第5章 アジア太平洋戦争期の日本人教員派遣と華北日本語教育界の変容 はじめに
第2節 「新政策」下の日本人教員
本兵による放火・略奪・強盗・暴行・殺人等であろう。こうした前線での行為のみならず、
現地の在留邦人が引き起こす摩擦も、「聖戦」「東亜新秩序」イデオロギーを脅かすものと して問題化していた。このことは、吉見義明が既に言及しているが20、ここでは、実際ど のような行為が問題と認識されていたかを具体的に見たうえで、これが在留邦人への統制 へとつながっていく過程を示したい。
比較的有名な事例は、戦争の混乱に乗じて乱暴な商行為を行ういわゆる「一旗組」であ る。1940年5月に、現地軍側の観察を基に大本営陸軍部研究班で作成された報告書でも、
日本軍の名義を語ったり、物資の欠乏に乗じて買占めを行ったりして、商品に不当な高値 をつけて暴利を貪る者、同業者を出し抜いて前線に進出するために軍需輸送中に便乗を願 い出る者、中国人に対して「取レルダケ取ル」といった態度をとる者などの例が述べられ ている21。悪名高い一旗組は、それまでの対外戦争でもつきものであったが、日中戦争も 例外ではなかった。
さらに上の史料では、⑴日系官吏や国策会社の会社員、⑵慰問団や視察団、⑶一般人に も批判の矛先が向けられている。⑴の事例としては、職権を乱用した詐欺・脅迫・横領や、
官庁用自動車を乗りまわしての遊興などが、⑵に関しては、治安の比較的良好な都市だけ を廻っての表面的な観察・軍機密の漏洩・戦場の悲惨の強調・物見遊山的態度などが指摘 されている。また⑶に関しては、治安回復に伴う日本軍への敬意の希薄化、中国人に対す る暴言・暴行、出稼ぎ感覚から生じる「旅ノ恥ハ掻キ捨テ」的行動、日本人同士の不要な 反目などが挙げられる。こうした日本人の行動に対し、この報告書では、「聖戦ノ本質ニ対 スル認識ノ欠如」に基づく「極端ナル利己的守銭奴的観念」、「誤レル優越感」による中国 人への蔑視感から生じる言動であると位置付け、「国策遂行ヲ妨害」するものとして、危機 感が表明されている22。
こうした日本人の振る舞いが問題化するにつれ、現地側としては、「聖戦」を正しく理 解し、「東亜新秩序」を担うだけの人格を備えた人材の進出を、本国に求めるようになる。
こうした情勢を背景に、本国日本の教育の改善、及び流入する人材の再教育が課題となっ ていく。事変の長期化・総力戦化に伴い、戦争遂行の一翼を担うようになった文部省は、
1939年頃盛んに「興亜教育」を唱え、占領地経営を担う人材育成のため、制度の改編を進 めた23。一方成人の再教育の必要性は、進出する人材に対する「錬成」となって具現する。
以下、この錬成が制度化する契機を簡単に述べておく。
占領地に渡る日本人の制限に関する閣議決定(「渡支邦人暫定処理ニ関スル件」)がなされ、
渡航できる目的が「慰問」「家事用務」「商取引」「定住又ハ現地勤務」「其ノ他ノ者ニシテ 真ニ已ムヲ得ザル事情アリト認メラルルモノ」と大幅に制限された24。次いで同年11月の 興亜院会議で「対支日本人錬成要領」が決定され、これをうけて翌1941年4月、「支那ニ 於ケル政治、経済、又ハ文化ニ関スル業務ニ従事スル者ニ対シ必要ナル錬成ヲ施ス」ため、
興亜錬成所が設立された。入所生は現地諸機関に1年以上勤務する職員のうち、⑴官吏で あれば高等官に任官直後、もしくは任官直前の者⑵それ以外であればこれに準ずる者に対 し、13ヶ月の錬成が実施されることになった25。
そして主要都市の各教育機関に派遣された日本人教員に対しても、1940年9月から約1 ヶ月間の「支那派遣教員錬成」がスタートする。この「錬成」の内容が、語学教師として よりも、体力や情熱の養成に重きが置かれていたことは本稿第2章で述べた通りだが、「指 導」民族としての使命感の摺込みが何ゆえに当局によって重要視されたかは、現地からの 既述のような圧力抜きには理解できないように考えられる。こうして中国占領地に渡った 日本人教員にはさらに現地錬成が待ち構えていた。
当局が上述のコストを払ってまで、占領地に渡る日本人の再教育を重視したのは、内地 の弛緩した気分が占領地に持ち込まれるのを防ぎ、派遣先での厳しいまなざしのなかで、
「指導」する立場に堪え得るだけの心構えをもたせる必要があったのである。
ではこうした日本側がうち出した「指導者」としての日本人像は、アジア太平洋戦争勃 発後においていかなる変容を見せたのだろうか。このことを確認するため、1942 年9月 30日、新情勢を受けて興亜院が作成した「支那建設基本方策」26を参照したい。この史料 は、先行研究において、開戦後予想以上の戦果があがり、「『大東亜共栄圏』建設の蜃気楼」
