第 2 章 現代の子どもの「育ちそびれ j とその対応としての 基礎的人間力養成の必要性
第 1 節 現代の子どもの f 育ちそびれ J とその対応
1 .子どもの基礎的人間力の欠如と学校における教育の必要性 ( 1 )子どもの基礎的人間力の欠如
第1章では、現在の子どもの問題行動の現状を学校教育の視点から検証した。これに よって、これまで教剖を含む大入社会が自明のこととしていた子どもの社会性や道徳性 が現在では、未熟であり、今の子どもたちが年齢相応に育まれていない実態が明らかと なった。また、教師対象の質問紙調査の自由記述には、子どもへの対応に著しい国難さ や指導の限界を感じている教育現場の厳しい状況が報告されている。子どもの問題行動 が増加している現状においては、学校教育を支えていた基盤、つまり、学級集団を基礎 単位とした教育活動に適応する子どものレディネス
( r e a d i n e s s )
1)不足が関係している のであるOそれでは就学前の子どもは、どのように学校教育で必要となるレディネスを身に付け ていくのか、次に、これについて考察をする。
就学前の教育には、家庭教育をはじめ、幼稚園での教育や保育所での学びがある。こ れまで就学前の教育と初等教育との円滑な連携は、双方の教育に関わる教育.者の間で明 確に意識されてきたとはいえない。また、初等教育と中等教育、中高連携などに見られ る一貫教育の取組は緒に就いたばかりである。ここに見られるように、従来の学校教育 は、子どもの発達に応じた、進学先の学校教育に接続する連携が十分で、はなかったが、
ここに教育問題の一端がある。
学校教育の主体である子どもには、年齢相応の社会性の習得が不可欠である。子ども の社会性については、様々な研究2)が行われているが、そもそも社会牲を育まなければな らないはずのわが国の社会生活の基盤そのものが大きく変わってきているのである。こ れについては、第1 2節「子どもの問題行動の変化の背景jにおいて論じたが、社
醐 44・
会性は知識として子どもに教えるだけでは、その定着を図ることはできない。子どもの 社会性は、社会の現実の中で多様な他者と関わり、豊かな直接体験を通して青まれてい く点にその特質がある。この意味において、滝が指摘している「社会性の基礎J3)という 視座は、現在の子どもに欠如している社会性の資質能力に関する問題の在処を示してい
る。
滝 (2009年)4)は、初等教青段階以降の子どもの問題について、「中学校の問題の根は 小学校にj潜在化していると分析し、次のように述べている。
①中学校で生じている問題のかなりの部分は、小学校の「積み残しJが顕主化した もので、潜在的な問題は小学校から見られるO ②にもかかわらず、小学校段階の対 応は、自の前の問題の解消に追われ、 f一時しのぎ」や「問題の先送り」にとどまり がちである。③そのため、問題は年々深刻化しており、中学校の対応だけでは解消
しきれなくなっている。
この滝による指械は、小学校の教師からすれば、そのまま就学以前の子どもの保育や 教育に当たってきた家庭や保育所および幼稚園に対して言い換えることもできる。
ところで、子どもが、小学校入学前に身に付けておくことが必要な能力とはどのよう なものであろうか。このことについてロパート・ブルガム (RobertFulghum) 5)は、そ の著書の中で次のように述べている。
人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか、
本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で、教わった。
人生の知恵、は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋ま っていたのである。わたしはそこで何を学んだろうか。
ブルガムは、それを「単純なルーノレJ6)と呼び、その f単純なルールJは「人間の可能 性を押し広げようとした先人たちが努力を重ね、試行錯誤を繰り返して選び抜いた行動 規範の精髄であるJ7)と述べた上で、次頁のように示している。
幽 45・
なんでもみんなで分け合うことO
ずるをしないこと。
人をぶたないこと。
使ったものはかならずもとのところに戻すことO
ちらかしたら自分で後片づけをすること。
人のものに手を出さないことO
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うことO
食事の前には手を洗うこと。
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと。
焼きたてのクッキーと冷たいミルクは体にいい。
釣り合いのとれた生活をすること‑毎日、少し勉強し、少し考え、少し絵を描き、
歌い、踊り、遊び、そして、少し働くことO
毎日かならず昼寝をすることO
おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、はなればなれにならないように することO
不思議だな、と思う気持ちを大切にすること。発泡スチロールのカップにまいた小 さな種のことを忘れないように。種から芽が出て、根が伸びて、草花が育つ。どう してそんなことが起きるのか。本当のところは誰も知らない。
でも、人間だ、っておんなじだ。
金魚、も、ハムスターも二十日鼠も、発泡スチロールにカップにまいた小さな種さえ も、いつかは死ぬO 人間も死から逃れることはできない。
ディックとジェーンを主人公にした子供の本で最初に覚えた言葉を思いだそう。
何よりも大切な意味をも
「見てごらん」。
