第 1 章 中国の女性雇用における経済・社会制度の歴史分析
3. 経済・制度の変遷における中国女性の雇用
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図5. 経済・社会制度の変遷からみた女性登用の三つの要素
(出所)筆者作成
つぎでは,経済体制から社会主義市場経済への体制移行が中国女性の雇用に影響する各 法令を整理するゆえに,歴史分析で,中国の女性雇用における根本的な問題を明らかにした い。
46 ようになった98。
1949 年から1978年の改革開放まで,中国は社会主義計画経済政策の影響で,平均分配 制度が導入された。企業の側面では,この時期の企業は,完全に国の指令により運営された ため,生産から販売まですべての経営活動に対する主導権がなかった。同様に,企業側は,
労働者に関する採用,給与,福利や定年などの労働政策について,国が決定した条例を遵守 するしかできなかった。中国政府が国家の経済活動のみならず,国民の身分と生活について も強い主導権を握っており,男女問わず労働力を強制的で平均的に分配していた。平均分配 制度の下で,労働者の就業先はすべて国が決定したため,男女とも自分の強みや能力により 職業選択する自由がなかった。その反面,失業者は極めて少なく,男女の賃金差も少なかっ たので,この時期の女性労働者はかなり増加していた。しかし,男女平等の就業制度に対し て,当時の定年制度においての平等性は割りと低かった。1957年,中国の国務院が公布し た「ワーカー・職員の定年に関する暫定規定」のなかで,男性ワーカー・職員の定年年齢は 60歳に対して,女性ワーカーの定年年齢は50歳,女性職員の定年年齢は55歳と規定され た。この差別化された定年制度は,現在の中国社会にも大きな影響を与えている。
社会的側面では,まず,都市労働者でみると,1950年に公布された「婚姻法」のなかで,
女性は男性と平等の地位であることを規定し,家事労働は男性の仕事場における労働と同 様に評価すべきであることを明確にした。そして,1953年施行された「労働保険条例」と 1955年の「女性労働者の産休期間に関する通知」のなかで,生理・妊娠・出産・授乳とい う特殊時期の保護,産休時期に対する経済的補助や産休期間についての規定を明確にした。
それに対して,農村では,男女の差が都市部に比べて大きかった。人民公社で生産活動を行 っている農民は毎日の労働を終えると,「工分」という一定の点数が付与され,月ごとで「工 分」に基づき,定額の食料が配給された。しかし,女性労働者の場合は,出勤時間や生産能 率にもかかわらず,最大でも男性労働者8割の「工分」しか付与されないのが一般的なやり 方であった99。そのため,親は,将来,より多くの食料をもらうため,中国文化にもともと 潜在している「男尊女卑」意識に加えて,男児が欲しいという願望が非常に強かった。この 意識は長い間に,中国人口の男女比率に大きく影響している。中国における多くの内陸の山 間部などの農村地域では,現在も男尊女卑のケースや強い男性優位の意識はみられる。
98 陳益元(2012)p.106
99 斉美勝(2009) pp.86-87
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第2期(1966~1978年11月):文化大革命と男性化100された女性労働者
1966年から1976 年に渡った文化大革命時期では,経済の停滞と教育の崩壊に伴い,社 会全体は極めて混乱な状態に陥った。しかし,この時期に提唱されていた反封建意識は,政 治運動に参加している女性に大きく影響した。一部独立した能力のある女性たちは,すべて の領域においても,男性に負けないといった理論を強く主張していたため,女性の政治参加 率や女性の雇用率は一時的に高かった。
企業側面からみると,当時の中国は,重工業を優先する経済発展戦略をとっていたが,文 化大革命の期間で,非科学的な指導方針によって,多くの企業は事実上,倒産や生産停止の 状態になった。一方,文化大革命時期のなかで稼働している数の少ない企業は,ほとんど製 造業に集中しているため,多くの生産工場では,従業員の能力を評価する際に,肉体的能力 が重要な評価基準になった。女性たちは,出産・育児の時期にかかわらず,男性と同じ労働 基準や労働環境の下で働いている。その結果,女性の企業への貢献は男性に比べて少ないた め,高く評価をもらえなかった女性は当然管理職への登用ができなくなった。こうした雇用 背景に対し,中国政府は,新たな雇用制度を探らざるをえないこととなった。
第3期(1978年12月~1987年9月):改革開放政策と女性雇用
文化大革命が終結直後の70年代末から80年代初めでは,社会全体が低迷であった一方,
社会の復活政策,企業の改革や人口問題に関する行動が盛んであった。1978 年 12 月に開 かれた中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第11期3中全会)では,経済建設 を中心とする改革開放政策が採択された。その後,1981年11月の第5回人民代表大会第4 次会議では,経済体制改革は社会主義社会主義計画経済体制の維持を前提として,「市場調 節」の補助的機能を発揮していくとの基本方針が決められた。その時期における「市場調節」
機能を有する大半の中国企業は依然として,国家の生産指令を遵守する国有企業であった が,市場の変化と需要に応じて生産を行う企業も初めて現れた。
一方,社会主義市場経済改革の進展に伴い,企業の所有形態や経営形態に関する改革傾向 もみられた。1982年9月の中国共産党第12 次全国代表大会で,企業の所有形態は公有制 のほかに,私有制における私営企業や自営業も検討された。この時期,国家の発展目標は工 業・農業・国防・科学技術の現代化の実現を目指していた一方,国防工業・重工業から軽工
