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ユトリロ論  一ユトリロの白が意味するもの一

ドキュメント内 簡素な表現がつくる多弁なる空間 (ページ 74-84)

第 二 章 注 記

第 一 節 ユトリロ論  一ユトリロの白が意味するもの一

 画家は絵を描く時、真っ白なキャンバスに向かう。作曲家は美しい旋律を作る時、真っ 白な五線紙に向かう。時問は何もない無垢な空間に包まれていくように、その進行の軌跡 に森羅万象を創造していく。言わばその空間は真っ白なキャンバスや五線紙と同様に真っ 白な空間なのかもしれない。要するに、白は創造の始まりであり、原初の姿である。

 カンディンスキーはこう書った。

「白は無を意味するが、決して死のような終わりを意味するものではない。可能性に満ち た休止、あるいは沈黙を意味する」注1)

またゲーテは白色のことをこう言った。

「空間を満たす不透明なものの中でも最も中立的で最も明るく最も原初的なものである」

  注2−1〉

「一枚の白い紙が青空からその明るさを受け取っている様子が描かれている絵の中では、

青空はその白い紙よりも明るい。しかしながら、別の意味では青の方が暗い色であり、白 の方が明るい色である」注2−2)

ウィトゲンシュタインはこんなことを言っている。

「パレットの上では白が一番明るい色である」注3−1)

「暗さをとりはらうのは白ではないのか」注3−2)

「絵の中では白がもっとも明るい色に違いないj注3−3)

「例えば、三色旗の中で白が青や赤より暗いことはありえない」注3−4)

「白という語のある特定の意味では、白は全ての色の中で最も明るい色である」注3−5)

 何れも白色は明るい色であり、色の根本であると言っている。確かに白色は明度の上で は一番明るい色として位置づけられている。また、真っ白なキャンバスに最初に筆を下ろ すとか、真っ白な五線紙に音符を書いていき、その真っ白な五線紙は作曲家の色に染めら れていく。などと言った表現はしばしば使われ、そうしたイメージから白色は今から何か が始まる前の静寂をはらんだ原初の姿という捉え方がある。カンディンスキーが白色は

「無」を意味するといったことも、白色から全てが始まるというイメージによるものだろ

う。

 モーリス・ユトリロは19世紀後半から20世紀前半にかけてパリで活躍した画家であ

る。彼の活躍したパリは、まさに酒とバラの日々が街のあちこちで繰り広げられていた燗 熟した時期であった。世紀末の不安の余韻と新しい世紀を迎えた情熱とが融合し、パリと いうウイットとユーモア、情熱と皮肉、男と女、生と死といった土壌によって、酒とバラ が時には美しく、また時には妖しく輝いていた。人々は喜びや悲しみが融合されたものこ そが人生そのものであると見なし、ひたすら貧欲に生きた。いつしかそれは大人の社会と 書われるようになり、古くからの科学や文化の発達を背景にしてフランス国民の誇りとな

っていった。

 そんな時代の真中にユトリロは生まれた。同時代のパリには、ロートレック、モディリ アー二、ピカソなどがいた。それらの名前を聞いただけでも、モンマルトルの石畳やムー ランルージュの風車が思い浮かぶ。後年、彼らを題材にしたフランス映画がいくつか作ら れた。注4)彼は言うまでもなく画家であった。しかし、若い頃からひたすら画家を目指し て日々修練を積んできたといった、一般的な画家の進路は歩まなかった。彼の母親である ヴァラドン注5)もいつしか画家として生きるようになっていた。若い頃から色恋沙汰のヒ ロインとして生き、情熱のおもむくままにパリの街を生きていた女性であった。息子であ る彼の独特の気質と波瀾にとんだ人生は、実は母親のお腹から生まれる前にすでにでき上

がっていたのかもしれない。注6)彼女の血や骨や遺伝子には、その時代のパリの全てが集 約され、路地裏のドラマティックな香りが染みついていた。母親は息子に対しては、よく 言えば寛大であったが、悪く言えば無責任な放任であった。そんな親子関係や環境が息子 に良い影響を及ぽすはずはなく、ほどなくお決まりの酒、麻薬、犯罪といった人生をとる ようになった。警察に厄介になることも何度もあり、その中において最も重篤な状態はア ルコールヘの依存であった。彼がその世界の住人となったのは、はや十代の頃からであっ た。そんな息子の姿を見て、さすがの母親もいささか狼狽した。

