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簡素な表現がつくる多弁なる空間

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Academic year: 2021

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(1)平成17年度修士課程学位論文. 簡素な表現がつくる多弁なる空間.   兵庫教育大学大学院学校教育研究科 教科・領域教育専攻 芸術系(美術)コース.     MO4262H 齋木敦智.

(2) 次. 目. はじめに. 3. 第一章  芸術家の制作動機について. 6. 一芸術におけるカタルシスの功罪一. 節節節節節節節節節記 一二三四五六七八九 第第第第第第第第第注. カタルシスとは.  6. 無の存在. 10 13 19 22 24 32 35. 円相について. 40. 日記について. カタルシスの悪循環について. 外圧と抵抗. 神に愛されし人たち リヒャルト・ワーグナーの周辺. 可視される空間. 43一. 47. 第二章 存在と無. 節節節節記 一二三四 第第第第注. 47 55. 創造と時空間. モナドは極限の単位か 実験的考察一. ポテンシャルの高い0(ゼ・). 実験的考察二. 主客を越えた自己凝視. 1. 61 66 71.

(3) 73. 作家論. 第 ゴ一 立早. 節節節記 一二三 第第第注. ユトリロ論. 一ユトリロの“白”が意味するもの.  73. 鴨居 玲論 一自己救済の遍歴の果てに.  83. レンブラント論 一完結された自画像.  96. 111. ベクトルの大転換と静寂なるダイナミズム. 第四章. 節節記 一二 第第注. 質を保持したベクトル. 無の存在の価値は過程的弁証法にある. 114. 114 120 127. おわりに. 128. 図 版. 130. 参考文献一覧. 147. 2.

(4) は じ め に.  美しさと綺麗さの意味は日常的には同じ意味として使われることがよくある。その判断 の内容としては、全体の構成の調和がとれ、色彩に心地よさが感じられるもの。つまり、. 表面的にそうした要素の均衡が保たれているといった条件を満たしているということであ ろう。となると、美しさと綺麗さは果たして同じ意味を持つものなのだろうか。人はそう した条件を満たした対象を目の当たりにした時、「綺麗だ」とはよく書うが、「美しい」と. はなかなか言わない。人は瞬間的に似通った二つの言葉を選択し、使い分けているのでは. ないのか。結局、その判断の内容は綺麗さを引き出すためのものであり、綺麗さとは対象. の表面がそれらの内容を満たしていることの表現として使われるものと言えよう。そうす れば美しさとは何なのか。美しさの尺度は人によって様々であるということから、そこに. はさまざまな判断要素が関わっている。勿論、表面上の判断以外に、判断する者の個木特 有の判断内容、っまり個人の内面に関わることが大いにあるのではないか。人の顔がそれ ぞれ違うように、その内容も違っているのは当然である。表面的な各要素と内面との共感 が合致された時、人はそれを初めて美しいと表現するのかもしれない。ただし、美しいと. 言われるものには、まずは美しさのもととなるものを内面に明確に持っていることが大前 提となることは言うまでもないことである。美しさとは表面的で単純な判断の結果ではな く、内奥的で複雑な要素が様々な関係によって成り立っているものであると言えよう。.  美術とは字義に従えば、美しさを表現するための術であるということになるであろう。 とすればそれは、上述したような綺麗さを表現するような単純で表面的なものではなく、. 複雑であり内面的なものである。歴史上の多くの偉大な画家たちはひたすら美しさを追求 してきた。決して綺麗さを追求していたのではない。もし、そうした画家の作品を見た時、. 「綺麗だ」といった感想を持ったり、画面の中に綺麗さを探し求めたとすれば、その姿勢. や態度はそうしたものを見る以前の問題であり、描いた画家に対する冒涜以外のなにもの でもない。絵の美しさとは、内奥に隠されており、画家自身の人生や内面の奥深いところ に隠されている。本論はそうした考え方にのっとり、画家の内面を解剖することによって、. 3.

(5) いかに作品が生まれてきたのかを考察するものである。あたかも顕微鏡を使って極小な内 面の部位に焦点を当てるようにして。.  美術作品だけにかかわらず、音楽・文学において、芸術家はなぜ創造行為を行ったので あろうか。それには様々な動機が考えられる。例えば感動的な経験をした場合、心が高揚 したものを内面に止めておくことができず、何らかの形で残したいと思うものである。あ る人はそれを写真に撮ったり、文章にしたり、絵にしたりする。それが美しいものである. か、綺麗なものであるかは別として、感動を明確な形として残したいことについてはそれ なりの価値があり、創造行為の動機の一つであろう。それらのものが単に記録的な意味を. 持つものなのか、作品として成り立っているものなのかという境目はそれを作り成した時 に、作者の内面に感動や、様々な経験から獲得した思想や哲学がどれだけ多く創造物に反 映されたのかによるのだろう。本論においては、創造者の内面が凝縮された作品に焦点を 当てるものである。いわばそれはある液体を濾紙に通して、純度を増していくような過程 と書えよう。要するに、純度が高くなればなるほど、それは作晶化していく方向に向かう. のかもしれない。純度の高さというものは、本論が言うところの美しさの度合いのことで あり、作品としての生命を持つことである。純度の高さは美しさという血液の存在の度合 いを増し、それを持つ生き物が生命感にあふれるということに似ている。つまり、作晶と しての存在感を持つことである。.  そうした傾向を本質に持つ創造行為の動機としてカタルシス注1)というものがある。古 くはアリストテレスの『詩学』注2)の中で論じられている。悲劇を演じることによって、 自己浄化を行っていくとある。一般的には精神医学の分野における、ある手段を行うこと. によって自己浄化がなされるというものである。その手段としては芸術行為を行うことに よって効果があると書われている。勿論、美術・音楽・文学などの芸術作品の場合もその 効果は成される。ただこの場合は、先ほどの美しさを表現することとは動機を異にする。. 内面に欝屈として集積された、生きる上では喜ばしいものではないものを外に吐き出すこ とによって浄化していくといった過程によるものとして捉えるのが通常である。従って、. 吐き出されたものが作品として成り立つのであるから、健康的とは言えない表現にならざ るを得なくなる。芸術作品によく見られる沈欝で、時として悲惨なものは、おそらくカタ. ルシスによって成されたものがほとんどではないだろうか。芸術作品で有名なもの、ある. いは芸術家の創造した作品群の中で中心になるものや、転機となるものの中にはそうした 種類の作品が実に多く見られる。と言うことは、重要な芸術作品と言われるものの多くは、. 4.

(6) カタルシスの過程を経ることによって創造された傾向にあると考えることができるのかも しれない。一般的な印象として、芸術や芸術家が沈欝なものであるといった印象はそうし. たところに原因があるのだろうか。本論は、カタルシスによって創造を行っていったと見 られる芸術作晶や芸術家に焦点を当て、その過程を追い、作品がどのような変遷を遂げて. いったのかを考察していくものである。と同時に、カタルシスの本質やその意義について 芸術家の内面の変遷を考察することによって見出していく。  美しさとは内面の反映であり、輝きである。カタルシスによって創造された芸術作品は、. それが持つ元々の動機が内面の陰部によるものであることから美しさという定義からは 少々ずれるのかもしれない。しかし、内面を余すところなく表現するところに美しさの意 義があるのならば、カタルシスには美しさの一っの尺度に成り得る理由をその内奥に持っ ていると考える。本論はその美しさを読み解いていくものである。. 5.

