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興亜院による日本人教員の派遣 1.準備から派遣開始まで

ドキュメント内 小野 美里 (ページ 63-83)

第2章 日本人教員派遣政策の展開と顧問制度 はじめに

第3節 興亜院による日本人教員の派遣 1.準備から派遣開始まで

興亜院の設置が決まると、日本国内では、各省と興亜院の業務分担が定められた。まず

⑴中国側教育諸機関に対する「内面指導」⑵中国側教育諸機関に派遣される日本人教員の 推薦に関しては、興亜院の管轄とされた。そして⑵で規定される日本人教員の選考は、文 部省が担当することになった。これにより、従来中国に対する文化事業を扱っていた外務 省は、占領地下の中国側教育機関に対する教員派遣政策からは排除されるに至った33(以 下、興亜院による中国側教育機関への日本人教員の派遣を「教員派遣」、その教員を「派遣 教員」とする)。

興亜院に設けられた経済・政治・文化の3部のうち、文化部が教員派遣に関する業務を

管轄した。当時教員派遣に携わった大志万準治の戦後の回想に拠ると、1939年4月には華 北・華中・蒙疆各連絡部の要請に基づき、文部省や各地方庁と調整のうえ、興亜院が統制 して教員を派遣すること、さらに経費は全額興亜院で負担することが決められた。最も早 い派遣として、華中連絡部の要請に基づき、1939年11月、計25名が上海へ送られた34

このように現地からの要請に対応するのと平行して、興亜院は、自らの方針の策定やそ のための調査研究に着手した。具体的には1939 年8月に、文化部により「支那文化指導 要領」「支那思想指導要領」「支那文教指導要領」等35が作成された。管見の限り史料が残 されておらず、肝心の中身を知ることができないが、ここでは占領地の文教方面の「内面 指導」をいかにするかが定められたものと考えられる。

興亜院文化部は占領地に対する日本語の普及にも力を入れており、1939年6月に同部で は「日本語普及要領」が作成された。このなかで実施すべき事項として、人材養成、日本 語の研究、地域・学習者別の普及方法の考案、教材作成等のほか、「支那側学校(小、中、

大等各種学校)に適宜日本人を配置すること」が挙げられている36。このことから、興亜 院は、前章でみたように「内面指導」の担い手として各種学校に日本人教員を配置する現 地軍の要請に応えながら、日本語普及の目的をも果たそうとしていたと考えられる。

さらに 1939年夏、調査業務を担当する政務部第3課が、国内の各領域の専門家に依頼 して、思想、教育、宗教、学術に関する現地調査を行った。そこでこの時の調査報告書か ら、派遣教員としていかなる人材を派遣すべきとの提言がなされたのかに注目したい。ま ず確認したいのは、ここに現れる現状認識、すなわちそれまで現地で採用された教員がい かに観察されているかである。

東京女子高等師範学校校長の下村壽一、同校教授の倉澤剛は現地採用で北京にて日本語 教師をしている日本人に対し「現在尚止むを得ざる事情あらんも、日本人教師には無経験 者、無資格者多く、教育者たるの自覚と熱意とに乏しき憾あり。今後は大いに人選を厳に して優秀なる日本人教師を派遣するを要す」37とその経験不足や質を問題視した。

さらに下村は、そのような日本人教員でもその学校の中国人教員はもとより、校長の俸 給をも凌ぐ高給をもらっていて、摩擦の温床になっていることを指摘している38。ここで は、支配者であるゆえに権力的・経済的には上位に立つ日本人教員が、現状ではそれに見 合う資質を備えていないことが、看過できない問題として観察されている。

そうなると、どのような人材を送り込むべきかが問題となる。同じ時期思想教育に関し

現在占領地で活動している日本人の素質の悪さが文化政策の障害になっているとの現状認 識を有し、まず民心掌握のためには、優秀な小学校教員を配置することが重要かつ手っ取 り早い方法であると提案している。それも「単に小学校の先生を狩集めて支那へ出すとい ふのでなく」、欧米の宣教師がこれまでやってきたことに倣い「各方面の調査能力を与へ、

社会的な指導能力を与」えたうえで派遣することで、はじめてその効果を発揮するとして いる39

これらの視察報告がどれだけ実際の方針作成に影響を与えたかを推定するのは難しい。

しかし占領地の現実が、支配者としての体面を保てるだけの人格を備えた人材を派遣すべ きという意識を、視察者に与えたことの意味は小さくないと思われる。

興亜院文化部は、その後 1940年9月から、「支那派遣教員錬成」を開始する(1944年 の第 11回まで継続40)。これまでの研究で、この「錬成」の内容が「情熱や体力の養成に 重点」41がおかれ、日本語教授に割かれた時間は僅かであり、教員たちは日本語教師とし ての訓練を十分に受けないまま教壇に立たされたことがわかっている。第2節で見た通り、

文化領域の「内面指導」は条件付であれ興亜院に委譲されるが、日本人を専門家として各 所に配置する構想を持っていた現地軍が、興亜院に現地の間接支配を支える資質を備えた 教員の送り込みを要請したことは想像に難くない。それに加え、興亜院は現地調査を通じ て、教員の現地採用の弊害、および語学教師としてのみ自己規定をする人材は、..........................「内面指導」

の担い手として.......

不適当...

