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症例シュレーバー(3)-フロイト再読11-

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(1)症例シュレーバー(3). 167. 症例シュレーバー(3) ‑フロイト再読11‑. 村. 井. 朔. 3.シュレーバーを読むラカン ラカンのシュレーバー論を取り上げる前に、ラカンにとっては重要な解釈上の鍵であり、その ため故意にここまで触れずに取っておいたシュレーバー回想録の言語観を見ておこうO シュレー バーは彼の「上位の神」が神経接続を介して語りかけてくる言葉を「根源言語Grundsprache」 と呼んでいる。神の用いる言語であるから、普通の人間の言語とは違う、あるいは人間の言語に 優るところがあるわけだが、回想録の第1章によれば、そのメルクマールは著しい多義性である という。. これは若干古めかしくはあるが力強いドイツ語で、特に娩曲語法が非常に豊富である点で際 だっている(たとえば、 「褒賞(Lohn)」は正反対の「罰(Strafe)」を意味し、 「毒(Gift)」は「食 物(Speise)」を、 「果汁(Saft)」は「毒(Gift)」を、 「聖ならざる(unheilig)」は「聖なる(heilig)」 を意味する等である‑)。(1). フロイトが1915年からウィーン大学で行った『精神分析入門』講義(著作としては1917年出版) には「『根源言語』なるものを空想した、ある興味深い精神病者の幻想」(2)、つまり統合失調症の 患者に特徴的な、シュレーバーの言語新作に触れた一節がある。フロイトはK ・ア‑ベルの著書 『原始語の対立的意味』 (1884)を採用して、同じ語が正反対の意味をもつ「根源言語」は「強い 一弱い、明るい一暗い、大きい一小さいというような対立が同じ語根によって表現されていた」 古代の言語に似ていると説く。たとえば、エジプト語のkenはもともと「強い」と「弱い」とい う意味であり、 「このような両義的な語を用いる場合、話し言葉では語調と身振りを添えることに よって、また書き言葉では限定詞といってそれ自体は発音されない絵文字を添えることによって 誤解を避けた」(3)のだという。穴などが「深い」という時に「高い」、ドイツ語ならhochという 形容詞を使うことは現代のヨーロッパ語でもありうるが、これは穴の底を起点として考えるせい であって、矛盾ではないと言われる。これに対し、太古の言語と特徴を同じくするらしいシュ レーバーの「根源言語」は常人の理解を超えた言語であり、フロイトの言う「両義的」という形.

(2) 168. 容でも十全には表現しきれないような代物である。 「娩曲語法が非常に豊富」などという彼自身の 言い方ではさらに不十分である。 「娩曲語法」とは、たとえば「死ぬsterもen」というストレート な表現を避けて、 「永眠するentschlafen」と言うようなものである。通常のドイツ語でも確かに 女性名詞のdieGiftは「贈り物」、中性名詞のdasG出は「毒」である。ところが「根源言語」で は「毒」という単語の背後には常に「食物」という正反対の意味が隠れている。語呂合わせから いっても「果汁Saft」という語の背後には常に「毒Gift」というもう一つの語が重なって響いて いるのだ。 このような意味の濃さ、あるいは過剰さは普通の人が何も見ないようなところに隠れた関連を 見てしまう統合失調症患者の妄想の質から説明することができよう。シュレーバー回想録のドイ ツ語が非常に読みにくいことは、すでに述べた。さしもの尾川/金関訳も、これをそのまま日本 語に移し入れようとすると日本語の方が壊れてしまうので、適宜、原文を分断して複数のセンテ ンスに分けざるをえないのだが、回想録の原文はきわめて息の長い複雑な構文をしており、副文 また副文、関係文また関係文がいつ果てるともなく延々と続く。だが、このような回想録の文体 的特徴は、著者が「あちらの世界」に行ってしまった人だから、というような見方ではうまく説 明することができない。シュレーバー的妄想の特質はむしろ「こちらの世界」のありとあらゆる 事象の背後に隠れた関連や兆候を読みとろうとするところにあるからだ。最も端的な例を挙げよ う。われわれは普通、太陽光線が降り注いでくるというありふれた現象の背後に読みとるべき裏 の意味を探そうとはしないが、シュレーバーはこの自然現象の背後に、彼の「神」が光を介して 自分に神経接続してくるという、重大な「真理」を発見するのである。現代の統合失調症患者な ら、 UFOが光通信を介して秘密のメッセージを送ってくる、とでも言うかもしれない。だとす れば、果てしなく関係文や理由の副文が続く回想録の文体的特徴は、自分が知った世界の背後の 「真理」、あらゆる現象の背後にある隠れた、入り組んだ関連づけをそのまま書き記そうとする著 者のまさしくパラノイアックな偏執に由来すると考えることができる。 しかし一方、このような意味づけの過剰は容易にまた意味の空転‑と反転しうる。神経接続を 介して繰り返しシュレーバーに語りかけられる言葉、つまり医学的に言えば彼の脳が聞いたと誤 認する幻聴は「世界の真理」を開示してくれる言葉どころか、実際には次のようなものであるこ とが多い。. 「いったいどうして」 「なぜなら‑‑だから」 「なぜなら、私が‑・‑だから」 「そうでなければ」 「彼に関しては(これはすなわち私という人物に関して、しかじかのことを言わねばならない、 あるいは考慮せねばならないということである)」(4). どうしてこんな断片的な言葉なのかというと、話の内容が延々たる繰り返しであるから、シュ.