(7) 第 一 章. 芸術家の制作動機について 一芸術におけるカタルシスの功罪一. 第 一 節. カタルシスとは.  人は様々な理由や手段によって創造行為を行う。ある人は純粋に美しさを追求すること. を目的とするだろうし、またある人は、自らの内面を表現することによって生きた証を残. すことを目的としているのかもしれない。絵筆や絵の具を使えば、それは絵画になり、石 や粘土を使えば彫塑になり、音符や楽器を使えば音楽となり、文字を使えば詩になる。そ れぞれには動機があり、創造された様式は様々であるが、そこには共通している一つの目. 的があると考える。それは、求めようとしているものを自らの手や頭脳、そして精神や魂 といったものを駆使することによってそれを可視することのできるものとして現前化する. ことではないだろうか。なぜ現前化する必要があるのかと書うと、もともと人間には抑え. 難い欲求、いや本能とでも言うべきものがあり、求めるものを獲得したいと願う生き物で ある。そうした手段を駆使する人たちは、自分の求めるものを現前化し、明確な状態を作 ることによって目的を達成しようとする人ではないだろうか。例えば、ある画家が美しい. 女性を描いたとする。たとえそれが画面の中であったとしても、それを現前化することに よって美しい女性を獲得しているといった達成感を持つのかもしれない。広大かっ美しい. 風景を描いた画家は、それを描き現前化することによって、その自然の中で一体化してい るのかもしれない。それが妙なる調べであっても、文字の構築であっても同様のことが言 えるのではないだろうか。つまり、自分の追求するものを現前化することによって、それ と一体化したいという欲求、もっと直接的に書うと、求めるものと接触したい欲求によっ て行われているものであると考えることができはしまいか。. 6.

(8)  そこから派生し、自分なりの思想や哲学を芸術という手段を通して訴えかける人もいる。. ある出来事があり、それを放置しておくこしができず、どうしても自分の思想や哲学を他. の者に訴えずにはいられないという欲求によって芸術を手段としてそれを現前化するとい ったものである。美術であれば戦争の悲惨さを表現したものや、一連の歴史画などがそう. であろう。音楽であるのならば、レクイエムや人類の歓喜を歌ったものがそれにあたるで あろう。あるいは、美術における巨大な作品群や音楽における壮大な音の世界を創造する. ことによって、自らのあふれんばかりのカを芸術表現によって現前化し、それを見る者や 聞く者に自らのカを誇示し、自らのヘゲモニー注3)を満足させるということもなくはない。. そうしたものも結局は思想・哲学・ヘゲモニーを現前化することによって、それをより明. 確にし、芸術作品という客体化注4)された自分自身と一体化となるための接触欲求が根本 にあると考えられる。.  芸術行為を通して創造されるものは、全く自分自身とは切り離して成されるものはほと. んどなく、常に自分自身の何らかの欲求が具体化したものであるのではないだろうか。あ たかも芸術家と呼ばれる人たちは、自分の内面から本能そのものであるもう一方の自分を. 取り出し、客体化することに長けた人であると言うことができるのかもしれない。欲求は 単に物質的、あるいは下卑た欲求を満たすためのものではなく、崇高なるものと言われる ものを現前化するための原動力にもなっているのだろう。.  これらの一連の欲求の現前化の過程は、言わばきわめて陽性で積極的な内面の働きかけ によって成される建設的なものである。しかし、芸術の成り立ちはそれだけではない。全 ての成り立ちがそのようであるのならば、芸術が古代から人類や社会に影響を及ぽしたこ とはある部分だけのことだと言えるのかもしれない。人類や社会は建設的であることが必. 要なことではあるが、人類や社会は様々な災厄や、いわゆる悲しみや苦悩をもう一方に持 ちながら流れ続けてきた。勿論、芸術はそうした面においても大きく関与し、人類や社会. の根底を支えるのに十分な働きを担ってきた。先述したような、そこから自分の思想や哲. 学を訴えるといった建設的なものの他に、ただひたすらに人類や社会の苦悩を如実に表現 したものもある。それを見聞きした人は、なぜそのようなものを表現するのだろうかと、 客観的な見地に立って感想を持ち、そこ.から人類や社会の真実の姿を知っていくことがあ. る。なかには、単純に悪趣味によってそうした表現を行う人もいるかもしれないが、ほと んどの場合はそうした表現をしたいからしている、あるいはそうせざるを得ないといった、. これも一つの明確な内面の欲求による結果であろう。ただ、先述した欲求とは質が違うの. 7.

(9) は明らかである。.  カタルシスという言葉がある。一般的には、自己浄化という意味で捉えられる場合が多 い。単純に考えると、自己浄化というからには、自分の内面に欝屈したものの処理を行う ものと考えることができる。別の見方をすれば、自分自身の内面の欲求と言えなくもない。. 人類や社会の苦悩を表現した創造行為を考えるには、カタルシスについて考える必要性が あるのかもしれない。精神医学の分野では次のような意味となっている。. 「カタルシスとは、医療や(精神)衛生に関する意味で、浄化を意味する。諸芸術、特. に演劇・舞踊・音楽がカタルシスの効果をもたらす(ことができる)かどうか。そして. その効果はどんな性質のものか。という問題はプラトンやアリストテレス以来未解決で ある。プラトンの理想国家では、国家を護持する芸術、すなわち道徳的な浄化と宥和に. 役立っ芸術しか許されない。全ての「模倣的」芸術は、理性が企てた詐欺として表面的 な刺激と感覚を惑わすという理由で排除される。神々の世界と人間の世界とを宥和する 愛知P h i l o s o p h i eだけが、真正の芸術を成しうる。これに対してアリストテ. レスの場合、芸術と国家は分けられている。『詩学』の断章においてだけでなく、アリス. トテレスによって解明された浄化は個人の精神衛生を問題にしており、特に適切で見事. に制作された悲劇は、この精神衛生に関与できる。その理由は悲劇がくエレオス〉 (eleo8)とくフォボス>(phobo8)(すなわち憐れみと恐れ、もしくは同情と戦懐)を. 生み出すことによって、おぞましい感情や不快な激情を浄化し、緊張と弛緩を通じて快 に満ちた解放感を引き起こすからである。プラトンの規範的なカタルシス概念もアリス トテレスの機能的なそれも、今日まで諸芸術が個人や社会に及ぽす様々な影響を議論す. る際、役割を果たし続けている。だからたとえばコルネイユにとって浄化とは、脅した り、激情を宥めコントロールしたり、壊してしまうことによって性格を道徳的に強固に. することを意味した。これに対しレッシングにとって浄化は(英雄への)同情と(英雄 との同じ運命への)恐れが弁証法的に作用しあうことで、有徳の資質を酒養することを. 意味した。19世紀には治療としてのカタルシスの科学的な解明が重みを持つようにな る。すなわち浄化とは、激情の解放・精神の浄化・理性の強化である。あるいはフロイ ト以降、精神分析的に確かめられた苦悩から芸術の助けによって解放されることである。. 現代の作家たちの中では、特にブレヒトが浄化の概念と取り組んだ。彼の叙事的演劇は 明らかに非アリストテレス的、非感情移入的であり、精神衛生的ではないと言える。そ. 8.

