第一章のカタルシスの過程で、究極的なカタルシスの方法は無の存在を表現することに あると言った。それは執着がなくなった無垢な世界に至ることによってっかむことができ る位置であった。また、時間が進行する時空の問題においても、時空の原初の姿や現在進 行している時間の位置には無の存在が充溢した無垢な空問があると言った。無の存在は、
我々が生きている日常生活の時空の中ではどこそこにあるというものではない。ある独特 の人生を歩んだためにたどり着いた究極の位置である。得ようとして得られるものではな
く、気がつけばその位置にいて、そこにいることに何の違和感も感ずることなく、それが 自分の心身の一部であるかのような、自他の区別が完全にとりはらわれた位置である。自 分もなく、自分以外のものもなく、主体も客体もない。従って、個人的な執着もなく、純 粋経験が意識的に行う一つの行為であるとした規定もなく、当然なこととしてそこにある だけのものである。そこには時空という単位があり、それがいかなる質や量を持っている のかも明確にはなされることはなく、あるがままの状態があるだけである。ただ一つ規定 されるものがあるとすると、それは無限という感覚のみがある。
そこで、無の存在をさらに考える上で、無と存在という対極に位置するものについて考 えていく必要があるだろう。
ライプニッツ注8)は『モナドロジー』注9)において、モナドをこれ以上分割すること ができない究極の存在であるとし、我々を取り巻くあらゆる事象はモナドの有機的な繋が
りによって成立していると言った。ライプニッツはこう言う。
「単純実体においては、現在の状態は何れもそれに先立つ状態から自然に出てきた結果 であり、したがってここでは、現在は未来をはらんでいる1注10−1)
「モナドは諸変様の多様性を決して妨げるものではないのである。モナドは勉と取り替 えることのできない 一勢であるが、しかし変化や多様性を持たない凝圏した 一 で はない」注10−2)
「至高の知恵と善意は完全な調和を以ってしか働き得ないから、現在は未来を孕み、未 来は過去のうちに読み取られ得るだろうし、遠くのものは近接したものの中に表出され るのである」注11)
確かにこれらのことは、存在が存在するための原理であろう。言い換えるならば、ライ プニッツにとってモナドとは究極の存在であって、存在というものを確定するための根拠 として捉えることができる。これは西洋の古代から連綿と絶対的な真理として考えられて いる存在論注11)そのものである。しかし、おのおの異なったモナドは単に機械的な繋が りによって成されるだけではなく、調和の原理が働いていると言っている。ライプニッツ はこう言う。
「物体の世界の因果性と心の世界の目的性とが対立することになるのではないか」注12)
ライプニッツはこの対立を解決するために、この原理の間に予定調和注13〉があると主
張している。
モナドは極限の単位であるために、その実態については論理的に究極の答えを出すこと は難しい。ライプニッツは微積分法を発見した偉大な数学者でもある。そんなライプニッ ツであっても、モナドの実体については明確に言い表すに足る言葉は見られないと言って もいいだろう。そこでライプニッツは予定調和という概念によってまとめようとした。ラ イプニッツを研究している田中令文氏はこう書っている。
「ライプニッツは、十分な根拠は物質の因果系列の外部にあるとして、それを神という ことで究極の原因を置き換えている」注14)
「わからないことは語るな」とはウィトゲンシュタイン注15)の書葉である。確かにモナ ドの実体は決して可視することのできない極小きわまりない極限の単位であるため、明確 な実証を行なうことは難しいであろう。たとえ微分方を発見したライプニッツであったと
しても、最終的には予定調和や神の概念によってその実体をまとめようとした。よく知ら れているように、ライプニッツはニュートンと微積分法の発見を競い合った。このこ人を 例えてこういう言葉がある。rニュートンは望遠鏡によって物事を見つめたのに対して、ラ イプニッツは顕微鏡を通して微分法を発見し、モナドを追究した」と。しかし、結局はそ れが極限の単位であり、極限の存在であるという段階の域は出ていないと考える。
ライプニッツはモナドを存在の原点とし、その有機的関係による新たな創造、それも全 事象という無限大への創造にっいて言った。それは時間が進行する軌跡に森羅万象を創造 していくといった本論における過程と通ずるものがあって、過去・現在を通り、未来への 創造の可能性は無限大に広がっていくという演繹的な拡張は十分に考えられることである が、帰納的な方向になると本論との間に微妙な隔たりが生じてくる。なぜならば、本論に おいては全事象の核が無の存在であるからなのである。果たして全事象の核がモナドであ り、予定調和や神によってまとめ上げるのが本当に究極のものであろうか。その創造の過 程について田中令文氏はこう述べている。
「ライプニッツは私たちの表象の移行そのものに変化と連続の原理を求め、無限を単に 保存の原因としてではなく、変化の連続の内的なものと捉えたj注16−1)
「ライプニッツの場合は、未来と現在の問には無限小の微小な表象の連続的な移行が存 在している」注16−2)
