首 都 大 学 東 京 博 士 学 位 論 文
日 中 戦 争 期 華 北 占 領 地 に お け る 文 教 政 策 の 展 開
― ― 「 事 変 」 下 占 領 地 の 「 内 面 指 導 」
小 野 美 里
凡 例
1. 史 料 の 引 用 の 際 、旧 字 体 は 新 字 体 に 改 め た 。仮 名 遣 い は 、原 文 の ま ま と す る 。
2. 日 本 が 成 立 さ せ た 「 傀 儡 」 国 家 ・ 現 地 政 権 等 (「 満 洲 国 」「 中 華 民 国 臨 時 政 府 」 等 ) に は 、 本 来 括 弧 を 付 す べ き で あ る が 、 煩 雑 さ を 避 け る た め こ れ を 外 し た 。
3. 「 支 那 」と い う 語 の 使 用 は 本 来 避 け る べ き で あ る が 、固 有 名 詞 及 び 史 料 中 に あ る も の は そ の ま ま 使 用 し た 。
4. 特 別 な 限 定 が な い 限 り 、〔 〕 は 引 用 者 に よ る 注 釈 、 … は 引 用 者 に よ る 省 略 を 示 す 。
5. 引 用 史 料 中 の 傍 線 は 、特 に こ と わ り が な い 限 り 、引 用 者 に よ る も の と す る 。
6. ア ジ ア 歴 史 資 料 セ ン タ ー の 史 料 使 用 時 は 、 そ の 出 典 を
「J A C A R : R e f .( レ フ ァ レ ン ス コ ー ド )」 で 示 す 。
7. 本 稿 で 頻 出 す る 略 称 に つ い て は 、あ ら か じ め 下 記 に 正 式 名 称 を 示 す 。
北 支 軍 → 北 支 那 方 面 軍 臨 時 政 府 → 中 華 民 国 臨 時 政 府
8. 本 稿 で 使 用 頻 度 の 高 い 文 献 、史 料 等 は そ れ ぞ れ 以 下 の よ う に 略 す 。
興 亜 院 華 北 連 絡 部 『 北 支 に 於 け る 文 教 の 現 状 』 同 部 発 行 、1941 年
→ 『 北 支 文 教 』
岡 部 直 三 郎 『 岡 部 直 三 郎 大 将 の 日 記 』 芙 蓉 書 房 、1982 年
→ 『 岡 部 日 記 』
防 衛 庁 防 衛 研 修 所 戦 史 室 『 北 支 の 治 安 戦 (1)』 朝 雲 新 聞 社 、1968 年
→ 『 治 安 戦 1 』
防 衛 庁 防 衛 研 修 所 戦 史 室 『 北 支 の 治 安 戦 (2)』 朝 雲 新 聞 社 、1971 年
→ 『 治 安 戦 2 』
目次
序章
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1第1章 宣戦なき「事変」下の華北占領地――教育行政の展開を手がかりに
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14 第1節 事変下の占領地の成立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・141.事変勃発と宣戦問題
2.事変下における占領地の特質 3.現地政権の成立と運営
第2節 教育行政における「内面指導」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20 1.教育行政の立ち上げと日本の関与
2.「復興」の優先順位 3.新民主義
第3節 興亜院の成立と現地教育行政の動向・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26 1.興亜院の成立
2.興亜院の現地機構 3.現地の反応
4.「指導」をめぐる混迷と矛盾
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31 附図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
第2章 日本人教員派遣政策の展開と顧問制度
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44 第1節「内面指導」支配の始動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46 第2節 興亜院の設置による現地の動揺と教員派遣構想・・・・・・・・・・・・・・50
1.対中総合行政機関の設置構想と現地の動揺 2.文教領域における現地軍の顧問派遣構想
第3節 興亜院による日本人教員の派遣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57 1.準備から派遣開始まで
2.現地における派遣教員
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・65 附表・附図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・72
第3章 教育をめぐる相克――支配当局と第三国系高等教育機関との関係を軸と して
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77 第1節 事変直後の状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・78 第2節 占領下秩序への服従/抵抗をめぐる攻防・・・・・・・・・・・・・・・・・81
1.教員派遣問題
2.行事への参加動員問題 3.教員招聘問題の長期化
4.キリスト系教育機関の抵抗の諸相 5.第三国系高等教育機関の吸引力
第3節 世界情勢に伴う対応の変化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・85 1.反英運動とその結果
2.「思想戦」の展開
3.アジア太平洋戦争勃発後の対応
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・91 附表・附図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・98
第4章 北支那方面軍による「渉外関係」業務の展開
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・101 第1節 第三国権益問題と本国の態度・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・103
1.交戦に伴う第三国の財産損害
2.国際問題化への懸念と「現地解決」
3.ドイツの損害賠償問題
第2節 事変後華北占領地をめぐる国際関係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・107 1.現地の外交機関
2.第三国権益問題をめぐる現地軍の態度 3.事変長期化への対応
第3節 『月報』に見る「渉外関係」業務の展開・・・・・・・・・・・・・・・・・111 1.『月報』について
2.英仏への圧迫と対米慎重――1939年 3.対米強硬への転換――1940~1941年
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・119 附表・附図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・125
第5章 アジア太平洋戦争期の日本人教員派遣と華北日本語教育界の変容
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・133 第1節 対華「新政策」と華北占領地・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1341.アジア太平洋戦争の勃発と「新政策」
2.現地の対応
第2節「新政策」下の日本人教員・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・137 1.「新政策」以前の在留邦人と日本人教員
2.「新政策」後の在留邦人と日本人教員 3.顧問制度の再編
第3節 「新政策」後の華北日本語教育界・・・・・・・・・・・・・・・・・・・144 1.日本人教員を取り巻く状況
2.「新政策」後の華日研 3.「日華同盟条約」後の華日研
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149 附表・附図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・156