(10) れはむしろプラトンやシラーの場合のように(歴史)理論や行動を変革し、ついには社 会の進歩に至るような哲学を伝える。ブレヒトが目指した異化の技法(それは快に満ち. た弛緩ではなく、熟考とついには理性的な洞察を引き起こす)はこのカタルシスの否定 に役立つ」注5). あるいはこういう説明もある。. 「自分が取り込んでいる道徳観念のもとで抑圧されているものの心理発散を「浄化」. カタルシスという。「浄化」はアリストテレスの『詩学』に登場する概念であり、も ともと悲劇を見ることによって心を道徳的に浄化することを指したが、現在では意味. が大きく変わってしまった。尚、患者を道徳観念から解き放すような催眠状態に置い て、いろいろと語らせ、掬圧されているものの発散を期するのをrカタルシス療法」 と呼ぶ」.  ここでアリストテレスの『詩学』「第六章 悲劇の定義と悲劇の構成要素について」にお けるカタルシスについてふれているところを記す。. 「悲劇は一定の大きさを備えた完結した高貴な行為を叙述によってではなく、行為す. る人物によって再現する。悲劇は憐れみと恐れを通じて、そのような感情の浄化(カ タルシス)を達成する。六つの構成要素、筋・性格・語法・思想・視覚的装飾・歌曲、. もっとも重要なのは筋(=出来事の組み立て)、筋は悲劇の目的である。筋は悲劇の 原理であり、いわば魂である。悲劇の機能は上演されなくても働く」注6).  また、カタルシスの概念はフロイトによる精神分析学派注7)によって「抑圧されて無意 識に追いやられた感情の浄化」という意味で再び取り上げられるようになった。また、カ タルシスは集団心理療法注8)として精神科医のモレノによってサイコドラマ(心理劇)と して体系化し、俳優でなくても舞台の上に立ち、、ある役を演じることが感情の浄化と自己 理解につながるとするものである。  マッコービィ注9)のカタルシス説も紹介しておくとする。.  マッコービィが1951年に攻撃的な番組を視聴すると、内在する攻撃欲が代償的に発. 9.

(11) 散され、その意味で浄化されるというカタルシス説へ疑問を提起し、暴力的なテレビ番組 を視聴することにより、子どもに模倣が生ずる危険性を指摘して以来、「カタルシス」説と 「模倣」説との間で論争が蜂起することとなった。.  また、ロシアの心理学者であるヴィゴツキー注10〉はアリストテレスの「カタルシス」 にっいて次のような批判をしているのも興味深い。.  ヴィゴツキーは『芸術心理学書の第九章「カタルシスとしての芸術」および第十章「芸 術の心理学」において、カタルシスの意味を詳しく述べている。ヴィゴツキーによれば芸. 術心理学は1.知覚 2.情動(感情) 3,想像(ファンタジー)の三つから構成され ているという。芸術に接した時、人間はまず知覚から反応する。しかし、情動と想像を抜 きにして芸術はありえない。芸術作品に接する時、何らかの情動が喚起されるらしい。情. 動は神経エネルギーの放出と見ることができるが、芸術は単なる心のエネルギーの放出で はなく、何らかの創造を行うものである。芸術におけるカタルシスはアリストテレスが言 うような余り良いとは言い難い感情の排出ではなく、神経エネルギーを適切に放出するこ とであるとしている。. 第 二 節. 目記について.  例えば、日記について考えることにしよう。人問はなぜ日記をつけるのだろうか。日記 は自分以外の人には決して知られたくないきわめて個人的な秘密の行為である。余りにも 自分自身の内面の告白であるので、自分以外の人に見られると恥ずかしいことが主な内容. になっている。内容は様々で、単に記録的なものもあれば、恋愛の甘い思い出を記すもの もある。ここで取り上げたい内容というのは、生きる上での苦しみや悲しみを記した内容. のことである。人は災厄に見舞われた時、それを内面に秘め続けたまま耐えられるほどの. 強い生き物ではない。腐敗したものを摂取した時に嘔吐するように、内面に欝屈としてあ るものを嘔吐注11)しないとどうしようもなく耐え難い状態になる。それが単に腐敗物で. あるのならば、身体的に悪影響を及ぼすだけなのであるが、内面の欝屈としたものは精神. 10.

(12) に悪影響を及ぽし、場合によっては内面の奥深くに欝積し、死に至る病注12)になる可能. 性をはらんでいる。身体的な苦痛は我慢できるが、精神的な苦痛は我慢ができなと言われ るように、人は日記という、特に技術のいらない、誰であっても行い得る手段を使って嘔. 吐をするように自分で処理を行っているのであろう。人はそれによって内面に平静をもた らせ、正常な状態にもどっていく。つまり、日記を書くという行為は紛れもなくカタルシ. スの一つであると言うことができよう。ただし、単に記録的なものや恋愛、あるいは決意 といったものを書き記す類のものはカタルシスと呼ぶものではなく、先述した建設的な芸. 術表現に相通ずるものである。人は無意識のうちに日常生活の中でカタルシスを行ってお り、自らの精神の平静を保つための手段をとっている。.  そうした過程を考えると、芸術作品の中にはカタルシスという過程を経ることによって 創造を行っている芸術作品が実に多く見られはしまいか。ただし、この場合の創造行為は 文字通り、明確に建設的な過程を経ることによって成されるものとは種類が異なり、第一 に自己浄化が目的となる。原理としては日記を書くのと同様なものであるが、絵画・彫塑・. 音楽・文学といったそれぞれの形式を使うことによって成されるより高度な日記であると. 言える。それは芸術家が持つ芸術的な能力によって、日記を芸術作品に高めていったもの であると言えるのかもしれない。.  日記の内容は軽いものから重く深刻なものまで様々ではあるが、ほとんどの場合は、い ま現在思い悩んでいることを、一度書き記すことによっていつの間にか浄化されている程 度のものである。しかし、内容によってはいくら書き記してもなかなか浄化しきれないも のもある。と言うよりも、むしろ書けば書くほどより内容が深刻さを増していき、浄化し きれないところにまで自分が追い詰められることもある。となれば、日記を書き記すとい うことは内面における嘔吐とはならず、自己浄化されない場合も十分に考えられる。確か. にカタルシスによって自己浄化の機能が十分に成されるものもあるが、より深刻化された 場合はカタルシスが機能する範疇を超えたところの問題であると言えよう。一般的にカタ. ルシスは自己浄化される特効薬のように捉えられがちであるが、それはどんな内面の危機 の症状にも対応することができるものではなく、効力を発揮することができない範癖のも. のもあると考えた方がいいのかもしれない。結局、内面の鯵屈とした危機的状況を日記に. 書き記すことによって浄化されるような内容は、軽微なものと言えるのかもしれない。言 わば、風邪をひいた時に風邪薬を飲めば治癒される場合があるが、もっと重篤な症状の場. 合に単なる風邪薬を飲んでも効力がないのと同様なものではないだろうか。ある人が自分. 11.

(13) を縛り続けている内面からの解放のために日記を書き続けるとする。それがカタルシスの. 範疇を超えたものであることを知らずにひたすら書き続けていくと、その人は最終的にど うなるのであろうか。確かに人間は、時間が解決してくれるなどといった自然の治癒力に. よって成されることもある。ほとんどの場合は治癒されない、あるいは軽減されることの. ない内面の欝屈とした危機はないのであるが、それが死に至る病になってしまう場合もな くはない。こうした日記による負の面は、それが芸術作品という様式をとったとしても同. 様なことが言えるのではないだろうか。と言うよりも、芸術作品という様式をとったため にそうした負の面がより強度化される場合が考えられるのではあるまいか。なぜならば、. 先述したように、芸術作晶は日記をより高めていった様式を持つものである。そこで行わ れる表現や、表現に至るまでの自己観察はより深く、先鋭化されるものである。そうした. 状態のものがより高度な様式によって嘔吐するのであるから、軽微な状況にしか効力を発 揮しないカタルシスが効力を発揮するはずがない。ただし芸術作品の様式には絵画・彫塑・. 音楽・文学など様々なものがあるが、どの様式にも一様なカタルシスの効用や疑問がある. のかと書えばそうとは言えない。音楽は人問の本能上一部を除いて気分が建設的に高揚し た状態の時に発せられる欲求である場合が多くあるので、ここで言うところのカタルシス が効力を発揮しない範癖のものはそれほど多くはないのかもしれない。また文学(主に詩). は、それが日記のものより深く先鋭化された様式であるために、深刻度は重篤になる場合 が大いに考えられる。絵画や彫塑は視覚に訴えるといった、きわめて明確な表現手段であ り、視覚によって捉えることができる図像であるので、それを表現した芸術家にとっても、. 見る者にとっても、より直接的な表現の一様式であると書えよう。従って視覚を通して行 われる芸術行為である美術の分野というのは、カタルシスの効用を利用した場合、それが カタルシスの効用以上の内面の状態のものであったとしたら、その様式が視覚的であり、. 余りにも直接的であるためにカタルシスの効用が最も効果を発揮しない状態に位置するも のになることが多くあると考えられはしまいか。それではなぜカタルシスの効用の範疇を. 超える内面の状態のものは効力の範躊から遠ざかっていくのであろうか。そのことを絵画 に焦点を当てて考えることにする。. 12.

