第 9 章 所得保障機能と持続可能性を両立させる年金制度の構築 169
9.3 公的年金への参加のインセンティブ
9.3.1 被用者年金の適用拡大と個人の就業行動 , 企業の採用行動の中立性
2004年改革を通じて年金財政の健全性が大きく改善され,それを保つための様々なイン センティブが制度設計に導入されたことにより, 公的年金改革の主要なテーマは被用者年 金の適用範囲や, 参加のインセンティブへ移ったのではないかと考えられる. 第8章では, 被用者年金の適用拡大が公的年金財政に及ぼす影響を検証した. その結果, 被用者年金の 適用拡大は, 国民年金保険料の未納者や未加入者を被用者年金に加入させることを通じて, 将来の低年金者や無年金者を防ぐと同時に, 年金財政の健全性を高める可能性も十分にあ ることが示唆された.
そのような観点から, 改めて公的年金への参加のインセンティブを考察する. 被用者年 金の適用拡大の意義は, 新たに適用される者が第 1号被保険者か, それとも第3号被保険 者かによって大きく異なる. 第8章でも論じたように, 第1号被保険者の場合は, 新規採 用の抑制, 労働市場の流動化を背景に非正規雇用者としてしか就業できず, 被用者年金へ 加入できなかった者への所得保障の意味合いが大きい.
正規雇用者として就業することを望みながら非正規雇用者として就業している者にとっ て, 被用者年金の適用拡大は望むところだろう. 他方で,その際に問題になるのが事業主や 現行制度の下でメリットを得ている者をいかに説得するかである. 適用範囲が拡大されな かった理由は, 権丈 (2006) が指摘するように, 「パート労働を多く抱える産業, そして目 下, パートで働く既婚女性の反対*2」であった.
第3号被保険者は直接保険料を負担しておらず, 被用者年金が基礎年金拠出金を負担し, それを根拠に年金受給権を得ている. 第5章で論じたように, 厚生労働省は扶養者が拠出 した保険料に第 3号被保険者分が含まれていると説明しており, 第2章で論じたように, そのために年金給付は個人単位化されたが, 保険料負担は完全には個人単位化されていな いといえる.
その場合, 第3号被保険者にとってはその適用条件から外れないように働くインセン ティブが生じる*3. 第5章で論じたように, そのことが基礎年金全額税方式化の根拠の1 つにされている. それに対し, 本論では権丈 (2006) や堀 (2005; 2009) と同様に, 第3号
*2権丈(2006), p.165.
*3医療保険料を負担しなければならないことも含めると, その影響はさらに大きくなる. 医療保険の側面から は,第1号被保険者である被用者年金被保険者の被扶養者も同様のインセンティブがある.
9.3 公的年金への参加のインセンティブ 173 被保険者に留まることのインセンティブをなくさせるような制度改革を支持したい. すな わち, 第5章でも論じたように第3号被保険者の範囲を縮小し, そこに留まるメリットを 失わせる. 加えて, 事業主負担の所得型付加価値税への切り替えなど, 個人の就業行動や企 業の採用行動に対して中立的な負担システムの導入である*4.
9.3.2 公的年金未加入者 , 保険料未納者の参加のインセンティブと社会保
障教育
第5章で論じたように, 現行制度が直面する重要な課題の1つは公的年金未加入者, 保 険料未納者の存在であり, 第3号被保険者問題と同様に, 税方式移行論の重要な根拠の 1 つに数えられる. それに対し, 本論では, 堀 (2009) などが主張するように, 社会保障教育 の充実が重要であると考える.
それは, 以下の 2つの理由からである. 第1に, 年金不信の理由には妥当なものもあ るが, 誤解に基づくものも存在するためである. 第1章で取り上げ, 社会保障国民会議
(2008) や第7章の試算結果が示すように, 国民年金保険料の納付率低下による年金財政破
綻論はその一例である. 誤解が年金不信を生み, 保険料納付率が低下することは避けるべ きである.
それを解消するためには正確な情報を十分に伝えることが重要であり, 学校教育の現場 から積み重ねていく取り組みにも期待が集まっている. 現在, 厚生労働省では『社会保障 の教育推進に関する検討会』が政策統括官の私的な会議として設置され, 学校教育を通じ てわが国の社会保障制度を正確に伝えるための試みが始められている.
