第3章 教育をめぐる相克――支配当局と第三国系高等教育機関との関係を軸と して
第2節 占領下秩序への服従/抵抗をめぐる攻防 1.教員派遣問題
ここには中央や外務省筋の国際情勢への「配慮」が、現場では容易に貫徹せず、現地軍 将校が強硬な姿勢で彼らと対峙していた状況が看取されよう。
こうした日本側の規制や圧迫に拘らず、後述するように、第三国系高等教育機関は多く の学生を集めた。支配者側とこれら機関の間の相克とは、1つは、他国の権益をいかに占 領下の秩序に服従させるかという相克であり、いま1つは、エリート青年層をいかに獲得 するかというヘゲモニー争いであったと言うことができる。さらに留意すべきは、占領下 の治安の安定にとって脅威であっても、背後にどの国との関係が横たわっているかによっ て、支配当局側の対応が異なったことである。
以下これらの点に留意しつつ、第三国系教育機関と占領当局の相克が、華北占領地でい かなる展開をみせたかを見ていきたい。
第2節 占領下秩序への服従/抵抗をめぐる攻防
2.行事への参加動員問題
1938年夏、事変勃発1周年を記念して、新民会主催の「剿共滅党週間運動」(「剿共滅 党」は共産党を討伐し国民党を滅ぼすの意)が実施されることになった。北支軍参謀長岡 部直三郎が同年6月17日、陸軍次官・次長宛に発した電信によれば、現地ではこの運動に、
第三国系学校を参加させる計画が立てられた24。そこで関係国大使館及び各学校と折衝し たところ、燕大は受諾した。しかし輔大(独系)と中法大学(仏系)は、共産主義や反日・
反政府の取締りには応じるものの、新民会員の構内立入に対し、輔大は難色、中法大は「絶 対拒絶」という態度を示した。そこで岡部は、輔大に対しては、対独協調関係を考慮して 追及しないが、中法大に対しては、「先方カ折レサル限リ逐次圧迫ヲ加ヘテ授業継続ヲ不 可能ニ陥ラシムヘク已ムヲ得サレハ閉校命令ヲ発セシムル予定」と、強硬な態度で応じた
(その後中法大は、閉鎖に追い込まれている25)。
上の電信で岡部は「第三国関係ノ文化事業カ古キ伝統ト歴史トヲ有シ、其ノ財産カ条約 上アルモノハ不可侵ナルモノアル点ヨリ先方ノ主張ヲ理解シ得サルニアラサルモ、逐次矯 正シテ日本及臨時政府統制下ニ入ラシムヘキ」と述べ、大枠ではこれら学校全てを占領下 の秩序に従わせる考えを示した。しかし実際には国と国との外交関係を考慮して個別の対 応をせざるを得なかった。
ここで輔大について補足すると、経営する神言会(カトリック系)の活動拠点がドイツ とアメリカにあり、学長は著名な歴史学者の陳垣が務めていた。教務長レーマンをはじめ 複数の独人スタッフがおり、日本人との交渉は彼らが担当した。同大は、徐州陥落時(1938 年5月)に政府から命令された日本国旗の掲揚を拒否したり、学生・教員が抗日の嫌疑で 度々憲兵隊に連行されるなど、必ずしも日本に協力的ではなかった26。そこでドイツとの 関係を前面に押し出すことで、統制を強める日本官憲と対峙していくのである。
3.教員招聘問題の長期化
上述の行事問題が紛糾していた1938年5月、燕京輔仁両大学と、日本大使館との間に「適 当ノ時機ニ日本人教授ヲ招聘」するとの協約が成立した27。これを受け同年秋、輔大は日 本語の講座開設と日本人教授の受け入れを実行した。一方燕大は、スチュアートの粘り強 い抵抗により、一向に日本人教員の受け入れを実行しなかった。
交渉に当たった日本大使館は、教員を送り込む根拠として、同大で反日運動が行われて いるとの情報を提示した。これを否定するスチュアートに対し、大使館側は、日本人教員
を雇って真偽を確認させれば疑いも晴れ、運動の発生も予防できると応酬する。対するス チュアートは、教員の招聘時期の決定や選考は、自ら行いたいと主張、学界の最高権威を 招聘すべく選考に時間をかけたいと返答した28。こうした「遅延策」に日本側が有効な手 を打てなかったのは、宣戦問題で述べた通り、重要な戦略物資を米国に依存していたため、
同大への対応には慎重にならざるを得なかったからである。