(14) 第. 一一. 節. カタルシスの悪循環について.  カタルシスにおける嘔吐は、それが自分の内面にとって排除されるべきものであったと しても、明らかに自分自身の一部であることに間違いはない。たとえカタルシスという過 程を経ることなく表現されたものであったとしても、自分自身の一部を表現していること. が多く見受けられる。人間は自分の内面にある意識を明確に認識しているようでその実は. 不十分なことが多くある。表現というのは、不十分な自己認識を明確な形として現前化し ていくところに意味や価値を見出すことができる。表現された芸術作品を見た他者は、そ の芸術家がいかなる意識を内面に持っていたのかということを認識できるのは当然のこと で、それを表現した本人も自分というものは実はそうだったのかと認識することがある。. もしそれが建設的であったのならば更なる進展を望むであろうが、カタルシスを過程とし た自己認識では、本人にいかなる思いを起こさせることになるのだろうか。.  表現することは自己を客観視するところに始まりはある。表現によって、自分自身の内 面から取り出されたものは明確な客体といえる。表現は客体を創造していく行為であると. いっても過言ではない。西田幾多郎注13)は『善の研究』注14)によって主体と客体との. 関係を独特の視点で研究し、主客を超えたところに「純粋経験」があると言った。それは 次のような意味である。. 「ここに理性と感性を対立的に捉えずに、両者の融合したところに直接経験というもの. を考える立場が成立する。ベルグソンの純粋持続、W,ジェームスの意識の流れや純粋 経験、西田幾多郎の純粋経験がこれに属する。西田は純粋経験について「自己の意識状 態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない。知識とその対象とが全く合一している。. これが経験の最醇なるものである」(『善の研究』第一篇、第一章冒頭)と言う。彼はこ. の純粋経験を唯一の実在として全世界を説明しようとする。この立場は我々と現実との 対立を乗り越えたところから始まるから、この対立に由来する問題は消滅する。しかし、. 今度はなぜそのような統合的実在が純粋経験と言う名のもとに我々の手元にあるのかを 説明することが出来なくなる。経験は我々の経験である限り、あくまでも我々と現実と の緊張関係を引きずる概念である」注15). 13.

(15)  その観点からすると、自分の内面(主客の根本となるもの)を経過する表現というもの は、それが主体と客体との関連によって成されることからすると、純粋経験からきわめて 遠くの位置にあるものと言えるのかもしれない。しかし、カタルシスが滞ることなく成さ. れるということは、嘔吐される前の自分自身の内面に鯵屈としたものである、いわば嘔吐 すべき主体が嘔吐されることによって客体となることであって、嘔吐という行為をはさん で主体と客体は同一なものであると言える。従って、それは主客の区別がなくなった状態 であるので、主客を超越した状態であると考えることができないだろうか。浄化の程度と. その目的の質(純粋経験によって獲得される比類なき絶対的な純粋な世界)にはかなりの 隔たりがあるのだが、いわばそこへたどり着く過程の始まりに位置する純粋なる経験なの かもしれない。.  絵画において、画面に表された客体という位置にある自分の内面は、それが深刻なもの であればあるほど、それを客観的に見た場合、自分というものがこんなにも深刻なものを. 抱えていたのかということに対して、強い衝撃をもって感じることになるであろう。その. 時、今まで自分以外の人の内面を客観的に見た時の衝撃を遥かに超えたものを感じるに違 いない。おそらくその時こう自問することであろう。「カタルシスとは自己浄化なのにもか. かわらず、それとは全く対極に位置するものではないか。カタルシスとはしょせん自分の 内面の軽微な問題のみに適合されるものであって、ある一定の限度を超えたものに対して. は全く効用が発揮されることがない」と。そこで得られた新たな問題、いや、新たに眼前 に突きつけられた問題は自分の内面に帰っていき、新たなる主体となって内面に巣くうこ とになる。つまり、この場合のカタルシスは浄化どころではなく、カタルシスを行ったが. ために新たな主体によって問題を作り出してしまった行為に過ぎないのではないのかと考 えざるを得ない。これはまさに主客が明確になったための悲劇であり、内面における悪循. 環以外のなにものでもなく、一般的に言われているカタルシスの効用が否定された瞬問で あると言えよう。確かにそうした悪循環の過程によって創造された芸術作品は、完全な他. 者の立場として見た場合、この人はこんな内面の問題を抱えていたのかといった見世物的 な感想を持ち、そこに人間の深刻さや不可思議さを感じ取り、同情や悲劇の人を見るとい った興味の対象となるのであるが、その悪循環における本人の重圧まで知ることは余りな. い。人は飽人の悲劇を単なる興味本位で見たがるものである。あるいは自分と同様な悲劇 の人を見出すことによって、自分だけが悲劇の主人公ではないといった仲問意識を持ち、. 自分の状況を慰めようとする。少々偏った見方をすれば、そういった状況の人たちに慰め. 14.

(16) を与えるために、自分の恥部とも言えるものをさらけ出すことによって生きている、自虐 的な人間であると捉えることもできなくはない。.  例えばゴヤのく黒い絵>注16)、(図一1∼5)はその典型的なものと考える。ゴヤは決 して好んであの様な悲惨な絵を描いたわけではないだろう。ゴヤが創造した魔界の群像は. 他ではないゴヤ自身の客体に違いない。<サティルヌス>(図一6)はゴヤの精神的な飢 餓の産物であり、<砂に埋もれた犬>(図一7)、<殴り合い>(図一8)はゴヤの進退窮 まった絶叫である。これらの暗色や表現は聾唖者注17)になった無音の世界に鳴り響く音 の具現なのであろう。ゴヤの絵の中でひときわ印象的で謎を含んだ巨人の絵があるが、月. 夜に停み呆然と背後を見返るく巨人〉(図一9)はゴヤのやるせない絶望感の象徴ではな いだろうか。逃げ惑う民衆やロバの前に傲然と立ちはだかる、あの有名なく巨人>(図1. −0)はゴヤ自身を表現している他は考えられないほどの明確な客体の存在を感じる。定. 説では、当時の圧制注18)を批判しているのだといったことが書われているが、それは芸 術や芸術家を過大に美化したものが根底にあって、ゴヤという一人の人間の生々しい本質 を見ず、また芸術におけるカタルシスとの特異な関係を見ることなく判断したものに過ぎ. ないのではないだろうか。ゴヤはもともと強欲であり、権力意識の強い人であった。宮廷 画家になりたかったのだが、度重なる失敗、複雑で強欲な人間関係、そして聾唖者として の闇。それらの怪物たちは、そうした多くの救いようのない悲惨な現実と、自分の内面に 脈々と音を立てて流れる本質とのせめぎ合いのなかで受けた精神的な苦痛を嘔吐したこと によって創造されたものではないだろうか。また、ボードレール注1g)は『悪の華』注2. 0)において、現実の世界を悲惨なまでの傲慢さによって見下した。その一言一句はボー ドレールによるカタルシスが作り出した精神的自伝そのものである。行間に姦く鉄槌は、 全てを隠すことなくさらけ出した燗れた自身の裸形である。ピカソのいわゆる「青の時代」. 注21)に創造された青い色はピカソの血であり、ランボー注22)のとぼけたアイロニーは. 人間や社会に対する冷酷な断罪の宣言書である。そうした世界に生きる芸術家は枚挙に暇 がない。全てはカタルシスの浄化という幻想に惑わされた被害者であり、純粋経験の入り. 口でさ迷い歩く迷える子羊のようである。彼らは、カタルシスを全く必要とせず、悲劇の. 物語を興味津々に、しかも他人事のように研究する幸福な研究者や、自分が悲劇の主人公 であると思い、そうした人々を知ることによって仲問意識をもち、慰められようとしてい る悲しき人々に対してひたすら奉仕をした特異な篤志家であると言えなくもない。.  その悪循環は止まるところをしらない。カタルシスによって現前化された自分の悲劇の. 15.

