のかもしれない。過去、現在、未来という空問の中で、おそらく永遠不変なものの中の筆 頭として時間は存在しているに違いない。社会や人間は時間の範疇の中で様々な有機的な 関連による結果として存在している時空問のほんの一部分に過ぎない。森羅万象は常に時 間の下に置かれている。
そこに人間がいる。そして様々なできごとが展開される。ある人は笑い、泣き、戦い、
和解し、眠り、朝になると目覚める。そこに他者が関連すれば、また新たな展開が始まる。
他者の数によって、また違う展開があり、場所によっても展開があり、時間によっても展 開がある。何かを創造する時も、それに関係する人や場所、そして時間の関連によって様々 な展開がある。といったように、それらの展開は無限大に広がっていく。しかし、宇宙規 模の巨大な展開の中において、唯一一定不変なものは時問の経過だけであろう。どんな展 開があったとしても、時間の刻々の流動性は一定不変である。いかに賢明な人であっても、
権力があったとしても、時間を自分の思うように操作することはできず、時間の一定な流 動の中においては、存在すらもわからないほどの一つの点にも満たないものに過ぎない。
時間はあらゆるものを規定し、全てのものを支配下に置く。そうした絶対的な支配を開放 し、それに代わる新しい絶対的な規定を行なうことができるとしたら、それは神という絶 対的な存在以外にはないであろう。この世の森羅万象は絶対である時間に全てが規定され る時間下存在である。時間の規定の下に全てが存在する流動的な時間の流れの中でのきわ めて小さな一点に過ぎない。言わば森羅万象の各々は、時空における点的時間存在注2)と でも言うべきものかもしれない。
時間は絶対的な一定不変な流れを崩すことはない。従って、何かを待つことなどはあり 得るはずがない。たとえそれが地球規模、いや、宇宙規模のことであったとしても待つよ うなことはない。決して振り返ることもなく、ある意味では非情に徹し前へと進んでいく。
人間や社会、それらによって創り出された文明であっても、時間の前を進むことは決して できず、常に時問の後に付き従う時間下存在であり、点的時間存在であることは不変な真 理の一つである。時間は常に森羅万象の先頭に立ち、絶対的なカによって規定し、付き従 わせる。かのドイツ観念論注3)の哲学者であるシェリング注4)は次のようなことを言っ
ている。
「本質が徐々に(主体的なものであるかぎりの)存在し、現在する本質として定立され、
これに対して、否定するカが徐々に相関的に(客体的なものであるかぎりでの)存在し
ないもの、過ぎ去ったものとして定立される」注5−1)
「ある時間が別の時間に続き、常に後続する時間が先行する時間を覆い隠す時間の系列」
注5−2)
「もし世界が無際限に後退する、あるいは前進する原因と結果の連続であるならぱ、本 来的な意味での過去も未来も存在しない」注5−3)
「子の出産を通じて、父である暗い根源力そのものは過去へと後退し、子との関係にお いて、自らを過去として認識する」注5−4)
「存在するものが、存在から分開され、永遠な自己現前へと高められるのに比例して、
存在は必然的に過去として定立される」注5−5)
「知られたものは最初からでき上がってここに存在し、現存しているものではない」注 5−6)
時問は止まることなく常に継続しながら動き続けている時間下に置かれた点的時問存在 である。森羅万象は時間によって創造された結果である。シェリングが書うように、過去 ですら現在の時間の継続された動きによって創造されたものであるとすると、そんな時間 は過去・現在・未来が混在した時空をも創造したのではないだろうか。森羅万象である点 的時問存在は、時空に無限大とでも書うべき量を保持して存在している。時空は点的時間 存在が集積された状態にある。その一つ一つは明確な存在であり、固有の特徴をもって規 定されたものであるが、それが大量に集積されているとしたら、一つの塊として見えるの かもしれない。しかも、時間は常に森羅万象の先頭に位置し、止まることなく動き続けて いる状態なので、時間が通り過ぎた後には点的時間存在の一つ一つがあたかも一繋がりに 見えるのかもしれない。従って時間とは、自分自身以外の森羅万象が点的時間存在である のに対して、点的時間存在を創造していった軌跡があたかも一繋がりの線のように見える であろうことから、いわば線的時間存在注6)とでも書えそうである。
その昔、芸術家が創造行為を行なっている姿が天地創造を成した神の偉大なる業に似て いるところから、神に代わる存在であると言われていたことがあった。確かに、創造行為 というものを考えると、それが絵画であれば、何も描かれていない真っ白な画面に様々な モチーフや色彩、遠近法などの高度な技法によって一つの全く新たに創造された世界を作 り上げるのである。また、それが立体であれば、大理石の大きな塊から生命感あふれる彫 像を彫り出していくのである。神は無から有を創造することができるのであるが、何も描
