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世界情勢に伴う対応の変化 1.反英運動とその結果

ドキュメント内 小野 美里 (ページ 91-107)

第3章 教育をめぐる相克――支配当局と第三国系高等教育機関との関係を軸と して

第3節 世界情勢に伴う対応の変化 1.反英運動とその結果

1938年5月の徐州占領、同年秋の武漢作戦の後も事変が終結しなかったことで、日本政 府は占領地経営への本格的参入に舵を切った。同年11月3日の「東亜新秩序」声明は、従 来の9ヵ国条約に基づく秩序を積極的に否定し、英米の反発を招いた。かくて第三国の権

現地では新民会の主催により積極的な反英キャンペーンが展開された。この天津英仏租界 封鎖に際し、現地軍は、緊迫する欧州情勢に伴い極東に注意を向けられなくなった英仏の 苦境をとらえ、「援蒋態度の変更、金融、経済、思想的撹乱政策の根絶」等の要求を通そ うとした41

しかし周知のように、天津租界封鎖という強硬手段は、米国からの通商航海条約破棄通 告(1939年7月)という手痛い結果を招いてしまう。入江昭が指摘するように、日本が「東 亜新秩序」建設を言明したことに呼応して、英米両国は加速度的に提携・協調の度合いを 強めていた42。米国務省からは、反英運動に関して、その矛先が英国であっても、排外感 情が米国人排斥に向かう可能性があるという理由で、日本政府へ抗議が寄せられた43。こ の段階での対英圧迫は、もはや米国の反発と切り離せないものとなっていた。

こうした現地の強硬措置の集積が、最も怖れていた米国の対日制裁の導火線となり、日 米の緊張を高めたことは、北支軍にも重く受けとめられていた。例えば1939年10月の特務 機関長会同での北支軍参謀副長の発言からも、このことが窺える。ここでは、第三国との

「無益且不用意ナル紛争ノ惹起ハ厳ニ之ヲ防止」し、事件が発生した場合には「機ヲ失セ ス善処シテ徒ラニ国際感情ヲ刺戟シ若クハ宣伝ノ具ニ供セラレサル」よう指示された。特 に対米関係は「頗ル微妙ニシテ我国策遂行上対処宜シキヲ得ルノ要切ナルモノアリ」との 事情から、反英運動についても「反英熱ガ反米熱ニ転換セサル様厳ニ留意」するよう釘が 刺された44。ここから、占領当局がいかに米国人との摩擦を懼れ、それが国際問題化し同 国世論に影響を与えることを危惧していたかを、窺い知ることができる。それゆえ現地軍 は、支配領域内で生じる米国人との摩擦を、何とか局地的に解決すべく手を焼いたのであ った。

2.「思想戦」の展開

上に見たような国際情勢に加え、華北占領地内部においては、共産党に対する「治安戦」

が総力戦化し、「思想戦」の重要性が浮上するようになった。ここでは、華北占領地にお いて文教領域への働きかけの重要性が高まり、それが第三国教育機関への統制へと展開す る過程を確認する。

①「治安戦」の総力戦化

国民党の正規軍が華北から撤退すると、共産党八路軍の根拠地が拡大し、その勢力が大 きくなっていた。北支軍は武漢占領後、「治安確保」のため増強され、1939年1月から1940

北支軍も1940年には「討伐重点を全面的に中共軍に指向」するとともに、「粛正建設の促 進」と「面的..

治安地域の拡大」をはかる方向に転じた45。このように共産党に対する「治 安戦」が総力戦化するなかで、思想面での働きかけが重視されるに至った46

ここで日本軍部が構想する総力戦において、「思想戦」が担った役割について確認して おきたい。纐纈厚の研究によると、第1次世界大戦後に登場した総力戦の特徴は、武力戦 の相対的地位を低下させ、武力以外の諸力の重要性を高めるところにあった。軍部は、総 力戦の勝敗は、軍事・工業力のみならず、「団結力・意志力」にも左右されると認識する ようになり、1920年代後半から、平時においては国民の思想的・精神的団結を、戦時にお いては長期戦にたえ得る国民の意志力を要請するようになった47。そのため、マスメディ アを動員した宣伝に力が入れられるようになった。さらに1930年代に入ると軍部の構想す る国家総動員体制の実現のため、また当時の社会状況を反映し、思想・治安対策の強化が 要請され、治安・思想弾圧体制とそれによる国家統合システムの完成が目指されるに至っ た。その手段として、マスメディア統制・講習会・軍の外郭団体を通じた排外思想の喚起 や、スローガンの宣伝・浸透が図られるようになるのである。

それでは、華北占領地では「思想戦」はどのような固有の展開をみせるのだろうか。後 述するように、その具体的内容には、治安・思想弾圧体制の強化や講習会の開催、報道機 関・教育機関・新民会等を利用した反共思想・排外思想の喚起、「東亜新秩序」等のスロー ガンの宣伝等が挙げられる。これら内容から、華北占領地で展開した「思想戦」は、上に 見た軍部の総力戦構想によるそれと大差ないといえよう。ただし華北占領地は、行政の主 導権が北支軍によって掌握されていたため、総力戦構想をより強力に体現できる場であっ たということができる。

1940年4月以降、北支軍は「昭和15年度第1期粛正建設計画」を制定する。そしてこれ をもとに「華北ニ於ケル思想戦指導要綱」を策定し、管下の諸機関に実行を要請した。同 軍が前面に押し出したのは「滅共親日思想の普及徹底」であり、その内容は、単なる宣伝 にとどまらず、総力戦に融合された.........

「戦い」....

