九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
琉球王国史の基礎的研究
高良, 倉吉
https://doi.org/10.11501/3065585
出版情報:Kyushu University, 1992, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
国史の課題
/
高良倉吉著 琉球王国史の課題
-嶋.“
「伊平屋の首里大屋子宛辞令書」万暦15年(1587)7月8日 沖縄県立博物館蔵
古琉球辞令書の得分規程型を代表するもので、「ゑひやJ (伊是名・伊平屋両島の行政区画名)の首里大屋子に与えられている里 所(役地)に更に3オツカ50ツカの水田を追給して5カリヤ3オツカ50ツカの給田とすること、 そのかわり首里城で挙行される 種行事の際に酒などを上納するよう命じている。 上部3ケ所の朱印は「首里之印」である。
序
二玄包ニ
早
と 日本社会 琉球 ・ 沖縄の歴史
7
琉球王国史の課題
目 次
はじめに||琉球史像再構成の思念(l
琉球・沖縄史の予備的前提
向然的諸条件とその特質(8用語法をめぐる問題点(M
琉球・沖縄史をめぐる基木的論点
時代区分とその考え方(M琉球・沖縄史の特質(刀
ヤマトル」ウチナ|
20
+円琉球とその歴史的主義
異域としての琉球・沖縄(幻
クスク時代H肯琉球の開始(お
転換の契機としての国際社会の動向(U肯琉球の歴史的意義(却)
環シナ海世界と琉球(辺)
日本社会の歴史を再構成する視点(お
第三車 第
第三章 4早
古琉球研究の基本的論点
41 古琉球研究の方法 研究史の二つの潮流(必)
古琉球の評価(制) 研究課題と方法(打
新しい方法の開拓(卯
内琉球とクスク時代 レ内琉球の性格(幻)グスク時代概念の変化(珂
レ内琉球の
環としてのグスク時代(卸)
辞令い十一日に見る
国の存在形態とその変化
63 琉球王国における王府制度の特質 -4昨令行一Uに見るヒキと庫理こ関する覚点 渡海役辞令書の紹介(併
辞令書におけるヒキと庫理の用例(U ヒキのもつa一面的性格(ω)
ヒキ・庫理をめぐる論点(河
折下の総括(初)
ム内琉球的耕地区分の状況 近川の耕地灰分状況(お
ノロクモイ地と里
所(m∞
その他の耕地区分(引)
多良間島の辞令占とその背景
-P琉球社会における近世的転換の一端
親里家文書の内容(白川
辞令書形式上の位置(卯 受給者の限定と役人制度の転換(川)
付論l・士門琉球の終長とノロ辞令冷(川) 若下の総括(川
付論2・辺名地仲村家辞令hFげについて
125
付論3・伊江家評令h札口について
129
玉御殿の石厨子銘者について
||仲怯リ回向城説的解釈の問題点
141
「琉球王国論争」と銘汗問題(即
陵墓の含む変化の
例(附
刻文と
158
ぎの意義
VCJ
輝緑岩製石棺の意味(服
五
167
銘Hい一けの記述年代
ノ\
語(m
結 ι1A問1i・,,咽E'dHH「琉球
l巧
」の評価l仲怯弥秀の見解をどう見るか
付論2「琉球王国」の評価・再論l高城隆の「批判」を読んで
186
第四章第五章
第六章
第七4
山北監守をめぐる問題点
山北監守の起源(服
山北監守の復活
194 山北監守の状況・その
197 件ト山北監守の状況・その
200
五故地顕彰と大北墓(m
ノ、今後の課題(m
前回仁τし山川とユタ問題
-Aタ禁庄の前提|
十円琉球否定策
の登場
琉球社会の荒廃(仰
215 向象賢路線の登場
「合理性」への転換(日
「口琉同祖論」の意区(初
トh琉球の汗定(m五円『M4Jrz 4nE-L府と卜キ・ユタ禁圧
|近世琉球におけるユタ問題の構造
「時よた科定」の布達(m
王府の意図と実態(m 托小温の卜キ・ユタ論(仰トキ・ユタ処罰の事例(m む
Fの総
折 (仰補説|史料と解説(却
墓と位牌をめぐる若干の問題
伊是名ぷ御殿をめぐる諸相
創控および移設伝承
256
重修とその背最(初)
被葬者をめぐる問題(加
近世琉球における天孫氏問題11確疋九年の天孫氏位牌安置一一件の詮議から
問題の所在(獅)史料の紹介(mm
史料の関連および区分(m内容の要点と行Fの内記
史料の背最と苦心義(m)
付論l・トボスとしての墓(捌)
近世琉球史分析のためのい干の課題
近附琉球における海運史の.側面|市、船の事例とその検討
伊千里島の間船状況(m預船の就航事例(捌)
預船に関する若干の総括(m
人口から見た-t械朝
306 一の時代
209 191 255
275
289
一
「察温とその時代」への視点(幻
四
王国時代の泡盛(初
五
スカマの語義をめぐる状況(捌
ー中本正智著『図説琉球語辞典』を読んで
第八章近世末期の/重山統治とノ口問題ー翁長親方仕置とその背景
339
規模帳布達の経過と仕置の意図(初
統治機能の概要と検使(初
一
在番および蔵元機構の弛緩(消
ru HY
仕置の論理構造とその矛盾(初五
近世八重山の人n動態(抑
/,
規模帳に見る人円問題対策(m
補説と参考問題第九章
387
琉球から見た朝鮮
・
中国(
柳川) ー
琉球王国の歴史像を考える視点琉球E
における王宮と港(m
「アジアと沖縄」を見つめる視点(仰
内沖縄近代史のなかの河上肇(叫
口木書所収論文初出誌覧(ω
口主要著作論文日録(似
-
あとがき(
仰)
はじめに||琉球史像再構成の思念
予相心していたこととはいえ、六年に及ぶヤマト土)での学生生活を了えて帰郷した時、(日木史研究者はもと
より知識人たちの聞に広がる一種の虚脱感の深さにま驚かされた。私が沖縄に舞い戻ったのは日本復帰二九七
五月十五日)の翌年であり、政治的沸騰
は ま
だ持続してレたとはいえ、各デモンストレーションの底こ「やりきれな
さ」が漂う状況にあった。このような形で日木復帰が実現してしまったのか、という空気が淀んでいたのである。
このムlドは各種の調査結果にも表れている。例えばNHKのアンケート調査によると、「復帰してよかったか」、 という設問に対する回答のうち「よかった」と答えた人は、復帰の年から一九七七年までの五年間、約五割しかレな
い。逆に「よくなかった」とする人が同じ時期に約四割もいるのである。おそらく、知識人たちの間でま「よくなか