100 ここでの「男性化」とは,男性を中心とした労働基準や評価システムに基づいて,制定された昇進・
登用制度である。
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業や第三産業へのシフトが始められた。また,経済建設の刺激を受けて,農村部の労働人口 の都市への移動傾向もみられたとともに,中国国務院は,1984年に「農民の城鎮への戸籍 移転問題に関する通知」を公布し,労働人口は農村部から都市への移動が認められた。
企業側面では,1982年中国憲法が改正された憲法(別称:「八二憲法」)のなかで,1)女 性の権利と利益を保護する,2)同じ職種における男女の給料は同じである,3)女性幹部の 育成と昇進を促進する,という方針が規定された。この時期,大半の企業はまだ国有企業で あったため,旧社会主義計画経済体制の影響で,就職先も国家に決められた夫婦ふたりが同 じ企業で働くケース101はよくみられていた。旧国有企業は,生産を目標として作られた生産 部門のみならず,従業員の生活に関する関連部門も数多く設置された大きな組織であった ため,企業のしたに附属される売店,食堂,旅館,病院,運輸隊(通勤バス,従業員転居用 トラックなど福祉用)ないし,保育園から中学までの教育施設も存在していた。特に,企業 附属の育児・教育施設も豊かであったため,女性は育児・家事負担が削減され,リーダーと しても,全力的に仕事場で働くことは可能になった。
社会的側面では,この時期もっとも提唱されたのは1979年から始まった一人っ子政策で あった。一人っ子政策の実施により,中国の従来的な「男尊女卑」の意識が初めて触られた。
都市部では,1980年代から生まれた女子の比率は少し改善されたことがみられたが,中国 の農村部では,「男尊女卑」の意識が強い一方,統計や戸籍管理などの問題が多く存在して いたため,一人っ子政策の違反者は数多く存在していた。それについて,中国政府は経済的 処罰などの処罰制度を実行しはじめた。
第4期(1987年10月-1992年6月):国家にコントロールされた社会主義市場経済と女性
幹部育成のバリア
1987年10月に開かれた中国共産党第13 次人民代表大会のなかで,「国家は市場を調節 し,市場は企業をリードする」という経済の発展モデルが提唱された。国務院は,重工業か ら軽工業や第三次産業への移行方針を継続しながら,工業における「指令生産」とした品目 をさらに削減したため,市場の需要に応じる生産を行う企業が増えてきた。
一方,経済の持続的発展に伴い,増えつつあったインフレ率の問題や旧国有企業の改革に 関する人員の再配置・削減の問題は顕著化された。旧国有企業に存在していた共産党委員会 の指導を受けた経営者責任制と社会主義市場経済のギャップが現れてきており,従来の生
101 中国語では「双職工」と表記される。
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産・管理モデルは社会主義市場経済の発展に適応できなくなってきた。そのため,企業の改 革に伴って,「経営者責任制」は企業内部の新たな指導制度として導入された。
企業側面では,女性の社会的地位や平等的な労働環境を保護するため,1992に施行され た「婦女権益保障法」のなかで,「同工同賃」政策を徹底的に施行し,女性は男性と平等な 待遇を享有し,昇進昇級,専門技術職務の評価等においては男女平等の原則を堅持し,女性 を差別してはならないということを明確に規定した。1)女性は男性と平等の労働や社会保 障を享受する権利を保障されなければならない,2)従業員を採用する際に,女性に不適合 な作業や職位を除き,性別を理由に女性の採用を拒否したり,女性に対する採用基準を引き 上げたりしてはならない,3)雇用主側は,女性を採用した後,当該労働者との間に労働契 約を締結しなければならず,女性労働者の結婚や妊娠を制限するいかなる内容も入れては ならない,4)国家が規定する場合を除き,満16歳未満の女性労働者者を募集・採用するこ とは禁じられていた,と明確に規定していた。
一方,中国における女性の妊娠・出産・育児に関する福利は,旧国有企業の時代では,全 部企業側が負担していたが,改革開放政策の執行による企業の民営化に伴い,企業側は福利 厚生より,利潤追求とコスト削減に力に入れたため,女性従業員の多い企業では,妊娠・出 産・育児にかかる費用が大きな負担となり,企業福利においての高額な出費は,企業の将来 の存続問題にも顕著であった。したがって,数多くの企業は,保育園や幼稚園などの施設を 撤廃したり,あるいは市場化して,有料化したりすることになった。そのため,出産・育児 に関する責任と保障は,企業から社会へ転換することが図られており,それにつながる「出 産・育児保険」制度もできつつある。
社会的側面では,1986年第6 回全国人民代表大会第4次会議では,「中国人民共和国義 務教育法」が採択され,女児は男児と同様に教育や就学の機会(小学6年と中学3年)が与 えられた。しかしながら,急速な経済発展や完備されていない教育制度や教員制度などの理 由で,中国の内陸部の農村部では,特に西部の山間地域の子は,9年間の義務教育を全く受 けられず,あるいは中退したケースは少なくない102。
つまり,教育制度や地域の賃金格差が存在するため,本来,男女平等意識を改善すべきで ある農村部や山間部など経済発展レベルの低い地域における教育や指導は,なかなか行わ れなかった。社会主義市場経済の初期においての中国は一方的に経済的発展を目指す一方,
社会的制度における不平等の問題を看過した。その結果,中国は地域格差の形成とともに,
102 張玉林(2005)p.11