(3) 症例シュレーバー(3). 169. レーバー自身がカッコ内に補足しているような内容の部分は脱落し、このような断片だけが残っ たのだという。回想録の濃密な意味空間を支えていたはずの機能語、具体的には接続詞の墓場で ある。回想録には硯にこのような無意味な常套句のアンソロジーも載せられているが、実はこの 本のなかで「上位の神」のあやつる「根源言語」の豊かさについて述べられているのは、先に引 用した第1章の一節だけに過ぎない。その数十倍の紙幅を費やしてシュレーバーが飽くことなく 述べているのは、彼に語りかけてくる言葉の内容のない空疎さである。. しかしいまやもうかなり前から声のおしゃべりは、ただ果てしもなく反復される(暗記した) 決まり文句の恐ろしく単調な繰り返しにすぎなくなってしまっているのだ。(5). もちろんシュレーバーに神経接続して語りかけてくるのは「上位の神」ばかりではない。悪役 である「下位の神」やその手先たち、いわゆる「フレッヒジヒの魂」なども盛んに彼に話しかけ てくる。とはいえ、彼が幻聴として聞き取る言葉のほとんどが無意味な「決まり文句」の繰り返 しとならざるをえないのは確かである。そしてこの恐るべき単調さの原因を作っているのは、前 の論文で触れた「筆記制度(書き込みシステム)」に他ならない。シュレーバーによれば「私のす べての思想、私のすべての慣用句、私のすべての日用品、その他私の所有するところとなった、 あるいは私の近辺にあったすべての物、私が交際するすべての人物等が筆記されている」のだと いう。彼の脳に接続し、脳から思考を読みとった光線は自動的にそのすべてを、いま風に言えば パソコンのハードディスクのような外部記憶装置に書き写しているというのだ。いわば彼の脳そ のものが直接ネットワークにつながれているわけだから、彼に語りかけてくる言葉の貧しさは、 裏返せば彼自身の思考、彼自身の言葉の貧しさということになる。 「筆記制度」について述べてい る回想録第9章の別の一節を引こう。. つまり、すでに以前一度私のうちで生まれた考えはもう筆記されてしまっているわけである が、そういった考えが反復される際‑もちろん多くの考えにおいて反復はまったく不可避で ある。たとえば、朝起きたときの「さて顔を洗おう」とか、ピアノ演奏の際の「ここは美しい 箇所だ」等の考えである‑そういった考えの芽ばえるのが知覚されるや、接近してくる光線 に「我々はそれをもう知っている」 (話された通り書けば「わしらそんなこたあとうにわかっと る」)という決まり文句が筆記され、接近してくる光線に忠告として与えられたのだ。(6). 確かに人間の思考、言葉の大半は「そんなこたあとうにわかっとる」ことの繰り返しであって、 新たな、創造的な発想をする機会はごくわずかしかない。シュレーバーの迫害妄想に言わせれば、 彼の思考の多くが無意味な繰り返しに過ぎないのは、そのような思考あるいは言葉を強いる光線.

(4) 170. の「思考強迫」、さらには「思考偽造」のせいである。. この思考強迫の本質は、人間に絶え間なく思考が強いられるということにある。換言すれば 無思考状態(これは睡眠においてもっともはっきりした形で生じる状態である)に耽ることで 必要に応じてときおり悟性神経を休息させるという人間の生来の権利が、私の場合、私と交信 する光線によって当初より阻害されてきたのだ。つまり光線は、私が何を考えているかをひっ きりなしに知りたがったのである。たとえば、単刀直入に‑字句通り‑ 「あなたはいま いったい何を考えているのか」と問われたのだ。そして人間は周知の如く‑あるときには ‑何も考えないでいることができるし、また他方何千ものことを同時に考えることができる のだから、これはまったく馬鹿げた問いであり、それ故また、私の神経はこういった不合理な 問いにはまったく反応しなかったのである。このため問いを発する側は間もなく思考偽造の制 度に逃避せざるをえなくなった。たとえば上の「あなたはいまいったい何を考えているのか」 という問いに対しては、 「この男は世界秩序のことを・・‑・はずだ」 (考えているという語を補う) という答えが勝手に与えられたのだ。つまり、 「この男は世界秩序のことを‑‑はずだ」という 言葉を口に出して言うときと同じ振動を起こすことが、光線の作用によって私の神経に強いら れたのである。(7). しかし、ここで「光線の作用によって」と書かれている部分を、国請(ラング)という形でわ れわれの思考を支配している「言語のネットワークの作用によって」と読み替えるならば、もは や正気を失った人のたわごとどころではないシュレーバー回想録の現代的か)アリティに読者は 惜然とするだろう。つまり、彼の言う「筆記制度(書き込みシステム)」とは「言語の牢獄」のこ となのだ。言語はわれわれの思考を可能にする土台ではあるが、われわれが子供として言語‑文 化の秩序に参入する際には常に既にある国語を習得するはかなく、われわれが勝手に作り替える ことができないという意味では「他者の言語」と言うほかない。人間は誰もがそのような「他者 の言語」の牢獄に閉じ込められるのである。シュレーバーの迫害妄想がいう「人間玩弄」とは神 経接続してくる光線の作用によって自分のものでない思考や言葉を強制されるという、統合失調 症にありがちな他動(他者にあやつられる)の妄想だが、同じく「光線の作用」を「言語のネッ トワークの作用」と読み替えるなら、われわれにもきわめてリアリティあるものと感じられよう。. 私には‑その他多くの事象とともに‑この経過を見れば、その人間の神経を促してそれ らの言葉を使わせているのが光線の作用(奇蹟)であることが‑それはその人間にはもちろ ん意識できないのであるが‑反駁の余地なく証明されていると思われる。換言すれば、下位 の神が以前何年にもわたって何度となく語っていた「人間玩弄」の現実性を証明しているので.