った」とする空気がさらに強かったと思われる。
沖縄を活動舞台とする私の歴史研究はこうした状況下で開始された。「やりきれなさ」状況を尻目こ、私は三点
の行動日標を設定してみた。一つは、とにかく離島を隈なく訪ねてみようという日標である。沖縄こは約四
O
まどの有ノ島があるが、従来の歴史研究者は、各離島を訪問したことがまとんどなかったからである。鹿児島県の奄美地方
にも足をのはした。というのはこの島々は近間以前まで琉球王国の範囲であり、言語・文化複合の面で今なお「琉
球文化圏」に属しているからである。離島訪問は私ことって収穫がきかった。沖縄戦で被害が比較的少なかったた
年
めに、近世一
・
近代期の史料が豊富だったこともあるが、
それ以上に重要だったのは、琉球・
沖縄のもつ奥行きやハリエlション
を感できたことである。それにまた、各離島で歴史や文化の研究を細々と営んでいる研究者、離島のまざまな問題に取り組んでいる真筆な活動者たちと知り合うこともできた。
私自身が離島の出身であったことも、上記の離島行脚を抵抗なく実践させた理由かもしれない。伊是名島に生まれ、
南大東島に育った私は、どうやら生まれつきの「離島の視点」を形成してレるらしく、問題を考える際に常に「周辺」が気にかかる。「周辺」への目配りなくして全体は語れなレ、という意識をおのずから抱いてしまうのである。とに
かく
、離
島調査行が、私の中で琉球
・
沖縄像の多様性を考える視点を実体化してくれたのは事実である。一つ日の目標は、「語られざる世界」「知られざる世界」の訪問であった。いろいろ考えたすえに、戦後をテーマとすることにした。特に、沖縄戦後に出現した広大な米軍基地とそこに勤務するG
I
相手の「
基地関連サービス業
」
、ことに風俗営業の状況を調べてみることにした。G I
に飲食を提供したり、
接客サービス・
売春を提供して生活してきた人びとは、沖縄教職員会・
官公労・
全軍労などの労働団体が主導した復帰運動や反基地闘争の影に隠れており、その思念が語られたことはなかったからである。私はこの調査をまとめて発表する計画を最初からもたなかった。とにかく、
戦後史の影に置かれている人びとの状況とその声を直に聞きたかった。このため、
私のアフター ・
フ ヤ}れまでどの書物や論そのnからさりげなく語られる話題の全ては、やがて、信用を得るまでの経緯が大変だった。 心を許さないかぎり真相を語ることまなく、アメリカ統治の最前線で生活してきた彼らは、話を聞くことができた。 など春婦ニlそして売
、
さまざまな人びとに出会レ、ー
ハ・
ミュージシャン・
ホステス・
業者サインA
動である。行 匹狼的た。・
となっ研費究共同研究者もない全くのとされるこ費に脚そのネオン街行は文字通り夜の基地のまち、 イブァ文にも採りあげられたことのないものばかりであり
新、
鮮であった。
ベイテーの賑わい、
Aサインのライセンスを得るに際しての米軍担宅官のいやがらせ、オフリミッツの時の苦境な どレずれも興味ぶかいものがあった。特に印象的だったのは、明日は沖縄基地からへトナムへベトナム戦争当時、
飛び立つ兵たちが湯水のようにトルを使レ、最後には沖縄青年で構成するハンドのロックサウンドを子守歌がわり に聴いていたことである。一
O
歳そこそこの青年たちが、激しい戦場での死を覚悟して、
静かにロックシャワーに身 を委ねてレた。「連中のあの表情を見てこちらも懸命に演奏しましたよ」、とあるミlジシャンは語ってくれた。過酷な生活が随所に存在した。しかし、会う人ごとのあの屈託のない生きざまをなんと表現したらよいのだろうか。
彼らは基地あるが故に生活できた。組織としての軍隊の被害者の側にも立たされた。にもかかわらず、人間としての
兵士一人ひとり
つまり
フェイス
・
トゥi・
フ ェイスのアメリカ体験を重ねていたのである。そこには、復帰によ る虚脱感や「やりきれなさ」状況など微塵もなかったのである。戦後という時間と屈託のない付き合いかたをしたこ
のような人びととの出会いが、私には新鮮であり、そこから沖縄を見つめる一つの視点を得たように感じた。
行動日標の三つ日は、とにかくアジアをこの目で見てみよう、というものであった。琉球王国時代に深い関わりの
はじめに一流球史i制機成の思念
あった国々、中国の福建省
イタ
インドネシアなどにしばしま足を運びマレーシアゆかりの港
・
史跡を訪ね研究者たちと会談した。琉球の海船が毎年のように投錨したマラッカの港、東シナ海を越えた進貢船が最初にくぐる
関門である聞江入口の五虎門などに立った時、かつて琉球史がこの場所と深く繋がっていた点を実感できた。
アシア訪問は国時代の通交貿易史の関連調査がな目的であったが、同時にまた
、
琉球史を捉える枠組みの刷新という密かな課題もあった。従来の琉球史研究は「日というのは」との関わりを軸に歴史像を描くことに腐、い してきたためにアジアの中に琉球
・
沖縄を置き戻した時何が問題になるかについて真剣に検討したことがなかったからである。私は意識的に、琉球史研究にとっていかにアジアが重要かについて注意を促す文章を発表してきたが
- 2 - - 3 -
意図するところは、
琉球史研究を強く拘束してきた「日本問題」を、
アジアを導入することによって相対化すること
にあった。
ここ一O年来、
いわゆる国際化の波も加わって、
沖縄とアジアとの交流は飛躍的に進展した。
九八五年にま中国-福建省福州市でシンポジウムが聞かれた。福建師範大学の会議
室で行われたこのシンポジウムには沖
縄側から四名の研究者が、福建側からO名まどの研究者が加わり、まる二日間、琉中関係について討論した。九/}ハ年にはム口
湾の台北市で第一凶中琉歴史関係国際学術会議が開催され、
多くの研究者が参加して突っ込んだ発表が開陳された。
九/・ノ年の九月には福建省から門名の歴史学者を招いて学術シンポジウムが、
十月には第一回琉中歴史関係国際学術会議がやはり沖縄で開催された。さいわレ、私
はその全てのイベントこ関係してきたが
、このような交流を通じて中国・台湾の視点から琉球がどう問題になっ
ているかを知ることができたと同時に
、彼地の研究者の論文・著作が随時送付されて
くるような関係をも形成することができた。
とくに、福建省の研究者とは、