(17) 痕跡は明確なる客体となって、あたかも主体に問いかけるかのように迫ってくる。それを 客観的に見た主体は、それが本当の自分の姿であることが理解できず、否定を繰り返すの. であるが、そうすることには限度があり、決して否定しきれぬものであると認めざるを得 なくなる。客体となった自分自身と、それを客観的に見ることによってもたらされた新た な悲劇の訪れによる重圧から逃れるための方策を練らねばならなくなる。頭の中では、な. んとなくカタルシスは軽微なものならば効用を発揮し、それを超える重篤なものであれば なんら効用を発揮せず、むしろその客体によって更なる悲劇を生むものであると理解しな. がらも他にとる手段はなく、最終的にはやはり芸術行為という手段に頼ってしまうことに なる。つまり再びカタルシスという手段に頼らざるを得なくなってしまうのである。ある. 見方をすれば、それは自分が行っている芸術というものに対する偏愛と敬愛がそうさせて いることなのかもしれない。悲劇の芸術家によくありがちな、自ら悲惨な状況にのめりこ んでいくといった悲劇のナルシシズム注23)がそこにはある。ゴヤ、ユトリロ、モディリ. アー二、シーレ、ボードレール、ランボー、ワイルド、ジュネなどのいわゆる悲劇のナル シストたちは特異な存在であるが、各分野に残した業績は今となれば悲劇を神々しいまで に高めた神聖なものさえ感じさせる。芸術のため、あるいは芸術至上主義注24)のためな ら死をも辞さない覚悟でいる、ある意味では限りなく純粋であり、また一般的な感覚から すれば、汚濁とした殉教者のようでもある。これらの芸術における殉教者たちにとって、. 一般的な意味として捉えられているカタルシスははなはだお遊戯的なものでしかなく、幼 児にのみに受け入れられるぐらいのものとして映つっていたのかもしれない。アリストテ レスが『詩学』で述べたカタルシスはあくまでも教科書の上での心理学用語であり、それ. はアリストテレスの時代であるから適合されたものであって、近現代の一部を除いた人間. や芸術家と呼ばれた人々に対しては、はなはだ適合されないきわめて遠い過去の遺物にな っているとも捉えることができるのかもしれない。科学の発達とともに芸術も発達してい. った。勿論、それにともない人問も変化していった。古代の緩やかな時間の流れの中で行 われた芸術は、緩やかな表現や芸術哲学によって作り成されたものなのかもしれない。近. 現代の芸術家は時間の流れが速くなればなるほど、それにともなって表現や芸術哲学が先. 鋭化された渦に巻き込まれ、自らもその渦の流れを作る一人となっていったのではないだ ろうか。時代の流れや芸術の世界の価値観や求めるものの変化によって、彼らは芸術の殉. 教者になることが必然的な宿命であったかのようにも見ることができる。もはや彼らに対 して、カタルシスという心理学用語を使うには余りにも適していないものであると考えざ. 16.

(18) るを得ない。いやむしろ、本来使われるべき心理学としての意味、効用とは対極の位置に. あると言っても過言ではない。彼らにとってみれば、カタルシスは結果的に考えると、芸. 術の殉教者になるための手段であったと皮肉な言い方ができるのかもしれない。悲劇のナ ルシストであり自虐的な彼らは、もしかするとカタルシスに対して嫌悪感を抱くと同時に、. あこがれと快感を見出していたのかもしれない。そうした殉教者たちを、あたかも一つの. 悲劇の物語の主人公として見ている人にとっては、彼らが殉教の際に創造していった悲劇 の芸術は興味深く、深遠かつ重厚きわまりないものと感じるに違いない。それが日常と余 りにもかけ離れているがために、あたかも虚構の世界であるかのように捉えることであろ. う。その悲劇性は自分自身の内面以外の客観的な人間観察における結果であったり、社会. 悪に対する告発であるなどと捉えられるかもしれないが、実はカタルシスの効用の範疇外 にいる、そうした特異な芸術の殉教者の自画像であるとは捉えないかもしれない。もし捉 えたとしても、せいぜい悲劇のナルシストぐらいにしか見ず、カタルシスがその根本であ るなどとは思いもつかないであろう。.  先に芸術行為は接触欲求の成せる結果であると述べた。カタルシスの果てに行き着いた 芸術の殉教者の姿には、接触欲求が強く感じられる。カタルシスの過程を繰り返し行い、. 芸術の殉教者の自画像を創造していくということは、もはや浄化という範囲を超え、救済 の意味が強まっていくのではないか。その対象は言うまでもなく自己救済である。おそら くほとんどの芸術家は、接触欲求を満たすために芸術行為を手段としてきたと考える。美 しい女性や風景を表現するのは美しい女性を抱きたい、美しい風景の懐に包まれたいとし. た強い欲求に突き動かされたためであろう。それと同じように、自己をどうしても救済し なければならないとした限界状況での欲求。この場合は生命にかかわるものであり、単な る欲求とは質を異にするが、自分自身を救済したいといったところに自分自身に対する接. 触欲求が感じられる。悲劇のナルシストと言ったが、この一連の接触欲求が本人以外の鑑 賞者にとってみれば、どうしてもそう映るのは無理もないことかもしれない。.  カタルシスによって創造された客体は、それが明確であればあるほど客体としての質は 高く、カタルシスの原理からすればよくできた過程であると言える。内面の欝屈としたも のが日記程度の軽微なものであり、一般的に言われているカタルシスの効用が生かされる. 程度のものであれば問題はないのであるが、ここで問題にしている悲劇のナルシストが行 う嘔吐した客体は更なるカタルシスによる悪循環に拍車をかけるものとなるであろう。悲. 劇のナルシストたちは芸術至上主義という冠を戴いた創造行為における完全主義者たちで. 17.