「物質そのものの中には運動の根拠はない。物質における現在の運動のその先行状態、
さらにその先行状態をさかのぽっていっても、私たちは物質の中に究極の根拠を見つけ ることはできないだろう。何ものからも結果したのではない。それ自体のみが原因であ るものは物質の中に見出されないのである。もしそれを認めれば、私たちは無から物質 を生じることを認めることになるであろう」注16−3)
西洋の思想・哲学の根本は存在することから始まっている。無から有は決して生じるこ とはない。当然のことながら、無の存在などは論外なのかもしれない。無から有という方 向性で存在のことを考えるから、論理的にはあり得ないことであるという結論に達するが、
もし無という存在があったとして、有から無に向かうという方向性で考えてみれば、無の 存在の有無はいかになるであろうか。つまり、有るものは何らかの作用、例えばあるもの を消費したとか、あるものが液体であったとすると、時間の経過によって蒸発していくと いった理屈である。これは無の存在を究極のカタルシスの到達点であるとした方向性の過 程を示すものである。また、時間の進行の軌跡が森羅万象を創造するといった方向性にお いても、それを帰納的に考えると、現在進行している時間が存在する位置というのは森羅 万象が創造される前の時空、っまり、無が充溢した無垢な空問から全ての創造が始まった とする方向性をも示している。何れも無が存在すると思われる位置や状態は、そこに到達 するまでの過程が実に無限大と思えるほどのものがある。視点を変えてみると、無の存在 と思われるものは無限大とも言える究極の位置から、それがカタルシスの場合であればそ れを行った人を、時空間の場合であれば時問の進行を引き寄せるほどの想像を絶するほど の引力が備わっているのではないかとする論理が成り立つ。無の存在の有無を問われるの であれば、確かに西洋の思想・哲学のように「否」という解答も正当性があると捉えるこ とができるが、もし無の存在らしきものに限りなく近づいていく運動の「過程」を考える という視点であれば、全面的に「否」とは言えないのではないだろうか。
例えば今ここに、ある一定の時間が経過すると体を半減していく生物がいるとする。そ
の生物は時間の経過にともなって体を1/2、1/4、1/8と半減させていった。そう
すると、この生物は最終的にはどのような状態に至るのであろうか。単純に考える人は「そ の生物は最終的にはなくなってしまう。つまり存在がなくなり、何もない状態になる」と 言うかもしれない。果たしてこれは正しい答えなのだろうか。答えは「否」である。一定 の時間の経過によって体が半減していくのだから、たとえその生物の体が肉眼で可視する ことができないミクロン単位になったとしても、それがミクロン単位の明確な存在である 限りにおいては、尚も体の半減行為を続けているはずである。いや、続けることができる はずである。従って答えは、永遠になくならないというのが正しい答えであると論理的に は言える。要するに、カタルシスの過程や時間の進行のことと同じように、無という状態 に近づくということは、永遠とも言えるほどの無限大の過程がそこにあるのではないだろ うか。無から有を創造することは「否」であるかもしれないが、有から無へと向かう方向 には、厳密に言えば上述した例のように無限大の過程が隠されているのかもしれない。し かも、無の存在の有無が確かなものでなかったとしても、その進行過程における様々な事 柄を経験することは可能であると言えまいか。もし、それが可視することができないほど の極小な存在であったとしても、それが明確な存在であったのならば、その存在がなくな ってしまう状態、即ち無の状態に至る過程は明確にあるのだから、その過程を経験によっ て実証することは不可能ではない。
モナドが明確な存在である限り、存在が完全になくなってしまった状態、即ち無の存在 とは明らかに状態が異なっている注17)ものである。一定の時間の経過によって体が半減 していく生物の例を思い浮かべればわかるように、たとえモナドが極限の単位であり、そ れ以上分割することのできない存在であったとしても、またそれがいかなる状態のもので あったとしても、それが存在である限りにおいては、何もない状態である無との存在とし て有るか無いかの隔たりは、あの例の生物において考えられた言葉を借りれば無限大なも のがあるはずである。ライプニッツをはじめ、西洋の思想・哲学の基本を成す存在論であ る建築的な論理構築は確かに明確である。一方、無の存在という東洋の思想・哲学は非常 につかみにくい。何もない状態に対しては、何の実体も、そこに保たれたエネルギーも有 るようには考えられず、あたかも存在と言うものが使い古され、何の役にも立たず、意味 を持たない無反応な状態のものであるととられがちである。単純に数量の印象においても、
存在論は1+1訟2といったような建築的な論理構築がすぐに思い浮かぶが、無の存在の 場合は常に何かが減少していき、0に限りなく近づいていく消滅の印象が強くある。視点 をかえるとこうも言える。無の存在があるとすると、その存在は他と比べようがなく、こ