明代に琉球に移住してきて 対外業務のエクスパート集団として活躍した「闘人三卜六姓」(久米村)について、
その福建での故地探しを行う共 同研究も推進されつつある。
「琉球・沖縄にとって日本とは何か」という問題のまかに、琉球・沖縄にとって中国や東南アジアとは何か、逆こまた、琉球・沖縄から中国や東南アジアがどう見えるか、
ひいては日本がどう見えるか、
という視点が琉球史研究に
は不可欠である。
その視点形成の具体的な動きはすでに始まっているのである。
一一点の日標を実践するなかで、私の脳裏をしきりによぎったのは、これまでの琉球史像は、琉球・沖縄の真の個性
を真正面から論じていない、
という不満であった。とくに、琉球処分以降の近現代の歴史に規定されて、前近代の琉球・沖縄の歴史過程を軽視してきたこと、
なかんずく琉球王国の存在が評価されてこなかったこと、
が目につレた。
その状況を反映して、前近代文h札口の解読・分析はみことなくらい遅れていた。諸史料を駆使した新しい前近代史の研
内九が本格的に推進される必要があった。沖縄歴史研究会に古文書講読会を設置しこのため
井一
昨 週
口一の講読会を開催して、
とにかく文書解読能力をもっ研究者をなるべく多く育てることにした。
この講読会は一九七四年からスタl
トし、現在に至っている。また、-4抗み合わせた史料から得た情報を歴史として構成する訓練を行うために、毎年夏、那覇を出て地方・離島に合宿しそれぞれ研究発表を行い討論した。
琉球史研究のこの新しい動向を普及・喧伝するために
私は意図的に各種の講演会やγンポジウムの演壇に立つ
た。
地元の新聞にも機会をとらえて文章をしきりに発表しつ♂つけてきた。
テレビやラシオにも盛んこ出演し、琉球史の再評価を訴えつ.つけてきた。
歴史のいわゆる専門論文や著作を発表するのと同様の仕事として
私はこの活動を位
置づけてきたつもりである。時こよっては、
戦後のアメリカ統治の中で生まれてきた沖縄の新しい音楽、
ロックの大
イベントを企岡したこともある。アメリカ経済の沈滞化によって
、G
I相手のサービス産業は全体に活気を失ったが、
ライブハウスでのロックバントの生活も同様であった。
それに、沖縄の若者たちが東京やニューヨークあたりの新し
JÁt.L/(ソ:像1ft憐IJ支の!巴念 いな田楽に飛びつくようになったために対する関心も急速に薄れてき沖縄で育ったロック音楽(オキナワンロック
た。
ロ yクンローラーのなかには転職する者があいついだ。
座して消滅を待っかそれとも戦後が生んだ音楽を今
度再評価し
そこから何か新しい沖縄の音楽が誕生する可能性を追求するか
との問題意識で、ュlジシャンを円
説き、墓地のまちの各市町村を説得してピ!スフルラブ・ロックフェステ?ハルという名前のイベントをつくった。このイベントは、毎年夏、
数千Jを動員する沖縄最大のミュlシックイベントとなりつつある。
I t L-ðI)::
歴史の解明再構成とともに歴史をいかに表現するか」の点も琉球史研究にとって決定的に重要な事項だと思
r j 。
この友現のためには地戚開発・地域計画などの諸プロジェクトに積極的に参画し経済・建築・都市計画・テ
- 4 - - 5 -
て歴史家も責任を負う.べきだから、 ザインなどの各専門家と提討することが必要である。検的に体題を具課
、
将来の題課現在のてし携現在・
将来こ対しじて、
自らの手法を認識し、
同時にまた、自らの手法を相対化する刺激を得るために必要なことなのである。 という一般理念からいうのではない。
異なる手法をもっ専門家との共同作業を通
私は、以上のように思い、行動している。
早
琉球・沖縄の歴史と日本社会 序
- 6ー
琉球 ・ 沖縄史の予備的前提
自然的諸条件とその特質
琉球
・
沖縄の歴史は、
日本史像再構成のうえでいかなる意義をもつものなのだろうか。琉球・
沖縄史研究者にとっ てこの課題は古くて新しい関心事なのであるが、
歴史研究の根底で絶えず問い
しかし、
このような基本的課題を、
つづけ、その成果を具体的な仕事の
かたちで提示した研究者の
数はきわめて限られている。研究史の大勢は、琉球
・
- 8 沖縄史像を無批判的に日本史像に接木するか、
さもなくば、
緊張感を放棄した「郷土史」の範囲で歴史を論ずるか、
そのいずれかであったように思われてならない。
われわれの仕事における目標の
Jコ
』主
日本史像に対して琉球
・
沖縄史の何が問題なのかを明らかにすることである。そのためには
、
当然のことながら、
琉球・
沖縄史が日本史像の批 判者としてどれほとの内容をもつのか、そのなかの何が討議の際の主要な論点になりうるのか、
を明示しなければな
らないと思う。
現時点で提示しうる私の論点はまことに貧弱にすぎないが
、
以下、
考えるところを率直に述べてみたい。 琉球・
沖縄の歴史を検討する際、まず最初に歴史形成の場・
舞台ともいうべき所与の自然的諸条件に着目する必要 があろう。第一に、
琉球・
沖縄は典型的な島唄地域であり、
日本社会を構成する一都一道二府四三県の中で唯一島唄 のみをもって形成される県は沖縄県のみである、
という事実である。第二は、
これらの島唄(沖縄県域の有人島約四
。
)は一か所にかたまって存在するのではなく、広大な海域にほぼ弓状を描いて分布するという事実である。
現在の
沖縄県の県域でみると、北端の
は広島駅
島から南端の
め照一昨
島まで約四
06
キロメートル、東端の北大東島から西端の与那国島まで約一
(×δ
キロメートル、同縮尺の地図を二枚用意して東京都心部に那覇市を重ね合わせると、北端の硫黄鳥島は福島県
、
南端の波照間島は和歌山県、
東端の北大東島は千葉県銚子沖三00
キロメートルの太平洋上、
西 端の与那国島は香川県にそれぞれ及ぶことがわかる。
第三はこれらの島々が東アジアに独自の地理的位置を占めている点であろう。琉球
・
沖縄を中心に地図を眺めると、北
に日 本、
その西隣に朝鮮半島、西は東シナ海をはさんで中国大陸、南はパゾ1海峡をぬけると東南アジアであ
る。西端の与那国島と台湾の聞は約一
(け汽)
キロメートルしか離れておらず、晴れた日には台湾を遠望できる。第四に
これらの島唄は全体がいわゆる亜熱帯におおわれており、