終章
第1節 まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・159 第2節 課題と展望・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・163
主要参考文献・史料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・168
序章
(1)問題意識
本稿は、日中戦争期の中国占領地、なかでも華北占領地の地域的特質、歴史的な変遷 について、日中戦争が宣戦なき「事変」であったことに注目しつつ、明らかにする。この 特質をよく理解できる事例として、当該地における文教政策に注目し、間接統治の担い手 たる日本人教員の派遣政策の制度的展開、残存した第三国系教育機関との相克などを主な 検討対象とする(以下煩雑さを避けるため「事変」の括弧を外す)。
本稿が扱う華北占領地の範囲は、時期により変動するが、大まかには河北・山東・山 西省の3省及び、隴海線以北の河南省、江蘇省の一部であった(北京・天津・青島の3特 別市を含む)。北は万里の長城を境に満洲国・「蒙疆」に接し、東は渤海及び黄海に接し、
西は陝西省に接する。面積は満洲国の約5分の2とされ、石炭・鉄・塩・綿花等の重要な 資源が産出された1。日中戦争前の華北地域においては、資源・市場の獲得と満洲国の安 定を目指して、日本の出先軍による華北分離工作2が進展し、ついに 1937 年7月に盧溝 橋事件を迎えるに至った。戦争が全面化すると、国民党は拠点を武漢・重慶へと移し、日 本軍は「蒙疆」・華北・華中にそれぞれ現地政権を樹立した。国民党の勢力が後退した地 域では共産党の根拠地が形成され、日本軍に対してゲリラ戦を展開、その他「微妙な態度 を示す」旧軍閥の勢力範囲も残存し、日中戦争下の中国の地域構造は、「きわめて複雑で 輻輳した」様相を呈していた3。
上述のように複数に分立した日本軍占領地のなかで、華北占領地に注目する理由は、
以下のように整理される。第1に、満洲国支配との連続性と差異を踏まえるため、まず検 討を要する地域であるからである。現地中国人を担ぎ出した「傀儡」政権、「第二の満洲 国」4とのイメージが強いが、華北独自の間接統治の歴史的展開については、必ずしも明 らかになっていない。第2には、事変下に軍を頂点とする「内面指導」体制が成立した地 域としての性格である。華北では、北支那方面軍の管下に、1937 年末、中華民国臨時政 府と冠する政権が樹立された5。これに対抗する形で、華中の占領軍は、1938 年3月に中 華民国維新政府を成立させた6。その後汪精衛政権が成立する華中占領地と華北占領地と の関係は、それ自体歴史的検討を要する問題であるが、本稿ではさしあたり華北を対象と することで、事変下に成立した軍事占領地の性質を論じることができると考えている。さ らに、戦いながら維持された支配領域としては、アジア太平洋戦争開戦後に獲得された南
ることは、その支配の経験が後に続く「大東亜共栄圏」支配とどのように関連するのかを 検討する道を拓くことになるだろう。
(2)視角の設定
以上の問題意識に基づき、中国占領地の地域的特性を論じるうえで、本稿では、以下 の点に留意しながら論を進めたい。
第1に、政策が浮上する場がいかに形成されたのかということである。具体的には、
当該地の領域的特性の形成過程、及び現地の政軍関係を踏まえたうえで、占領地統治に関 わる政策が、いかに構想・実行されたのかを考える。当該地の領域的特性については、主 に国際法の規定が中国占領地支配に与えた影響を重視する。また現地の政軍関係について は、現地軍と、その管下におかれた日本人顧問、後に本国に成立する興亜院とその後身・
大東亜省の出先機関、および現地政権との関係に留意したい。また第三国権益をめぐる対 外交渉をめぐっては、現地軍と日本外務省出先機関との関係性が、いかに構築されたかを 踏まえて議論する。
第2に、本国や国際情勢との連関に注意を払いながら、政策の展開を論じることであ る。同地域の占領地経営は、現地で自己完結的に展開できるものではなかったからである。
この点は他の支配領域との連関も視野に入れる必要があるが、本稿では満洲国を除いて十 分に言及できていない。しかしできる限り、本国・第三国との交渉を踏まえ、議論するこ とを重視したい。
第3に、文教政策への着目である。文教政策とは、現地の学校教育、社会教育、文化 行政を総称する用語として、用いられたものである。現地政権を通じた華北占領地の文教 政策は、植民地のような「皇民化」政策とは一線を画すものの7、国民・共産両党の思想 を排除し、日本統治下の秩序を受容させ、満洲国安定や資源確保等の統治目的に沿う人材 を養成する手段の1つだった。ただし、本稿では文教政策を体系的に明らかにするのでは なく、占領地行政の1つとして理解し、政治的文脈のなかに落とし込んで議論していく。
このように本稿は第1、第2の視角に留意しながら文教政策を分析するが、文教政策 に注目することの意味をもう少し敷衍したい。
まず、文教政策を占領諸行政のなかの1つと捉えることで、事変下の不安定な占領地 支配を支えるために、いかなる行政手法が構築されたのか、その具体例を示すことができ る。本稿では、教育行政への日本人の関与、教育機関の「復興」のされ方や、各時期に文
肩書きで派遣された教員たちを議論の対象にし、その制度的裏付けや、意識と行動に踏み 込むことで、学校を媒介に現地社会に働きかけた日本人の具体的な様相を提示する。
次に、現地の「総力戦」の展開についてアプローチが可能である。中国占領地の特質 を考えるうえで、域内秩序安定のための「治安戦」が「総力戦」化したことは重要である。
文教という領域の検討を通じて、軍事以外の領域において、いかに現地社会への介入が図 られたのかを明らかにできるだろう。
加えて、域内に存続した第三国系教育機関(ミッションスクール)との間で、文化的 影響力やエリート層の獲得をめぐる相克が生じたことを議論の対象とすることができる。
これら学校は租界と同様、不平等条約に基づく特権的な領域として、占領地に存続し、日 本軍占領下で行き場を失った多くの学生を吸収し、社会的地位を保っていた。それゆえ占 領当局は、教育をいかに再編しようと、最終的にエリート層をこれら学校に奪われなかね ないというジレンマを抱えるに至った。しかも後述するように、事変という建前を取った ため、これら学校で抗日・反日活動が認められても、接収・押収等の実力行使に至ること はできなかった。
このような論点をはらむ文教政策の展開に光を当てることで、事変下に成立した華北 占領地の領域としての特質をより一層明確にすることができると考えている。
(3)先行研究
①帝国主義研究と「帝国」研究
それでは華北占領地は、既往の研究でどのように扱われてきたのであろうか。これつ いては、主に2つの文脈で扱われてきたと考えられる。その1つは、日本帝国主義史の一 環としての植民地・占領地研究であり、主に経済史を中心に検討の対象になってきた8。 そこで早くから支配の脆弱性・限界が明らかとなり、占領地行政は長らく検討の対象とな りにくい状態であった。そしてもう1つの文脈は、「治安戦」(「三光作戦」)研究であ る。占領軍が占領地治安確保のために展開した過酷な「治安戦」に関しては、日本軍史料 や当時の軍関係者の回想を主に用いた詳細な研究9や、戦争犯罪の実態解明10が進展して きた。こうした研究は、これまで別々に行われてきた感があるが、どちらも占領地支配の なかで切り離すことのできない問題であり、両研究を架橋するようなアプローチを考える 必要がある。そのためにも、いまだ十分に解明されていない、現地軍を頂点とした占領地 の政務の内実を明らかにすることが求められよう。
てきた植民地・占領地研究は、「支配/被支配」「侵略/抵抗」といった二項対立的な評 価や研究分野の偏りが、問題視されるようになった。その結果、華北占領地に関しても、
文化領域(学知のはらむナショナリズムや帝国を支える意識など)を論じる研究12、華北 の「治安戦」とそれまでの対外戦争の経験を連続的に述べた研究13などが見られるように なった。占領地行政に関しても民心把握・動員のために組織された「新民会」に関する実 態解明14が進み、「傀儡」政権というより「対日協力」政権と捉えて現地政権を論じる国 際共同研究も進展した15。このように研究は多様化しているものの、いまだ中国占領地行 政の特質を踏まえた議論が十分になされているとは言い難い。
②日中戦争と国際法
ここでいう中国占領地支配の特質において、重要な要因であったにもかかわらず従来 見逃されてきたことは、日中戦争が国際法上の戦争.......
