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博士(文学)佐藤拓司 学位論文題名

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Academic year: 2021

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     博士(文学)佐藤拓司 学位論文題名

スピノザとサド

一知性の自立と道徳の自然主義的基礎づけ一

学位論文内容の要旨

序章天使の堕落―卜マ ス・アクィナスと知性の自律

  本 論 文 で 、 著 者 は ト マ ス の い う 堕 天 使 を 近 代 的 知 性 の 神 か ら 独 立 し た 姿 と 見 立 て 、 こ の 知 性 が 超 越 的 な 価 値 規 範 に 依 拠 せ ず に 自 然 主 義 的に 道徳 を基 礎 づけ るこ とは 可能 か と問 う。

純 粋 知 性 た る 天 使 が 過 ち を 犯 す こ と が で き た の は 、 意 志 の 倒 錯 に よ る 彼 の 徹 慢 と 、 そ の 倣 慢 さ が 彼 を し て 神 の 恩 寵 を 排 除 さ せ た か ら で あ る。 天使 は純 粋 の知 性的 存在 であ る かぎ り、

神 の 恩 寵 を 求 め な い か ら と い っ て 、 自 然 本 性 的 には いか なる 誤 謬も 悪行 も犯 すこ と はな い。

そ う で あ る な ら 、 堕 天 使 は 神 的 権 威 や 超 越 的 規 範 に 依 拠 す る こ と な し に 、 道 徳 を 基 礎 づ け ることが可能ではなぃ のか。これが本論文の基本的 な問いである。

第一部合理主義の体系 とスピノザ

第1章言語・経験・表象 知一スピノザ知識論の根底 にあるもの

  ス ピ ノ ザ 哲 学 で は 、 「 表 象 知 」(imaginatio)は最 下等 の知 識 とし て位 置づ けら れ る。 しか し 、imaginatioは 認 識様 式と して の 「表 象知Jで ある と同 時に 、 認識 能カ とし ての 「 想像 力」

でもあり、「理性知」(ratio)および直観知(scientia intuitiva)の根底にはこの意味でのimagmatlo が 機 能 し て い る 。 と い う の は 、 想 像 カ そ れ 自 体 が 、 個 物 の 現 実 的 本 質 で あ る 「 自 己 保 存 の カ」(conatusseconserVandi冫の発現に他ならなぃ からである。

第2章魂の不死

  「 人 間 精 神 は 身 体 と 共 に 完 全 に 滅 び た り は し な い 。 そ の う ち の あ る も の は 残 り 、 永 遠 で あ る 。 」 ( 『 エ チ カ 』 第5部 定 理23) こ の 定 理 を め ぐ っ て 多 く の ス ピ ノ ザ研 究者 を さま ざま な 解 釈 を 提 起 し て き た が 、 著 者 は そ う し た 解 釈 を 批 判 的 に 検 討 し て 、 「 賢 者 は 自 己 に つ い て 十 全 的 な 認 識 を も っ が ゆ え に 個 体 と し て 永 遠 に 生 き 、 そ う し た 認 識 を も て な ぃ 愚 者 は 死 とともにすぺて失う」 とぃうまさにスピノザ的結諭 を導き出す。

第3章精神と観念

  ス ピ ノ ザ の 心 の 哲 学に は、 (1)精 神が 身体 の 観念 であ るな ら 、人 間精 神は 身体 に 起こ るす

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べての ことを知 っていることになる。(2)すべてのものが精神をもっなら、人間精神の特権 性は認められない、というニつの批判がある。これに対して、著者は(1)人間精神が知覚で きるの は身体所 部分の 変化がそ の全体に 及ぶ場合に限られるから、身体諸部分に知覚され ないことがあることはスピノザの見解に矛盾しない。(2)すべての魂が不死ではないように、

すべて の精神が 表象知 を能動的 に使いこ なすことはできなぃ。「スピノザの体系は人間精 神の特 権性を保 証しな ぃが、す べての精 神に平等を保証するものではない」と反論する。

第4章完全性と道徳性―スピノザの弁神論

  スピノ ザはトマ ス・ア クィナス に代表 される有神論の枠組みを完全に打破した上で、完 全性す なわち善 を個物 の本質と 同一視し 、さらにこれを他の個物とのカ関係によって理解 する。 この見解 はいわ ば「悪徳 の栄え」 を許容するとして同時代人の批判を受けたが、ス ピノザ 自身はこ の批判 を「理性 の導き」 による社会性・共同性の確保によって回避できる と考え た。しか し、こ のような スピノザ 自身の解決は、果たして彼に固有の倫理的唯名論 あるい は心理的 利己主 義の必然 的帰結で あるのか。著者はこう反論する。この問題は、第 二部第6章で主題的に考察される。