日本社会を構成する四七都道府県中、県域のす
- 9 - へてが亜熱帯におおわれているのは沖縄県のみである、
という事実である。
このように
、
東アシアに独自の地理的位置を占め、
広大な海域に分布する亜熱帯性気候におおわれた島幌地域とし琉球・沖縄の歴史と日本社会
て琉球
・
沖縄の自然的諸条件をまず規定することができよう。いうまでもなく、
この自然的諸条件は人力ではどうともすることのできない所与のものであり
、
琉球・
沖縄で生起した多様な「時間」とその「集積」
を根底において規定したものの一つであったと考えてよい。
序章
たとえば、広大な海域に島唄が分布するために琉球
・
沖縄における各島填は孤立性・
隔絶性が強くなり、
方言が島唄ごとに多様性を示す点によく象徴されるよう
に、文化複合の面でその内部は多種多彩である。与那国島の人と
駅昨
島の人がそれぞれの方言で話し合うならばお互いの意志を伝え合うことが困難となり
、
また、
臥ripか
島でうたわれる
神歌テイルクグチはとなりの
炉心
島では見られない、といった多彩な状況が発生するυ海のかなたに
常酌
を想定する
ニライカ ナイ信仰に
代表されるよ
うに、
海に関する各種
の信 仰
・
儀礼も琉球・
沖縄各地に広汎に形成
れたが
その ような宗教状況の根底に横たわる問題も島唄地域としての自然的諸条件を背景としている。
右の点に関して歴史の側から事例をあげるとすれば、
たとえば
、
孤立性・
隔絶性の強い島唄をかかえる地域を統治 する権力主体の場合、
海上交通の確保が重要とならざるをえない。
権力者の命令の伝達、
役人の出張、
租税の運搬な 体として把握すること ど大半の統治行為が島峡間交通を前提とするからであり、
海上交通の確保なしに島唄地域を
久郎
島の船舶
が多良昨
島に 難破
・
漂着した場合(島唄社会で
はしばしば発生する
)、
漂着者は多 はできない。
また、
良間島逗留中に借用した食糧を帰島後に首里王府に支払い、
王府は翌年の多良間島からの租税額のうち同額分を差し 引くというように、
権力が海運にからむ相互調整機能を果さねばならない事態も生
ずる。
あるいままた近世の鎖国制 下にあって
、抜荷や
異国船 に対する海防監視
体制の守備
範囲が、
広大な海域
こ分布する島唄地域
としての
琉球
・
沖縄 においては広くならざるをえず、その結果、
首里王府の行政機能が総力を挙げて海防監視体制の役割を発揮しなけれ ばならなか
ったことにも
、
島幌地域 における
歴史の 特質の一端を見出
すことができよう
。
このように
、
琉球・
沖縄の自然的諸条件は
、
単に文化および歴史形成
の場
・
舞台
であるとい
うことどまらず
、
文化 および歴史形成のありょうそのものを規定する基本的条件の一つであった。用語法をめぐる問題点
「琉球
」
とレう場合、
地理的には奄美大島から与那国島に至る島幌地域を指し、
その範囲は古琉球(中世の時期に
相当)において確立した琉球国の版図と一致する。この地域は
、
言語学や民俗学・
人類学などの研究が明らかにしているように
、
日本語を本土方言(狭義の日本語)とともに二分する琉球方言(琉球語)の言語圏であると同時に、文化複合の面でも「琉球文化圏」と称してもよい地域である。大づかみにいって、奄美大島を主島とする「奄美地域」、
沖縄本島とその周辺離島よりなる「沖縄地域」、宮古島
・
石垣島を主島とする「先島地域」に三分されるが、-』よ』 J
JI
千/
IL」のうち奄美地域はハ
O
九年(慶長卜四)の島津侵入事件を契機に薩摩藩の直轄領として王国の版図より割譲されたため、現在こ至るまで鹿児島県の県域に属する。だが
、
県成を異にするとはいえ、
「琉球」という場合こま奄美地域をも包括した地理的範囲のことをいう。これに対して「沖縄」という場合こは二様の用法がある。つは沖縄
・
先島両地域の総称、いいかえると現在の沖縄県の県域に相当する地理的範囲を指す場合であり
、
いま一つま、
先島地域を除き沖縄地域のみに限定して用いる場合である。
右に述べた点はもっぱら地理的区分の見地から「琉球」「沖縄」の範囲を特定したものだが
、
歴史的見地からレうと、「琉球」とは一八七九年(明治卜一一)の琉球処分により沖縄県が設置されるまでの琉球国時代を指し、「沖縄」
琉球・沖縄の暦史と日本討会
とはそれ以後の近現代の時代を指す。
以上の点からいえば
、
琉球・
沖縄史研究とは、
奄美・
沖縄・
先島三地峡の原始から現代におよぶ全時代を一体として扱う歴史研究の領域である
、
ということこなるのであるが、
しかし、
際には右の三地域を体として扱えるまとの研究水準に達しているわけではない。研究史をふりかえると
、
琉球・
沖縄史研究の流ま沖縄地域の研究に偏重しており、
佐や先島に関する格的な仕事はごく限られたものしかなく、この両地域に関する史料状況の把握と分析
をふまえた個別研究が書かれるようになったのは近年のことにすぎなレことがわかる。こうした研究状況を招いた理
f子帝
由の-つは、前近代史の分野に典型的にポされるように従の琉球
・
沖縄史研究が首里王府の編集した正史の解釈-11- -10-
にのみ力点を置レたため、
その結果として
、琉
球・沖縄史像を構成する各地域の多様な態を検討する視点と方法を
もちえなかったことにある。二つ日の理由は、とくに奄美に関してだが、島津侵入事件後に琉球国から分離・割譲 されたために、後世の琉球・沖縄史の研究者の半が奄美を研究対象から除外する態度をとってきたことこある。民
俗学や人類学、言
語学
、文学、それに考古学などの分野の研究者が、奄美・沖縄・先島三地肢を一体のものとして調 査・ 研究 し、その成果に立って琉球の文化複合や先史時代の状況を検討してきた態度に比べると
、歴
史学分野の仕事
は意識・
方法の面で大幅に立ち遅れてレるといわなけれ主ならないのである
。
なお、念のために付言すると、琉球とほぼ同趣旨で頻繁に用いられるところの「南島」の用法は疑問である。私の 場合はこの用語に距離を置き無限定的に使用しないよう常々心がけているつもりだが
その理由は、「南島」の語が 暖昧であると同時に内容の面からいっても歴史上レかなる積極的意味をもつのか疑問に思えるからであ