ではなく宣戦なき事変であったこと、
しかもそれが終結しなかったことが持つ意味である。このことにより現地の政軍関係にど のような仕組みが構築され、諸行政を規定していったのかという点について、具体的に明 らかにする必要がある。
通常の戦争と事変との区別を規定したのは、当該期の国際法である。国際法上戦争の 開始にあたっては、宣戦布告等の開戦意志の表示が必要であり、それによってはじめて、
中立法規と交戦法規から成る戦時国際法が適用される。しかし日中両国があえて宣戦をし なかったことで、国際法の適用をめぐって様々な問題が生じた。上述の「三光作戦」研究 等では、占領下の民衆に対する戦争犯罪(国際法違反)が明らかになり、また当該期国際 社会で一定の成果をあげていた戦争違法化体制における日本の逸脱を批判的に検討する研 究もあり16、ともすると当時の日本が国際法を考慮せざるを得ない状況にあったことは見 落とされがちである。しかし第三国との外交利害が複雑に入り組む情勢下、国際法を軽視 する行動は自国に不利益をもたらす懼れがあり、その適用如何は占領地経営に関わる重要 な問題であった。吉田裕が指摘している通り、日中戦争期戦争遂行のための対欧米(第三 国)への配慮と、対中国民衆への「蛮行」(国際法軽視・無視)は、分けて考える必要が ある17。
このように日中戦争が事変だったことの意味については、概して省みられることは少 なかった。そのなかで早くから日中戦争が事変であったことに注目してきた加藤陽子は、
事変という戦争の形態と国内政軍関係との関係に着目し、それが興亜院の設置の前提をな
あり方にどう影響したかについては、検討の対象となっておらず、課題として残されてい る。近年中国において現地政権に関する研究が進展しているが19、この点は十分留意され ていない。
また占領下に残った第三国人やその権益への対応も、日中戦争に宣戦がなかったこと に大きな影響を受けた。国際法上の戦争であれば第三国人には中立の義務があるが、事変 であれば、占領当局は彼らに中立を強要することができなかった。そのため領域内の第三 国人に利敵行為が認められても、現地軍は軍律で裁くことができなかった。また第三国の 財産に関しては、通常の戦争であれば、軍事上の必要があれば占領軍による押収・接収が 認められ、利敵行為があれば破壊等も免れなかったが、事変であったゆえに、占領当局は 接収・押収・破壊等の行為に訴えることはできなかった。そのため第三国が権益として有 していた租界や教会・学校・病院等の布教施設は、中国人からすれば避難先・抗日活動の 拠点としての意味を持ち、日本側からすれば治安維持の障害となった。しかし占領軍によ る露骨な実力行使は、関係国との外交問題に発展する懼れがあり、これらをいかに占領地 秩序に従わせるかが、占領地支配の重要な課題となっていく。この問題については、華北 の天津英仏租界問題を題材に日英の交渉を論じたものに永井和20のものがある。しかし、
華北占領地が抱え込んだ第三国権益は英国のそれにとどまらない。従って、日本の国策遂 行に関わる他の国の権益への対応まで視野を拡大し、さらにその歴史的展開を見ていく必 要があろう。そこで本稿では、第三国系高等教育機関と占領当局との相克に注目し、それ らへの対応は相手国によって異なること、さらに時期によって対応が変遷することを示し たい。
③「内面指導」という間接支配
次に本稿のキーワードである中国占領地に対する「内面指導」に関する研究を概観す る。この「内面指導」という言葉は、現地占領軍の管下、重要な個所に少数日本人を配置 し、水面下で「傀儡」組織を制御する間接支配のことを指す。これについては安井三吉が、
その前例が満洲国にあり、こうした仕組みの背後には中国側要人への不信と蔑視があった ことを指摘している21。しかしここでは、満洲国との「内面指導」との連続・断絶や、日 本人が派遣される具体的領域の言及はなされていない。このことを明らかにするには、上 位の政務機構だけではなく、より末端のレベルにまで着目し、この制度がいかに運用され たかを歴史的に検討する必要がある。
で明らかにする通り、彼らは、現地軍司令官と現地政権首班との間に1938 年4月に締結 された「政府顧問約定/同附属約定」の規定に基づき、現地政権の文教部門に送り込まれ た「技術家」「専門家」の一部であった。文教以外では、行政・治安・警務・財務・郵 政・実業・建設等の各方面に、日本人の「技術家」「専門家」が現地政府職員として派遣 され、派遣先を「内面指導」する役割を負わされたのである。これまでの研究でも、各種 学校に派遣された日本人教員は、「督学管」的役割(派遣先の監督、指導)が期待されて いたことが言及されている22。これに対し本稿では、「技術家」「専門家」の派遣に関す る現地軍の構想、及び「政府顧問約定/同附属約定」に規定された顧問制度の展開を踏ま え、より広い文脈で彼らを占領地行政のなかに位置付け、さらにその意識や行動にも検討 を加える23。こうした検討を通じて、満洲国とは異なる華北占領地の「内面指導」体制の 新たな展開、および末端での具体的様相を明らかにできると考える。
(4)各章の構成
以上を踏まえ、本稿は下記のような構成をとる。
序章
第1章 宣戦なき「事変」下の華北占領地――教育行政の展開を手がかりに 第2章 日本人教員派遣政策の展開と顧問制度
第3章 教育をめぐる相克――支配当局と第三国系高等教育機関との関係を軸として 第4章 北支那方面軍による「渉外関係」業務の展開
第5章 アジア太平洋戦争期の日本人教員派遣と華北日本語教育界の変容 終章
以下、それぞれの概要を紹介しておきたい。
まず第1章「宣戦なき『事変』下の華北占領地――教育行政の展開を手がかりに」で は、宣戦布告なき事変下、占領地にどのような領域が誕生し、それがいかなる特質をみせ たのかを確認する。日中戦争が国際法上は事変であったことの歴史的な意味は、近年よう やく注目されつつあるが、それが現地の占領地経営にどのような影響を及ぼしたのかは、
いまだ検討されていない。そこで本章では、まず日中戦争に宣戦がなかったことで国際法 上いかなる事態が生じ、その条件下、現地軍が政務を主導する体制がいかに成立したのか
ての「内面指導」のあり方、教育行政実施過程における日本人顧問と現地軍の関係、諸課 題の優先順位のつけ方、さらには支配イデオロギーとしての「新民主義」の性格において、
事変下の華北占領地独自の条件が明確にあらわれていたことを指摘する。
次いで第2章「日本人教員派遣政策の展開と顧問制度」では、占領の開始から「政府 顧問約定/同附属約定」が廃止される 1943 年初頭までを対象とし、現地軍の主導する
「内面指導」体制のなかに、本国からの日本人教育派遣政策が位置付くことを明らかにす る。現地機構への「内面指導」という行政手法は、満洲国統治で既に前例がみられるが、
これが華北占領地の統治に即していかなる展開をみせたかは、いまだ検討されていない。
これを踏まえ、本章では行政・法制・軍事の3領域に派遣された顧問・補佐官のほかに、
専門領域に「技術家」「専門家」の肩書きで実質的に顧問としての役割を担わされて日本 人が派遣されたことに注目する。そして彼らがいかに「内面指導」の担い手として構想さ れ、現地でどのように振る舞ったのかを、中国側教育機関へ派遣された日本人教員に焦点 を当てて検討する。その際、まず現地軍による日本人教員派遣構想から確認することが重 要と考える。さらに興亜院の成立後、現地において同院と現地軍の関係がいかに構築され たかを踏まえ、当該政策の展開を見ていくことになる。
続いて第3章「教育をめぐる相克――支配当局と第三国系高等教育機関との関係を軸 として」では、占領下の第三国系教育機関と、支配当局との相克を扱う。これら機関と 支配当局の競合・対抗関係は、事変であったがゆえに先鋭化したと考えられるからである。
国民政府下の高等教育機関の多くは、事変後国民党支配地区へ「南下」し、占領地には行 き場を失った多くの青年・教員が発生した。占領下に存続した第三国系高等教育機関は、
その受け皿として機能した。しかし支配する側にとって、現地の知識青年へ直接働きかけ る機会をこれら機関に奪われることは、不都合な事態であった。のみならず当局の統制が 及ばないこの領域は、抗日・反日活動の拠点ともなり得たため、日本側の強い警戒の対象 となった。これらに対する弾圧については、ある程度明らかにされているが 、本章では、
どの学校にも一律に圧迫が加えられたわけではなく、背後に横たわる国と国との関係を背 景に、個別の対応がなされたことに留意する。当該期日本は国際的に孤立したといっても、
枢軸国側とは勿論、それ以外の国とも通商関係・外交関係が途絶えていたわけではない。
従って教育機関を含む第三国権益への対応如何は、当事国との外交関係、ひいては自らの 国策に関わる問題であった。この問題を具体的に検討することは、事変下の占領地の性質
第4章「北支那方面軍による『渉外関係』業務の展開」においては、第3章で扱った 内容を発展させ、現地軍である北支那方面軍の第三国権益全般..
