「最初に回帰する」ことを引き起こした無の存在は円環運動の根本となるものなのかも しれない。r円環」注59)については一般的に次のように言われている。
円環の接合 〜無への着床〜
「禅の円環は元のところへ接合して円環を閉じようとする欲望を構造的必然として持 つが、この接合には終焉から逃れるぺきものが再び終焉してしまうという危険が伴う。
そこで、二度目に見出された出発点に接合する完成雲終焉は、辿った円環自体をゼロ ポイントに一瞬に引き戻すようなもの。そして、一度目の円環などなかったかのよう に再び円環が始められるようなものでなければならない。この接合の要請によって仕 立てられ、特権化されていくものが「無」である。円環は容易に接合して無へと着床 し、それ以降、禅はこのモチーフをまとうようになった。だが、r無」が禅にとって 真に決定的なものになるのはむしろ近代以降である。鈴木大拙、西田幾多郎を中心と する京都学派はへ一ゲルを頂点とする西欧の近代哲学を超克するものとして、禅と
「無」とを発見し、その影響下でそれぞれの「即非の論理」、「絶対無」注60)という
概念を形成する。「無」はあの完成二終焉の沈黙が「仏教の危機」としてではなく、
禅の言葉がそこから始められるということから、言語以前の完成=出発の沈黙として 肯定的に表現されたものである。彼らが無に着目できたのは、無のこうした否定性に 媒介された絶対肯定へと向かう構造的欲望が、まさにへ一ゲルの弁証法の似姿として 見えたからである。彼らの注目によって、禅は近代以降、日本語音の「禅」(ZEN)
として欧米において特権化され、西欧文化へのカウンターカルチタヤーとして定着し、
一方日本においては「近代の超克」の問題へとつながっていくのである。禅とは完成
=終焉から始まる戦略である。われわれが何らかの終焉以降を生きていく以上、禅は 思想として常に呼び返されていく」注61)
円環の概念で書うと、ワーグナーの芸術は円環運動の途上であったと言うことができる。
(ワーグナーが完結を望むか否かはわからないが)ワーグナーの最後の楽劇であるくパル ジファル>は罪の生活に疲れた騎士クリングゾール、魔界の勝利にピリオドを打ちたいと いう願望を持ちながらも地獄の美しさを持つ性の魅力に囚われてしまうアンフォルタス、
恥・苦しみ・肉欲・貞潔な女や邪淫な女などが複雑に絡み合う物語である。この物語の概 略を見て何かが思い浮かばないだろうか。そう、ゴヤのく黒い絵>にどこか似ているもの がある。ワーグナーはゴヤ同様、若い頃から止まるところを知らぬ野心家であった。自ら の野心を達成させるためにはあらゆるものを利用しても意に介さなかった。<二一ベルン グの指環〉はヘゲモニーの体現であり、<マイスタージンガー>注62)は政治的主張であ り、〈トリスタンとイゾルデ>注63)は女性に対するあこがれと肉欲への願望であった。
そしてくパルジファル>はそれまでの自分が思考し、経験した中での後悔と臓悔の告白で あると捉えることができる。それまでの作品が、言わば建設的なカタルシスによって成さ れたものであり、自らの願望の体現であったため、抵抗のための絶対量の消費はほとんど 行なわれなかったに違いない。<パルジファル>に至っては、過去の様々な悪なるものに よる内面の欝屈としたものを処理するために、カタルシスの過程に従って嘔吐を行なった 結果であると考えられる。それによってワーグナーがどれほど抵抗のための絶対量を消費 したのかは定かではないが、消費されたことは確実であったと考える。もし、ワーグナー がもっと長生きをし、新しい楽劇を作ったとしたらどのような展開になっていたことであ ろうか。ゴヤのく黒い絵〉以降がそうであったように、ワーグナーもくパルジファル〉と 同系列な作品を作り続けたのかしれない。もしそうだとしたら、かつてのようなヘゲモニ
一や政治をテーマにした願望を満たす建設的なカタルシスは行なわれなかったと考える。
とすれば、さらに自分の内面に沈潜化していき、次々と様々な欝屈としたものを嘔吐し、
ゴヤ同様に抵抗のための絶対量を消費し尽くし、枯渇した内面の状態を明確にしていった のかもしれない。その時、枯渇しきった自分の内面を知り、ゴヤと同様に執着や過去の様々 な過ち、即ち執着を断ち切るために「無の存在」を明確にしたとすれば、果たしてどのよ うな楽劇を作っていたのだろうか。<パルジファル>は、それまでの楽劇とは様相を異に したところや、その内容を考え合わせると、どうしてもそこにカタルシスが成されている 痕跡が見てとることができる。先にも述べたように、ワーグナーの音楽は純度が低いので はないかといった評がある。もしワーグナーが〈パルジファル>に続いて、それと同様な 創造の根本的な動機によって作品を作り、最終的にゴヤのくボルドーのミルク売りの女〉
のような無の存在や円環運動の概念を思わせるような作品を創造したとしたらどのような 評価を受けたのだろうか、一人の人間の歩んだ人生の軌跡としては賢明なものとして完結 され、倫理r道徳において潔癖で高次な精神世界にたどり着き、作品を通してそうした世 界を体現することができた、普遍的で完結された芸術的価値を持ったものであると評され ていたのかもしれない。
ここでは主にゴヤ・レンブラント・ワーグナーの三人を比較検討したが、歴史にその名 を燦然と輝かせ、1 大な痕跡を残した芸術家がこういった内面の変遷をたどっていったこ とは実に多く見られる。