(19) ある。彼らにとって客体は、より明確に語らなければならないという信念に突き動かされ ている。その信念によって客体はより先鋭化されるようになり、自分自身の悲劇性をより. 明確に垣間見ることになる。つまり、自分自身の芸術家としての信念と創造者としての自. 負心によってカタルシスによる悪循環の状態へと陥っていると言えるのかもしれない。西 田幾多郎の純粋経験は主客の区別を超えた経験である。カタルシスに端を発した悲劇のナ. ルシストたちの主客の区別を取り除いたかのような一連の悪循環の過程は、西田幾多郎の 言う純粋経験とは質を異にしたものと言えよう。.  そうなると、その悪循環はいつまで続くのであろうか。と言うよりも、それを止めるた めの手段はないのであろうか。彼らは悪循環をいつまでも続けることによって、皮肉にも. 純粋経験の完成度を高めていくことになる。彼らは無邪気な鑑賞者の興味をひいたり、悲. 劇の境遇に喘ぐ仲間意識を満たすために自らの人生を犠牲にして、ひたすらに奉仕する篤 志家として生涯を終えるといった宿命を受け入れなければならないのだろうか。彼らとて そんな特異な篤志家として、あたかも何者かに操られているかのように悪循環の渦の中に. 巻き込まれることに対しては耐え難かったはずである。ゴヤは最晩年にくボルドーのミル. ク売りの女>(図一11)という絵を描いた。それまでのく黒い絵>とは全く対極にある. ような絵をなぜ彼は描いたのであろうか。ランボーはなぜ19才という若さで詩と決別し たのであろうか。それは単に詩に興味がなくなって筆を折ったとは考えにくい。そこには かならずや大きな内面の激変があったに違いない。.  おそらくほとんどの人間は生涯にわたって安穏として生き続けることはできないだろう。. どんな人問であっても心を暗くするできごとに遭遇すれば、苦悩し、そこから脱却する方. 法を模索する。それはあたかも熱病がひいていくかのように、ほどなく暗い思い出と教訓 を残して去っていく。暗い思い出の恐怖が教訓をより強固なものにし、人間としての質を 向上させていく。自分の周りの世界から必然的に、あるいは偶然に降りかかる苦悩の種、. そうした外圧注25)とも呼ぶべきものに対して抵抗注26)し、自己防衛を行う。もしかす ると、きわめて少ない例外を除いて、人間の生涯はその自己防衛に終始していると言って も過言ではないのかもしれない。.  フロイトは防衛機制注27)をエス注28)と超自我注29)との対峙による破局事態を避け るぺく、あれこれと方策を講ずる自我の機構であると述べた。また、娘のアンナは著書『自. 己と防衛機制』において、父が言った防衛機制としてあげたものを整理し、退行・抑圧・. 反動形成・隔離・打消し・投射・取り入れ・自責・逆転・昇華という10種類をあげてい. 18.

(20) る。その中で抑圧は、受け入れがたい考えや感情、願望を意識から排除するということか ら、ここで述べるカタルシスはそれに近いものであろう。しかし、意識の状態のものであ. れば、抑圧はその意味が示す通りに成される場合があるかもしれないが、そこに創造行為 が関わっているということは、ある明確な創造物が現前化することであるために、たとえ カタルシスによって自分の内面から取り出したとしても、客体という明確な存在をしてい るために、いわば内面から取り出しただけの抑圧に過ぎないのかもしれない。. 第 四 節  外圧と抵抗  人間は自らに降りかかる外圧に対して、あらゆる方策を講じて抵抗しようとする。人の 生涯は、言わば外圧と抵抗の連続によってでき上っているかのようにも見える。外圧とい う、自分にとっては負となる材料に対して、抵抗という方策によって負となった部分を補 おうとする。いわば正と負の均衡を保つことを目的としているかのようにも考えられる。 外圧は強度さの強弱と量の多少の組み合わせからなっているのではないだろうか。つまり、. 基本的には四つのパターンが考えられる。第一に強度が強く量が多い。第二に強度が強く. 量が少ない。第三に強度が弱く量が多い。第四に強度が弱く量が少ないといったパターン である。当然、第一のパターンは外圧における全体的な強度は最も強く、第四のパターン が最も弱いものとなる。抵抗は外圧に対して常に均衡を保とうとするものであると考えら. れるから、外圧の基本的な四つのパターンのそれぞれに対応するかのように行われる必要 がある。第四のパターンの外圧であれば、抵抗を行う時もさして問題なく行ない得るであ ろうが、第一のパターンの外圧に対しては抵抗も最大級のものを発動しなければならない. ために、大変な労力となることが想像される。しかしなかには、正負の量のバランスの不. 均衡によって、どちらかに傾く場合が出てくることも考えられる。それが正の方向への不 均衡であればいいのであるが、負の方向への不均衡であった場合には様々な問題が生じて くるであろう。ここで述べている悲劇のナルシスト、カタルシスの悪循環による被害者、. 純粋経験の体現者たちにとっては、外圧と抵抗の均衡を保っことがいかに困難をともなう. ものであるのかということが言えるのではないだろうか。彼らが創造する度に悪循環の回. 19.

(21) 転数は増し、純粋経験はより純度を増していくことは比例関係になってしまう。勿論、悲. 劇のナルシストの度合いが極限方向に向かうことも比例関係の一つとして加えることがで きる。.  外圧に対して抵抗するためのエネルギーが無限であるとは考えにくい。ただし外圧は自. 分以外の外界から降りかかってくるもの(なかには自分が招くものもあるが)であるため に、場合によっては無限に降りかかってくることがあるかもしれない。しかし、賢明なる. 人間は抵抗という手段によって、外圧と抵抗とのバランスの均衡を勝ち得ている。例えば こういう考え方はどうだろうか。内面において、外圧に抵抗するエネルギーが有限である. とする。しかもそれが絶対量注30)であったとしよう。勿論、全ての人間が均一な絶対量 を持っているわけではなく、個々の性格や容貌が異なるように、絶対量も違って当然であ る。従って、その人にもともと備わっている絶対量と外圧に対する抵抗のために消費注31). された絶対量との相関関係は無限な場合が考えられる。最終的な絶対量の残量注32)によ. って、その人の人生はどうであったのかとか、その人の人格はどのように変質していった. のかといった漠然とした目安のようなものはつかむことができるであろうが、その場合が. 余りにも無限な組み合わせを持っているために、指標とでも書うべき残量においても、無 限なものが考えられるために厳密な分析結果を出すことは難しい。大まかな言い方をする としたら次のようなことになる。もしその人の生涯における残量がたくさん残っていたと. したら、その人の生涯は外圧に見舞われることがなかった幸せなものであり、賢明につつ. がなく、抵抗のための絶対量の使用を行った幸せな人生を獲得した人であった。逆に、残 量が余り残っていなかったとしたら、その人の生涯は外圧に見舞われることが多かった困. 難なものであった。本論においては、芸術における悲劇性に焦点を当てているので、残量 を維持し続ける場合についてはこれ以上論じる必要はなく、残量が少ない場合について大 いに考える必要があるだろう。.  多くの災厄事によって、とてつもなく多くの外圧を受けたとする。その人は多量の外圧 に対して、それに適する抵抗を行わなければならなくなる。お互いが多量なものになるた めに、外圧と抵抗のエネルギーの発動の量も回数も多量なものになる。しかし、その人に. 備わっている絶対量という有限な基準があるため、早期のうちに絶対量を使い果たしてし まうことが考えられる。また、一度の外圧が余りにも強烈なものであった場合、それに対 する抵抗も強烈なものにしなければ均衡が取れなくなる。その場合は、通常の抵抗に使用. するエネルギーの量よりも多くなるのは当然なことであるので、結果として絶対量の消費. 20.