への対応について扱う。華 北占領地において、第三国権益をめぐる第三国との連絡・交渉は、同軍主導で「渉外関 係」として処理されていた。本章では同軍が作成した『月報』などを使用し、華北占領地 下「渉外関係」業務の展開を追う。そして支配領域内の第三国権益問題が占領地内の秩序 維持・思想工作に関わる問題であっただけではなく、国際問題化という回路を持っていた ゆえに、この問題の処理が「外交」工作としての一面を持っていたことを明らかにしたい。
そして第5章「アジア太平洋戦争期の日本人教員派遣と華北日本語教育界の変容」で は、日本人教員派遣政策を支えていた「政府顧問約定/同附属約定」が1943 年初頭に廃 止された後、どのような展開を見せるのかを検討する。まずは、1942 年末外務省が牽引 した対華「新政策」が、華北占領地においても徹底的な実行が企図されたことを確認し、
これが顧問制度にどのような影響を与えたのかを考察する。そのうえで、華北日本語教育 研究所という組織の動向を通じて、「新政策」が日本語教育界に与えた影響、そのなかで の日本人教員の役割の変容を追っていく。彼らは経済的・制度的・治安面で問題を抱えた だけでなく、言語普及の担い手としての主導権も喪失し、より不安定な立場におかれた。
それでも、終戦間近まで日本人教員派遣が続けられたことから、現地で彼らが果たした役 割を、改めて再考したい。
終章では本稿の総括を行う。ここにおいて満洲国支配、「大東亜共栄圏」支配のはざ まにある中国占領地支配について、筆者なりに再評価していくとともに、問題提起を行い たい。
1『北支文教』1~5頁。
2本稿は、盧溝橋事件に端を発する事変..
が短期終結せず全面戦争化したことが国際法上持 った意味や、事変の継続が戦前日本にどのような事態を招来したのかを重視するため、あ えて盧溝橋事件以後を「日中戦争期」と捉え、検討の対象にした。盧溝橋事件によっても たらされた新しい事態を重視するからであり、その前史たる現地軍の華北進出、及び現地 における軍事衝突の継続・現地交渉の過程を軽視する意図があるわけではない。
以下、事変前の華北の状況に関する研究史を整理しておく。古屋哲夫『日中戦争』
(〈岩波新書〉岩波書店、1985 年)は、日中戦争の発端を盧溝橋事件に求める見方を批 判し、1933 年以来華北の情況は、塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協 定等における「現地解決」の集積によって規定されていたとする。「現地解決」とは、既 に妥協的な相手方の現地機関に、より一層の妥協を要求し、これを中国中央政府にも追認 させ、現地の従属性を既成事実化するものとされた。安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事 件へ』(研文出版、2003 年)は、より積極的に日中戦争が盧溝橋事件より始まるという 見方を批判する。日本は満洲事変以後から既に華北を支配するために軍事的圧力・政治工 作を進めていたとし、現地の当事者(関東軍・支那駐屯軍・特務機関・中国側の対日協力 者・中国政府の出先機関)の動向に即して、満洲事変から盧溝橋事件に至るまでの連続性 を検証した。内田尚孝『華北事変の研究』(汲古書院、2006 年)は基本的に古屋・安井 と問題意識を共有するが、中国側の史料を用い、当該地の日本軍による軍事行動の展開過 程、塘沽停戦協定の締結過程とその善後交渉、「華北事変」(日本でいう華北分離工作)
の展開過程を、現地に設置された冀察政務委員会等の組織と日本及び国民政府との関係を 踏まえ、詳細に検討した。光田剛『中国国民政府期の華北政治』(御茶の水書房、2007 年)は、当該期中国民政府の中国統合をめぐる問題が集中的に表れた地域として華北を捉 える。同地の統合を急ぐ国民政府とこれを阻止しようとする地方軍事勢力のせめぎ合いの 場となった北平政務整理委員会等の超省レベルの政治・軍事機構に焦点を当て、これと国 民政府・地方軍事勢力・日本の諸勢力・反南京国民党組織・中国共産党勢力等の関係を検 討する。これらの研究により、盧溝橋事件に至るまでの華北をめぐる複雑な政治情勢が明 らかになりつつある。
3 姫田光義「日中戦争期、中国の地域政権と日本の統治」(姫田光義・山田辰雄編『中国 の地域政権と日本の統治』慶應義塾大学出版会、2006年)7頁。
4笠原十九司『日本軍の治安戦』(岩波書店、2010 年)第2章など。「第二の満洲国」と 同様、中国占領地に関してよく使われる表現に、「点と線」の支配にとどまったというも のがある。この言葉は、武力を背景に主要都市及び鉄道沿線を支配下におきながら、中国 側の抵抗により安定した支配を築けなかった現実を端的に表現する。しかし、ともすると 過酷な「治安戦」と密接に関連した占領地域支配の内実を矮小化しかねないという問題が ある。たとえ「点と線」であっても、そこでどのような過酷な支配が展開したかは、直接
的暴力や経済収奪だけでなく、他の領域も含めて解明する必要があると考える。
5 1939 年9月には、戦争指導・和平工作の一本化と中央の統制の強化等を目指す参謀本
部の考案により、南京に支那派遣軍総司令部が創設されている。しかし同軍総司令官の北 支那方面軍に対する権限は、作戦・政務の大綱を把握し、細項は委任するほか、兵站・補 給に関しては直接中央部の指導を受けさせるという、限定的なものであった(『治安戦 1』232 頁)。また、1940 年3月 30 日、汪精衛による南京国民政府が成立すると、華 北占領地の中華民国臨時政府は華北政務委員会と改称されて形式上その傘下に入るが、内 政面で大きな変更はなかった(同上、293~295 頁)。文教政策についても変更はなく、
臨時政府の方針がそのまま踏襲された(『北支文教』37~38 頁)。ただし、臨時政府教育 部は華北政務委員会教育総署に改称されている。
6 堀井弘一郎「日本軍占領下、中華民国維新政府の治政」(『中国研究月報』第 625 号、
2000 年)、関智英「日中戦争時期中国占領地における将来構想――中華民国維新政府指導 層の時局観」(『史学雑誌』第122編第11号、2013年11月)。
7表向き対等の関係とされた華北政権において、いかに占領下の人々の内面に働きかけ
「日本的なもの」に接近させようとしたかについては、川島真「華北における『文化』政 策と日本の位相」(平野健一郎編『日中戦争期の中国における社会・文化変容』東洋文庫、
2007年)を参照。
8小林英夫(『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』御茶の水書房、1975 年)、原朗(「『大 東亜共栄圏』の経済的実態」『土地制度史学』71号、1976年)、浅田喬二編(『日本帝 国主義下の中国』楽游書房、1981 年)、中村隆英(『戦時日本の華北経済支配』山川出 版社、1983 年)など。その他概説に、安井三吉「日本帝国主義とカイライ政権」(野沢 豊・田中正俊編『講座中国近現代史第6巻 抗日戦争』東京大学出版会、1978 年)、石 島紀之「中国占領地の軍事支配」(大江志乃夫ほか編『岩波講座近代日本と植民地2 帝国 統治の構造』岩波書店、1992年)がある。
9『治安戦1』『治安戦2』。