る。この用語
は、奄-沖縄・先島三地域を指すのが通例となっているようだが、そのい二ぽうで九州島以南、すなわち種子島・
屋久島から与那国島までを含めて用いる場合、あるレはまた、これに東南アシアをも含めて用いる場合があるなど
用法に混乱が見られる。
また、「南島」とは、基本的に七、/世紀の律令制国家と九州島以南の化外の島唄群との関
係史を考える際の古代史上の用語であってこれを中世史以後の歴史現象を捉える際の地域名辞として用いてよいの
かどうか疑問に思う。それにまた、当の「南島人」たちがみずからの地域を積織的な形で「南島」と総称したことは
一度もなくらには、名辞そのものにも非歴史的な中央|辺境認識が付着するなど、総じて「南島」の呼称は、琉
球・沖縄研究の側から見れば没個性的・非主体的な用語だとの印象をぬぐえないのである。
「南島」の用語が普及したのはそれなりの思怨・研究史上の背景があり、この点に関しては別の機会に詳しく検討 するつもりだがここでは「琉球」「沖縄」そして「南島」の三用語を無限定的に用いる傾向の典型的な例として伊
波普猷をあげておこう。彼は琉球・
沖縄研究の開拓者にふさわしく多方面に関する
数多くの著
作を残しているわけだ
が、
処女作である『古琉球』(一九
年をはじめ『古琉球の政治』(一九
一二年)、『孤島苦の琉球史』(一九年)、『琉球古今記』(同年
)と
いった「琉球」の表題を付した本のほか、『沖縄女性史』(一九一九年)、『沖縄考』(一九四
二年)、『沖縄歴史物語』
九四七年)
といった「沖縄」の表題を付したもの、
さらには『南島史考』(一九三一
年)、『南島方
言史孜』(一九三四年)
といった「南島」の表題を付した著作も発表している。
これを見るかぎり、伊波普猷こおいて「琉球
用語を採るかはのどのモのうち、異別称にすぎず・称のれぞれ当該地域そは」沖縄南島「」」 「
表題を付す際の気分しだい、
といった印象さえ受けかねない。
伊波普猷に
おいて典型的な形で認められる用語法のこ
の無限定的傾向は、今日の琉球・沖縄研究に至ってすっかり定着した観があり、
研究者間においてみずからが対象とする地域をどう称すべきかを考えぬく緊張感が希薄となって
いる。歴史研究においても、「琉球史」なのか「沖縄史」なのか、それとも「南島史」なのか、
をめぐって真剣な意 見が述べられたことは一度もなく、
用語に対する無緊張状態が支配しているようこ見受けられる。
この問題は単なる
琉球・沖縄の!墜史と日本�I会
学術用語の確定問題の域にとどまるものではなく、琉球・沖縄の歴史全体をどのようこ位置づけ評価するか、とレっ
た基本問題に深くかかわっている。
この意味で、
用語に対する無緊張状態
とま、とりもなおず琉球・沖縄の歴史全
体の位置づけおよび評価に対する無緊張状態より発しているとみなけれ主ならない。
序言?
/ ....
円〈叫 つ〆】
琉球・沖縄史をめぐる基本的論点 時代区分とその考え方
さて、琉球・沖縄
史に関する時代区分は
、長く王統編年史の従属下こあったため、
歴史の推移を
史家の体的認
識にひきつけ客観
的に処理する緊張感からはほ
ど速レ状態にあった。戦後になってはじめて、仲原善忠・新里恵 宮城栄昌らが近代歴史学の手法こ立ってそれぞれの時代区分案を提示してい
日
。彼らの仕事は、
旧来の王統編年史に 一線を画し、世界史・日本史の一般的な時代
区分を念頭こおきながらも
、しかし、と
りあえず琉球
・沖縄史独自の時 代区分として設定しようと試みた点で共通しており、
たしかにその後の研究こ少なからぬ影
を与えてきた。
しかし ながら
一九七
0
年代以後の琉球・沖縄史研究の多様
な展開は右の先駆者たちの
時代区分には満足せず
、彼らの区分 案を歴史の具体的推移に即しあらたに再構成する動きが顕著となってきた。再構成を促した主
な契機は、まず第
仲原・新里・宮城らの時fにままた概念的にしか把握しえなかった「原始社会」「古代社会」
に関する情報が
、考古
学的調査・研究の進展によって著しく増大し
たことがあげ
られる。第に文献資料の収集・分析が飛躍的に前進し 実証的個別研究が量産
れる状況が到
したために、
事
認識が格段に進歩
したこと、同時にまた、琉球・沖縄内の 各地域に関する歴史的事情が少しずつ明らかにされはじめたことがあげられる。
第は、
日本社会の歴史の中で琉球
-沖縄の
歴史はいかなる位置を占
めるのか、あるレはまた、
東アジア世界の中
で琉球・沖縄の歴史はどのような位置 を占めるのカ、といった歴史認識の
枠組みの組み
換えを求める気運が研究
者の間で急速に台頭しはじめたことである
。
そして第四に、かつての時代区分論争に代表されるような社会構成史的な規定をいきなり琉球・沖縄史に持ち込むの
ではなく、琉球・沖縄の歴史的把握を進めるうえでの単なる作業仮設として時代区分を用いる傾向が強くなったこと
があげられよう。
実際の研究の現場では時代区分上の統一認識が確保されているわけではないが、最近多用されはじめているところ
の作業仮説としての時代区分は図ーとして示した五区分法である(この作業仮説の積極的な提案者の一人が私であ
る。)
琉球・沖縄とH本の時代対照図
琉球・沖縄
υfHí器降伏|
BC.8000 -一一�
B. C. 5000
琉球処分 近 代 沖 純
沖縄戦
アメリカ 統治時代
近枇琉球戦後沖縄
第三尚氏 王朝 前期
第三尚氏玉 王朝 後期 島津侵入1609
日み復帰 1972 沖縄県
12c
14c
1879 沖縄県
1945 琉球・沖縄の歴史と日本封一会
世
lIJ iH守11:
現代 日4
図l
近
先史時代
図ーにもとつきながら大略を説明する。まず第一段階に相当する先史時代は、考古学の編年であるグス(城)時代の始期を十二世紀頃と捉えると、それ以前の旧石器時代・貝塚時代を含む長い時間帯である。現段階で
年前という数値が得
Qδ
町第一洞穴遺跡はカーボン測定によると約三万二確認できる最肯の遺跡である那覇市山 ク序íjfられているので、
先史時代は数万年前の旧石器時代から貝塚時代(新石器時代
)を経た十二世紀頃まで、ととりあえ
- 14 -
FhJ
ず規定てきる。
