第 四 章 ベクトルの大転換と
第 一 節 質を保持したベクトル
芸術作品の創造において、画面や造形の簡素化は省略とは意味が違う。省略とは必要に 迫られてそこにあるものを省いていくことである。一方、簡素化は一般的な用法によれば、
ある状態のものを簡略化することと使われるのであるが、芸術の上では、その一般的な用 法は当たらないことがある。芸術における簡素化とは、あるものを省いていくとか、少し しか表現しないといったことによって成される行為ではない。単に空白や空間が大きくと られたり、画面の中に僅かしか描かなかったり、造形物においては、形状を削ぎ落として いくといった行為として捉えられがちである。空白や空問、削ぎ落とした部分は単に造形 上の結果作られてしまった部分ではなく、明確な意図を持って可視されることのない部分 として描き、造形されたものなのである。本論における簡素化とは、空白や空間、削ぎ落 とされた部分に可視されることのない形而上的な意味が密度濃く込められた造形表現のこ
とを言う。
そうした考え方に則って言えば、一般的な解釈による空白や空間というものを、それほ ど人生経験や創造活動に造詣の深くない人に表現してもらうとしたらどのような結果にな るだろうか。おそらくその空白や空問は、単に描き残された部分や造形において省略され た部分としてしか見ないであろうから、空白を単なる空白として描き、空間を単なる空間 として造形していくに過ぎないであろう。まさかそれらが表現の結果できてしまった部分 ではなく、表現の上で必要不可欠な部分としての意味を大いに持っているとは考えにくい であろう。ゴヤやレンブラントの絵の変遷にはその答えが秘められている。彼らはカタル
シスを経ることによって、執着が軽減されていき、最終的には何事にもとらわれず、あり のままを受け入れることのできる寛容さを獲得することができた。つまり、全てのことを 吸収してしまう大きな容量のことである。たとえ何らかの外圧が訪れたとしても、それら の全てを無の感覚が支配する空間であるため、それに対して、こうであるといった規定を 行なうことはなく、当然のことながら抵抗を行なうこともない空間である。ゴヤやレンブ ラントが無の存在が支配する世界のどの位置にいたのかは明確に断言することはできない が、あの作品の変遷や、空白、空間の表現を見ると、明らかに無の存在を実感し、それに 内包されることに自分の心地良い居場所を見出し、心の平安を感じ取っていたと考えられ
る。
カタルシスの一過程において、外圧に対する抵抗によって創造される作品は、外圧と抵 抗という限定された範麟での創造行為である。あるいは、それらは外圧と抵抗とによって 規定された表現である。言うなれば、その場しのぎの一回きりの創造であって永続性はあ まりない場合がほとんどである。一方、無の存在が充溢した空間での創造は、そこには外 圧や抵抗がなく、当然のことながら規定がないために永続的な感覚で創造を行うことが可 能となる。規定された作品を見た場合、それは明確に可視することができ、それによって 判断することができるため、それを全て理解してしまったらそれ以上の事柄について理解 するための材料はなく、理由もなくなってしまい、その時点で終わってしまう場合がある。
一方そちらの方は、可視されることのない空白や空間が大きく表現されているために、そ こに表現されている形而上的な世界を見、あるいは感じ、理解しようとする。ただし、安 易な抽象作品のような鑑賞者に問いを投げかけるといった程度のものではなく、その空白 や空間には、それを創造した芸術家の長い人生の様々なことの集積があるため、簡単には 把握しきれるものではない。ゴヤやレンブラントの作品の変遷からもわかるように、無限 とも思えるほどのメッセージや告白がそこには集積されている。ゴヤのくボルドーのミル ク売りの女〉やレンブラントの晩年の自画像が持つ空白や空間、そして簡素な表現には、
長く困難な人生においてたどり着き、獲得した執着のなくなった無の存在が充溢した世界 が強く感じられる。ある程度芸術に造詣の深い人が、それらの作品を目の前にした時、余 り飾り気のない簡素な作品だとか、老齢の芸術家によるさりげない作品だといっただけの 感想で終わってしまうとは考えにくい。いったんそれらの作品の前に立てば、何故だか見 入ってしまい、離れられなくなってしまう。その人は空白や空間を単に飾り気のなさ、即 ち簡素な表現による表面的な状態として見ているのではなく、それらの内に秘められたメ
ッセージや告白を読み取っているのである。その世界に至るまでの過程が長い年月を要し た末に獲得されたものであるため、それを読み取るためには相当な時聞が必要になってく るのは当然なことである。つまりそれを見る者は、創造者のメッセージや告白に秘められ た簡素な表現による引力によって束縛された状態にあると言えるのかもしれない。