(5) 症例シュレーバー(3). 171. ある(8). 人間は否応なくある国語(ラング)のシステムのなかに閉じ込められており、結局は空虚な「決 まり文句」でしかない「それらの言葉」を便わせられ、 「下位の神」ならぬ書き込みシステムにも てあそばれている。シュレーバーが言いたいのは、実はこういうことだ。かつてデリダが『声と 現象』 (1967)で論じた通り、自分が話すのを聞くという場合、音声記号は空間的には主体のすぐ そば(絶対的近さ)で、時間的には全く同時に聞かれるがゆえに、そこには音声を発する主体の 直接的現前があるかのような錯覚が生じる。だが、このような音声言語すらも国語(ラング)な くしては存立しえないのは明らかだ。そして国語(ラング)とは各項目(たとえば音素の対立や 類義語の意味の差)の位置取りが全体の体系のなかでしか決まってこない、ネガティヴな示差的 対立のシステムである。ある言語を用いるようになるということは、ほんらい私の外部にあるこ のシステムにからめとられ、「思考偽造」を強いられるようになるということなのだが、シュレー バーがこの「真理」に気づくことができたのは、 「神」が彼に語りかける「神経言語」なるものが、 耳から入ってくるのではなく、神経接続を介して直接に脳にやってくる言語、まさしく「他者」 が主体のまん中で語る言語だからだろう。. 通常の人間の言語のほかにもさらに神経言語というものがある。これはしかし通例健康な人 間の知るところとはならない。この神経言語のイメージを得るには、いくつかの言葉を一定の 順序で記憶に刻み込もうとするときの過程、つまり、たとえば学校で暗唱せねばならない詩を 生徒が暗唱するときとか、教会で説教しようとする聖職者がその説教を暗記するときの過程を 思い浮かべていただくのが一番よいと思う。そういったとき言葉は声に出さないで暗唱される (これは説教壇から会衆に要求される黙祷の場合と同じである)。すなわち人間はそれらの言葉 を口に出して言うときと同じように自分の神経を振動させるのであるが、その際本来の音声器 官(口唇、舌、歯等)はまったく動かされないか、動かされるにしても、それは偶然にすぎな い。 正常な(世界秩序に適った)状況においては、この神経言語を使用するかどうかは、もちろ んその神経を持つ当事者の意志のみにかかっている。どんな人間も本来他人に強いて神経言語 を使わせることはできない。しかし私の場合には、これまで述べてきたように私の神経病が危 機的な転回を遂げて以来、いまや私の神経が外部から、しかも絶えることなくひっきりなしに 動かされるという事態が生じたのである(9). さて、ラカンのシュレーバー論は1953年からパリのサンタンヌ病院で始められた彼の弟子たち のための講義「セミネール」の第3年冒、今日出版されている書名で言えば、セミネール第3巻.