第二部スピノザの倫理学とサドの背徳主義

第5章スピノザと反宗教思想一『三人の山師論』を中心に

  本 章 は、スピ ノザとサ ドの媒 介として 、17世末 あるいは18世紀初 頭に執筆 され、 広く 流布し た反宗教 文書『 三人の山 師論、別 名スピノザの精髄』を取り上げ、スピノザはこの 作品の 基となる 思想を 何らかの 仕方で知 っており、それに対する自己の立場を明らかにし ようと して『神 学・政 治論』を 執筆した が、スピノザはそれに対する反応から自己の哲学 体系が 反宗教的 風潮を 助長しか ねないこ とを危惧したことが明らかにされる。事実、スピ ノザ周 辺のりべ ルタン の誰かに よってこ の文書が執筆され、それ以降この文書はスビノザ 哲学の代弁者として受け入れられた。

第6章スピノザとサドー利己主義と背徳主義の間で

  筆者は 、スピノ ザに彼 の後継者 を自認 するサドを対峙させ、近世に固有の自然主義的倫 理学において理性−性(rationalite)と社会性(sociabilite)は如何にして両立可能かと問い、その ような 形で確立 される 倫理学は たんなる 倫理学的利己主義に留まり、道徳規範の基礎づけ として は不十分 である と結諭す る。スピ ノザが、人間は理性の導きに従って生活するかぎ り本性 上必然的 に一致 すると主 張すると き、彼は暗黙のうちにすべての人間に共通の「自 然本性Jに訴 えている 。これ は伝統的 な自然 法思想ー の回帰 に他ならず、彼の出発点であ る倫理 的唯名論 に矛盾 する。そ れゆえ、 スピノザはサドを論駁できない。他方、倫理的利 己 主 義 は 無 道 徳 主 義 に 留 ま り 、 積極 的 に 悪を 称 揚 する 背 徳 主義 に 至 る こと は な い。

第7章背徳主義と倒錯の論理―サドの世界はこうして生まれる

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  サド が彼の 悪徳哲学 を構築し たのは 、まさに「倒錯」によってである。常識的な意味で の目的‐手段の連鎖を意図的に切断し、この意味のない手段を目的として自虐的に追求する こと によって 、背徳 者は利己 的打算 と世俗的道徳を破壊し、自己中心的な閉鎖的空間を形 成し て、そこ に自閉 し君臨す る。こ こから、倫理学説における背徳主義のもつ意義が明ら かに なる。道 徳は他 者の存在 を認め 、その感受性と感情的相互作用を前提とする。これに 対し て、背徳 主義は それらす べてを 自己の閉鎖的空間に包含し、そこでは理性も利己主義 もすべて倒錯する、ユしたがって、道徳は背徳的独善性(利己心だけでなく自虐をも含む)だ けはっねに排除しなければならない。

第8章悪の問題とサドの哲学

  サド は初め 世俗的道 徳を否定 し、自 然に従うことによって「悪徳の栄え」を基礎づけよ うと 試みた。 だが、 それでは 道徳的 悪は生じない。決定論は人間の行為を含めて自然の一 切の 事象を善 悪無記 とするか らであ る。したがって、道徳的悪はこの自然からの逸脱、す なわ ち「倒錯 」によ ってこそ 現出す る。「倒錯」は自然本性的な快楽や喜びを歪曲し、道 徳的悪をなすようにし向ける。しかし、自己の行為を悪と規定する外的規範は存在しなぃ。

その 存在しな い道徳 規範を犯 してい るという虚構こそが、彼をして背徳者たらしめる。道 徳的悪を支えるのは背徳者の想像カに他ならない。

終章利己主義は背徳か

  道徳 の自然 主義的基 礎づけに 関して 、倫理的利己主義を前提とし、また理性を利己的と して 理解する かぎり 、この試 みは必 然的に失敗に終わらざるをえなぃ。すなわち、利己主 義には、(1)普遍的利己主義、(2)個人的利己主義、(3)一人称的利己主義の三っの形態が区 別さ れるが、 その基 礎にある 合理性 の契機を強調するなら利己性を失い、また利己性に執 着す るなら合 理性を 失うとい う内在 的矛盾を含む。言い換えれば、倫理的利己主義が一個 の規 範理論と して成 立するた めには 、自他の利害を調停する他の何らかの規範を導入せざ るを 得ないか ら、契 約論ある いは功 利主義に転化せざるをえなぃし、また利己性に執着す るかぎり無道徳主義に留まり、道徳の名を語ることはできない。

3−

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学位論文審査の要旨 主 査    教授    坂井昭宏 副査   助教授   花井一典 副査   助教授   佐藤淳二

スピノザとサド

一 知 性の 自 立 と道 徳 の 自然 主 義的 基礎 づけ一

  

天使は純粋の知性的存在であるかぎり、神の恩寵を求めないからといって、自然本性的 にはいかなる誤謬も悪行も犯すことはない。そうであるなら、堕天使は神的権威や超越的 規範に依拠することなしに、道徳を基礎づけることが可能ではないのか。これが序章で示 された本論全体を通しての研究課題である。この問題提起は極めて鮮烈であるが、その内 実はスピノザとサドとを対峙させることによって、道徳の自然主義的な基礎づけの可能性 を問い、同時にサドの悪徳哲学との対比で「道徳性J(morality) の外延を測定しようとす るところにある。このように、本論文は表題「スピノザとサド」の与える印象に反して、