が見えはじめた段階の史料として紹介されている27。それを前提に中国に進出する日本人 に関する内容を見ていくと、「大東亜共栄圏」建設の中心的担い手として、より大上段に構 えた「指導者」像が強調されたうえで、「指導上着意スヘキ事項」として、以下のように述 べられる。
…支那人ニ日支提携協力ヘノ気運ヲ醞醸セシメンカ為ニハ、結局皇国民対支那人ノ個 人的感化指導ニ俟ツヘキモノ甚大ナルモノアリ、皇国民ハ皇道宣布ノ大使命ヲ自覚シ、
自戒錬成、常ニ先進国民タルノ襟度ヲ保持シツツ、後進ノ兄弟国ニ対スル同情ト理解
このように、アジア太平洋戦争の戦況が悪化しないうちは、「指導者」としての邦人の 位置付けに変化はなく、むしろこれが強固になっていたということができる。
2.「新政策」後の在留邦人と日本人教員
ところが「新政策」の実行は、これまでの日本と中国占領地の「指導/被指導」という 構図の転換を図ろうとするものであり、従来特権的立場にあった在留邦人の立場を揺るが した。例えば1943年7月の大東亜省支那事務局による報告は、「新政策」実施後の在留邦 人の状況を、以下のように述べている28。
当初在支邦人中ニハ新方針実施ノ予想外ニ急速ナリシ為、或ハ永年幸苦ノ結果モ放棄 スルノ已ムナキニ至ルニ非サルヤ等ノ危惧ノ念ヲ抱キタルモノモ存シタル如キモ其ノ 後我出先官憲ノ適切ナル指導ニ依リ帝国政府ノ真意モ漸次徹底スルニ至リ、今日ニ於 テハ一般ニ政府ノ施策ニ信頼シ従来ノ特権的立場ヲ棄テ真ニ中国側ト提携シ其ノ足ラ サル所ヲ補ヒ所要ノ助力ヲ与フルコトコソ在留邦人ノ責務ナルコトヲ自覚シ着々其ノ 方向ニ向ヒツツアルハ政府トシテモ欣快ニ堪ヘサル所ナリ、然レトモ新政策ノ実施カ 種々ノ点ニ於テ在支邦人ノ活動ニ相当ノ影響ヲ与フヘキハ否ムヘカラサル事実ニシテ 此ノ点ニ関シテハ政府トシテモ万全ノ策ヲ講シ遺憾ナキヲ期スル要アルコトヲ痛感ス ル次第ナリ
ここでは、「新政策」が打ち出された後に在留邦人間に動揺が走ったこと、そして現在 では「特権的立場」を捨て「足ラサル所ヲ補ヒ所要ノ助力ヲ与フル」ことが日本人の責務 であると述べられている。多分に手前味噌的な内容で、この報告が実態を反映していると は考えにくい。しかし言説のうえでは、「指導」するという名目で日本人が享受してきた特 権的立場は、中国側に「助力」を与える立場へと、転換が図られたことがわかる。
同様にこの時期、日本人教員の立場も、言説のうえで転換が図られたことが確認できる。
例えば、華北日本語教育研究所(詳しくは後述)常任委員として、華北の日本語界の指導 的立場にあった国府種武は以下のように語っている29。
一月九日中国の参戦を見て以来、日華の関係は更に新しい段階に入るに至つた。そし
の工作に於て、出来るだけ中国側の責任と創意とを重んじるやうになった。之が所謂 新方針の根本である。政治、経済、文化の各方面に於て、今迄のやり方は漸次改めら れ、新方針に基づいて七月までに調整が成就されるといふことである。此時に当り日 本語教授の部面ではいかなる調整が為さるべきだらろうか。之は中国側の自発的態度 に出づるのに委ねる形の様である
「今迄は細かいことまで何くれと世話を焼く」という表現には、日本側が設定した「指 導/被指導」という関係が透けて見えよう。こうした上下関係を建前上払拭し、現地政権 側の自主性に委ねるというのが「新政策」の趣旨であり、日本人教員に関しても、従来の
「指導」的立場が動揺しはじめるのである。
3.顧問制度の再編
顧問制度の面でも、顧問約定が廃止され、新たな取り決めがなされた。まず 1943 年6 月 12 日に「華北政務委員会ノ日本人顧問職員ニ関スル調整方針」が確定し、華北政務委 員会に派遣する日本人顧問の方針が決定した30。
華北政務委員会ノ日本人顧問職員ニ関スル調整方針
昭和一八年 五、三〇現地案 同 六、一二本省修正
第一、日華基本条約付属議定書第二条及対支処理根本方針ニ基キ華北政務委員会ノ日 本人顧問職員ノ聘用ニ関シ速ニ調整スルモノトス
之カ為日支新関係調整ニ関スル協議書類秘密諒解事項第六及第八ノ規定中華北ニ 関係アル部分(軍事ニ関スル顧問等ノ関係ヲ除ク)ニ関シ華北政務委員会ニ対シ中 央政府ヨリ左記趣旨ノ内訓ヲ発スルモノトス
記
一、華北政務委員会ハ左ノ日本人顧問職員ヲ聘用スルコトヲ得
(一)華北政務委員会ノ経済技術顧問、自然科学技術顧問、連絡専員
(二)華北政務委員会直属ノ重要経済建設機関ノ専門技術官
(三)省公署及特別市公署ノ自然科学技術顧問
(四)北京、天津、青島ノ各特別市公署警察局ノ職員