第2章 日本人教員派遣政策の展開と顧問制度 はじめに
第1節 「内面指導」支配の始動
ここでは臨時政府においていかに顧問制度がたちあがり、いかなる内容を備えたのかを 検討する。1938年4月に北支軍と臨時政府との間に「政府顧問約定/同附属約定」が締結 されたことは、既に第1章で言及したが、本章ではその制定過程や中身について、詳しく 見ていきたい(以下、「政府顧問約定」を顧問約定、「附属約定」を附属約定と、括弧を外 して表記する)。
同約定は、1938年4月27日、北支軍司令官寺内寿一と、臨時政府行政委員会委員長の 王克敏との間に締結された。条文は全8条からなり、どの部門に日本人顧問を配置するか
を主に規定している9。まず第1条では「所要ノ人員」を政府の「中央及地方顧問並ニ同輔 佐官」として「行政法制軍事治安及警務等ノ事項」に「協力援助」させるとした。そして 第3条で、「技術家、専門家ヲ必要トスル業務ノ遂行及改善ノ為専員、技術官、教授、教官 教導官等トシテ日本軍最高指揮官ノ推薦ニヨリ日本人ヲ任用又ハ招聘ス」と、特定の専門・
技術領域に人材を配置することを規定している。そして第1・第3条どちらの人員につい ても、身分・権限・待遇・配置等の詳細は、別に附属約定において規定することが明記さ れている(第2・4条)。
この約定の制定過程については、管見の限り史料が多く残されておらず、詳細がわから ないのが現状である。そこで本国中央で作成された、現地政権に対する顧問派遣方針に関 する史料を確認し、それが実際の顧問約定にいかに反映されているかを検討したい。
まず臨時政府成立直後の中央の方針として、1937年12月24日の閣議決定「事変対処 要綱」のなかの、「北支処理方針」を見てみたい。ここでは、臨時政府には日系官吏を就任 させて細部にわたる政務干渉を行うようなことはせず、「我方ノ指導ハ大綱ニ関スル邦人顧 問ノ内面指導ニ止メ」、つまり顧問による間接支配.........
を採用することが方針として示された10。 ここで回避すべき対象と想定されているのは、明らかに日系官吏が大量に就任している満 洲国の前例である。満洲国の場合、全官吏数に占める日系官吏の比率は、1935年のデータ で48%に達していた11。
また政府中央の決定事項ではないが、北支軍との連絡のために 1938年1月6日に陸軍 中央から出された「政務指導に関し陸軍次官の北支那方面軍との連絡事項」12でも、「支那 の主権を尊重し且満洲国指導の教訓に鑑み指導の大綱は帝国に於て之を把握するも細部の 干渉に堕せず」と、満洲国の轍を踏まず、新たな政務「指導」方式をとるべきことが指示 された。すなわち、この政権と間に「軍事、思想、外交、内政、経済、文化等諸般に至る 提携協助に関する不動の大綱を基本的に約定」し、「細部に関するものは附属的に逐次締約」
することが指示されたのである。この政務関与事項の広範さは「支那の主権を尊重」とい う文言と整合しないが、はじめに大まかな「大綱」を定め、後々詳細を協議によって決め るという2段構えにすることで、露骨な内政干渉を見えにくくする狙いがあったと考えら れる。
実際の顧問約定でも、本文では、顧問等の人事・権限・待遇、技術家等が「招聘」され る具体的な場などの詳細には触れられず、これらは附属約定で定めるという構成になって
を、ある程度反映したものと理解することが可能であろう。
また、同「連絡事項」では、臨時政府と上の約定を結ぶ主体が、現地軍の司令官とされ ている。その背景には、この時点で日本政府として臨時政府を承認できないことがあった。
陸軍は作戦中の政務機関は現地軍にあると認めいていたので13、まず現地軍が約定の締結 主体となり、将来臨時政府が、日本政府によって中央政府として承認されるだけの実力を 備えるに至ったとき、改めて日本政府がこの約定を追認する段取りであった。実際の顧問 約定は、北支軍司令官寺内寿一と、臨時政府の王克敏との間に締結されているから、この 点も中央の指示と一致する。ただこの時点では作戦終了までの措置と想定されていた現地 軍の政務関与は、その後事変が終わらなかった..........