無の存在には宇宙規模のエネルギーが保持されている。それは第二章で述べた通りであ る。一般的な概念からすると、無とは何もない状態、だからそこにはエネルギーがない最 弱な状態であると判断されがちである。それは有と無という二つの概念で物事をとらえて いるからなのではないだろうか。しかも無から有への過程は建設的で加算されるものであ るといった概念が根底にあるからなのだろう。確かに有から無への移行は、保有している 状態が徐々に減少していく方向を持つものである。有からいきなり無という存在の全くな くなった状態に移行して考えるから、無をそのように考えてしまうのである。モナドのと ころでも触れたように、無の存在があったとして、それが存在の最終到達点であるとする と、有から無への過程に注目すれば、その移行の図式はたいへん変化に富み、宇宙規模の 内容を含んだものとなり、無から有への過程に見られる建設的で加算される論理と方向は 真逆であるが、同様な論理が成り立つのではないのか。一定の時間の経過に体が半減して いく生物の例からもわかるように、それが可視することのできる存在であるのならば、そ の生物の生命がなくなること、つまり死に至るまでの問は半減し続けることになる。つま りその生物が生き続ける限り、半減行為は継続されることになる。視点をかえると、生物 が死という存在の最終到達点によって半減行為の継続が牽引されたとも考えることができ る。確かにその過程は数的な観点からすれば、極小の数値のきわめて微細な世界で繰り広 げられていることになる。極小方向というものには、どうしてもマイナスの印象がついて くるものである。もしある生物が無から有の方向である建設的で加算される過程とは真逆 な方向の過程をとったとしたら、それぞれの過程における数量・方向以外の意味も全く真 逆なものになってしまうのであろうか。確かに最終到達点が無か有かの違いがあり、それ にともなって様々な違いが出てくるのだろうが、今まで述べてきたことからもわかるよう に、過程における密度の濃さの点からすると、真逆なものとは言えないのではないだろう か。このことはベクトルの概念を使えばわかりやすくなる。数直線上のある点を境にして、
プラス方向、マイナス方向に伸びたベクトルが生物の死という存在の最終到達点までの期 間にどれだけの量になったのかということを考えればよい。数的な概念では、確かにプラ ス方向に伸びた方がマイナス方向に伸びたものよりも数値は高くなるのであるが、正負の
概念を取り払った絶対数として考えた場合、量としての概念においては同量になるこがあ り得るはずである。つまりその量というのは、過程に内包されている意義や密度の高い価 値という意味のことである。無の存在というのは保持されたものを減少させていくもので はなく、絶対数として認識されたベクトルのように、ただ方向が極小に向いているだけの ことであって、数量の加算という意味においてはプラス方向のベクトルと同様に、極小の 方向へと向かう、無という存在を完成させるための建設的で加算される概念と言うことが できるのではないだろうか。
無は東洋の概念であると思われているが、西洋においても考えられてはいる。へ一ゲル は次のようなことを言った。
r絶対者は夜である。そして光は夜よりも若い。また、光と夜の区別、および光が夜の 中から現れることが絶対的差異である。無が最初のものであり、そこから一切の有、有 限なものの多様性の全てが生まれ出た」注1)
「この夜の中に有るものは帰還している」注2)
「真理の誕生の地である秘められた深淵。無の深淵の中にいっさいの有が沈んでいる」
注3)
「真理は夜と光との統一である」注4−1)
「光は夜との統一において最初にある。つまり有を持つところの純粋な形式である」
注4−2)
「夜は全てのものの母であり、存立であり、養分である」注4−3
へ一ゲルは夜を始原の世界とし、無をその世界の最初のものとした。有は無を含めた始 原の世界である夜の中に含まれ、その世界から有は飛び放つ。勿論、有は無を最初のもの として含んだ夜から飛び立つので無は有よりも先んじている。そして夜の世界へと帰還す るとも書いている。っまり、無へと近づく過程を含んでいる。無の存在は減少の方向へ向 かうだけの最終到達点ではない。有の創造を成らしめるための母体でもある。時空問にお いて、時問が森羅万象を創造する無垢なる空間のことを母体のようであると先述した。無 垢なる空間は、外圧と抵抗を超えたところにある究極のカタルシスの段階である執着がな くなった世界と同等の意味を持つ。何れにしてもそれらの進行の根本は無の存在が充溢し た空間にある。