(6) 172. 『精神病』のなかで主として述べられている。 1955年秋から1956年夏までの一年間、 25回の講義 の大半がシュレーバー症例の解明にあてられており、ラカンにとってこの症例がいかに重要なも のであったかが分かる。そもそも神経症の治療者・研究者であり、精神病に関しては結局、生涯 を通して門外漢にとどまったフロイトとは違って、ラカンの場合は出世作となった博士学位論文 『人格への関係から見たパラノイア性精神病』 (1932)、いわゆる症例エメが早くもパラノイア論で あり、神経症と精神病、この両者の発病メカニズムの「構造的」な違いはラカン精神分析理論の 核心部をなす重要テーマであった。娘婿ジャック‑アラン・ミレールの編集によって刊行が続け られているセミネール仝26巻のなかでも、この第3巻『精神病』が真っ先に1981年、すなわちラ カンの死んだ年に刊行されたのも当然だろう。 ラカンはまず、われわれが最初の論文で引いたクレペリンのパラノイアについての定義を批判 するところから講義を始める。クレペリンによれば、パラノイアの患者が強固な妄想体系を築い ていることは確かだが「その妄想体系は思考、意志および行為の明断性と秩序を完全に保持して いる」。すなわち、パラノイア患者は途方もなく現実離れした妄想を抱いているが、その妄想自体 はそれなりに明断で秩序だっており、われわれにも了解可能だと彼は考えたのだ。それは違うと ラカンは言う。通常の人間同士の関係でも、了解よりも前に根本的に誤解というところから出発 すべきではないのか。われわれと精神病者との間では、なおのこと安易な了解にとびつくのは危 険である。パラノイアの妄想においては、すべてが「明白」であり、神経症の場合のように抑圧 されていないだけに、その「明白」に述べられたことを、われわれの通常の流儀、つまりはわれ われの象徴秩序内の解読コードによって読みとってしまうのは危険だとラカンは言う。たとえば、 シュレーバーは二度目の発病と入院に先立って、夢のなかで「性交を受け入れる側である女に なってみることもやはり元来なかなか素敵なことにちがいないという考え」を抱いている。すで に述べた通り、フロイトのシュレーバー論の出発点となった回想録の一節であり、これを字義通 りに受け取ってフロイトは同性愛の欲望とその抑圧、そして抑圧された欲望が妄想として回帰す るという、ほとんど神経症の場合そのままの議論を展開したわけだO しかし、もしシュレーバー が神経症患者であれば、このような同性愛的欲望を表現する「考え」がそのまま意識にのぼって くることはありえないとラカンは言う。同性愛ないし女性化の欲望は現われるやいなや抑圧され、 もし夢として現われるのなら、このようなストレートな形ではなく、同性愛の欲望を抱いたこと に対する「懲罰夢」のような形で現われてくるはずだという。ラカンは建前上、あるいは戦略上、 フロイトを表立って批判することはないが、フロイトのシュレーバー論を不十分だと彼が考えて いるのは明らかであり、この意味ではクレペリン批判は偽装されたフロイト批判でもあるのだ。 まず第2回講義「妄想の意味」の一節を引こう。. さて、ご覧のように、私たちが相手にしているのは、ひどく進行した狂気の症例です。この.

(7) 症例シュレーバー. 3. 173. 妄想的な導入部だけでも、シュレーバーの辛苦の著作の全体的性格がおおよそ分かろうという ものです。しかしながら、この範例的症例のおかげで、またフロイトのそれに劣らず洞察力あ る彼の精神の働きのおかげで、私たちははじめて、どんな症例にも一般化することが可能な構 造的概念を把握しうるようになるのです。ここには衝撃的であると同時に啓示的な新しさがあ り、これによって全く新たな基盤の上にパラノイアの分類をやり直すことが可能になります。 私たちもまた、この妄想のテクストそれ自体の中に、一つの真理を見出すのですが、それは神 経症の症例のように隠されているのではなく、まったく明白に表現され、ほとんど理論化され ていると言ってもよいのです。(10). したがって、ラカンはシュレーバーの夢のなかに現われた「性交を受け入れる側である女に なってみることもやはり元来なかなか素敵なことにちがいない」という「まったく明白に表現さ れ」た夢思想をフロイトのようにそのまま了解してはしまわない。了解するのではなく、神経症 患者ならストレートに表現されるはずのない無意識の欲望がなぜそのまま露出してくるのかとい う「構造的」な問題を考えようとする。要するに、シュレーバーの心の中では精神分析にとって 最も基本的な心的メカニズムである抑圧が働いていないのだ。フロイトは、われわれ人間はまず 最初に各人が「原抑圧Urverdrangung」とも言うべき体験をし、それが後に繰り返される「抑圧 Verdrangung」のモデルとなるのではないかと考えたことがあった。ラカンにとって「原抑圧」あ るいは象徴的去勢とは人間が「他者の言語」である国語(ラング)のシステムのなかに入ること、 「言語の牢獄」に閉じ込められることである。人間を神経症にするのは、この「言語の牢獄」への 閉じ込めであるから、われわれすべてが原理的に神経症患者なのだ。一方、無意識の思想内容が そのまま抑圧なしに表面化してしまうシュレーバーは「原抑圧」を被っていない、すなわち国語 (ラング)のシステムに入り損ねていることになる。これが精神病と神経症の「構造的」なあり方 の違いである。そして、すでに検討した通り「根源言語」と「決まり文句」という両極に分裂し ているシュレーバー回想録の言語観こそ、分裂病患者たちの国語(ラング) ‑の入り損ねという 事態を的確に表現しているのだとラカンは読む。. 私たちはこのことを、これら患者たちの思考を占めている、あらゆる具体的表現が両極に分 化してゆくことから見てとります。それがどの程度、口に出されるにせよ、彼らが従うことに なる現象の総体を覆っている内的言語というものがあって、そこではこうした性格がきわめて はっきりと、両極に分化して現れてきます。その現れ方はシュレーバーのテクストが大い宣強 調している通り、言語新作がはっきり現れる二つのタイプの現象‑直観と決まり文句です。 妄想的直観とは、主体にとって自らを満たし、いっぱいにするような充溢した性格の現象で す。それは患者に新たなパースペクテイヴをもたらし、患者はその独特な刻印、特別な味わい.

