第 四 章 ベクトルの大転換と
第 二 節 無の存在の価値は過程的弁証法にある
本論は無の存在を明確に定義することを主な目的にはしていない。おそらく無という存 在は存在するであろう。しかし、あえてそれを断言はしない。存在するであろうといった
認識に留めておく。宇宙の果ての論の時に、果てという概念は理解できそうでなかなか理 解することができないものだと言った。科学的に果てはどこにあり、どれだけの距離に位 置しているのかということは解明されているようだが、それが余りにも大きな空間である ということと、果て、つまり無限であるという概念が流動的で一定していないために、定 まった認識が得られない原因があるのだろう。別の視点で考えてみると、それが流動的で あるからこそ宇宙は膨張し続けているという論理が成り立ち、無限という意味が単に量り 知ることができない究極の到達点といった定点を示す意味ではなく、現在進行の形で究極 の到達点がある方向に伸び続けている状態を示しているということも言えそうである。時 空間での時間の進行は、森羅万象の創造の主であり、常にその先頭に位置している。勿論 その先には何一つ存在するものはなく、ただ未知なる空間に向かって進行を無限に続けて いる。無垢な母体から真の創造を行なっている時間というのは、宇宙の果てがある方向に 伸び続けている状態を意味していることとよく似ている。従って、宇宙は時間そのもので
あると言えるのかもしれない。
だとすれば、それと全く対極に位置している無という存在も同様な論理展開によって考 察していけば、宇宙の果てのような概念が生まれるのではないだろうか。無の存在を明確 に定義することが目的ではないと先述した。と言うのも、存在論の立場から書えば、それ が存在である限り存在するのである。存在を完全に停止させるのは完全なる破壊か死とい う規定以外にはない。ただし死というのは、その時点で存在を存在でなくすものなので、
存在という範疇においてのみ考える時には考慮に入れるべき内容ではないと考える。従っ て、死という存在の最終到達点以前の空間の中でのみ存在については考えなくてはならな い。一定の時間の経過によって体が半減していく生物の例からもわかるように、それが死 以前の空間での存在であるかぎり、その空間に存在し続けるはずである。そうすると、・死 を念頭に置きながら存在の永遠性を考えるのと同様に、無の存在を念頭に置きながら存在 のことを考えても同様に存在の永続性は得られるのではないだろうか。従って、それと同 等の意味を持つ無の存在への方向であったとしても、存在しているものがその範瞬に存在 している限りにおいては、極小方向へ拡張し続けるものであるという論理が成り立つので はないだろうか。宇宙が時空間の中の時間と似ているのと同様に、極小方向への進行も時 間に似ていることはこれまでに論じてきた通りである。従って、存在が存在として認めら れる範疇というのは宇宙空間の範濤と似た意味を持つことになるのではないだろうか。確 かに存在が存在として認められる範疇というのは死という瞬問までの限定された範疇では
あるが、その範躊は存在を質・量ともに最大に認識できる最終の位置である。つまり、死 という瞬間は存在をあたかも流動的に進行させる存在の果てとして認識できるのかもしれ ない。宇宙の果てや無の存在は時空間に存在するものを誘引し続けるほどの巨大なエネル ギーを保持していることになり、無限なるポテンシャルを秘めたものであると考えること ができるだろう。極小方向の進行をベクトルに置き換えるとわかりやすいと言った。宇宙 空間に伸びるベクトルがあるとすると、それは時間と同等と考えられるほどの宇宙単位で のベクトルとなる。一方、無の存在へのベクトルの方向は宇宙空間とは真逆の方向を持ち、
極小方向に伸びたベクトルとなる。しかし、それらは方向が真逆なだけであって、その過 程における質は似ているものとして考えることができるのではないだろうか。本論におけ る無の存在はあくまでも不明確な宇宙の果てとして捉えるべきであり、大切なのは存在論 の原則の上に立って、限りなく無の存在へと向かう極小への流動的かつ拡張する過程につ いてである。それに対して絶対無という概念がある。
絶対無は西田幾多郎の中心となる概念である。彼は絶対無についてこう言う。
「言語を絶し、思慮を絶した神秘的な直感である」注10)
この直感は思考をはさまず成立している。つまり、この直感の前では思考はなくなって いることになる。この神秘的な直感による論証によって沈潜していく行為であると書う。
へ一ゲルの思考は弁証法に象徴されるように移行するものであるが、西田は沈潜していく ものと考えた。絶対無の思考とは、見るものなくして見る行為である。その思考は真の無 の場所へと沈潜していく。ヘーゲルの弁証法を「過程的弁証法」と言ったのに対して、自
らのものを「場所的弁証法」であると言った。沈潜していく真の無の場所にいっさいのも のが包まれて存在していると言う。西田は自己を無にして見ることは可能であると言う。
見るものなくして見る、の第二の「見る」が絶対無の思考である。へ一ゲルと西田の有と 無について新形信和氏はこう言っている。
「ヘーゲルにおいて、無は思考の無である(また、有は思考の有である)。西田の絶対無 が有と無という相対を超えるということは、それが思考の有と無という相対を超えて、
絶対に無であることを意味する。ここでさらに、知的に限定することができないという 西田の言葉を思い合わせてみると、絶対無というのは思考が届かない、つまり思考を超
えるという意味になる。しかし、思考が届かない、思考を超えるということだけである ならば、そこには思考がないということ、っまり思考の無ということである。この無(翼 思考の無)が相対的であり、この無をさらに超えるということはありえない。何故なら ば、この無は思考がないという事態であって、それを超えるということは不可能だから である。西田の絶対無における無は思考の無ということである。すると、有と無という 相対を超えて、絶対に無であるというのは、この無が有との相対関係を超えているとい うこと。書い換えると、同じことであるが、有がこの無との相対関係を超えているとい うことである。つまり、有と無との相対を超えて絶対であるというのは有と無との相対 的関係を断って、有を絶対化するのではなく(有を絶対化するのはキリスト教の文化、
即ち泰西文化である)、無を絶対化するということである。それが西田の絶対無である」
注11)
創造行為というのは人間によって行なわれる行為である。きわめて単純な芸術作品を除 いて、質の高いものは自己との対話、それがもっと高まれば自己凝視によって生み出され ていく。要するに、自分自身が創造行為の核になると言うことである。カタルシスが悪循 環を行なっている時や、内面に増加していく無の存在を表現した時の、客体が余りにも主 体と同一な場合の主客がなくなるこ.とによる純粋経験と言える状況があるのだが、それは 自分の存在が不明確になっていくという状況ではなく、その根底には明確な自分自身が存 在している。本論における無の存在は有との相関関係によって移行する弁証法的なもので、
最終的な到達点のことである。言うまでもなくその過程には、終始にわたって自分自身と の極度に強い関わりの継続がある。本論は無の存在の絶対的な確信を論証することを目的
とするものではないと言った。無の存在の引力によって、それに限りなく近づいていく過 程に無限なエネルギーが存在していることを述べるものである。
西田はこう書う。
「真の自覚は自己が自己を超えることによって超越的自己に至る」注12−1)
「真に自己自身を見るということは、見られる自己がなくなるということである。自己 が絶対的に無になることを見ることである。故に、我々は真に自己自身を忘れた所に真 の自己があると考えるのである」注12−2)