優れてアカデミックな性格をもつ。

  

本論文の第一部「合理主義の体系」はスピノザ哲学に関する堅実な専門的研究である。

第2 章「魂の不死」と第3 章「精神と観念」は、スピノザ研究における古典的難問を取り 扱った専門的論考であり、著者の見解はいすれも妥当であると考えられる。また、著者の スビノザ解釈の特徴は、スピノザ哲学をデカルトからプラトンに遡る合理主義の伝統と、

中世の唯名論者から近代のホッブズ、ロックに至る経験論の伝統の交差する場として位置 づけ、そのうえで後者の側面を積極的に評価する点に求められる。この傾向はとくに第1 章「言語・経験・表象知」に顕著であるが、ここではimagmatio に認識様式と認識能カと のニ義性を指摘し、後者を「自己保存のカ」の発現と見たところに著者の独創性がある。

  

さらに、このimaginatio と「自己保存のカ」との関わりに対する理解が、第4 章「完全 性と道徳性」におけるスピノザに対する疑義の根拠を形成する。すなわち、スピノザは完 全性すなわち善を個物の本質と同一視し、さらにこれを他の個物とのカ関係によって理解 した。彼の見解はいわば「悪徳の栄え」を許容するとして同時代人の批判を受けたが、ス ビノザ自身はこの批判を「理性の導き」による社会性・共同性の確保によって回避できる と考えた。こうした点を踏まえて、著者はこのようなスピノザ自身の解決は、果して彼に 固有の倫理的唯名論あるいは心理的利己主義の必然的帰結であるのかと反論する。

4―

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  第 二部 第5章の『三人の山師論』はもっとも先行研 究に依存する度合いの高い部分であ る。したがって、ここに著者の独創性を見出す ことはできないが、むしろ著者が狭義の哲 学史研究の枠を超えて、広く関連する研究文献 を渉猟した成果として好意的に受け止めた い。実際、本論文全体を通して、先行研究の成 果を巧みに自己の問題圏域に取り込んでゆ く著者のカ量は高く評価されるべきである。

  第6章 「 スピ ノザ とサ ド」 で、 著者 は第4章で提起 した疑義に明確な回答を与える。す なわち、スピノザが人間は理性の導きに従って 生活するかぎり本性上必然的に一致すると 主張するとき、彼は暗黙のうちにすべての人間 に共通の「自然本性」に訴えている。これ は伝統的な自然法思想への回帰に他ならず、彼 の出発点である倫理的唯名論に矛盾する。

それゆえ、スピノザは彼の後継者を自認するサ ドを論駁できない。言い換えれば、道徳の 自然主義的な基礎づけは、人聞理性を利己的と 規定するかぎり、理性的であることは社会 的であることと両立不可能であるから、道徳規 範の基礎づけとして不十分であるとぃうの で あ る 。 こ の 結 諭 は 、 終 章 で 観 点 を 換 え て 理 論 的 に 再 検 討 さ れ る 。   第7章 「 背徳 主義 と倒 錯の 論理 」と 第8章「悪の問 題とサドの哲学」は、異端作家サド に関する哲学の分野からの犀利な分析として、 とくにフロイ卜の「倒錯」の概念を巧みに 応用 した 点で高い評価に 値する。また、第7章では「 道徳性の外延」、すなわち「道徳は 背徳的独善性(利己心だけでなく自虐をも含む)だけfまっねに排除しなければならない」が 示されるが、この主張は我々の日常的実践にお いて重要な意義をもっと判断される。さら に、 第6章 の倫理的利己主義は無道徳主義に留まり、 積極的に悪を称揚する背徳主義に至 る こ と は な ぃ と ぃ う 指 摘 を 受 け て、 第8章 では 道徳 的悪 の虚 構性 が解 明さ れる . ・   終 章「 利己主義は背徳 かJは主としてメタ倫理学的 分析に基づいているが、本論文の卜 マスからスピノザを経てサドヘ至る哲学史的考 察に本章で理論的基礎を与えるという構成 は 、 歴 史 的 研 究 と 倫 理 学 的 研 究 の 見 事 な 統 一 と し て 高 い 評 価 に 値 す る 。   すでに述べたように、本論文の主題、すなわ ちスビノザとサドとの対比を通して道徳の 自然主義的基礎づけの可能性を問うという主題のもつ独創性は十分な評価に価する。また、

ここから導かれる結諭、すなわち倫理的利己主 義の規範倫理学説としての存立可能性、お よび悪徳主義による道徳性の外延の測定は極め て的確であり、本論文は所期の目的を十分 に果たしたと判断される。さらに本論文を構成する10章のうち3章は、日本哲学会「哲学」、

日本倫理学会「倫理学年報」などの学会誌に掲 載され、すでに―定の水準に達した論文と して客観的な評価を受けている 、

  こうした点を総合的に勘案して、本審査委員 会は本論文が課程博士の学位を授与するに 価するという結論に達した。

参照

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