(8) 174. を強調します。ちょうどシュレーバーが彼の経験によって導き入れられた根源言語について 語っているように。そこでは、言葉が‑ 「謎の言葉」と言わんばかりに大げさに強調されて いる通り‑状況の核心なのです。 シニフイカシオンシニフイカシオン. 一方、意味作用がもはや何ものにも送り返されない時に、意味作用がとるもう一つの形態が ありますO それはステレオタイプな恒常性を伴って繰り返され、反復され、教え込まれる決ま り文句です。それは、根源言語に対して反復的なリフレインと呼ぶことができましょう。 シニフイカシオン. きわめて充溢したものと、きわめて空虚なもの、この二つの形態が意味作用を停止させてい るのです。(ll). さらにラカンは、失語症には文法的に正しい文を作るが言わんとすることを伝達できない相似 性、隠輪の障害と文法的に正しい文が作れない隣接性、換晩の障害という二つのタイプがあると いうロマ‑ン・ヤーコブソンの論を踏まえて、隠喰とはフロイトの言う「夢の作業」における圧 縮であり、換輪とは置き換えであると言い、シュレーバーの膨大な回想録には換膝はあるものの 隠晩がほとんどなく、彼は相似性の異常にかかっているという興味深い指摘をする(12)確かに シュレーバーにとっては「下位の神」も「フレッヒジヒの魂」も何か他のものの隠喰ではない。 そのものずばりの現実なのであり、回想録の入り組んだドイツ語はこの現実をなかなかうまく伝 えることができないでいる。ラカンによれば、隠輪とは何らかの言語表現が別の言語表現の言い 換えであること、その意味が別の記号へと回付されることである。第一の言語記号のシニフイエ (意味されたもの、ソシュール的に言えばむしろレフェラン‑指示対象)は次の言語記号のシニ フイアンへと横滑りしてゆき、第二の記号のシニフイエはさらに第三の記号のシニフイアンへと 回付される‑‑‑こうしてわれわれは、ある語の最終的な定義を国語辞典のなかで求めても永久に たらい回しされ続けるように、いつまでたっても言語のなかにとどまり、決して現実界の対象や 物に到達することはない。 「言語の牢獄」に入るとは、現実がすべてこうした言語体系の網の目に おおわれてしまうことを言うのだが、シュレーバー回想録に目を転じると、そこに見られるのは、 あまりにも両義的であるために隠輪としては機能不全である「根源言語」と全く空虚な、別の記 号に回付されることのない「決まり文句」の廃櫨であった。彼に相似性の異常、隠唯の障害があ るという指摘とも合わせて、これはシュレーバーが「言語の牢獄」の隠喰システムに正しく入っ ていないという事態を裏書きしていることになる。しかし裏を返せば、言語のネットワークに完 全にくるまれるに至っていないからこそ、彼は前述のようにこの「言語の牢獄」の正体を正しく 洞察できているのだとも言えるのだ。 ついでラカンは、回想録における「神」の両極化を、このような言語の両極化と相似の現象と 見る。まともなキリスト教徒であれば、神が自分とセックスしたがっているとは思わないだろう。 ところが、回想録における「神」は一方では世界の「真理」を神経接続したシュレーバーに伝え.

(9) 症例シュレーバー(3). 175. てくる超越者でありながら、他方ではシュレーバーの性的魅力のとりこになり、彼(女)との「世 もと. 界秩序に惇る」愛人関係‑神経接続関係から抜け出せなくなっている駄目な奴なのである。ラカ ン理論に照らせば、これは人間に象徴的去勢を施し、人間を言語‑文化の秩序のなかに導き入れ るべき大文字の他者(Autre)がその超越的な位置を保持できず、シュレーバーの性的欲望の対象 という、彼と同一平面にいる小文字の他者(autre)の次元‑と引きずり降ろされてしまっている ことを意味する。大文字の他者という支えを失った状態での主体と小文字の他者(対泉a)との関 係は鏡像段階における関係、すなわち際限のない主導権の奪い合い、死に至る決闘的‑双数的 (デュエル)関係しかない。同性愛的欲望の対象であるフレッヒジヒ教授が「魂の殺害者」とも言 われるのは、このせいである。. 彼の経験のなかでは、二つの神の間に分裂があるのです.すなわち一方は、彼にとって世界 を裏打ちしてくれるような神‑たとえ先ほどお話ししたような、神とその延長が等価である というような[スピノザの]考えにつながってゆく神ではないとしても、それでもこの神は、 神の延長が幻想の産物ではないということを保証してくれる神なのです‑そしてもう一方は、 きわめて生々しい経験のなかで彼の[性的]関係の相手となった神、彼が表現している通り、 生きた有機体、生きた神として彼が関係を持った神です。(13). しかし、読者のなかには、シュレーバーは言語のネットワークのなかに入り損ねたのだという ラカンの説明を信じがたく思う人も多いだろう。致命的な二度目の発病に至る51歳まで、シュ レーバーはドレスデン控訴院民事部部長という法曹界の要職にあったし、回想録にも見られる通 り、かなり難解ではあるが立派なドイツ語を書く人だったではないか。その人が国語(ラング) の秩序に入り損ねているとは、どういうことか。このあたり、ラカンの解釈のなかでは最も苦し いところだが、ともかくシュレーバーは言語の秩序のなかに入り、一人前の大人になったように 思われたが、それはすべて偽装、見せかけ、ヘレ‑ネ・ドイッチュが分裂病の兆候として重視す る「かのような人格(asifpersonality)」だったのだと言う。父、モーリッツ・シュレーバーの 児童迫害思想を問題にしたニーダーランドやシャツソマンの論文、著書はすべて1959年以降に書 かれたものだから、 1955‑ 年のラカンは父シュレーバーの正体について何も知らない。しかし、 もし知っていたら次のように論じたことだろう。父親があまりに強力な暴君であったために、 シュレーバーは父とのエディプス的対決には至らなかった。こうして象徴的去勢、つまり「原抑 圧」がなされずに終わった欠損を埋めるために、彼はむしろ同性愛的に父親や父親代理、たとえ ばフレッヒジヒ教授にすり寄り、同一化し、自分も彼らのような父親である「かのような」ふり をすることによって「父である」ことをだまし取るという想像的補完をおこなってきた。だが、 妻がいつまでも子供を産むことができぬうちに彼は51歳となり、ドレスデン控訴院民事部部長と.