(22) の速度は速くなる。その時期は外圧と抵抗との量の多少の関係や絶対量の多少の関係との. 組み合わせによって無数の場合があり、それと同様に絶対量を使い果たす時期も無数の場 合がある。この関係において考えなくてはならない深刻な問題は、絶対量を使い果たして しまうとどうなってしまうのかということである。つまり、その人には抵抗するためのエ. ネルギー源である絶対量がなくなってしまっているため、外圧に対しては、もはや抵抗す ることができない状態に陥ってしまうのではないだろうかと言うことである。抵抗は外圧. に対して自分自身の内面で作り出されるものであるが、外圧は自分の意思とは関係なくふ いに襲いかかってくる場合がある。だとすれば、その人は外圧に対して手をこまねいてさ. れるがままの状態しかとることができないのだろうか。襲いかかる外圧は抵抗がないこと をいいことに、遠慮なくその人の内面へ侵入していくかもしれない。その後、通常考えら. れるのは、その人の精神領域にまで侵入していき、平常心をも崩壊させていくこと、即ち 精神に疾病を抱かせてしまう結果に至ってしまうのではないだろうか。絶対量というのは、. 人間にとって抗体のようなものと考えられるので、それがなくなれば病原菌は体内に侵入 しやすくなり、体を蝕んでいく過程に似ていると言えよう。目の前の災厄に対して、絶対. 量という抗体がないために何の抵抗もできずにいる状態、つまり精神疾患の一つである欝 の状態が思い浮かぶ。.  精神医学において欝はこう述べられている。. 「精神的、精神運動的、身体的症状の組み合わさった抑うつ症候群で、抑うつ気分、. 悲哀感などの感情障害、思考制止などの思考障害、意欲低下、睡眠障害、抑うつ状態 の日内変動などを主症状とする情動性精神障害とがある。最近はうっ病と躁病とをま とめて気分障害とすることも多い。原因によって、1、中毒または脳気質性障害など. による症候性うつ病 2、心理的原因、環境的原因による神経症性うつ病あるいは反 応性うつ病 3、原因不明の内因性うつ病などに分けられる。内因性うつ病では躁・ うつ療病相をもつもの(多極性うつ病)と、うつ病相のみのもの(単極性うつ病)と あるが、後者の方が多い。周期的な経過をとることが多い」注33).  ここで問題としている一連の悲劇のナルシストという悲しき称号をいただいた芸術家た. ちは、絶対量をいま述べたような消費の仕方によって、適度な残量を保ったまま生涯を終 えることができたのであろうか。今まで述べてきたことを頭に思い浮かべてもらえばわか. 21.

(23) るように、強度な嘔吐によるカタルシス、決して好転することのない悪循環。その都度感 じられる純粋経験の手前の状態。どれをとってみても尋常であるとは考えにくい。一般的. な人問が外圧と抵抗を行い、均衡という人間が生きる上ではかけがえのないものを手に入 れているといった単純な図式にはならない。カタルシスによって生み出された純粋経験を 引き起こす客体によって引き起こされる外圧。その外圧を処理するために再び行われる抵. 抗といった図式となるカタルシス。つまり、悪循環が回転し続ける限り、外圧と抵抗のせ めぎ合いも行われ続けることになる。しかも、一般的な外圧(確かに外圧にも軽重がある. が)に比べて悲劇のナルシストが受ける外圧は精神的な苦痛を多分に持ったものであるた めに、抵抗も相当なものにならざるを得ないであろう。従って、外圧と抵抗におけるエネ. ルギーの放出量は多量であり、それが止まるところを知らない悪循環の回転数の多さとが. 相まって、絶対量の消費の速度は一般的な速度に比べて数段速いものになるといった予測 は容易につく。. 第 五 節. 神に愛されし人たち.  創造行為を行う人間、つまり一般的に言う芸術家の中には精神疾患者と言われている人 が実に多くいる。彼らに対して人々は天才と言って賞賛する。それは創造された作品に対 しては勿論のことであるが、天才と呼ばれる人々にしばしば見られる奇矯な言動や生活習. 慣などが大いに手伝ってのことであろう。人々はそうした日常から逸脱した姿こそが天才 と呼ばれる人の証であると単純な捉え方を行うものであるが、それは精神疾患との因果関. 係を考えなくてはならない領域のものであるのかもしれない。確かに彼らは幼少の頃から. すでに並外れた能力を発揮している場合が多く見られる。おそらく並外れた能力を生まれ ながらにして持っていたのであろう。しかし、そうした高い能力に恵まれた人などは世界 中に多数いるはずだが、皆がそろって天才的な業績、本論であるならば、芸術的な領域で の輝かしい業績をのこすことができなかったのはどうしてだろうか。. 22.

(24)  例えば、イタリアの神経医ロンブローゾが「天才と狂気」という語を作り出した。また、. アリストテレスは「名高い詩人や芸術家らは往々にしてメランコリー、あるいは狂気であ る。アイアスのごときはそれだ。しかし、そのような気質は近頃でもソクラテスやエンペ ドレス、そしてプラトンその他多くの人々、ことに詩人の中に認められる」と述べた。セ. ネカは「痴呆を併せ持たざる知者はなし」と言い、フランスの哲学者ディドロもこう述べ ている。「私は推察する。これら陰気憂欝な気性の人々にときおり認められた異常な洞察力、. 時として狂的な、時としては崇高な思考へと彼らを導いたほとんど神のごとき鋭い洞察力 は、すべて彼らの心身機関の偶発的な障害によるものだと。かかる際に、この人たちは、. 神性が天下って自己のうちに宿り、自己の中で働き出したと想像していたのである。天才 と狂気との関連はかくのごとく近い。しかるに世人は、その或る者を監禁して鎖につなぎ、. 或る者のためには像を建立している」天才的な業績を残した芸術家や創造者自身も、おそ らく自己自身をだぶらせて様々なことを言った。ゲーテはこう言った。「おお、狂えるこの. 不幸者、どこまで狂いまわらねばならぬのか」と。二一チェは平凡な人々に対してこう言 い放った。「狂気はどこにあるか。それを汝らに植え付けねばならぬのだ」と。そしてショ. ーペンハウアーは「天才は平均的な知性よりもむしろ狂気に近い」と言った。注34).  クレッチュマー注35)は『天才の心理学』注36)の中で明らかに精神疾患と思われる天 才たちをあげている。哲学者として、ルソー、二一チェ。自然科学者として、ゴルトン、. ニュートン、ローベルト・マイヤー。作家ではタッソー、クライスト、ヘルダーリン、モ. ーパッサン、ドストエフスキー、ストリンドベルィなどをあげている。画家としては、ゴ ッホ、ミケランジェロ。音楽家ではシューマン、ヴォルフなどである。詩人ではゲーテ、. バイロンなどであった。これらの人類の歴史に知の遺産を遺してくれた偉大なる各分野に おける創造者は遺伝的なものや、その後の人生における経験によって精神疾患の方向へと. あたかも導かれるようにして悲惨な状況に陥った者、つまり、そうした運命の歯車に飲み. 込まれた者など様々な理由があり、それらのものが複雑に絡み合い、精神疾患を起こさせ るための悲しむべき有機的関連によってそうなっていった。クレッチュマーがあげた精神. 疾患者だとされる天才的な創造行為を行った者の中には、カタルシスを基本的な手段とし た外圧と抵抗とによる絶対量の消費、その消費こそが創造行為の原動力であり、結果とし ての絶対量の残量の多少が精神面における疾患の軽重を指し示すものとなるとした本論の 論理過程を思わせる場合が多数見受けられる。.  例えばJ・」・ルソー注37)について考えてみよう。彼は重い精神病的追跡妄想注38). 23.