 そんな彼を見かねた母親や周りの人々は銀行の事務見習や商社に勤めさせたが、気まぐ れで激情に走る呪われた性格が災いして、何れも長続きはしなかった。彼はそんな自分自 身から逃れ、慰めを受けるためにアルコールに頼るしかなく、さらに悪化の一途をたどる 結果となった。18歳の時にはアルコール中毒の治療のためサンタンヌ精神病院に入院す るが、ますます孤独にさいなまれ、アルコールを断つことができず、以降20年余にわた って入退院を繰り返すに至る。母親が絵を描くことを知った医師は彼に絵を描くことをす すめ、彼も一からデッサンの練習を行なう ようになった。これが画家モーリス・ユトリロ の始まりであった。絵の勉強はするものの、相変わらず飲酒癖はおさまらず、様々な乱行 が繰り返された。もともと子供には全く無関心であった母親は、そんな息子をしり目に尚 も自由奔放な毎日を繰り返すだけであった。しかし不思議なことに、彼は絵を描くことを

やめず継続していった。酒と食事のために当時のお金の2フランで絵を売る生活が10年

ほど続いた。

 その頃からユトリロの描く絵は風景画が中心となり、たまに生物画を描くこともあった。

生涯を通して人物画はほとんど描かなかった。それらの絵はピサロやセザンヌを思わせる ものがあり、印象派風(図一25)の着色がみられる。絵は画家のその時の状況を明確に 表すことがよくある。ましてやその頃の彼の絶望的な状況を考えると、カタルシスが関与 していたことが容易に察せられるはずなのであるが、明確なものは見ることができない。

多くの色彩を使っているのだが、印象派の絵には見られない黒色も多用され、タッチも時 として荒々しく画面を支配している。そうした所々に当時の彼の内面を見ることができ、

少しはカタルシスの痕跡らしきものとなっている。しかし、当時の彼にとって絵は心の底 から希求したものではなく、あくまでも医師や母親から与えられた転地療法とでも言うべ き手段の一っでしかなかった。従って当時の絵は、彼自身とは切り離して考えるべき機械 的なものに過ぎなかったと言えるのかもしれない。もしその時、絵を描くことが機械的な

手段ではなく、芸術家が持っているような自分自身の内なる欲求によって成されるといっ た動機があったとしたら、その頃の絵のような印象派風の中途半端なものにはなっておら ず、もっと黒色を多用し、タッチもおどろおどろしいものになっていたのではないだろう か。あれほどの絶望的な状況であったので、その外圧は凄まじいものがあったに違いない。

それに対抗するための抵抗も同様なものであっただろう。カタルシスの悪循環は、他のカ タルシスによって作品を創造していった画家のものよりも、速度は速く、強度も増大して いたに違いない。場合によれば、それが死に至る病となっていたとも考えられる。だが彼 は相変わらずの絶望的な状況であったのだが、なんとか生きることができた。当時の彼に とって、絵は機械的に行なう一つの手段に過ぎず、転地療法の域を脱していなかったこと が幸いして、カタルシスの悪循環の歯車に巻き込まれなかったと考えることができるかも

しれない。

 同時期に、ユトリロと同じように酒、女、麻薬に溺れていたモディリアー二が若くして 絶命したのは、彼がユトリロとは違って、生まれながらの芸術家であったからなのかもし れない。彼は若い頃から芸術に携わっていた。画家になるための勉強もし、確かな技術も 習得していた。彼にとって芸術は生きる目的であり、自分という存在を知るための必要不 可欠なものであった。パリでの無頼な生活の中でまさに心身ともに芸術に耽溺していた。

そういった芸術家がしばしば行き着くところに芸術至上主義の世界があるが、もちろん彼 はそこの住人であった。そこに備え付けられていた姿見の鏡は刻々の彼自身を常に映して いた。彼はその鏡に向かっていつまでも芸術至上主義の鎧を着けたままの姿を映し、それ を悦に入っていつまでも見つづけていた。つまり、悲劇のナルシストとしての自分自身を 見つづけていたのだ。彼は本論において述べているような、真理の球体の鏡面への落下の 術を行なわなかった。と言うよりも、行なう術を知らなかったのかもしれない。彼は余り にも悲劇のナルシストの自分自身に酔い過ぎた生涯であった。逆にユトリロは芸術家とい う自覚や願望が強くなかったために最終的には救われた。もしかすると、生涯芸術家には ならず、あるいは成ろうとしなかったのかもしれない。

 しかしその生涯において、ユトリロが芸術家らしく自分自身の内面を凝視することによ って描いていたと思われる特別な時期があった。それはいわゆる「白の時代」(1908〜

1914)注7)と呼ばれているものである。彼はパリの街角をあたかも意識的にとさえ思 えるほどの描き方で白色を塗り込めていった。それはあたかもギリシャの家並みのようで あり、あるいは雪景色のようにも見える。家並みを白色で塗り込めるだけではなく、空も

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