1938年10月、日本大使館が学界の最高権威よりも「容易ニ求メ得ヘキ」ものとして、日 本語教師の招聘を提案すると、スチュアートは一旦受諾した。しかしその後学内の反対を 理由に言を翻した。すると「対米関係ヲモ考慮シ右運動ニ対スル弾圧的処置ハ出来得ル限 リ穏健ヲ期」していた北支軍もついに痺れを切らし、反日の疑いのある学生の取締りを実 行した29。こうした経緯を経て、翌1939年秋考古学の世界的権威である鳥居龍蔵が燕大教 授に就任し、漸くこの問題は収拾した30。
4.キリスト系教育機関の抵抗の諸相
上の問題が長期化するなか、1939年3月に北支軍憲兵隊が作成した史料では、抗日教育 を行う学校のなかに第三国系高等教育機関を含め、以下のように評価している31。
燕京大学:常ニ反新政府ノ態度ヲ採リ、学生モ又拝欧抗日主義者多ク秘密裡ニ各種ノ 策動ヲナス疑ヒアリ
輔仁大学:表面臨時政府支持親日的態度ヲ宣明シアルモ裏面ニ於テ私立外国系学校ト 連絡抗日策動ヲナス疑アリ
天津工商学院:抗日運動盛ニシテ仏国系ヲ楯トシ市当局ノ命ニ従ハス依然抗日新政府 反対態度ヲ持シアリ
ここから北支軍が、第三国系の高等教育機関を、抗日的=占領地秩序を脅かす存在とし て、いかに警戒していたが看取できる。それゆえ監督のためのパイプ役として日本人を送 り込むことに躍起になったのである。以下彼これら機関が治安を乱すとされた理由を、も う少し具体的事例に即して見てゆこう。
直接/積極的な行動としては、大学による学生の「南下」(重慶国民政府の支配地域に 入ること)の支援が挙げられる。これを裏付けることとして、輔大では1938年8月、「南 下」する学生を送り出した訓育主任が日本憲兵隊に逮捕され1ヶ月間拘留され、また教務
員だった侯仁之の回想によると、1940年夏頃同校で「学生生活輔導委員会」が組織され、
スチュアートは同組織に対し、抗日活動に参加する学生が占領地を離れるために援助を求 めてきた際に支援する任務を与えたとしている33。
さらに従来関係が悪かったプロテスタント系の燕大と、カトリック系の輔大が、日本の 支配に対抗するために結束を強めた、という報告がなされている34。たとえ抵抗としては 消極的でも、このような結託は日本側にとって望ましいものでは無かったと考えられる。
このような占領秩序を脅かす行為は、高等教育機関に限ったことではなく、第三国系宗 教団体全般に確認され、支配側の警戒を招いた。例えば興亜院の調査報告書によれば、1939 年11月、日本側憲兵隊が河北省の保定アメリカ系公理会に無線機を据えつけたところ「敵 側」と連絡を取っていたことが発覚した事例、1940年9月に山西省の澤州でイギリス人宣 教師が中心となり抗日団体を組織し活動していた事例、山西省平定においてアメリカ人友 愛会教会内に抗日団体が組織され中国側との連絡・抗日教育等を行っている事例などが挙 げられている35。
また次のような方法で、臨時政府の統制を免れ、非協力を保とうとする事例もあった。
山西省の米国人経営の汾州基督公理会宗教研究班は、日中戦争以前は、銘義中学校という 名称で、事変勃発後は経営を一旦停止している。しかしその後「宗教研究班」という名で 復活した。この機関は実質中学校に相当したが、あえて名称を中学校としないことで臨時 政府の統制を回避しようとした。省政府は、当該機関を所有する汾陽公理会に対し認可申 請を要求したが、「中学校に非ずとか、或は北京本部の意向を伺はずしては汾陽公理会自 身には之を改組する権無し」との理由で拒否される。汾陽公理会は同様に小学校に相当す る「宗教訓練班」を設置、県が汾陽県内の各校に歌うことを強要した東亜行進曲を禁止し たり、臨時政府側の行事に参加しないなどして抵抗した36。
5.第三国系高等教育機関の吸引力
ここで華北占領地における第三国系高等教育機関をめぐる状況を、数値によって確認し たい。【表3-3】は、1939~1941年度の華北占領地における高等教育機関の学生数・職 員数・総経費の推移を示したものである。基になった統計は、華北政務委員会教育総署に よる各年度下学期(2~7月)37の調査によるものである。
まず教職員数から見ていくと、各年度とも官立学校の合計が第三国系私立学校のそれを 大きく上回っていることがわかる。次に全年度経費を見ると、官立学校が年々数値を上昇