10姫田光義・陳平編『もうひとつの三光作戦』(青木書店、1989 年)、笠原十九司『南 京事件と三光作戦』(大月書店、1999 年)、石田勇治ほか編『中国河北省における三光 作戦』(大月書店、2003年)など。
11ピーター・ドウスは、イギリス帝国主義研究の「非公式帝国」論を近代以降の中国の列 強支配に援用し、日本がその「非公式」な支配に参入していく過程を示した("Japan Informal Empire in China,1985-1937:An Overview", Peter Duus, Ramon H. Myers, and Mark R. Peattie eds., The Japanese Informal Empire, 1895-1937, Princeton University Press, 1989)。また「公式」な植民地支配が世界に通用しなくなった段階
(第1次世界大戦後)以降、「非公式」な支配領域として新たな地域が「帝国」に編入さ れるようになり、その支配の正当化のために「東亜新秩序」や「大東亜共栄圏」などのイ デオロギーが創出されたことを論じた("Japan's Wartime Empire: Problems and Issues", Peter Duus, Ramon H. Myers, and Mark R. Peattie eds., The Japanese Wartime Empire, 1931-1945, Princeton University Press, 1996)。ドウスが「非公式帝 国」論の視点を日本帝国主義研究にもたらし、国際秩序の変動に伴う「帝国」の編制替え や、それに対応する形で創出された支配イデオロギーを議論の対象としたことは、日本の 植民地研究に大きなインパクトを与えた。
12駒込武は、戦前日本の植民地帝全体を見渡した研究(『植民地帝国日本の文化統合』岩 波書店、1996 年)のなかで、華北占領地を扱う。同氏は日本語教育をナショナリズムと 不可分なものとして、異民族に対する政策の重要な一翼と位置付け、支配地とともに拡大 した同化政策が破綻する最終局面に、日中戦争期華北占領地に対する日本語教育政策を定 置した。その他、丸田孝志「華北傀儡政権における記念日活動と民俗利用」(曽田三郎編
『近代中国と日本』御茶の水書房、2001 年)、前掲川島「華北における『文化』政策と 日本の位相」など。石剛『植民地支配と日本語』(三元社、1993 年、増補版 2003 年発 行)、同『日本の植民地言語政策研究』(明石書店、2005 年)、安田敏朗『帝国日本の 言語編制』(世織書房1997年)など、言語政策と植民地支配を論じた研究も進展した。
13笠原十九司「治安戦の思想と技術」(倉沢愛子ほか編『岩波講座アジア・太平洋戦争5 戦場の諸相』岩波書店、2006年)。
14堀井弘一郎(「新民会と華北占領政策(上)/(中)/(下)」『中国研究月報』第
539/540/541号、1993年)など。なお先駆的な新民会の研究に八巻佳子「中華民国新
民会の成立と初期工作状況」(藤井昇三編『一九三〇年代中国の研究』アジア経済研究所、
1975年)がある。
15 David P. Barrett and Larry N. Shyu (eds.)(Chinese Collaboration with Japan, 1932-1945: The Limits of Accommodation, Stanford University Press, 2001)は、1995 年にカナダのバンクーバーで開催された日中戦争に関する会議の報告をまとめたものであ る。また前掲姫田光義・山田辰雄編『中国の地域政権と日本の統治』は、2002 年に米ハ ーバード大学において開催された国際会議の成果である。
16伊香俊哉『近代日本と戦争違法化体制』吉川弘文館、2002年。
17 吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店、1986年)178~180頁。
18加藤陽子『模索する一九三〇年代』(山川出版、1993 年)、同「興亜院設置問題の再 検討」(服部龍二ほか編『戦間期の東アジア国際政治』中央大学出版部、2007年)。
19本格的通史である郭貴儒ほか編『華北偽政権史稿』(社会科学文献出版社、2007 年)、
治安軍や警察機構、新民会の県レベルでの活動を分析した劉敬忠『華北日偽政権研究』
(人民出版社、2007 年)、農村の政治・経済・文化各方面の統治政策を論じた王士花
『日偽統治時期的華北農村』(社会科学文献出版社、2008 年)、中央から省・特別市レ ベルの政治体制を分析した張同楽『華北淪陥区日偽政権研究』(三聯書店、2012 年)な ど。新民会に関しては王強『漢奸組織新民会』(天津社会科学院出版社、2006 年)、官 製運動である治安強化運動に関しては江沛『日偽「治安強化運動」研究』(南開大学出版 社、2006 年)など。総じて、政治領域を含めて侵略の実態を解明しようとする研究が進 展している。
20永井和「日中戦争と日英対立――日本の華北占領地支配と天津英仏租界」古屋哲夫編
『日中戦争史研究』吉川弘文館、1984年。
21前掲安井「日本帝国主義とカイライ政権」。前例となる満洲国の事例については山室信 一『キメラ』〈中公新書〉(中央公論新社、1993 年)、同「『満洲国』統治過程論」
(山本有造編『「満洲国」の研究』緑蔭書房、1995年)に詳しい。
22 駒込武「日中戦争期文部省と興亜院の日本語教育政策構想」(『東京大学教育学部紀 要』第29巻、1989年)182頁。
23江口圭一「十五年戦争史研究の課題」(『歴史学研究』第 511 号、1982 年)は、一般 の民衆が「十五年戦争」期の加害者・侵略者であったことを指摘し、「帝国主義的支配民 族の成員としての日本民衆」の実像を把握する必要を説いている。これに対し、吉見義明
『草の根のファシズム』(東京大学出版会、1987 年)は、拡大する占領地に在留する一 般人の意識・言動にも焦点を当て、その差別・特権意識や、現地社会に対する抑圧的行動 を論じている。しかし今後の課題として、一般民衆の意識・振る舞いだけでなく、彼らが いかに植民地・占領地支配に参与したのかを検討する必要があろう。本稿第2・5章で、
中国側教育機関に派遣された日本人教員の現場での行動や意識を検討するのは、政治家・
軍人・官僚など権力に近い層のみならず、より広い層の中国占領地政務への参画について 解明すべきであるとの問題意識を念頭においている。
第1章 宣戦なき「事変」下の華北占領地――教育行政の展開を手がかりに はじめに
日中戦争が宣戦布告なき事変であったことは、日本軍が占領する地域の支配に様々な 制約をもたらし、領域内に存在する第三国権益との間に、深刻な摩擦を招いた。結果、日 中戦争期の華北占領地は、先行する満洲国支配とも、後に続く南方占領地とも異なる領域 を形成することを、本章では当該地の教育行政に着目して検討したい。
華北占領地の教育に関しては制度を体系的に論じた研究1、日本語教育政策に関する研 究2が既にあるが、本章では占領地行政の1つとして教育を捉え、その政策にどのような 特徴が見られるかを検討する。序章で既に述べた通り、華北占領地の文教政策は、国民・