との認識を得ていた。このことが、全国から教育者を選抜し、興亜 院がこれを「錬成」・派遣する方向性を固めたものと考えられる。

以下ではこれら教員が現地において支配当局にいかなる監督を受け、現場でどのような 立場におかれたのかを具体的に検討していきたい。

2.現地における派遣教員

①現地の監督主体

ここでは現地の派遣教員の実態を見る前提として、興亜院華北連絡部成立後の文教政策 における「内面指導」系統、および派遣教員の管轄主体について確認したい。

まず文教政策における「内面指導」系統については、本稿第1章で既述の通り、興亜院 が直接「指導」できるのは中央の臨時政府教育部(1940年3月以降は華北政務委員会教育 総署)にとどまり、地方の教育に関しては北支軍特務機関を通じた間接的「指導」しかで きない体制になっていた。軍に作戦上の理由を持ち出されると、興亜院は反対することが

の後ろ盾が無ければ安全に政策が実行できない現実もあった。従って占領地の治安が安定 し、軍が政務を手放す日が来ない限り、興亜院が現地で主導的立場に立つことは困難だっ たといえる。

「支那派遣教員錬成」が始まる2ヶ月前の 1940 年7月、現地軍は興亜院華北連絡部と 協議のうえ、地方行政機関管轄の諸学校(=初・中等学校42)に勤務する日本人を、中国 側に推薦する手順につき、以下のように定めている。

1.兵団(特務機関)ハ軍司令部ニ申請シ軍司令部ハ興亜院ヲ経テ文部省ニ銓衡方ヲ 依頼スルコト

2.文部省ハ銓衡ノ結果ヲ興亜院ヲ経テ軍司令部ニ通報スルコト 3.軍司令部ハ右通報ニ基キ推薦ノ認可ヲ行フコト

4.推薦ハ兵団(特務機関)之ヲ行フコト

これを【図2-1】のように図式化すると明白なように、興亜院は北支軍と本国の橋渡 しに過ぎず、「銓衡」を経た教員を中国側に推薦するときの認可権は北支軍司令部が握って いた。さらに教員の転任・退職・増俸についても、以下のように定められている43

(三)教員ノ身分ニ関スル事項ニシテ推薦以外ノ人事事務中転任退職ニ付テハ兵団(特 務機関)ハ軍司令部ニ申請シ軍司令部ハ興亜院ト協議ノ上決定スルコト

増俸ニ付テハ別ニ定ムル内規ニ依リ兵団(特務機関)ニ於テ之ガ執行ヲ承認シ軍司令 部ニ報告シ軍司令部ハ之ヲ興亜院ニ通報スルコト

これによれば、教員の転任・退職については、特務機関が申請したものを、軍司令部が 決定する際に、興亜院がその協議に参加する形になっていた。また増俸に関しては特務機 関が執行権を有し、興亜院は単に軍司令部を通じその結果を通知されるだけとなっている。

以上から派遣教員のうち地方管轄学校(初・中等学校)に派遣される教員に関しては、興 亜院が人事について主体的に関与できる範囲は限られており、派遣教員の進退も現地軍の 手中にあったことが確認される。このような仕組みだったため、興亜院が直接的支配下に 置くことができたのは、北京に集中する政府直轄の高等教育機関に派遣する教員にほぼ限

そのような現地の現状のなかで、興亜院華北連絡部が、各地に分散する派遣教員にでき ることは、以下の2つだった。1つは、興亜教育会という教員団体を組織し、定期的に人 を集めることである。この団体には大学教育部・専門教育部・師範教育部・中等教育部・

初等教育部と、これを統括する総務部が設けられ、各部ごとに研究・発表がなされた。ま た毎月1回、総務部が全教員を集め「其の時の治安状況や、或は各方面の情勢を肚に入れ るやうに致しまして、常に第一線に立つ者の心掛、心構へと云ふものを失はないやうに」

梃入れした44

もう1つは、彼らへの技術的サポートである。興亜院華北連絡部は現地の日本語普及の 拠点として 1940年9月に華北日本語教育研究所を設立し、日本語及び日本語教育に関す る調査研究の諸活動のほか、毎年2月に各地で選抜された日本人教員を集めて、講習会を 開催した45。こうした機関の設置は、多くは日本語教員として配置された派遣教員を技術 面で支える機能も果たしていたといえよう。

以上、現地においては、軍が政務を主導し地方行政を掌握する条件下で、派遣教員に関 し興亜院が持つ権限は限られ、彼らに対してできる政策も限られていたと整理することが できる。そうした状況を前提に、以下派遣教員の現場における実態について見ていきたい。

② 派遣教員の実態

まず派遣教員の属性やおおよその人数について確認する。【表2-3】は、天津特別市・

河北省・山西省の日本人教員を一覧にし、そのなかで派遣教員・及びその可能性が高いも のを示している。これを見ると、彼らの多くは30~40歳代で、大学・高等師範学校卒の エリートであることがわかる。また【表2-3】でも一部教員の具体的な免状を知ること ができるが、派遣教員は特別な場合を除き、教員免許を持っているものが選ばれた46。そ の人数を正確に知ることは難しいが、【表2-4】に示した通り、1940 年 11 月段階での 華北の日本人教員数が313名で、1943年3月段階での日本人教員数が549名と計算され ている。興亜院成立以降はすべての教育関係人員に「錬成」を施す方針であった47ことを 前提に、華北の派遣教員数を試算してみると(=1943年3月調査の教員人数から1940年 11月調査のそれを差し引き、さらに1940年11月より前に行われた第1回「支那派遣教 員錬成」参加者25 名を足す)、1943年3月までに、261名の派遣教員が送り込まれた計 算になる(確認できている「支那派遣教員錬成」の参加人数は、【表2-5】を参照)。1944 年まで同「錬成」は続いていることから、おそらく300名前後が派遣教員として華北に渡

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