(25) の所有者であり、しかも性的倒錯者でもあった。彼は処女論文である『学問芸術論』注39). によって世に出るのであるが、その内容は学問芸術に対する批判の書であった。それらは. 人間を拘束するものであると言い放った。彼はそれまでに作曲をするなど実際に芸術の世. 界に関わってきている。彼がどれほど芸術に対して深い関わりがあったかは明確にはわか らないが、学問や芸術について否定するということは、本論が述べている内容と相通ずる. 考えを持っていたのではないかとした推測ができる。ルソーが書おうとしている、芸術に よる拘束は、本論における、カタルシスを芸術行為の原動力としている芸術家が悲劇のナ ルシストになるといった過程が示すように、そうした傾向をもつ芸術家はどう抵抗しよう. が、結局はカタルシスを行わざるを得ない状況に陥るといった論理と似通ったものを感じ る。ルソーはその後、『社会契約論』、『エミール』、『告白』などを著すが、それらのものは、. 自分が幼少の頃から受け続けてきた社会の不平等に対する怒りや、半ば精神疾患の影響が 関わっていると思われる私生活での倫理・道徳に反した行動に対する罪悪感によってつく. られた内面の欝屈としたものの嘔吐以外の何ものでもないであろう。つまり、その根本に は明らかにカタルシスが見え隠れする。. 第 六 節. リヒャルト・ワーグナーの周辺.  二一チェ注40)は梅毒性脳疾患注41)であった。40才過ぎの時、通りにいた馬車の馬 の首にしがみつきおいおいと泣き叫んだという。この時から発狂が明確になったと言われ. ている。そしてその時から死までを狂人として過ごした。幼少の頃から小さな牧師と呼ば れるほどの神童ぶりを示していた。しかし、二一チェの著作である『悲劇の誕生』、『ツァ ラトストラはこう語った』、『この人を見よ』などを読めばわかるように、そこには彼の極. 度なまでの内向的性格と、攻撃的傾向を持つダイナミズム注42)とが混在されている。そ うした二律相反するものの象徴的なものに、彼が世に出た記念碑的な著作である『悲劇の. 誕生』のアポロンとディオニュソス注43)との対立がある。おそらく彼は外面的にはアポ ロンであったが、内面にはディオニュソスが密かにいたと考える。アポロンとディオニュ. 24.

(26) ソスとはどちらも彼自身のことであり、その対極にいる両者の格闘は若い頃から彼の内面. の奥深いところで行われていたのかもしれない。r超人」注44)の思想にしても、それは. 彼の内面にしまい込まれたもう一人の自分であったのだろう。彼が超人の体現者である楽 劇の創始者リヒャルト・ワーグナー注45)に心酔していたのはよく知られたことである。 ワーグナーの音楽は非常に攻撃的であり、奥ゆかしいという言葉はよほど当てはまらない。. 楽劇く二一ベルングの指輪>注46)に代表されるヘゲモニーはワーグナーの本質を余すと ころなく表されたものであり、二一チェの哲学の攻撃的かつ挑発的なところに刺激を与え. た要素を多分に持っていると考えられる。また、ワーグナーの無限旋律注47)にも注目し なければならない。ある意味では継続されたエネルギーの発露であり、また、ある意味で は永遠に続いていく混沌状態と捉えることもできる。これは二一チェの代表的な思想であ る「永劫回帰」注48)に通じるものがあると考えられなくはない。一般的にはこのことを. 虚無的な意味として捉えられているが、ワーグナーやディオニュソスといった二一チェを 取り巻く背景や二一チェの内面にあったであろう攻撃的傾向を考えると、ワーグナーの無 限旋律における永続性であり、虚無的とは対極の意味となる継続されたエネルギーの発露 として捉えることも十分考えられる。二一チェは『悲劇の誕生』の時、すでにカタルシス. の過程にのっとって哲学の創造をしていたのかもしれない。対極に位置するアポロンとデ ィオニュソス。それぞれは二一チェの分身としての色が濃く、常に自身の内面でせめぎ合 う材料であったのだろう。目まぐるしく対極からもう一方の対極に動き回る自分自身を持. ち続けることは心身の疲労につながり、結局は嘔吐せずにはいられない状態に至ったので はないだろうか。ツァラトストラも自分自身であり、『この人を見よ』のこの人とは紛れも. なく自分自身のことである。特に最晩年に著された『この人を見よ』は自分自身の余すと. ころのない告白であった。この時二一チェは、患っていた精神疾患が治る見込みのない状. 態になっていた。二一チェにとって、この著作におけるカタルシスは浄化といった、日記 を書く程度の状態ではなく、自己救済の意味そのものであったはずだ。二一チェにとって. みれば、いま不治の状態であるとはいえ、一縷の望みを込めて行った自己救済だったのか もしれない。しかし、残念なことに二一チェは自分自身を救済することができなかった。. 『この人を見よ』の著作を完成させたエネルギーは、最期に残された抵抗のための絶対量. であったのであろう。それを著し終えた時、抵抗のための絶対量が全て使い尽くされた内. 面には、枯渇とした状態が虚しく残っているだけになってしまっていたに違いない。そん な状態であるため、その後もやって来たであろう外圧に対しては何ら抵抗することができ. 25.

(27) なくなってしまったのは、ある意味では仕方のない結果であった。その時の状態を考える と、それを甘んじて受けるしか仕方がなかったのだろう。考えられる唯一の手段としては、. 死を待つことしか手段としては残されていなかったのかもしれない。.  奇しくも二一チェ同様、ワーグナーに心酔していたバイエルンの王、ルードウィッヒH 世注49)や『悪の華』の詩人ボードレールも狂死するに至った。ルードウィッヒH世は、. 生まれながらの芸術家気質と執政の間で、疲弊した心や私生活での性的倒錯などによる強. 度に鯵屈とした内面の危機を抱えていた。もしかするとそれらがカタルシスの悪循環の原 因となり、自死という悲劇的な最後を遂げさせたのかもしれない。「罪の聖書」や「近代人. の神曲」と言われるボードレールの『悪の華』とて、ボードレールの思想・哲学や境遇、. 乱脈をきわめた私生活が原因となったカタルシスの結果であったと考えられる。それは自 己救済を込めた繊悔の書だったと捉えることができるのかもしれない。.  となると、二一チェ・ルードウィッヒH世・ボードレールなどに、良きにつけ悪しきに つけ強い影響を及ぼしたワーグナー自身はどうであったのかという疑問が残る。ワーグナ ー自身の内面がどうであったのかは明確にはわからないのであるが、それらの悲劇の人た ちとは違って、歳を経るに従って栄光は輝きを増していった。数多くの巨大な楽劇を作り. 上げ、ルードウィッヒH世によって自分の理想とする楽劇専用のバイロイト祝祭劇場注5 0)までも手に入れた。ワーグナーの芸術家としての才能は言うまでもなく類まれなるも. のであったのは間違いのないことであるのだが、一方では類まれなる権謀術数を使いこな. す山師のようでもあった。自分自身の芸術のためであるのは勿論のこと、芸術という衣を まとったヘゲモニーのために多くの人を利用し、目的のために突き進んでいった生涯であ ったと言っても過書ではない。ワーグナーはそうした二面性をもった稀有な芸術家であっ た。結果的にはその二面性が上手く機能し、それぞれを高めていく結果となった。バイロ イト祝祭劇場は、ルードウィッヒH世に取り入って作らせたものであると言われている。. ルードウィッヒH世はワーグナーの楽劇から霊感を受けて、あの壮大華麗なノイシュバン シュタイン城やリンダーホフ城を造るにいたる築城熱にとりつかれた。そうした一連のル. ードウィッヒH世の道楽は国家の財政を圧迫するほどになった。ワーグナーは自分自身の 目的のために国王や国家をも揺るがせるほどのヘゲモニーの化身であったのだ。そんな人. 間であるのだから、おそらく芸術至上主義の気質をもった、破滅の影をちらつかせた芸術 家ではなかっただろう。また、常に後ろを振り向かず、自分の罪深いところに対しても罪 悪感を持っていたとは思われない。従って、ワーグナーにとってはカタルシスという言葉. 26.

図 版 図1 ゴヤ r二人の男と一人の女」 1821〜22年 キャンバス 油絵 125×66  プラド美術館 図2 ゴ ヤ  「二人の老人」 1821〜22年キャンバス 油絵144×66  プラド美術館 廉 〜』 、㌔ .杖終二 図3 ゴヤ 1821〜22年 123×265 一.■﹄一誹 瀦一ド.﹄ ■.ゴぐ︵ 鼻・凹「魔女の集会へ」 キャンバス 油絵プラド美術館

参照

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