共産両党の思想を排除し、日本統治下の秩序を受容させ、満州国安定・資源確保等の統治 目的に沿った人材を養成するため、支配下の人々の内面に働きかける手段であった。本章 ではなかでも当該地の教育行政に焦点を当てることで、事変ゆえにもたらされた制約のな か、どのような支配の仕組みが構築されたのかを具体的に見ていきたい。
ところでなぜ日本は、中国に対し宣戦せず、事変という建前を貫いたのか。早くからそ の意義を重視してきた加藤陽子は、その背景に米国の中立法の発動への危惧があったこと を指摘する。同氏はさらに、事変初期、宣戦布告や現地政権樹立をめぐる中央―現地の各 政治勢力の動向を分析することで、事変という戦争形態が、本国に対中行政統括機関であ る興亜院が成立する前提をなしたことを指摘した3。しかし事変であったことが、実際現 地の支配にいかなる影響を及ぼしたのかについては、いまだ解明されていない。そこで本 章では、現地の具体的な事例に即し、この問題を検討したい。
以上を踏まえ、第1節では事変という選択がなされたゆえに、国際法上どのような問題 が生じ、結果いかなる領域が成立したのかを見ていく。さらに第2節では前節で確認した 華北占領地独自の条件のなかで、教育行政がいかに整備されたのかを確認する。さらに第 3節においては、1938年末に本国に成立した興亜院が、現地の文教行政に与えた影響に ついて論じる。以上の検討を通じ、「第二の満洲国」との印象の強い華北占領地の経営が、
事変が終結しなかったゆえにいかなる展開をみせ、領域としての特質を備えたのかについ て考察したい。
第1節 事変下の占領地の成立
1.事変勃発と宣戦問題は上海に飛び火し、全面戦争化した。日本政府は同年9月2日、これを「支那事変」と呼 称することを決定した。一方満洲事変以降、日本との紛争解決には、国際連盟や第三国を 介在させてきた国民政府も、国際連盟規約・不戦条約・9ヵ国条約等を無効にする宣戦を 戦略的に回避した4。そのため1941年末アジア太平洋戦争が勃発し、蔣介石政権が日独伊 に宣戦布告するまで、両国の間には、いわば事実上の戦争が展開した。
しかしたとえ事変とみなしたとしても、実際に両国が交戦状態にある以上、国際法、
なかでも交戦法規をいかに適用するかが問題となる5。そのため1937年8月5日、陸軍次 官梅津美治郎は、現地の支那駐屯軍参謀長に宛て、交戦法規の適用に関わる通牒を出した
6。ここで強調されているのは、あくまで「帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラサルヲ以テ
『陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約』ノ具体的事項ヲ悉ク適用 シテ行動スルコトハ適当ナラス」ということであった。つまり、交戦法規で定められてい る事項を全面的に適用することは避けよということである。その理由には、交戦法規の適 用が開戦の意思表示になることへの危惧があった。そこで「戦利品」「俘虜」などの用語 も使用不可とされた。同様の文脈で、軍政施行にもブレーキがかけられた。すなわち、各 地方の「行政治安維持其ノ他官公署等ノ動産不動産ノ保護等ニ関シテモ軍政ヲ布キ或ハ軍 自ラ進ンテ之ニ関与スルヲ避ケ」るべきとされた。そして「努メテ北支明朗化ニ害ナキ支 那側人士ヲシテ自主的ニ之ヲ当ラシメ」、これに対し軍が「必要ナル内面的援助ヲ与へ其 ノ実ヲ挙クル」ことが指示されている。つまり軍が表立って軍政に乗り出すことをせず、
あくまで現地中国人を擁立し、これを水面下で「援助」せよ、というのが中央の意見であ った。
また1937年8月末、杉山元陸軍大臣が、北支那方面軍(1937年8月31日編成、司令官 寺内寿一大将。以下「北支軍」と略す)の参謀長として中国戦線へ赴く岡部直三郎少将に 出した指示においても、「占領地行政又は軍政を行うは不可」7としている。以上から陸 軍中央が、宣戦と不可分にあった軍政施行に対し、いかに慎重だったかを知ることができ よう。
一方現地の北支軍は、1937年9月30日に「事変収容案ニ関スル意見」8を中央に提出し、
宣戦・政権樹立・軍政施行を主張した。同軍の認識では、国民政府(蔣政権)の抵抗は長 期にわたる可能性があり、大規模な作戦により決定的な打撃を与え、相手の抗戦意思を挫 く必要があった。そのため対敵行為に制約がかかる事変ではなく、宣戦布告をして国際法
した共産党勢力の伸張が危惧される。そこで「反共、親日、共栄共存」を政策の基調とす る政権を育成し、これと講和を結ぶまで、占領地に軍政を行う考えだった。
宣戦の可否については様々に議論されたが、結論的には宣戦および軍政施行は中央の決 定となっていない。1937年10月1日に四相会議で決定された「支那事変対処要綱」でも 軍政は容認されず、この問題を研究するために設置された内閣第四委員会でも、同年11 月に宣戦不可が決定した9。その最大の理由は、既述の通り、第三国、特にアメリカが中 立法を発動し、軍需物資の輸入や金融取引が停止することを懼れたためである。必要な物 資の多くを同国に頼っていた日本は、戦争遂行上宣戦という選択は是が非でも避ける必要 があった。
その結果現地北支軍は、しばしば中央に対し軍政に踏み切ることを表明し、自らの要求 を通そうとした10。こうした現地―中央の綱引きのなかで、継続する事変下の軍事占領地 と、中国人による「独立」政権という2つの顔を持つ領域が成立することになる。
2.事変下における占領地の特質
ここでは日中間の戦いが事変という形式をとった結果、日本軍占領地にいかなる事態 が生じたのかについて、戦時国際法の適用問題から考察したい。
前提として、そもそも事変に戦時国際法のどの部分が適用されると当時理解されてい たのかを確認しよう。国際連盟規約や不戦条約(1928年締結)の成立を経て、戦争の違 法化が一定の成果を見せていた当該期国際社会において、皮肉にも、あえて宣戦せずに武 力行使に至るケースが生じていた。この時、国際法をいかに適用するかについては、当時 の国際法学者の見解によれば、交戦法規は準用し、中立法規は適用しないというのが、一 般的であった11。そこで以下、①交戦法規における占領軍の行政権限、②中立法規不適用 により生じた事態、③交戦国下の第三国人財産、それぞれにつき確認することで、宣戦が なかったことが占領地支配に与えた影響を明確にしたい。
①交戦法規における占領軍の行政権限
国際法上の戦争の場合、戦争が終結しない段階においては、占領軍の権利・義務とし て秩序維持と住民の生活回復が定められていた12。これに関する具体的な規定は、交戦法 規のなかの陸戦法規、具体的には1907年の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」13に見ること ができる。この第43条に「占領者ハ絶対的ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ成 ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ」との規定が ある。この「秩序及生活ヲ回復確保」こそが、占領軍の手による........
