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対華「新政策」と華北占領地 1.アジア太平洋戦争の勃発と「新政策」

ドキュメント内 小野 美里 (ページ 140-143)

第5章 アジア太平洋戦争期の日本人教員派遣と華北日本語教育界の変容 はじめに

第1節 対華「新政策」と華北占領地 1.アジア太平洋戦争の勃発と「新政策」

まずアジア太平洋戦争開始後における、華北占領地の位置付けの変化を確認しておく。

開戦に伴う華北の政務については、1941年11月22日「あ号(ママ)作戦ニ伴フ支那ニ於ケル政 務指導腹案」(支那派遣軍参謀部)、及び開戦当初の「対英米開戦ノ場合ニ於ケル北支政務 指導要領」によって示された10。これを受け北支軍参謀副長は、政務関係将校を集めた会 合上で、「現下情勢ニ於テ華北施策ノ重要ナルモノ」として、「治安民生ノ確立」「重要国防 資源ノ増産、増送」「現地自活ノ強化」「金融経済ノ安定」「食糧問題ノ解決」を挙げている。

同じ会合上、特に食料自給に関して、「今次戦争ノ勃発ハ北支食糧ノ管外依存性ニ致命的打

撃ヲ加へ愈々以テ自立自営、日華軍官民ヲ通スル食糧自給態勢へ強力且着実ニ邁進セサル ヲ得サル」との危機感が、北支軍参謀部第4課高級参謀によって表明されている11

本国でも、開戦に先立つ1941年11月29日、興亜院連絡委員会で諒解された「戦局拡 大ノ場合ニ応スル支那側指導要領」12において、中国占領地に対し、戦争協力、「自給自存」

「財政金融ノ安定」「食糧ノ増産」「必需物資ノ獲得」等が要求されている。

以上から、アジア太平洋戦争勃発後の華北占領地には、従来の課題である治安維持・現 地の食料自給体制の一層の確立に加え、戦争協力・戦争遂行のための兵站基地化という新 たな役割が課せられたことがわかる。上記史料によれば、こうした位置付けに関しては本 国・現地共に認識が共有されており、特に現地では食糧自給への危機感が強かった。こう した変化を前提に、以下汪政権参戦・「新政策」に至る道程を追っていこう。

本国では1942年9月、「大東亜共栄圏」の占領地業務を一元的に管轄する大東亜省の設 置が決定された。この時外務省は、興亜院の拡張(作戦従属的・内政的性格)ではなく、

外務省管下に組織を新設する構想を、外相東郷茂徳を中心に有していた。結局は前者に落 ち着き、東郷は辞任するに至る。しかし外務省は、同年 11 月に成立した大東亜省におい て重要ポストを得、後の「新政策」を牽引する下地を形成した13

1942年末になると、汪政権参戦の可否をめぐり日本国内で議論がおこる。国権回復を期 待し、汪政権側が参戦を希望したといわれるが、その動機の真相は十分明らかになってい ない。時の駐華大使・重光葵は、同ポストに着任する前から、中国のナショナリズムの高 まりや「脱植民地」の動きを不可逆的なものと評価し、「主権尊重」「独立平等」を基礎に 両国関係を構築する構想を有しており、汪政権参戦のタイミングで、これを実現すべく、

政府・軍部の各方面へ精力的に働きかけた14。しかし現地政権への独立性の付与が戦局に 与える効果や現実的問題をめぐり、政府および、陸海軍・参謀本部・大東亜省の間の調整 は困難を極めた。結局、天皇の意図や、アジア太平洋戦争の戦局悪化、中国戦線の戦力負 担軽減の必要性等により、以下のような「新政策」が打ち出されることになる。

1942年12月21日御前会議にて、「大東亜戦争完遂ノ為ノ対支処理根本方針」が決定す る。ここで、汪政権の参戦、および同政権(華北政務委員会も含む)に対する干渉の排除、

自発的活動の促進、政治力強化、戦争協力(生産増強・民心教導・治安維持の強化)の徹 底、租界・治外法権等撤廃への調整などが国策として定められた15

これを受け、翌1943年1月9日、汪政権は米英両国に宣戦布告した。

2.現地の対応

「新政策」の決定を受け、華北占領地の北支軍においても、1943年初頭から趣旨の徹底 が図られた。北支軍司令官岡村寧次は、本国の大本営で直接新方針の主旨説明を受け華北 へ帰還、1943年1月7日に各兵団参謀長及び政務主任担当者を集め、以下のように新方針 の実行を主張した16

従来、日本側、特に軍が行政、経済面などにおいて出過ぎた態度をとり、中国側の立 ち場を無視し、その自主性を損なうということが一部において行われた。…軍は、新 方針の趣旨により軍本然の姿に遷る。

これを受けて、北支軍においては本来の作戦行動に専念すべく舵がきられた。1943年2 月には、現地軍の政務関与の根拠となっていた戦時高等司令部勤務令(「軍司令官ハ軍ノ作 戦地域ニ於ル行政ヲ統監」)が改正され、各軍司令官の行政統監が禁じられたうえ、各軍参 謀部の政務を担当する課も廃止が決まった17。同年3月には北支軍特務機関は陸軍連絡部 に改編され、従来中国側に対し実施していた「内面指導」に代わり、「好意的支援」を行う とされた。同じ時期、新民会の日系職員の多数転出も行われている。華北占領地の政務を 担当していた参謀部第4課も撤廃され、職員の一部は転出、他は同部第3課に編入された。

これにより当該地の政務は、中央に関しては大東亜省北京大使館事務所および領事館が、

地方に関しては、省以上では中国行政顧問府顧問兼新民会顧問が、省以下では陸軍連絡部 が担当することになった18

そして1938年4月に締結された「政府顧問約定/同附属約定」(以下、「顧問約定」)も 廃止される(1943年3月25日)19。この顧問約定が、当時の北支軍最高司令官寺内寿一 と、臨時政府行政委員長王克敏との間に結ばれ、現地軍による中国側機関の「内面指導」

の根拠となっていたことは、本稿第2章で既述の通りである。

こうした一連の措置から、軍による政務関与が、国策のうえで明確に否定されたという ことができる。少なくとも制度のうえでは、「新政策」をきっかけに、占領地経営の根幹部 分に変更が加えられたのである。これが現地社会にいかなる影響を与えたかを、次節以下 で見ていきたい。

ドキュメント内 小野 美里 (ページ 140-143)