(10) 176. いう本当に「父である」ことが求められる要職につくことになった。ここに至って彼の欺肺は破 れてしまったのだと。. シュレーバー民事部部長にはどう見ても「父である」というこの基本的シニフイアンが欠け ています。このために彼は誤りを犯さざるをえず、自分自身を女と考えるに至るほど混乱せざ るをえなかったのです。彼は自分自身を女と想像するほかなく、「父である」という機能を一つ ずつ段階を踏んで実現するための道程の後半部分を、自分の妊娠によって実現するほかありま せんでした。(14). 言うまでもなく、ラカン精神分析理論においては、子供が自己疎外を味わいつつ「他者の言語」 である国語(ラング)のシステムへと入ってゆくことと、家族小説(ファミリー・プロット)に おいて男の子が父とのエディプス的闘争の未に母との近親相姦を断念し、象徴的去勢を受け入れ て一人前の男になってゆくこととは表裏一体なのだ。そして国語(ラング)の隠喰システムの最 初の礎となり、象徴的去勢の後に男の子を父にする「基本的(あるいは原初的)シニフイアン」 ‑それをラカンは臆面もなくファルス(男根)と呼ぶのだが‑これが拒絶されてしまうこと こそ精神病の病因だとラカンは考えた。この最初の拒絶を、神経症の原因である「抑圧Verdran‑ gung」とは違った単語で表現するために、ラカンはフロイトのいわゆる『狼男』症例(1918)か ら「排除Verwerfung」という用語をドイツ語のまま借りてくる。. 「排除」という時、私は何のことを言っているのでしょう。それは原初的なシニフイアンが外 部の闇へと拒絶されてしまうことです。その時からこのシニフイアンは、シニフイアンという 水準から消えてしまうことになります。これが私がパラノイアの根本原理として想定している 基本的メカニズムです(15). さらに原初的シニブイアンが機能しはじめるために欠くことのできないシニフイアンとシニ フイ工の最初の窓意的な接合点のことを、ラカンは「クッションの綴じ目(pointducapiton)」 という卓抜な比暁で説明する。ご存じの通り、クッションとは袋状にしたカバーのなかに羽毛や 綿を詰めたものだが、そのままではすぐに中身が偏ってしまう。「クッションの綴じ目」とは、こ の詰め物の偏りを防ぐためのもので、クッションの中央にカバーの表から裏まで糸を通し、糸が 抜けてしまわないようにボタンをつけていることが多い。人間にとっての「クッションの綴じ目」 とは、子供を暴力的に刺し貫き、国語(ラング)のネットワークのなかにつなぎとめる父親的機 能、大文字の他者あるいは「父の名」のことである。シュレーバーの妄想においては、この実現 されずに「排除」されてしまった「刺し貫き」のモティーフがそのままシニフイアン(妄想の言.

(11) 症例シュレーバー(3). 177. 語)として回帰してくるのだ。. クッションの綴じ目というシェ‑マは、人間の経験のなかで本質的なものです。 人間の経験において最低限必要なこのシェ‑マ、それをフロイトはエディプス・コンプレッ クスのなかで私たちに与えてくれたのですが、このシェ‑マが私たちにとって還元不能な価値、 しかしながら謎めいた価値を持っているのはなぜでしょうか。そしてなぜ、エディプス・コン プレックスにこれほどの特権が与えられるのでしょうか。なぜフロイトはあれほどの執念を もってエディプス・コンプレックスを絶えず、至るところに再発見しようとしたのでしょうか。 これがフロイトにとっては、どんな些細な個別の観察においても手放すことができないほど本 質的な結び目と見えたのは、なぜなのでしょうか‑それは父という概念が、神に対する畏敬 の念にとても近いものですが、私がシニフイアンとシニフイエの間のクッションの綴じ目と呼 んだものについての、フロイトの経験のなかでは最も分かりやすい要素だったからではないで しょうか。 このことを説明するために少し時間をかけ過ぎたかもしれませんが、それでもこうして作ら れたイメージのおかげで、どうして精神病者の経験においては、シニフイアンとシニフイエが 全く分離した形で現れることになるのかを理解していただけたのではないかと思います。 精神病においては、これらすべてがシニフイアンのなかにあると考えることもできます。実 際、すべてがそこにあるかのように見えます。シュレーバー民事部部長は、フレッヒジヒ教授 や彼と入れ代わることになる他の男たちに刺し貫かれるということの意味を完全に理解してい るように見えます。厄介なのは、彼がまさにそのことを語っているということ、しかもこの上 なく明断な仕方で語っているということです‑なぜそうすることが、よく言われるように、 彼のリビドー経済にかくも深刻な動揺を引き起こすに至ったのでしょうか。 精神病のなかで起きていることに接近するためには、明白に述べられたことからではなく、 別の記録簿から近づかねばなりません。その数が幾つかは知りませんが、人間存在がいわゆる 正常であるためには欠くことのできない、シニフイアンとシニフイエの基本的接着点の最小数 を決定することは不可能ではありません。つまり、その最小限の綴じ目が確保されないと、も しくは緩んでしまうと、精神病が起こることになるのです(16). この50年前のラカンの分裂病論からなお学ぼうとする人々もいるにはいるが、今日の統合失調 症治療の現場においては、このような分裂病の病因論はもはや少数派である。統合失調症は風邪 のように誰にでも起こりうる病気、という今日の精神科医たちの共通了解に比べれば、ラカンの 病因論が環境因子にウェイトを置き過ぎているのは誰の目にも明らかだろう。医療現場における 不人気さの原因の一端は、ラカン自身の理論にもある。統合失調症という病気にとっては、すで.