占領地の秩序維持、及び
民衆生活「回復」に根拠を与えるものであった。そうであれば、たとえ事変といえども、
現地軍はこの任に当たらねばならないとの論理を構築することも可能であった。
陸軍省が1937年11月に作成した「宣戦布告ノ可否ニ関スル意見」で、「陸軍トシテ最 モ不便不都合ヲ感ジアル」ことは、「公然タル占領地行政ヲ実施シ得ザルコト」14とある。
このように宣戦がなかったために、北支軍は表立っては占領地行政を実施できなかった。
とはいえ実際には同軍のほかに、交戦下の事実上の占領地.......
における行政を担当する主体が 想定されない状況が生じていたことには注意が必要である。
さらに国内法を確認すると、北支軍司令官は、戦時高等司令部勤務令第9条「軍司令官 ハ軍ノ作戦地域ニ於ケル行政ヲ統監」するという規定に基づき、陸軍大臣の区処を受けて 政務を処理していた15。
このように国際法、国内法の双方において、現地軍が政務を主導するうえで有利な規定 があったことが指摘できる。無論いかに法に規定があろうと、必ずしもそれが徹底される とは限らない。しかし、法に規定があり、それを発動させる戦闘が継続する以上、現地軍 以上に当該地の政務参与を正当化できる存在が無かったことには、注意が必要である。こ うした優位性を背景に、北支軍は水面下で、明らかに治安維持・民生確保の枠を超えた全 面的な諸行政を、支配領域に展開することとなる16。
②中立法規不適用により生じた事態
続いて、戦時国際法の中立法規が適用されなかったことによる影響を、以下論じてい きたい。
第1に、第三国の対中支援を阻止できないことである。国際法の中立法規は、中立国が 交戦国に対し、直接または間接に援助すること、具体的には、軍隊・軍艦・その他軍需 品・金銭等を供給することを禁じていた17。さらに国際法上の戦争であれば、海上の中立 国の船舶は、交戦国の軍艦による停船・臨検・捜索や、軍需禁制品を積んでいる場合の積 荷・船舶の没収を、受け入れる義務があった。しかし事変であれば、第三国にこれらの義 務はない。そこで第三国が中国に対し経済援助や軍需物資の提供等を続けても、日本側は 阻止できなかった。このことが中国の抗戦力を高め、事変長期化の一因となったことはい うまでもない。
第2に、領域内の第三国人による敵対・利敵行為を取締まることができなかった。中 立法は、交戦国内にある中立国人が、交戦者に対し敵対行為・利敵行為をした場合、敵国 人と同じ扱いを受けるべきことを定めている18。占領地内の第三国人によるこれらの行為
を特権的に許容する規定が、国際法にはなかったのである。しかし事変という戦争形態を 選択したゆえに、占領地内の第三国人による敵対・利敵行為が発覚しても、これを敵国人 同様軍律で裁くことには慎重にならざるを得なかった19。加えて英米仏等のいわゆる欧米 列強は、中国において治外法権を有していたため、これらの国の人々に関しては、現地政 権の官憲も裁くことができなかった。事変を選択したゆえに、このような特権的な人々を、
占領地内に抱え込むことになったのである。
③交戦国下の第三国人財産
さらに、占領地内の第三国人の財産が接収できなかったことを指摘しておきたい。中 立法には「戦争ニ与ラサル国ノ国民ハ中立人トス」との規定があり、交戦国内にいる第三 国人も当然これに含まれる20。しかし当該期の国際法は、交戦国下の中立人の財産に関す る明確な規定はなく、特に優遇する規定もなかった。それゆえ通常の戦争の場合、中立人 の財産といっても、交戦国内に存在するものは、交戦法規が定める敵国財産と同様、軍事 上の必要があれば接収、押収されることがあり、また利敵行為が認められれば破壊等も免 れなかった21。
しかし両国の戦いは事変との建前があったため、第三国は、日本占領地内の権益に対 し、平時の権利を主張することが可能だった。不平等条約によって各国が有していた租界 は勿論、布教施設、それに附随する学校・病院等も、そのまま活動することができたので ある。そのため現地の人々からすればこれら第三国機関は、日本の支配の貫徹しない特権 的地域としての意味を持つようになった。一方の日本側も、事変という形式を保持するこ とは戦争の継続上不可決の要件だったため、たとえ第三国人が所有する施設等で利敵行為 が確認されたとしても、立ち入り・接収等の強硬措置に出ることができなかった。
以上述べてきたような事変下ゆえに生じた様々な制約が、本稿第3章で後述する通り、
占領域内の第三国系機関と支配当局の軋轢を生み、占領地行政を規定していくのである。
3.現地政権の成立と運営
現地北支軍は、1937年9月4日に占領地政務を担当する特務部を設置、部長には喜多 誠一22が就任した。この時喜多は、北支軍の軍司令官寺内寿一及び参謀長岡部直三郎より、
政権樹立を見越して、暫定的な政務機構を設置するよう指示された23。これをうけ占領下 の主要都市には、現地中国人の発意という形式で「治安維持会」等を冠する組織が発足し、
特務部による「内面指導」が始まった。同軍は1937年10月頃から政権樹立に向けた具体的
時政府(以下「臨時政府」と略す)が成立した24。
臨時政府では軍閥政府時代に復して三権分立体制が採用され、議政・行政・司法の3委 員会が設けられ、国旗は青天白日旗から五色旗に変えられた25。地方行政も、軍閥政府時 代に倣って省の下に道を設け、省→道→県と区分され、行政機構の末端には県公署が置か れた。また北京・天津・青島には政府直轄の特別市公署が置かれている。臨時政府の所轄 地域は、1938年7月頃の段階で、河北、山東、山西および河南・江蘇省の一部と公称さ れている26。
この政権をコントロールするための1つの方法が、臨時政府と同時に成立した新民会を 通じた政治工作であったことはよく知られている27。新民会は満洲国の協和会を模したも ので、地方支部を設置し、これに多くの日本人が介入することにより、下から政治活動を 推進していこうとするものだった。
一方上からの関与として、行政機構の重要なポジションに、日本人が配置され「内面 指導」に従事することとなった。現地軍は臨時政府との間に、1938年4月「政府顧問約 定/同附属約定」を締結、中央・地方政府に少数の日本人顧問・補佐官を置くほか、必要 な領域に、「専員、技術官、教授、教官、教導官」等を、「専門家」「技術家」という名 目で「招聘」させた(この約定の成立経緯や内容については、第2章で後述する)。
