ここでは特に、そうした様式・表現の変遷が最も明確にわかる画家を中心に考えていく ことにする。多くの画家は歳を経るに従って作品の様式・表現が簡素化してくる傾向にあ る。見方によれば、画面を抽象化していると捉えることもできる。普通に考えると、歳を 経ることによって多くの経験をし、益々対象が明確に見えてくるはずである。それを受け て、画面はより具象化されていくのが道理として考えられるのであるが、実際は決してそ のようにはならない。ゴヤは先に述べた通りである。モディリアー二の絵も後期になれば なるほど画面全体が簡素化されていった。ターナーも後期になればほとんど抽象画と言っ てもいいほどの、見方によっては簡素化されたものになっている。画面の中でただ一筆だ けを下ろしたものさえある。ただしターナーの場合は、科学的な視点で色彩のことを考え、
多分に実験的な要素が含まれてはいる。そしてレンブラントやゴッホといった自画像を多 く描いた画家たちもそうである。
自画像はなにも新しい絵の題材ではないし手法でもない。はるか彼方の時代から自画像 は描かれている。しかし、レンブラントやゴッホのように多く描きはしなかった。自画像 を単に一つのモチーフとしてや、その年代の自分を記録するための記録写真としての意味 で描いた画家はほとんどいないのではないだろうか。その動機の主なものとしては、自分 を見つめるという行為の一つの形態だと考える。芸術家は見聞きしたこと、経験したこと に対して哲学的な思考を巡らす習慣を持ち、それによって自分自身との対話を常に行なう 傾向を強く持っものである。ある意味では、外界と接する場合に自分自身というものを常 に媒体として判断し、言動を行なっていると言える。それが極度に先鋭化された行為がカ タルシスである。外界のものを自分自身という媒体を通し、自分自身にとって利になるか
否かを考え、選別し、否と判断したものに対しては嘔吐をするといった過程。そうした一 連の自分自身が行なった様々な受容・判断・言動は象徴的なものとして、その人間の表情 に痕跡を残すことになる。自画像を描くとは、その痕跡を隠すことなくさらけ出した告白 の一つの様式である。ほとんどの自画像には背景や装飾が余り見られない。と書うよりも 自分自身以外は必要ではないと言えるのかもしれない。特にレンブランドの自画像に代表 される、薄暗い空間の中にただ自分自身のみを配置しているものがほとんどである。絵の 様式から言えば、きわめて簡素化されたものであると言うことができる。また、ジャコメ
ッティの彫刻にもその傾向は強くあらわれている。特に、棒状の細く引き伸ばされた人間
(図一12)は注目されるものである。ブランクーシの極限の様式(図一13)もその一 つであるが、ジャコメッティの極限の様式には常に人間を対象とした哲学的な思索の痕跡 が見て取ることができる。ジャコメッティ自身の内面の反映があの独特な形態に大きな影 響を及ぼしているのは疑いの余地がないであろう。また、日本美術にもそうしたものは多 く見られる。特に水墨画の様式がそうである。黒一色の濃淡によって着色され、画面構成 はきわめて簡素であり、最小限度のモチーフによって表現しようとしている。あたかも画 面の中から余分なものを削ぎ落とし、最後に残った精髄を見出していくかのようである。
タッチは緩急様々なものを織り交ぜてはいるが、全体の簡素な組み立てとの調和によって 静寂さが全体を支配している。それは単に音のない世界のことではなく、静寂という音の 中に森羅万象が語られている形而上的な世界で聞くことができる音なのではないだろうか。
こうした一連の作品形態に共通していることは、余計なものを削ぎ落とすことによって 精髄のみが表現されているということである。表現されているモチーフは、それが人間で あれば激しく抗っている様子などはなく、無表情に近く、レンブラントの自画像やモディ
リアー二の肖像画(図一14)が示すように、ごく僅かな表情をつけただけである。その 他のモチーフであっても、普通だと画面の中でできるだけ詳しく大きく表現されるべきも のがきわめて小さく、かつ不明瞭に描かれている。例えば、ターナーの後期の抽象画(図 一15)とも捉えることのできるものや、雪舟の破墨の技法を用いたく破墨山水図>(図 一16)や幾何学的な線と面で構成された現代美術のようにも見えるく秋冬山水図(双幅 の内 冬)>(図一17)。また、長谷川等伯の〈松林図>(図一18)は見事な空気遠近 法と共に、抑えられた表現によって従来の遠近法を遥かに超えた意図が感じられる。それ
らのものは画面や表現がきわめて簡素であるという印象を最初に受ける。
芸術作品を見る時、そこに表現されているものに視線を注ぐことは当たり前のことであ