(12) 178. に述べた通り、より重大なファクターである「陰性症状」とその治療について何も語っていない こと、分裂病者の妄想を象徴秩序内のコードによって安易に了解してしまうことを戒めるラカン の理論的構えが、下手をすればこの病気について了解不能、治療不能という結論を導きかねない こと、これらはラカン分裂病論の大きな弱点である。しかし、一つの人間論として読むならば、 ラカンの提出した人間存在の危うさについてのペシミスティックな見方は、 50年を経ても少しも 説得力を失ったようには見えない。なぜなら、原初的シニフイアンを受け入れて、言語のネット ワークのなかに自らを定位させるということは、人間にとって何らハッピーエンドをもたらすも のではなく、 「他者の言語」に自らの存在の核を奪い取られた人間は以後、失われたものを永遠に 追い続けながら決して満たされない神経症患者として生きてゆく運命になるのだが、それでもも しこの象徴的去勢の契機を「排除」してしまうなら、人間は精神病という狂気に落ち込むはかな いと言うのだから。ラカンの引用の最後として、難解きわまりない論文集『ェクリ』 (1966)から 珍しくここだけは明解な一文、論文「精神病の治療を可能とするための前提的問題について」 (1958 からの一文を引こう。. 人間という存在は狂気なくして理解されえないのみならず、自らのうちに自らの自由の限界 として狂気を持たぬ者は、もはや人間という生き物ではなくなってしまうだろう。(17). 回りをぐるりと狂気に取り囲まれ、かろうじて確保している「正常であるためには欠くことの できない」橋頭壁は神経症になることだとは、何とも救いのない人間観ではある。ラカンのここ まで厳しい人間観や統合失調症という病気の悲惨きわまりない現実を見てしまうと、一昔前には やったスキゾ/パラノなどという能天気な二分法をとることが、まったく不謹慎に思えることも 確かである。とはいえ、文句なしに正しくはあるが、あまりに息苦しいラカンの分裂痛論ゆえに、 せめて地獄、煉獄を後にして天国への道をのぞみ見るダンテとウェルギリウスの心境でこのシュ レーバー論を終えたいという気持ちになるのも、無理からぬところだろう。まず援用するのは、 ミシェル・フーコーの『性の歴史』第1巻『知‑の意志』 (1976)である。この本でフーコーは 「性」について、およそ次のように論じている。ヨーロッパ近代社会は性的欲望を抑圧しようとは しなかった。権力はなるほど生殖‑人口増大につながらない性的逸脱は規制しようとしたが、性 的欲望そのものはむしろ積極的に告白し、語ることによってかき立てようとしたのだと。だから 同性愛者フーコーにとっては、性的欲望さえも生殖‑人口増という目的に結び付く特定の権力装 置に流し込む、こうしたソフトな管理社会に対する「反撃の拠点」は個々人の「身体と快楽」で あるほかない。男であること、 「父である」という基本的シニフイアンを捨てて、女の身体と女の 快楽を得ようとしたシュレーバーもまた、このような「反撃の拠点」の一つと言えるのではない か。.

