企画シアルモノノ如シ、是ヲ従来米国側ノ抗 議本国宛電報、諸問題ニ関スル交渉経緯等ニ徴スルモ其ノ傾向顕著ナルモノアリ 就テハ対米問題ノ処理ニ当リテハ特ニ右ノ企図ニ対スル為報告ヲ迅速ナラシムルト共 ニ、勉メテ局地的解決ヲ図リ米本国ニ於ケル対日世論ヲ好転セシムル如ク着意セラレ 度
以上から同軍にとって、対米案件がいかに慎重を要すべきものであったかが明確になろ う。さらにここには、日本軍とのトラブルを国際問題化し世論に影響を与え、日本側の不 当性を訴えようとする第三国系機関と、「現地解決」という形で局地問題にとどめようとす る日本側との対立構図がはっきりと表れている。第三国権益の処理問題は、単なる身体・
財産への侵害や治安問題にとどまらず、外交問題への回路を持つ重要事項だったといえる。
③対枢軸国
続いて、対枢軸国の案件について見ていきたい。
まず「尉氏伊太利教会爆撃ノ件」(1939年8月号)であるが、これは同年7月中旬の夏 季攻勢の際、尉氏所在のイタリア系教会が巻き添えになった件である。これに対しては、
「真ニ止ムヲ得サル当時ノ実情ヲ伊太利側ニ通報セリ」という処理であった。交戦行動に 伴う第三国被害に対しては、枢軸国側のものとはいえ、容易に賠償に応じていないことが わかる。