るが、画家や彫刻家はモチーフのみを表現しているわけではない。空間表現という言葉が ある。単なる構図の一つとしての意味も含まれているが、重要なモチーフを取り巻く空間 に芸術家の何らかの意図を込めるといった高度な技術のことである。いわば空間とは、可 視することができない存在が存在している状態のことである。とすれば、そんな状態のも のに表現を行なうということはどういうことなのだろうか。日常生活において、気まずい 空気が流れるなどといった表現が使われることがある。この場合も、そこにいる人を取り 巻く空間には存在するものなどはない。その空間にいるある人が何らかの状況によって気 まずい状態にあり、それが周りの空問にも伝わるということである。もしそれが画面であ ったのならば、モチーフによってそれを取り巻く空間にも何らかの意味が伝わってくると いったことになるのであろう。しかし、ここで言う空間を表現するという意味はそれだけ のことなのだろうか。決してそれだけではないはずだ。日常生活の場合だと、周りの空気 はモチーフである人から何らかの感情の発露を一方的に受けるといった受動的なものであ る。はたしてレンブラントの自画像、モディリアー二の肖像画や彫刻、数々の水墨画など が持つ大きな空間が受動的な空間に過ぎないのだろうか。彼らの作品にある大きな空間は モチーフを表現した後にできてしまった部分として認識すべきものではないだろう。いく
ら絵を習いたての人であったとしても、空問をどう処理するのか、どう表現するのかを考 えながら取り組んでいく。大きな空間はモチーフと同等、あるいはそれ以上に重要な意味 を持っている非常に重要な部分として考えるべきものである。ここで取り上げた作品にお いては、むしろ大きな空問の部分の方が重要なのではないのかと考えられなくもない。こ うした場合での大きな空間を重要なものとして考えると、次のよう塗ことが考えられはし まいか。鑑賞者がモチーフを取り巻く空間を注視したうえでモチーフを見た場合、モチー フのみを見ていた時のものとは違う印象が生まれるのではないか。鑑賞者は単に何もない 状態の空間を見たのではなく、その空問に何らかのものを強く感じたからこそモチーフに もそれが反映された状態で見たのではないのか。そうした経過によって鑑賞者はモチーフ から新たな感慨を受け、それを受けて再び大きな空間を見た場合、更なる感慨を受けるこ とになる。つまりそこには空間とモチーフと鑑賞者による循環が成されているのである。
我々が生活をする空間での例のように、この場合の空間は受動的なものではなく、能動的 な役割を果たしていると言えよう。もしレンブラントの自画像やモディリアー二の肖像画 における周りの大きな空間を完全に隠し、人物だけを見た場合、いかなる印象を持つこと になるのだろうか。おそらく余り表情のない暗く気難しい人物であるといった印象が出て
きそうである。これらの人物にとっては、周りの大きな空間が必要不可欠であり、それが あるからこそ、いま我々がそれらの絵を見て抱く印象が生まれてくるのではないだろうか。
それは決して受動的なものではなく、能動的に絵の中の人物に語りかけていることによっ て、あのなんともいえない深い哲学的、あるいは情緒的な雰囲気を醸し出す結果となって いると考える。ターナーの絵や数々の水墨画においても同様なことが言えそうである。我々 が超能力者でないかぎり、何も可視することができない状態から何かを見るといったこと はできない。しかし、レンブラントの自画像の暗く広い空間に、あたかも具体的な何かが 可視されたかのように見つづけることができるのは何故なのだろうか。雪舟の墨絵の墨が かすれた空間に鋭さと共に深い哲学的なものを感じるのは何故だろうか。おそらくその空 間には何かが語られ、表現されているからなのだろう。そこには可視することができない、
いわば形而上的な何かが存在しているに違いない。
芸術作品のほとんどは、芸術家が歳を経るに従って全体の表現や構成は簡素化されてい く傾向にある。しかも老境もしくは、生涯の晩年に創造された芸術作品は、それを創造し た芸術家の総決算と捉えられ、傑作であると評価されるものが多くある。確かに、歳を経 るに従って技量は低下することなく向上していき、芸術作品が芸術家の様々な経験から培 われた思想・哲学の反映であることから考えると、画歴の晩年に創造された作品の水準と いうのは必然的に高いものになっていくはずである。勿論、レンブラントの自画像におい ても晩年のものは最高傑作であると評価されているし、モディリアー二やターナーにして も同様である。彼らは画面の中の広い空間にいったい何を語ろうとしたのであろうか。あ るいは、空間という可視することができない部分の中に何か重要なことを覆い隠している のではないだろうか。