次に臨時政府下の法制についても触れておく。臨時政府では1938年1月1日「旧法暫 行援用令」が発せられ、現政府の方針に反しない限り、国民政府下で定められた法令を援 用することが決定された28。ここで先述の「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」を参照すると、
第43条で「絶対ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重」すべしとの規定がある29。両者の 連関は推測の域を出ないが、軍政下の占領地に積極的な法改編を施すことは国際法で制限 される行為であり、これを踏まえての措置とも考えられる。いずれにせよ臨時政府の法制 は、形式上既存の法令を継承し、実際には統治上必要な事項に対し、次々と新たな法令を 制定するという形で、運用がなされた30。
ではここで、政権運営を担当した北支軍特務部の基本方針がいかなるものだったか、
特務部長喜多の戦後の回想を手がかりに確認したい。喜多は1939年3月、興亜院の現地 機関・華北連絡部が成立するとその長官に就任し、1940年3月に華北から転出するまで、
当該地の政務を主導した。彼の政務に対する見解を知ることのできる史料は、管見の限り 多くないが、抑留中シベリアで残した自筆の尋問証書が残されている。ここで喜多は「特 務部ハ軍政業務ヲ実施シ直接任務ハ支那占領地ヲ日本化スルニ在」31ったと供述している。
洲軍事地盤強化援助ノ為大ナル仕事ヲ行ヘリ」32と述べている。抑留中の供述という史料 の性質に留保を要するものの、ここからは、現地軍がいかに政務関与を見えにくくしよう と、軍主導で新たな秩序を構築する意図があったことが確認されよう。その際重視された のは、政務の作戦への従属と、満洲国の安定だった。そして現地に入り込み「日本化」の 担い手として期待されたのが、日本人顧問・補佐官、及び「専門家」「技術家」たちであ り、華北占領地には、彼らを媒介とした「内面指導」体制が形成されたのである。
以上本節では、日中戦争を事変とする選択がなされた背景に、戦闘遂行上の死活問題が 存在したこと、それゆえ国際社会から孤立した状況下でも、占領地をめぐっては、国際法 の影響をかなり受けたことを強調した。交戦法規に関しては、その全面適用が開戦の意思 表示と判断されかねず、軍政の施行も制限された。そのため、軍政を志向する現地軍と、
阻止したい中央との綱引きのなかで、中国人による政権が成立し、これに対し現地軍の配 下に少数の日本人が「内面指導」に当たる体制が確立した。さらに領域内には第三国の諸 機関が存続し、当局を悩ませた。こうした当該地の特質は、占領地支配のなかでいかに展 開するのかについて、次節以下見ていきたい。
第2節 教育行政における「内面指導」
華北占領地の教育に関しては、先行研究で既に概況が明らかになっているが33、第1節 で確認した占領地の特質が、どのように反映されているのかについてはあまり問題にされ ていない。本節ではこの点に関わる部分に焦点を絞り、事変下という制約のなか、行政の 1領域としていかなる支配の仕組みが構築され、現地の人々に内面的働きかけがなされた のかを検討する。
1.教育行政の立ち上げと日本の関与
①顧問の設置
ここでは臨時政府教育部の機構上、日本人がどのように配置されたのか見ていくが、
その前提として、日本人顧問と北支軍との一般的関係を確認しておきたい。日本人顧問は 陸軍嘱託という身分で、その人事も北支軍司令部に握られ、同軍の強い統制下にあった。
中央の顧問として行政顧問に湯澤三千男、法制顧問に大達茂雄、軍事顧問永津佐比重が就 任した。永津の回想よれば、彼らはこの体制に不満を抱き、「私の着任早々〔1938年9 月末〕にもう辞任したいとたびたび私に不平を漏らしていたので私も慰留に困ったが、そ の不満の主因は自分らが特務部長の下に配属せられていて全く発言の余地も無いという点
を「内面指導」できる立場にあった。
教育行政の領域においては、既に言及した「政府顧問約定」第3条、「中華民国臨時政 府ハ技術家、専門家ヲ必要トスル業務ノ遂行及改善ノ為専員、技術官、教授、教官教導官 等トシテ日本軍最高指揮官ノ推薦ニヨリ日本人ヲ任用又ハ招聘ス」35の規定に基づき、日 本人が「専員、技術官、教授、教官教導官等」等の肩書で臨時政府の教育部門に入り込む ことになった。
臨時政府においては、1938年1月1日、教育行政をつかさどる教育部の組織大綱が公 布・施行されている。教育部は「全国の文化及び教育行政事務」を管理する部局として行 政院の下に置かれ、総務局・文化局・教育局の3局が設置された36。部長には湯爾和、次 長には黎世蘅が就任している37。この教育部の専員として、まず同年4月、北京師範学院 副院長として既に北京に渡っていた宇田尚が、次いで同年9月、文部省の臼井亨一が宇田 の補佐役として就任した(翌年の宇田の辞任後は、重松龍覚が後任に当たった)38。
1939年5月に開催された第1回教育行政会議の議事録で列席人員を見ると39、臨時政府
教育部及び各省・特別市の参加者に、数名ずつ日本人顧問の名前を確認することができる ことから、1939年春頃には一通り中央・地方の教育行政機関40に日本人顧問が就任したこ とが窺える。日本人顧問の立場について、約1年半教育部専員を務めた宇田は、帰国後以 下のように語っている。
現地に参ってみますると、なかへ思った通りにスラへとは参らなかったのであ ります。何故かと云ふに、現地に於ては、何と申しても交戦状態にあるのであります から、軍が凡ての推進力の中心となって一切の機構を立てゝ行くやうになって居るの が当然なるが為、軍の方の御考へと教育者の意見との間に於て、多少一致せざる所が あっても、どしべ之を行って行くやうにしなければ、万事が渋滞がちになる惧れ があるからであります41
ここでも、先述の湯澤・大達の不満と同様の構図を見て取ることができる。交戦状態を 根拠に、教育行政においても軍の意向が最優先されていた。
さて「内面指導」という政務関与の方式が、教育行政の場で具体化した1例として、臨 時政府の教育方針の策定過程について触れておきたい。この原案作成に当たったのは