(13) 症例シュレーバー(3). 179. 従って、性という決定機関に性的欲望の歴史を照合してはいけないのだ。そうではなくて、 どのようにしてこの「性」が、性的欲望というものに歴史的に従属しているかを明らかにする ことだ。性を現実の側に、性的欲望を混沌とした観念や幻想の側に置くのではない。性的欲望 は極めて現実的な歴史的形象なのであって、それが、自己の機能に必要な思弁的要素として、 性という概念を生み出したのである。性を肯定すれば権力を拒否することになる、などとは考 えないことだ。そうではなくて反対に、性的欲望という全般的な装置の脈絡を追うのである。 もし権力による掌糧に対して、性的欲望の様々なメカニズムの戦術的逆転によって、身体を、 快楽を、知を、それらの多様性と抵抗の可能性において価値あらしめようとするなら、性とい う決定機関からこそ自由にならなければならない。性的欲望の装置に対抗する反撃の拠点は、 (欲望である性)ではなくて、身体と快楽である(18). またジェンダーのみならず、男/女という性別(セックス)の生物学的二分法さえも打ち破っ たと評判の高い(悪評もまた高い)ジュデイス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』 1990)は、 「男」や「女」というカテゴリーは生物学的なものではなく、社会的に構築されている、つまり反 復という言語的なパフォーマンスが繰り返されることによって作られ、維持されているものに過 ぎないと主張する。いったん言語秩序のなかに入って構築された主体は変更不可能であり、この 構築そのものを「排除」すれば狂気が待っているだけだとラカンは考えたが、バトラーは反復さ れる言語行為の布置が変更されれば、主体の組み換えも可能だし、それは行為を支える規則その ものが許容するところでもあると言う。端的に言えば、 「強制的異性愛のマトリクス」を出て、 「男」が「女」になることも不可能ではないと言う。 「男であれ」という命令に歯向かおうとした シュレーバーがこのような「アイデンティティの撹乱」という冒険の先駆者として評価される日 が来るのかもしれないし、それは女になるというシュレーバーの欲望にひそかに惹かれ、逆転移 してしまったフロイトが男としての建前を超えた本音のところで望んでいたことかもしれない。 エイジェンシー. 意味づけはプロセスなので、認識論の言説が「行為体」と呼ぶものを、そのなかに隠しもつ ものである。だが何が理解可能なアイデンティティなのかを取りしきる、つまり、 「わたし」の 理解可能性を保証したり制限したりする規則‑ジェンダーの階層秩序や強制的異性愛のマト リクスに合うように部分的に構造化されている規則‑は、反復をとおして機能しているもの である。事実、主体が構築物だと言うとき、それは、理解可能なアイデンティティの行使を取 りしきっている言説‑規則に支配されている言説‑の結果として、主体を見ているにすぎ ない。しかし主体は、主体を産出する規則によって決定されるのではない。なぜなら、意味づ けは基盤を確立する行為ではなく、反復という規則化されたプロセスであるからだ。そのとき.

(14) 180. の反復とは、実体化という効果を生みだすことによって、それ自身を隠蔽し、かつその規則を押 し進めるような反復なのである。ある意味では、すべての意味づけは、反復を強制する境域の なかで起こるものである。したがって「行為体」は、その反復のひとつの変種の可能性として 位置づけられるべきである。もしも意味づけを取りしきっている規則が、オルタナテイヴな文 化の理解可能性の領域‑つまり階層的な二分法の厳格な法則に異を唱えるような新しいジェ ンダーの可能性‑を制限するだけでなく、可能にするものでもあるなら、アイデンティティ の撹乱が可能になるのは、このような反復的な意味づけの実践の内部でしかありえない。これ これのジェンダーであれという命令は、かならずその失敗を生みだし、その多様性によってそ の命令を超え、またその命令に歯向かうさまざまな首尾一貫しない配置を生みだす。しかしそ れとて、その命令によって生産されるものである。(19) 注 シュレーバー回想録の訳は、引き続き尾川. 浩/金関. 猛訳『シュレーバー回想録』 (平凡社、 1991)をそ. のままお借りすることにする。一方、フロイトのテクスト引用はStudienausgabe(FischerTaschenbuch) 1982 により、以下の注では巻数のみを示す。読者の便宜のために邦訳の頁数を併記するが、フロイトおよびラカン の訳はすべて私自身によるものである。. 尾川 浩/金関 猛訳『シュレーバー回想録』 (平凡社、 1991) 28‑29頁。 C‑J CO‑^ LO ^O. Freud I ,S.175.フロイト著作集・第1巻(人文書院、 1971) 136頁。 ebd. S.185.同上、 145‑146頁。 尾川 浩/金関 猛訳『シュレーバー回想録』、 224頁。 同上、 67頁。 同上、 144‑145頁。 同上、 64頁。 同上、 218頁。 同上、 63頁。 デリダについては林 好雄訳『声と現象』 (ちくま学芸文庫、 2005) 参照。 Jacques Lacan: Seminaire, Livre III. (Seuil) 1981, p.37. 『精神病(上)』 (岩波書店、 1987) 43‑44頁。. (M rO ^ LO ID. ebd. pp.43‑44.同上、 52頁。 ヤーコブソンの失語症論については(川本茂雄監修) 『一般言語学』 (みすず書房、 1973) 21‑44頁を参照。 seminaire, Livre III. p.80.. 内は引用者の補足。 『精神病(上)』 111頁。. ebd.p.330. 『精神病(下)』 238頁。 ebd. p.171. 『精神病(上)』 251‑252頁。 ebd. p.304. 『精神病(下)』 191‑192頁。 Jacques Lacan! Ecrits. (Seuil) 1966, p.575. 『エクリ・ II』 (弘文堂、 1977) 342頁。 渡辺守章訳『性の歴史Ⅰ ・知への意志』 (新潮社、 1986 198‑199頁。 Judith Butler: Gender Trouble. (Routledge) 1990, p.145.. 引用は竹村和子訳『ジェンダー・トラブル』 (青土社、 1999 254‑255頁。.

(15)

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