ために常態化するに至る。このことが後に 興亜院が設置されたとき、業務移行が円滑に行われない要因となった。
さて以上のように中央の方針と対照させたとき、実際に締結された約定は、その基本構 成や締結主体に関しては、中央の意向を大きく逸脱しない形で作成されたことがわかった。
一方両者の間で大きなズレが生じているのは、実際の約定では新政権に「協力」する日 本人に、2つの種別が設けられた点である。すなわち、第1条で規定される中央・地方行 政機関に対する「中央及地方顧問並ニ同輔佐官」と、第3条で規定される「専員、技術官、
教授、教官教導官等」の2種類が設定されたのである(以下前者を「顧問・補佐官」後者 を「技術・専門家」とする)。
この区分はいかなる経緯によって設けられたのだろうか。上述の「連絡事項」が作成さ れたのと同じ月(1938年1月)の26日、北支軍は陸軍中央へ向けて、中央及び地方(省・
特別市)に対し軍事・経済・政治・法律の4部門に顧問・補佐官を派遣する計画を伝えて いる14。ここで北支軍は、法制顧問に大達茂雄、経済顧問に平生釟三郎を推薦したいこと を述べ、軍事及び行政顧問の人選を陸軍中央へ依頼している。なお省及び特別市の軍事関 係顧問は、現地の人材(冀東自治政府や各治安維持会等の関係者)で充当予定とされた。
しかしここでは「技術・専門家」の派遣については一切言及がない。
これに対する陸軍中央の反応として注目すべきは、「日本人顧問モ総テ軍司令部附トシ テ間接ニ内面指導スルノミニテ支那政権内ニハ直接ニ入ラサルコト」、つまり日本人顧問は 軍司令部附とし、政府内に入れないようにすべしとの指示がなされたことである15。ここ では、現地軍が顧問として充当するとした現地の人材に対しても、強い不信感が表明され、
この際現地採用の顧問をすべて調査し報告するよう求めている16。以上より、あくまで中
する陸軍中央の意向を読み取ることができよう。
また1937年12月7日、王克敏に面会した梨本祐平の回想では、王が「日本と協定する 軍事、交通その他特殊な技術部門を除いては、日本人の顧問も職員も採らないつもり」で あり、北支軍司令官の了解も得ていると述べたという17。これが事実だとすれば、王が日 本人顧問・官吏の受け入れを限定的にする約束を、就任前に日本軍との間でとりつけた可 能性がある。
以上から、日本人が政府に入ることを最小限にとどめようとする中国側と、現地軍が勝 手に臨時政府に顧問を入れることを警戒する陸軍中央の意向を調整した結果、顧問・補佐 官は少数にとどめ、その他必要な部分に「技術・専門家」の肩書きで臨時政府に送り込む 方向で、約定の策定がなされたと考えられる。
それを裏書するように、「顧問・補佐官」と「技術・専門家」とは、その身分に違いが 設けられている。前者の肩書きで派遣される人員は、附属約定において軍嘱託か現役軍人、
または応召中の軍人と定められており、先述の中央からの注文に応える形になっている。
しかし後者の肩書きで派遣される人員は、附属約定では「総テ中華民国ノ職員トシ中華民 国臨時政府ノ命令規定ニ拠リ所管業務ヲ執行スル」18、つまり臨時政府に直接入ることが 規定されている(第13条)。よって確かに顧問の肩書きで臨時政府に入り込む人数は限ら れていても、「技術・専門家」という名目で直接臨時政府に日本人が入り込む余地が用意さ れたのであった。
以上から、華北占領地の顧問制度は、満洲国において創出された「内面指導」という政 務関与方式を踏襲しつつも、そこにおける日系官吏の大量就任を否定し、それに変わる形 で、新たに構築されたものであることが指摘できる。臨時政府には日系官吏が表立って就 任せず、顧問も臨時政府に所属せず軍司令部附となった。ただこれまでの先行研究でも指 摘される通り、顧問の人事は軍司令部が掌握し、中国側には拒否する権利も辞めさせる権 利もなく、また顧問への相談なしに重要事項を実行することはできなかった19。従ってこ うした措置は新政府の主権尊重に基づくものではなく、あくまで対外関係への配慮に基づ くものであった。さらには顧問ではなく「技術・専門家」という名目で日本人が臨時政府 へ「招聘」されることになった。次章ではこうした「技術・専門家」の派遣政策のなかに、
各学校への日本人教員の「招聘」が位置付けられること、そしてその政策に新たに成立し た興亜院がいかに参画してくるのかを検討する。