研究者によっては「原始沖縄」「原琉球」と称える人もレる。
古琉球
世紀頃から一六O九年(慶長十四)
の島津侵入事件までの約五ハむ年間の時代で、
日本史一般でいう
十 中世の時期にまぼ相当する。
考古学の編年概念であるグスク時代は、
時代区分としてはこの肯琉球の時代こ含めて考 えてよいことが近年の研究によってしだいに明らかとなりつつある。
王統編年史的理解でいえま、
いわゆる舜天王統
-
英祖王統・
察度王統・
第一尚氏王統および第二尚氏王統の一部まで(第二尚氏王朝前期)はこの時代のものであり、 当然のことながら三山鼎立の時代もこの古琉球の一時期を占める。「古代沖縄」と称する場合もある。近世琉球
一六O九年の島津侵入事件から一八七九年
(明治卜二)の琉球処分までの時代で
ある。薩摩藩の「領分」
として幕藩体制の一環に明確こ編成されつつ、
同時に王国体制を保持する「異国」的存在でもあった時代であり
、
れまで多くの研究者の間で「日支両属」と形容されてきた時期である。近代沖縄
八七九年の琉球処分から一九四五年(昭和二十)
の沖縄戦までの時期である。
沖縄県の設置にはじま
り沖縄県の崩壊に至る時代
、
という意味で「沖縄県時代」とも呼ばれてきた。
戦後沖縄沖縄戦の終結、そしてア
メリカによる軍事的直接統治の
一七年間を経て、一九七二年(昭和四十七)
月十五日の白木復帰以後今日に至
る時代である。
日本復帰のもつ意味を重視して、
戦後を「復帰前」「復帰後」の二
期に分けることが一般におこなわれている。
以上の五区分法は読してわかるように琉球
・
沖縄史の推移を把握するためにのみ用意された独自のものであり、
また、社会構成史的観点に立つ区分概念では全くなく、あくまでも琉球・
沖縄の史的推移を経験的な次元で区分けし た便宜ヒの円安とレった程度のものにすぎなレ。時代の区切りかたもかならずしも厳密ではなく、
たとえば
、
古琉球は島津侵入事件によってただちに終止符が打たれるわけではなく
、
また、
沖縄戦を近代沖縄の「
終点」と見るかそれとも戦後沖縄の「起点」と見るか、
といった疑問を提示するとたちまち暖昧な形のものとなってしまう。
そのような暖昧さを含む点を承知のうえで
、
右の五区分法を用いるからには、当然それなりの積極的理由がなければならない。
その理由はつある。第一に、社会構成史的な時代区分論をはじめとする厳密な時代区分問題を適用するには琉球
-
沖縄史の側の実証的蓄積が乏しく、
とくに社会経済史方面の成果が貧弱にすぎることであ
る。このような研究状況を無視して厳密な時代区分論を適用したとしても
、
現時点では研究の発展に何ら寄与しない観念論に走らざるをえないだろう。したがって、今の研究段階では暖昧さを含みつつも、経験的かつ便宜的な作業仮説として時代を区分けす る方法が、研究上の実践には有効である。第二に
、
右の五区分法は琉球・
沖縄史の特質を反映していることである。というのは、
先史時代から古琉球への転換を除けば、
琉球・
沖縄史の最も顕著な特質の一つは、
歴史的局面の変化がもっぱら外部的な政治的・
軍事的要因によって他律的に規定されたことにあるからである。古琉球から近世琉球への移行の契機となったのは島津侵入事件、
近世琉球から近代沖縄への移行の契機となったのは琉球処分、
近代沖縄から戦後沖縄への移行の契機となったのは沖縄戦であり、
そのいずれも琉球
・
沖縄の内部から規定的な要として惹起
JAt球・沖縄の!修史と日ふn会
したものではなく
、
もっぱら外部的客観的な要因によって発生した事件であり、
それによって琉球・
沖縄はみずからの態様を他律的に決定された、ということなのである。このような歴史的推移の特質をもっ琉球・
沖縄の史的展開を捉えるに際して、当面の作業仮設として右の五区分法は有効だと考えている。
琉球
・
沖縄史の特質JÎ'- I'�
右の五区分法が作業仮説の域を出ない理由の
つに
、
先述の研究事情により奄美地域の問題が十分こ取りこまれて五
、,、ーー
-
1 6-
ヴi
いない点があげられる。とくに
、
島津侵入事件による分割
・
割譲後の奄美地域の歴史を琉球
・
沖縄史としていかに 位置づけうるのか、実証的
・
理論的な面でさまざまな問題点が 横たわっている。同じく薩摩藩による統治をこうむっ たとはいえ
、
間接的統治方式のとられた沖
縄
・
先島と直接統治方式の適用された奄美
とでは近世の諸状況にかな
りの へだたりがある。
しかも
、
琉球王国にとって「固有の領土」
であったはずの奄美は、
近世の薩摩藩による直接統治の「成果」を前提に廃藩置県後は鹿児島の一地域として確定さ
れ、
今日におよんでいるのである。
しかしながらそのレ
っぽうで、
近代の奄美の各島唄と沖縄との生活上のむすびつきは依然として強く、
また
、
沖縄戦後には 奄美
・
沖縄と もども日本から行政的に分離されアメリカの直接統治下に置かれるという特異な戦後体験を共有している(奄美の日
本復帰は
一九五三年十二月二
十五日に実現
)。
こ のように、琉球
・
沖縄史としての性格と鹿児島史と
しての性格の二
重の性格をもっ奄美地域史を琉球
・
沖縄史の立場からいかに統一的に理解できるか、
」の問題はまだ解決されていな いのである。島津侵入事件までは琉球
・
沖縄史の対象とし
、
それ以後については鹿児島史研究にゆだねる、
とレった
式の旧来の研究の非歴史的傾向は論
外として
、
奄美の歴史を琉球
・
沖縄史と鹿児島史の「谷間」
に置かないためのわ れわれの側のレベルアップが求められているのであるが、
実際にはまだその域に達していない。
したがって、右の五
区分法においてもなお奄美は正当に扱われておらず、
その点でも問題含みの作業仮説であるとのそしりを甘んじて受 け入れねばならない。
右の問題点を確認したうえで、先の
五区分法にもと
づき琉球
・
沖縄の史的展開を総括的に述べる
とすれば、次のよ うになるであろう。
琉球
・
沖縄の島々に住み
ついた人々||こ
の人々が原日本文化
ともいう
べき文化複合の所有
者であったこと
はす
で
に通説となってレるがーーは、
旧石器時代
・
貝塚時代という長い先史時代を経て
、
二世紀頃からは本格的な農耕社 会に突入
し、や がて十五世紀初期