第2に, 公的年金の趣旨が十分に理解されなかったことに起因する問題が存在するため である*5. その一例が, 学生無年金障害者訴訟である. 1991 年度に20歳以上の全国民に 公的年金への加入を義務付けるまで, 20歳以上の学生は任意加入とされていた. そのため, 任意加入しなかった学生が不幸にして障害者になったとしても障害年金は給付されない.
ところが, 2001年7月以降, 学生無年金者障害訴訟が提起された. 20歳に達する以前の
傷病により障害者になった者は, 障害の程度が支給要件を満たせば障害基礎年金が支給さ れるためである. その背景には, 20歳に達していないものは国民年金に加入できなかった
*4権丈(2006)は, 「社会保険料負担を嫌う企業, もしくは個人の間で, 社会保険料納付を避けるために自ら
の選択行動を変え,その結果,代替効果が生じ非効率が発生しないように―具体的には,掛け持ちパートが生じな いように総報酬を保険料賦課ベースとする方向への改革をすすめたり,正規労働者と派遣労働者との間の労務費 の違いをなくすように, 派遣業サイドに社会保険料支払い義務を課したり―する」ことを提言している(権丈, 2006, p.157).
*5以下,堀 (2009), pp.399–407に沿っている.
ため, そのような福祉的な措置が採用された事情がある.
訴訟の争点になったのは, 以下の2点である. 第1に, 「20歳前障害者には障害基礎年 金を支給するのに, 学生無年金障害者には支給しないことが, 法の下の平等を規定した憲 法第14条第1項に違反する」というものである. 第2に,「学生無年金障害者を救済する 措置を講じなかった立法の不作為について, 国家賠償請求が認められるか」である*6.
2004年3月に東京地裁で下された判決では原告側の勝訴 (東京地判平成16年3月24 日判事1852号3頁) となり, 以後しばらくは原告側の勝利が続いた. しかしながら, 2005 年3月の東京高裁による原告敗訴の判決 (東京高判平成17 年3月25日民集61巻6号 2463頁) 後は, 原告敗訴の判決が続き, 最高裁においても原告敗訴の判決が下された.
社会保険の論理からすれば, 任意加入の時期に公的年金に加入せず, そのために障害者 となった後に障害年金が支給されないことを是とした高裁や最高裁の判決は妥当である. もし支給されれば, 同時期に公的年金に加入し, 保険料を負担した者との間で著しい不公 平が生じる*7.
また, 東京地裁判決を契機とする2004年制定の「特定障害者に対する特別障害給付金 の支給に関する法律」において, 学生無年金障害者への特別障害給付金の支給が規定され た. それを社会扶助給付と位置付け, 保険料納付のインセンティブを失わせない支給要件, 給付水準を守る限りは妥当である.
学生無年金障害者訴訟における問題の本質は, 国民年金の趣旨への理解が十分ではな かったことにあると考えられる. 第5章でも論じたように, 公的年金は長寿のみではなく, 障害の発生や遺族になるリスクにも対応している. それら性格の異なるリスクに1種類の 保険料で対応する保険を民間企業が供給することは困難である. 公的年金への未加入, 保 険料免除の未申請のインセンティブは, 公的年金の趣旨を十分に理解する限り大きくない. しかしながら, それらのことが十分に認知されているとは言い難い. 学生無年金障害者 訴訟はそれ故に生じた悲劇と考えられる. 公的年金は国民の信頼の上に成り立つ制度であ る. その信頼がその理念や枠組みへの誤解, メリットへの理解不足によって失われたとこ ろが大きいのであれば, 社会保障の趣旨が国民に浸透する取り組みの深化が図られなけれ ばならない.
*6「20歳未満の疾病によって20歳以後に障害者(20歳前障害者)になったと主張する者にかかる訴訟」も 存在するが, 障害の原因となった疾病の初診日が20歳以前か以後かが争点とされた. 本論の趣旨から外れるた め,ここでは論じない.
*72010年3月に決定され, 2011年1月から一時的に施行された,いわゆる「運用三号」問題も同じような不 公平を生む.