として思想攻勢を行い..........

、共産主義の排除・「東 亜新秩序」実現にむけた思想統一を図り、末端組織を通じて華北民衆に「滅共親日」思想 を醸成しようとするものであった48。この要綱の「指導要領」全10項目のうち、教育に関 連しては、以下のように規定されている49

全機関ヲシテ渾然一体タラシメ、以テ各々其ノ機能ノ特性ヲ発揮セシム

〔二~六項略〕

七、教育ノ指導方針及内容ヲ是正スルト共ニ、初等教育及青少年訓練ヲ強調シ、亦宗 教団体ヲ適正ニ指導シ、以テ新中国ノ建設ニ奮起セシム

〔八~九項略〕

十、現下ニ在リテハ、政治、経済、教育及文化ニ関スル諸般ノ施策ハ、特ニ思想対策 ヲ顧慮シテ実施セラルヘキモノトス

このようにして、華北占領地において文教政策が、総力戦体制のなかで一定の比重をも って位置付けられるようになったことに注意したい。別冊の「華北ニ於ケル思想戦指導要 綱附録書」では、宣伝・民組織工作・模範地区工作・新民会指導要領、言論・結社の取締 り、また演劇・映画に対する統制とその利用などについて、細かい指示がなされた。

さらに1940年夏から同年末までに繰り広げられた共産党八路軍による百団作戦50は、華 北の占領地支配に大きな衝撃を与えた。これにより、北支軍は根底的に共産党の威力に対 する認識を改め、1941年になると抗日根拠地に対し徹底した「治安粛正」に乗り出すこと になる。同軍が作成した「昭和16年度粛正建設計画」でも、粛正の重点を「剿共」に置き、

そこに軍官民の総力..

を統合するとの決定がなされた。そして同年夏以降、「粛正建設三ヵ年 計画」が立てられ、抗日根拠地に対して苛酷な粛正作戦(中国側から「三光作戦」と呼ばれ ている)を展開、軍事に政治・経済等の諸施策を結合させ、中国側の行政機関・治安軍・

郷村の自衛組織・新民会を総動員することになった51

②「思想戦」の転換

さらに、1940年に独伊との提携や北部仏印進駐などにより米英との対立が一層深まると、

1941年の「思想戦」は反米英的要素が加味されて展開されることとなる。英語及び共産思 想や自由主義思想にとって代るものとして、日本語及び「東亜新秩序」理念・新民主義等 自前のイデオロギーが対置され、その宣揚がさかんに行われた。

例えば北支軍司令部が作成した「昭和十六年度思想戦指導要領」の「文化統制」の項に おいては、「公正ナル文化統制ヲ企画シ、特ニ英米系ノ反枢軸自由主義文化ニ対シテハ強 力ニ是正スルト共ニ、全体主義的王道政治ヲ以テ逐次之ニ置換スル如ク指導」する方針が 述べられた。ここでは、学校で英語を使用することを「逐次減少」させ、「日本語ノ普及

「邦人一人々々カ皇道宣布ノ戦士」となるべきことが示されている52

こうした方面軍の方針は、教育機関の「内面指導」にあたる日本人に伝えられ、その実 行が促された。この経路が窺える史料として、1941年5月の各省特別市日本人教育行政職 員会議53における北支軍参謀長(田辺盛武)の挨拶を見てみよう。

本年度ニ於ケル思想文化工作ノ重点ハ支那側智識層就中青少年ヲ主ナル対象トシ英米 蘇依存心ヨリ脱却シ皇国ニ倚ルニアラサレハ何事モ為シ得サル所以ヲ体得セシメ以テ 日支提携合作ニ転換セシムルト共ニ徹底的剿共ニ邁進セシムル如ク指導スルニ在リ 之カ為日本語ノ普及有識層ノ思想監督、第三国系学校及基督教ノ指導強化、師範学校 小学校ノ拡充、新教科書ノ普及、並ニ農事教育ノ励行等ニ特ニ力ヲ注キ、其ノ実績ノ 向上ヲ期スルコト肝要ナリト信ス54

ここでは1941年度段階での文化政策の重点は学生をはじめとするエリート層にあるこ とが明確に述べられている。そこで「日支提携合作」「徹底的剿共」に並んで「英米蘇依 存心ヨリ脱却」が目指され、その処方箋として、日本語の普及やエリート層の思想監督、

第三国系教育機関の「指導強化」などが掲げられているのである。

以上見てきたように「治安戦」が総力戦化するなかで、文化領域での働きかけは「思想 戦」として再定義され、重要視されるに至った。その内容も、共産主義の排除・親日感情 の醸成に、英米ソの影響力の払拭といった排外的要素が強まっていった。

③第三国系教育機関に対する統制強化

ここでは、上に見たように「思想戦」が展開するなか、第三国系学校の統制がいかに強 化されたかを具体的に見ていきたい。

1941年1月20日、興亜院華北連絡部により、「北支那ニ於ケル第三国系宗教団体指導要 領」「北支那ニ於ケル第三国系学校指導要領」55が作成された。

「北支那ニ於ケル第三国系学校指導要領」の「指導要領」では、第三国系学校と、中国 学生を対象とする学校とでは、その指導を区別し、前者に対しては「北支那ニ於ケル学校 教育指導要領ニ準拠セシムルハ勿論ナルモ文化ノ特質ト国際関係ノ複雑性トニ鑑ミ恩威ヲ 併用セシム」としている。さらに、既に開校している学校以外は新設を許さないこと、既 に開校している学校に対しては、現地政権の教育方針を厳守させること、そして「日本人

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