かれていない画面や何も彫り出されていない大理石の塊から一つの明確な世界を創造する 姿は、なるほど神の創造行為を思わせるものがある。従って、芸術家の行う創造行為とい うのは、時間によって創造され、しかも常に時間下に置かれている点的時間存在ではなく、
あらゆるものに先んじて森羅万象を創造していく時間のごとである線的時間存在のようで あると言えば、いささか言い過ぎになるだろうか。
点的であるということは、時問によって規定されることであるため、創造という観点か らすると、時間下において同時期に、多くの芸術家があまり代わり映えのしない創造物を 単に創造しただけのものだと言えなくもない。一方、線的であるということは、時闘が森 羅万象の先頭に立って、その動きの軌跡に森羅万象が創造されていくように、時空におけ るその他大勢の芸術家とは一線をかくした次元で創造行為を行う立場であると言えるので はないだろうか。要するに、点的であるということは単なる創造行為であり、線的である ということは独創的な創造行為であると言えよう。芸術家にとって、他の芸術家が創造し た後にそれと代わり映えのしないものを創造することは余り賞賛されるものではない。い や、むしろ恥ずべき行為であると言ってもいいであろう。芸術において、独創というもの が最も価値のあることの一つであるのは今更言うまでもないことであり、創造行為の真理
と言ってもいいであろう。シェリングはこう言った。
「人間によって有益で役立つのは、いわば何かを自らの背後に、つまり過去として定立 したという意識である」注7−1)
「自らを自らよりも高めるカを持つ人問だけが、真の過去を創造することができる」注 7−2)
「自らの過去に自らを対立させることのできない人間は全く過去を持たないのであり、
あるいはむしろ、過去から決して抜け出せず、常に過去の中で生きているj注7−3)
「自らの分開を通じて生きた力強い現在がなけれぱ過去は全く存在しないj注7−4)
「存在であるもの一切が一度に過ぎ去ったものとして、存在するものは一切が現前する ものとして、未来においてある両者の最高の統一が現実的なものとして定立されるなら ば、なんら時間は存在しなくなり、絶対的永続性が存在することになるであろう」注7−
5)
「人間はたとえ時間において生まれるとしても、やはり創造の始まりのうちへと創り上 げられている。時間における人間の生と規定する行為それ自体は、時間にではなく、永
遠性に属する。この行為を通じて人間の生は創造の始まりにまで到達する。したがって、
この行為を通じて人間も被造物の外にあって自由であり、人間自体が永遠なる始まりで ある」注7−6)
時間は常に森羅万象の中で唯一単独に進行する。当然のことながら、時間の前には何一 つ存在するものはなく、時間の進行した直後から様々な事象が規定され、存在していく。
先述したように、芸術家が何も描かれていない真っ白な画面に絵を描いたり、大理石の原 石から彫像を彫り出していく過程を思わせる。しかし、芸術家はモーツァルトのように幼 少の頃から驚愕の才能を発揮した例を除いて、ほとんどの場合は長い修練のあとに自分の 独創的な世界を創造するに至る。言うなれば、芸術家としての人生の前半生は点的時間存 在として歩み、独創的な世界を創造するに至って線的時間存在として生きていくことにな るのではないか。
これらのことをカタルシスの論理に照らし合わせて考えると次のようになる。内面に 次々と作られていく欝屈とした排除すべきものがあるということは、自分を取り巻く様々 な事柄との関係によって、自分の今の状態が自分の本意に反して作られたという受身的な 立場に位置する。これは自分を取り巻く関わりによって、自分がその位置に規定されたと いうことになる。抵抗のための絶対量が完全に消費されるまで、外圧という魔物によって 規定され続ける。その間、規定され続けるのであるから、結局は時間下に置かれた点的時 間存在として生き続けることになる。ゴヤは一連の巨人の絵やく黒い絵>という規定され ている自分を描き続けてきた。ワーグナーもヘゲモニーや政治に対する関心、性的な願望 などを表現し続けたということは、それらに対する執着がその都度ワーグナーを支配し、
それらのものによって執着させられ、規定された時間下に置かれた点的時間存在であった。
最後の楽劇であるくパルジファル>によって、それまでの自分の様々な執着に対して冷静 な視点に立って自分自身と対峙し、周りとの関わりよりも自分自身の内面を第一に見るこ とができるようになって初めて執着から一線を引いた立場につくことができた。しかし、
執着に対して一線をかくすことができたとしても、結局はその執着によって規定されたと いうことであって、たとえそうした極限の自分自身との対峙の立場に立ったとしても、規 定されたという事実がある以上、その立場もまた時間下に置かれた点的時間存在であると 言わざるを得ない。ただ、以前の状態とは明らかに変わったということは言えそうである。
線的時問存在が真の創造者であるとする観点からすると、ワーグナーはあくまでも真の創