このフルガムが示した f単純なルーノレjは、日本とは文化、宗教、教育制度など事情 が異なるアメリカ合衆国でのことであるが、それらの違いを超えて、我が国の社会性や 道徳性を育成するための時期と場所についての示唆に富んで、いる。つまり、 f全部残らず 幼稚園で、教わった」ということは、家庭がかつてのような「人間性の養成所J8)としての 機能が衰退してきている現代社会では、幼稚嵐を含めた学校9)がその役目を担う必要性
‑46・
が強くなっていることを意味している。この点についてそンテーニュ (AshleyMontagu) は、子どもの教育では「人間性への教育が最初であり、すべてのものに優先するJ10)こと、
人間性の教育には人間関係、が欠かせないことを論じている。次に、このそンテーニュの 人間性教育を手がかりに学校における教育の必要性について述べる。
( 2 )学校における子どもの基礎的人間力養成の必要性
モンテーニュは、人間性11)を「一次的人間性 (primaryhuman nature) Jおよび「二 次的人間性 (secondaryhuman nature) J ,こ分け、「人間は一次的な要素と二次的な要素、
つまり生得的なものと獲得されたものとから成っているj と捉えた上で、 fあらゆる人々 の a次的人間性は基本的に同じであるが、二次的人間性は、しばしば、文化的経験の相 に応じて異なっている。要するに、人間性は、社会化過程のパターンにしたがって一 次的な形態をとる」と考えた。先述のフルガ、ムの「単純なルーノレjには、幼稚園教育に おける園児の社会化の一端と子どもの基礎的人間力の呉体例が示唆されているが、それ は人が生涯をかけて育んでし、く人間性の基盤となる資質能力であることは明らかであり、
本論文で問題としている子どもの基礎的人間力と重なる点が多い。
就学前の人間性教育について、特に幼児期の子どもには、小学校以降の学校教育で、行 われる授業やガイダンスとは異なる方法で、子どもの基礎的人間力を養成してし1かなけ ればならない。その第一の方法は模倣 12)である。また、子どもの基礎的人間力を養成す る最も重要な要因は人間関係であり、多様な人間関係、を通して子どもの人間性は育まれ ていくのである。
しかしながら、現在の子どもを取り屈む社会環境では、近隣の異年齢集団による外遊 びが成立しにくい状況であり、年長者のいる異年齢集団での外あそびはほとんど見られ なくなっている。また、家庭の状況は核家族化の進行に伴い、世帯人員は減少の一途を 辿る 13)とともに、焼述の如く家庭が著しく「学校化」してしまっている。このような現 状を鑑みると、現在の子どもは、模倣の機会や多様な人間関係を結ぶ機会が、著しく少 なくなっていることは明らかである。
我が国では、子どもの教育や人材育成に関して、次の言葉がよく知られている。
やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている姿を感謝で、見守って、信頼せねば、人は実らず。(山本五十六語録)
‑47・
前貞の山本五十六語録に示された教育観には、模倣の大切さ、教える側と教わる側の 関係性の在り方が示唆されている。また、このことはパンデ、ューラ (AlbertBandura) による社会的学習理論 (sociallearningtheory) 14)におけるモデリングの有効性と重なる 点も多い。つまり、現在の子どもはモデリングの機会が不足しているために様々な問題 行動が増加しているのであるが、学校教育では、このことを十分意識していないために、
、現代の子どもは「育ちそび、れJているのである。
以上、考察してきたように、現在の子どもは、小学校からの学校教青に必要な基礎的 人間力が未熟なままで入学して、その後、子どもの基礎的人間力が「育ちそびれ」てい る状態で、特別な配慮、や指導をされることもなく学年進行に従い長い時間を学校で過ご すことになる。これが学校における生徒指導上の諸問題の根本原因であるゆえに、子ど
もの基礎的人間力の養成は、学校の教育問題を改善するための喫緊の課題なのである。
本論文で問題としている子どもの基礎的人間力養成については、モンテーニュの人間 性教育に関する考察が参考となる点が多い。モンテーニュは、学校教育では「最初に人 間関係を置くべきである。学校のほんとうの存在理由からも、この順序がたいせつであ るO 人間関係が、あらゆる関係の中でもっとも重要な関係であることを、いつの場合も 明確に理解していなければならなしリ 15)と指摘した上で「学校を人間と人間関係、の方法と 科学を教える場所としてとらえなければならなしリ 16)と提案している。このモンテーニュ の提案の背景には、「教育内容の現代化J17)が始められようとしていた当時のアメリカ合 衆国の教育事情があるが、モンテーニュは、このようなカリキュラム改革以前の根本的 課題である学校教育、生徒指導 18)の具体的なあり方と方向性を示しているのである。こ のそンテーニュの子どもの人間関係に着目した学校教育の構造に関する論考は、本論文 で論じてきた現代の子どもの「育ちそびれ」の対応に示唆的である。すなわち、生徒指 導上の諸問題が山積する現在の日本の学校では、教育の重点を、 3R' s 、つまり、読み・
き・算に加えて第 4の R (人間関係)19)を重視しなければならないのである。より具体 的には、現在の学校教脊において増加している子どもの問題行動の低減を図るためには、
子どもの基礎的人間力を養成し、その上に社会性や道徳性を育む教育をJ意図的計画的に 取り組んでいく必要性を自覚しなければならないのである。
‑48・