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事変後華北占領地をめぐる国際関係 1.現地の外交機関

ドキュメント内 小野 美里 (ページ 113-117)

第4章 北支那方面軍による「渉外関係」業務の展開 はじめに

第2節 事変後華北占領地をめぐる国際関係 1.現地の外交機関

まず臨時政府の外交機構と外交の内容から確認したい。【図4-1】に示した通り、機構 上は行政委員会の直下に外務局が設けられた。しかし臨時政府はどこの国からも承認を得 ていない。そのため、東亜同文会が纏めた『新支那現勢要覧』で、同政府の外交に関する 欄には、「必要と認むる渉外事項に就いては、一方的に活動を開始してゐる」と書かれる状 況だった23。同史料によれば、その具体的な項目は、対外宣言・対日友好宣言・「日支政 治助成協定」・王克敏の赴日・駐日外交辨事処の開設・対満友好意思表明等である。

華北に存在する第三国人やその権益と占領軍の間でトラブルが発生した時、承認を得て いない臨時政府と交渉する国はない。そこで日本の大使館・領事館等の在華公館が窓口と なり、実際は現地軍が処理を決定するという構図になっていた。以下こうした構図に至る 経緯を確認しておく。

北支軍編成以来、参謀長として政務を統括していた岡部直三郎は、占領地に外交官が存 在することで発生する対立・摩擦に不都合を感じるようになっていた。1937年11月には 本国の陸軍次官に対し、外交官の引き上げを要求している24。しかしこれは「軍占拠地方 ノ政務指導ハ純然タル軍政ヲ施行シアラサル現況ニ鑑ミ外交官ヲ引揚ケシムルコトハ適当 ナラサル」として、中央に受け入れられなかった。陸軍次官はむしろその特性を発揮させ て、軍に協力させるよう指示している25

1937年12月、岡部は上京時、陸軍次官と面談、改めて「北支に外交官の独立的存在排 斥」を表明、軍司令官の大使兼任を具申したようである26。岡部が外交官を排除しようと する理由は、外交官が軍司令官と別系統で存在することはいたずらに摩擦を生み、弊害が あるということだった27。ただし「方面軍司令官の指揮下に入りて来るは、不可ならず」

との条件を付けている。

対する外務省の思惑はどのようなものだったか。これについて知ることのできる史料を、

筆者は確認できていない。岡部は、外務省が蔣政権と交渉の余地を残すため、この問題を 持ち出していると観察しているが28、それも一因であろう。いずれにせよ外務省側は占領 下の対外交渉まで軍に明け渡すことには抵抗したようで、軍との交渉を続行、結果として は外交官の引き上げは行われていない。おそらく指揮下に入ることを要求する北支軍に妥 協しつつ、占領下に出先機関を存続させる道を選んだものと思われる。

以上のような構図のもと、現地軍、その管下の外務省出先機関が現地での主なアクター となり、これに本国政府・外務省・陸軍中央の意向が絡みながら、占領地の渉外関係が動 いていくことになった。

2.第三国権益問題をめぐる現地軍の態度

この頃北京大使館参事官として軍との交渉に当たった堀内干城は、当時の雰囲気を以下 のように伝えている29

私が北京に着任したのは十三年の三月であつたが、その頃から北支軍総司令部の若手 参謀連中の間には、打倒米英の気勢が非常に強く台頭して来ていた。この考に基いて、

至るところで英米権益の不必要な圧迫が起り、その中でも最も問題になつたのは、北 支の各地に存在して居る英米その他各国の教会である。これらは伝道のための附帯事 業として、学校、病院等の文化厚生施設を持つて居る。この教会附属の病院に中国軍 の傷病者が収容され、同時にここを根城として、日本軍の後方撹乱をやる特務工作隊 が活動して居るという情報があつて、これが軍の教会弾圧という政策になつて現われ た。

ここでは、第三国との余計な摩擦を避けようとする本国からの働きかけや、9ヵ国条約 の枠内で第三国に対処しようという外務省筋(本稿第3章を参照)の動向もむなしく、現 地の参謀には対英米強硬派がおり、実際に圧迫を加えていた様子が述べられている。

こうした強硬姿勢が発生させたトラブルに対し、北支軍は中央への報告を最小限にとど め、「現地解決」という形でもみ消そうとしていた。こうした姿勢は、1938年2月9日に 同軍が作成した「北支ニ於ケル一般対外関係ニ関スル件」に表れている。この中の「一般 要領」の項には、以下のように述べられている30

現地ニ於ケル第三国人ノ生命財産ノ保護、尊重ニ関シテハ一般ニ徹底スル如ク最初ヨ リ努力シアリ 但シ無条件尊重保護ニ非サルコトハ自明ノ理ナリ

現地ニ発生セル事件ハ現地ニ於テ解決スル如ク努力ス其ノ局地ニ於テ解決シ得サルモ ノハ逐次上級司令部ノ交渉ニ移ス

而シテ某事件ニシテ局地ニ於テ解決シ得ハ同事件ニ関シ上級司令部乃至中央部ニ抗議

この史料で北支軍は、これまで「第三国人ノ生命財産ノ保護、尊重」をしてきたと前置 きしたうえで、無条件にこれを「尊重保護」するわけではないとし、案件によっては何ら かの措置をとるべきことを示唆している。さらにここで強調されているのは、事件の「現 地」「局地」解決である。なるべく問題を上位機関に上げず、自分たちで処理するというの が、同軍の態度であった。

