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無の存在

ドキュメント内 簡素な表現がつくる多弁なる空間 (ページ 36-41)

きそうである。これらの人物にとっては、周りの大きな空間が必要不可欠であり、それが あるからこそ、いま我々がそれらの絵を見て抱く印象が生まれてくるのではないだろうか。

それは決して受動的なものではなく、能動的に絵の中の人物に語りかけていることによっ て、あのなんともいえない深い哲学的、あるいは情緒的な雰囲気を醸し出す結果となって いると考える。ターナーの絵や数々の水墨画においても同様なことが言えそうである。我々 が超能力者でないかぎり、何も可視することができない状態から何かを見るといったこと はできない。しかし、レンブラントの自画像の暗く広い空間に、あたかも具体的な何かが 可視されたかのように見つづけることができるのは何故なのだろうか。雪舟の墨絵の墨が かすれた空間に鋭さと共に深い哲学的なものを感じるのは何故だろうか。おそらくその空 間には何かが語られ、表現されているからなのだろう。そこには可視することができない、

いわば形而上的な何かが存在しているに違いない。

 芸術作品のほとんどは、芸術家が歳を経るに従って全体の表現や構成は簡素化されてい く傾向にある。しかも老境もしくは、生涯の晩年に創造された芸術作品は、それを創造し た芸術家の総決算と捉えられ、傑作であると評価されるものが多くある。確かに、歳を経 るに従って技量は低下することなく向上していき、芸術作品が芸術家の様々な経験から培 われた思想・哲学の反映であることから考えると、画歴の晩年に創造された作品の水準と いうのは必然的に高いものになっていくはずである。勿論、レンブラントの自画像におい ても晩年のものは最高傑作であると評価されているし、モディリアー二やターナーにして も同様である。彼らは画面の中の広い空間にいったい何を語ろうとしたのであろうか。あ るいは、空間という可視することができない部分の中に何か重要なことを覆い隠している のではないだろうか。

面には絶対量というものがはいっている容器があると考えてみよう。それは容器に入った 絶対量であるために、それを消費していくということは、そのつど消費した分だけの空間 ができていくことになる。例えば、絶対量の半分を消費すれば、その容器には半分の空間 ができるということになる。ここで閥題になっている絶対量の枯渇、つまり全てを消費し 尽くしたという状態のことであるが、考えるまでもなく容器の全てが空間だけの状態にな ってしまったということを意味する。絶対量の消費量と容器にできた空間の量には反比例 の関係が成り立つ。別の言い方をすれば、絶対量を消費すればそれだけ分の空間が容器に できていくことになる。人間にとって、外圧に対する抵抗のための絶対量は必要不可欠な ものである。もっと書うと、それがあるからこそ生きることができ、精神の均衡が保たれ るとも書える。精神疾患の世界に陥ってしまわざるを得ない人は、抵抗のための絶対量の 完全な枯渇状態に原因があるのではないかと言ったが、この内面における絶対量の反比例 関係を考えれば整合性も見えてくる。勿論ゴヤは、抵抗のための絶対量を消費することに よってく黒い絵>を描いたのだろう。その絵は、余りにも自分自身の内面の欝屈としたも のを赤裸々に嘔吐し過ぎているために、おそらく大量の絶対量の消費が行なわれたと考え られる。従って、絶対量の容器はもはや枯渇しかかった状態だったことが推測される。そ の時ゴヤは、聾者になってしまったことなどによって精神的に絶望的な状態に陥っていた。

しかしゴヤは生き続けた。いや、生きることができた。人問は動機や意欲なくしては生き ることはできない。ゴヤを生きさせたのは何であったのだろうか、絵に対する情熱か、そ れとも若い時から持っていた栄達への情熱や物欲なのか。おそらく絵に対する情熱はまだ 持っていただろうが、その他のものはほとんど消えかかっていたのではないだろうか。そ こにはゴヤに動機や意欲をもたせた何かがあったに違いない。それはいったい何であった のだろうか。

・枯渇した絶対量の容器には明確なもう一つのものが存在する。そこには何もないという 状態のものが存在している。っまり、無の存在とでも言うことができるであろう。無の存 在という概念はきわめて東洋的なものである。ゴヤはく黒い絵〉を描くことによって絶対 量を使い果たしたと考える。するとその時ゴヤは枯渇した絶対量に何を見、また感じたの であろうか。西洋人であるゴヤが何も無い絶対量の容器から無の存在という概念を見たか 否かは定かではないが、無の存在が個人の執着を軽減させるための諦念とでも言うべき意 味を大いに持ったものであると捉えたのならば、たとえ西洋人であったとしても、その合 理性は理解されるのではないだろうか。もともとゴヤはとてっもない野心家であり、物欲