に至って琉球
・
沖縄の各島唄を版図とする自立した国家主
体、
すなわち琉球王国を
成立させるまでになった。古琉球におけるこの王国の形成
・
成立・
展開という一連の歴史過程は、
一六O
九年の島津侵入事件によって終止符を打たれ、
以後は王国体制を保持しつつも本質的には幕藩体制の一環に編成された時代、
いかえると
、
「幕藩体制の中の異国」として近世琉球の時代を歩むことになる。琉球処分H沖縄県設置こ八七九年)の結果、王国体制は解体し、沖縄は近代日本の一領域として確定されることになる(近代沖縄)。ところが、沖縄戦
ご九四五年)を契機に政治行政的に日本社会から分離され、アメリカの軍事的な直接統治下に置かれるようになる
(戦後沖縄)。そして、戦後沖縄の渦中におレて、
沖縄住民の聞から日本社会への復帰を求める運動が広汎に起こり、
さまざまな問題を含みつつも日本復帰が実現しこ九七二年)、今日に至っている。
このような推移を概観すると
、
琉球・
沖縄史の基本的特質として、
まず第一に、原日本文化ともいうべき文化複合を有した人々によって担われた歴史であったにもかかわらず
、
日本列島における歴史形成とは異なり、
みずから独自の国家を成立させるほどの歴史過程をたどった点をあげなければならないだろう。
その集中的な表現が、先史時代と
いう長期におよぶ歴史的営為を前提に登場するところの
、
琉球王国の形成・
成立・
展開という一連の基調によって特琉球・沖縄の康史と日本社会
徴づけられる古琉球の時代であった。第二に、このような独自の王国をもった地域が、近世初頭および近代初頭に惹
つの事件||島津侵入事件
・
琉球処分ーー
を契機に段階的に日本社会の一員に編成された点である。換言す起したれば、古琉球において独自の国家として登場した琉球王国は、島津侵入事件を契機に幕藩体制の一環に措定される従
属的な王国となり、やがて琉球処分によって王国体制そのものを否定され
、
その結果として琉球・
沖縄の日本社会への編成がひとまず完了したのであった。そして第三に、戦後の日本社会からの政治行政的な分離、つまりアメリカの
直接統治を体験し、そのような状況の打開策として、復帰運動に代表される意志表示を通じて日本社会への復帰を選{之択
・
要求し、
問題を含みながら復帰が実現したのである。停車
右の三点にわたる基本的特質は
、琉
球
・
沖縄の歴史を、
というよりは琉球・
沖縄社会そのものを、
安易に日本社会し、
の一部として片づけてしまうことの非を示唆している。
ヤマトとウチナ!
その証拠に、
沖縄県民の間では今日においてもなお、
みずからが生活
・帰属する地域を「ウチナl」、自分自身を
「ウチナ|ンチュ」とし、
沖縄以
外の他の日本社会とそこの住民一般を指して「ヤマト」
「ヤマトゥ
ンチュ」として 区別する用語法が日常生活において不断に用いられている。
このような区別呼称が常用される背景には、
単なる地理
的な距離意識が横たわるのではなく、
歴史・文化
を前提とする重厚な意識距
離が存在する。
古琉球 において日木社会 の枠外で独自の国家を形成し、
二つの事件を契機に段階的に日本社会の内に編成さ
れ、戦後のア
メリカ統治下におけ る住民の選択・要求の結果として日本社会
へ再び復帰した
という歴史的伝統をもつことからすれば
、右のよう
な区別 呼称を多
用し、
ヤマトに対する意識距離をもっ「日本人」が今なお存在したとしても別に不思議ではない。
安良城盛昭は
一九七八年二
月から五月にかけて
NHKがおこなっ
た全国県民意識調査の
デlタに独自の分析を加
え、「沖縄
住民の生活意識
・信仰・経済生活・政治意識等々、多様な側面において、沖縄が、
日本社会を構成する
地域一般に解消しきれない、きわめて独自な地域」である点を立証するとともに、「沖縄
は日本の
一部かどうか、沖
(3)
日常的 に反省をせまられる、沖縄の歴史的H現代的特質が、
沖縄における日本相対化の歴史的必然性を生み出している」と
縄県民は日本人
であるのかどうか、
日本人であるとすればどのような意味の日本人であらねばならないのか
評価した。
安良城のこの仕事は歴史分析の手法としても新鮮であるが、
それ以上に印象ぶかい点は
、歴史
・文化をも 含めて沖縄社会を認識する際の論点を鮮明に提示したことにあったと思う。
(4)
安良城の右の仕事に砕発を受けて、私も参加したある共同研究においてはNHK全国県民意識調査から二O
の項同を拾い出
し、内七都道府県中に占める沖縄県民の県民意識を図に描いてみた。それが図2である。一覧してわかるよ
うに、沖縄の県民性は沖縄を除く四六都道府県H「本土」グループときわだった差違を示している。この図に、先に
紹介した用語法を重ね合わせると、グループI型は「ウチナl」および「ウチナlンチュ」の世界であり、グループ
ElM型は「ヤマト」「ヤマトゥンチュ」の世界、さらに言語の面からいえば、グループI型は琉球方言(琉球語)
の言語圏、グループElM型は本土方言(狭義の日本語)の言語圏であるということになる。このような分析結果を
直視する時、沖縄が日本社会を構成する個々の地域の「個性ある文化一般をこ与えた、きわめて特殊・例外的ともいえ
る地域的独自性と文化的個性をもっており、日本社会の他のいずれの府県にも類例を見出すことのできない、きわめ
て特殊な地域として歴史的に存在していただけでなく、
(5)
域として存続しつつけている」、と
述へた安良城盛昭の指摘の的確さをあらためて確認できる。 一九七八年の現在の時点においてもなお、きわめて独自な地
沖縄をこのような強レ独自性をもっ地域たらしめている要因をどのように考えるべきだろうか。その要因に関して
はさまざまな角度からの検討が必要と思われるが、主因と目されるのは、安良城も指摘してレるように歴史形成の独
gt球・沖縄の歴史と口本村-会 自性にあるといわなければならない。とくに、琉球・沖縄が日本社会と区別される独自の自立的な政治形態H琉球王
国を形成した古琉球の時代が重要な意味をもっと思われる。
吟lll-
nu 円ノ臼
円ノ臼
唯一引 制 一凶 側一伽
一挙大主義性 (第2因子)
-5.0
3.0 3.0
4.0
古琉球とその歴史的意義