前節で紹介した、中央が出した「軍事行動ニ基ク第三国ニ対スル損害補償ニ関スル件」

(1938年3月)に対しても、北支軍は、これまで自分たちがやってきた「現地解決」は、

同命令が規定する「軍ノ故意又ハ重大ナル過失ニ依リ生シタル損害」に相当するものでは ないから、この命令の範囲外であるとの理屈により、従来通り処理する旨返電している31。 ここではこの問題に関し、中央からの統制を逃れようという北支軍の意図が、はっきりと 表れていよう。中央からすれば「現地解決」は、案件の国際化の回避のために必要な方策 であるが、現地からすれば自ら起こしたトラブルを現地でもみ消すのに都合の良い論理で あったことがわかる。こうした論理が現地軍の独走を条件付けたことを、ここで指摘して おこう。

3.事変長期化への対応

①対外強硬化の加速

1938年7月、北支軍では、参謀長岡部直三郎が離任、代わりに山下奉文が参謀長に就任 した。永井和によれば、山下の就任と同時に武藤章が参謀副長に就任したことによって、

北支軍参謀部は山下―武藤時代を迎え、一層の政治化が進んだという32

さらに対外関係についていえば、岡部時代に既に強硬派が存在、「現地解決」路線が確立 したことは既に述べた通りだが、山下の就任により、外国租界への実力行使、なかでも排 英路線が進行することとなった33

1938年12月から1939年2月にかけて、北支軍により第1次租界封鎖が実施され、1939 年3月に為替管理(法幣の流通禁止)・貿易管理(輸出許可制)の実施が決行されたことは、

「東亜新秩序」の具体化として、英米をはじめとする列国にさらなる対日不信を招いた34。 日本が武漢占領後、事変の長期化を受けて、これまでの外国権益の尊重という建前を大 きく後退させたことは、本稿第3章で既に述べた通りである。従来の「現地解決」路線を 下敷きに、事変の長期化に伴う本国の方向転換、そして強硬派の山下―武藤の就任があい

②軍司令部参謀部第4課の設置

さて本国日本では、1938年12月には対中行政機関として内閣に興亜院が成立し、1939 年3月には現地機関である華北連絡部が成立した。これに伴い特務部が解消し、代わりに 参謀部に第4課が新設されたことは、本稿第1章で既述の通りである。

同課については、特務部の業務を継承し興亜院の業務と競合したことがよく知られてい るが、実態や活動については、これまで明らかにされていない。そこでその概要を確認し ておきたい。

まず軍司令部の構成から確認すると、1939年2月時点で【図4-2】のようになってい る。参謀長、参謀副長の下に参謀部があり、同部は第1課(作戦)、第2課(情報)、第3 課(後方)、第4課(政務)、人事課、報道課から構成された35

参謀部第4課は1938年12月31日の特務部廃止と同時に新設され、参謀副長隷下の特 務班とともに、これまでの特務部の業務を引き継いだ36

参謀部第4課の所掌業務は、政務・経済・渉外・交通関係・庶務であった37。1939年末 から1941年3月まで参謀部第4課長だった有末精三は、「政治・経済に関する軍側の責任 は挙げて参謀部第4課、つまり私のところへ集中しており、治安維持の関係から支那側と の摩擦、財界、興亜院と軍側特務機関との立場の相違など、その間の調節には人知れず苦 労させられた」と回想している38。ここからも同課の所掌範囲の広さが確認されよう。

歴代の課長は、河村参郎(1938年7月~1939年12月)→有末精三(1939年12月~

1941年3月)→幸道貞治(1941年3月~1941年6月)→西村乙嗣(1941年6月~1943 年3月)と推移した39

課員構成は、確認できるものが1941年段階のものになるが、参謀が4名(すべて佐官)、 参謀部附の課員が8名(佐官6名、尉官2名)、軍司令部附の課員が5名(尉官4名、陸軍 教授1名)である40。藤原彰によれば、「特に陸軍学校の卒業成績の優秀な者は、主要なポ ストである参謀本部の作戦部ないしは陸軍省の軍務局の要職に配置され、時に重要な現地 軍の参謀、および隊務経験のため短期間の部隊付との間を配置がえされながら昇進してい くのがつねであった」という41。おそらく参謀部第4課の参謀たちも例にもれず、陸軍の なかのエリートであったことが推定される。

以上簡単ではあるが、事変の長期化という局面をうけて新たに設置された参謀部第4課 につき、概況を確認した。次節以下では、彼らが作成した『月報』に依って、その渉外業

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