の権化のような人間であった。若い時は絵において紆余曲折もあったが、ほどなく宮廷画 家としての地位をつかみ取り、当初の野心や物欲をある程度は満たすことができた。しか し、その後の私生活での不幸、わけても自分自身が聾者になったという悲劇の運命がそれ までの人生で勝ち得たものを容赦なく崩れ去らせていった。ゴヤにとって、その絶望的な 心境を払いのけるためには、最大のカタルシスによる抵抗のための絶対量を消費しなくて はならなかったはずだ。<黒い絵>はゴヤの家の一室に飾られていた。日々の生活の中で カタルシスによって嘔吐した客体であるく黒い絵>は、その主体であるゴヤ自身を冷徹に 見つめていたのかもしれない。カタルシスによる嘔吐の果てしない繰り返しはその後も続 けられていたのだろう。この余りにもおぞましい悪循環にゴヤはよく耐え抜いたものであ る。カタルシスによる悲惨な純粋経験は益々その純度を高めていき、主客が同一になるこ と、即ち主客がなくなったことが却って自分自身の内面の悲惨さをより明確にし、大きな 悲惨さの塊となってゴヤを覆い尽くそうとしていたはずである。しかし、ゴヤはその無間 なる闇の世界から、それまでとは全くかけ離れた一枚の絵を描いた。それはくボルドーの

ミルク売りの女>である。

 そこに描かれている女性は飾り気の無い平凡な田舎娘である。一見したところ、とびき り美しくもなく、鋭敏な知性も感じられず、ただ善良きわまりない印象を受ける。色彩は 派手ではなく、<黒い絵>とは対極にあるような明るくて淡いものとなっている。心身が ともに健康で、常に未来の成功を前向きに夢見ていた若い頃の絵に見られる色彩である。

この絵はただそれだけの実に簡素なものである。そこからはゴヤの声や体温をほとんど感 じることができない。画面から何かを読み取り、感じることができるという点に関しては、

〈黒い絵>とは対極に位置している。カタルシスによって明確になった客体は、それが余 りにも明確な自分自身の分身であるために、主体と客体の区別ができなく、西田幾多郎の 書った主客を超越した世界である純粋経験の一つであると言ったが、この作品においては、

ゴヤの主体も客体も全く感じさせないところに、逆に主客を超越したものが強く感じられ ないだろうか。そうした状況を、西田幾多郎の純粋経験の論理に照らし合わせてみれば、

それはカタルシスによって成されるものよりもさらに純粋経験が色濃く感じられるものと 言えはしまいか。つまりゴヤはこの絵によってもう一つの純粋経験注54)を成し遂げたの であろう。その時、ゴヤの内面には、かつて抵抗のための絶対量が満たされていた枯渇し きった空の状態の容器があったはずだ。ゴヤはその時、それを単なる空の状態としてでは なく、可視することはできないが、内面においては可視することが可能なはずの無という

明確なる存在に気がついたのではないだろうか。カタルシスは何らかの事物に対する執着 によって動かされたものであって、心理学や精神医学の定義からすれば、カタルシスを行 使しないことが精神衛生上では正常であるので、それを行使しないことにこしたことはな い。ゴヤはその時、次のような定義を考えついたのかもしれない。

 「物事に対する執着によってカタルシスは行使され、そのカタルシスの行使はそれが強 度な場合、精神衛生上好ましくない状態を増加させるものである。物事に対する執着が内 面になくなればカタルシスを行使する必要はなくなり、内面に平安をもたらすことが可能

となる」と。注55)

 ゴヤは執着を自分自身の内面から消し去っていくことが、カタルシスの悪循環という車 輪の中に巻き込まれないための唯一、最良の方法であることに気づいたのではないだろう か。<黒い絵>によって抵抗のための絶対量を消費し尽くし、枯渇した空の容器である内 面を見、何もない状態、すなわち無という状態を作り成している無の存在に気づいた時に 答えらしきものが明確になってきたのかもしれない。<ボルドーのミルク売りの女>とい う絵の何気なさというものには、そうした意味が凝縮されたものであると考えられないだ ろうか。この絵は、執着がなくなり、無の存在が充溢した当時のゴヤの内面の様子を克明 に写し取った心象風景であり、ゴヤが今の内面の状態にたどり着くまでの長い道のりを描 いた精神的な彼の歴史画である。そして人生の長く苦しい過程から掴み取った揺るぐこと のない確信を刻んだ哲学書でもある。ゴヤは最晩年になって初めて何一つ執着を持たず、

純粋に絵を描く喜びを感じたことであろう。

 <ボルドーのミルク売りの女〉の絵を描いている時、ゴヤはく黒い絵>や一連の巨人の 絵についてどのような思いを抱いていたのであろうか。若気の過ちとして回想していたの だろうか。あるいは、その頃の自分を悲劇の主人公として懐かしさを覚えていたのだろう か。芸術作品というのは、作品のみを見たのでは本当に見たことにはならない。カタルシ スの観点から言うと、作品というのは芸術家の明確なる客体であって、それが極度に先鋭 化された場合、純粋経験を引き起こすほどの主客を超越した自分自身そのものになる。作 品は作者自身であるため、作品を本当に理解するためには作者の人生や人格の変遷を知ら なくてはならない。ゴヤの生涯に描かれた数々の絵を見た時、絵のみを見てその画業を判 断した人はこう評するであろう。「前半は生き生きとした絵を描き、所々に野心が頭を覗か せている画家であった。中期から後期にかけては、人間や社会の暗部のみを描き、その実 態を余すところなく告発した社会正義や倫理・道徳に強い関心を示すが、潔癖さ故に暗部

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