異域としての琉球 ・ 沖 縄
先史時代が、考古学の編年上、旧石器時代と貝塚時代(新石器時代)の二段階より構成されることは先述したとお
りであるが、旧石器時代に関しては出土人骨(山下洞人・港川人など)の分析を通じてその形質的特徴が解明された
ほカ、この人々が利器として骨角器を用いていたらしいことなど一定の研究蓄積はあるものの、肝心の文化内容につ
ち ぐ
あカりはる
いては不明の点が多い。旧石器時代につづく貝塚時代に関しては、渡具知東原遺跡出土の爪形文土器の発見によって、その起源が約七O(む年前の縄文早期にまでさかのぼること、以後の文化内容についても九州地方の縄文文化と深い
などの点が近年の研究によって明らかとなった。かかわりをもって展開されたこと、
」こで注目すべき問題が四つある。一つは、少なくとも縄文後期(沖縄の貝塚時代前期)に至ると荻堂式あるいは
琉球・沖縄の歴史と白木村会 伊波式土器に代表されるように、琉球・沖縄の縄文文化が明確に土着化・個性化の傾向を呈するようになり、
は縄文文化の流れとは異なる独自の文化内容を顕著にもちはじめたことである。二つは、たしかに弥生文化の流入は
見られたものの、
ラグlン
(礁湖)を主な採集場とする漁携主体の単位集団の生活を変革するほどの力は発揮できなかったらしいことである。二つ目は琉球・沖縄にはいわゆる古墳が全く存在しないことに象徴されるように、古墳
文化の影響は全くといってよいほどこうむっていないことである。四点目は、琉球・沖縄内の各地域において上記の
日本列島の文化的影響に対して対応の相違が見られることである。たとえば、縄文文化は奄美・沖縄には及んでいる
序苛ーものの「南方的」文化内容をもっ先島には全く届いておらず、同様に弥生文化の波及も奄美・沖縄に限られており、
因子得点散布図の再構成(沖縄県民性の位置)
〔備考〕沖縄地域科学研究所編『沖縄の県民像』ひるき社. 1985年による。
ついに
円べU円ノド日
図2円〆UM円ノ臼
しかも影響の度合は奄美では強く沖縄では弱いという状況が確認されている。以上の点を要約する
と、
先島を除く奄
美・沖縄は縄
文文化として出発していながら
、縄
文後
期から古
墳時代にか
けてしだい
に独自の文化を形成する
ように
ということになろう。
なるが、
しかし、
この間の各地域の文化形成にはさまざまな変差が見られる、
周知のように、
律令制国家形成期の七i九世紀頃には
『日本書紀』『続日本紀』などの伝える南島Jの入貢やヤマ ト国家による南島経営の問題が登場するが、
この時期の南島は貝塚時代後期段階にある島幌地帯であり、
ヤマト国家 したがって、
南島とヤマト国家との服属関係主流動的であ にとっていまだ内固化されざる「化外」の異域であった。
り、けっ
して固定的
・安定的な
ものではなか
ったと理解すべきだと思う
。石上英一が蝦夷・
隼人を例に
あずて指摘し たことになぞらえれば、
南島もまた「日本という国家が国家として成立しているためには当然内固化しておかねばな
(7)
らない辺境の人民をとりのこしていた状況」の一環にあったといってよい。このことは、
ヤマト国家が、
かならずし も日本列島か
ら琉球
・沖縄 に及ぶ今日の
日本社 会全域 に対する統治
権を発揮
するほどの内容を
備えていなか
ったこと を物語ると同時に、
また
、縄文後期以後顕著となる琉球
・沖縄の
個性化に
ともなう
地域的特質
の強靭さ
を指 し示
す事
態であったといえよう。
つまり、
古代において南島は、
ヤマト国家にとって同文同種の民の住む島唄地帯であったと はいえ、
いまだ内固
化されざる化外
・異域の島々であり
、当の南島自身にと
ってもみ
,すからを
一体的な地域として形 成しうる条件をもたない段階にあった、
と評価すべきであろう。
このような状況に終止符を打ち、
南島がみずからの 地域を政治的社会的に自立させる段階として次の古琉球が開始される。
グスク時代H古琉球の開始
先史時代と古琉球の区分期を十二世紀頃と考えるのは、考古学の提示する編年概念「グスク時代」の開始期を主な
根拠とする。グスク時代の性格規
定、
時代幅の設定などをめぐって研究者間で共通認識はまだ得られていないが、こ
」ではグスク時代をグスク土器(あるいはクスク系土器)の使用された時代と限定し、その土器形成の継起的展開
をヤジャlガマB式
(8)
主張にひとまず従っておきたい。なぜなら、少なくとも時代幅についていえば後、
代の文献資料の状況から十二世紀
フ
世紀1十五世紀前葉と捉える安里進の明確なェンサ上層式と規定したうえで、時代幅を十
頃を古琉球の起点とする点に無理はなく、先史時代と古琉球の区分期を」l世紀頃に設定するのが今のところ妥当と
思えるからである。
琉球・沖縄の歴史と日本討会 グスク時代日古琉球開始の時期は、前代の先史時代に比べて現象的にきわだったさまざまな特徴をもつことが知ら
れている。その第一は、炭化米・炭化麦の広汎な出土に見られるように、穀類栽培農耕がこの時期から恥
静め
に開始
されたと見られることである(穀類農耕の起源そのものはこの時代以前にさかのぼる可能性が強い)。第二に、万子
をはじめとする鉄製利器がこの時期から盛んに用いられはじめたことである(鉄器文化の起源もこの時期以前に
のぼるらしい)。第三に、広汎な分布を示す須恵器(研究者により類須恵器・須恵質土器ともいう)が各遺跡から大
量に出土することである。第四に、中国陶磁がこの時期の遺跡から出土しはじめ、以後時代が下るに従って出土量が
序市・」たは「グシクま」に「グスク地域三先島の・沖縄美奄を起点に時期のこ、第五こ。るであ著しなりはじめることく ち、 ph.u 円4 A品anノ“
「スク
」
と呼ばれる施設が広汎に造営され、琉球・
沖縄をいわゆる「グスク文化圏」と一括してもよい状況が生まれあんじよ (按司)、チャラ、ティダ、世の主などさまざまな呼称をもっ首長層が各ることである。第六に」の時期にはアヂ ぬL
地で発生したと見られ、それにともない各首長をリーダーとする小規模の政治的勢力圏が形成されていたと考えられ
ることである。第七に、この時期の遺跡が主に石灰岩台地や丘陵もしくはその緩斜面に立地し、天然の湧水に依存す
(9)
る小規模の迫田形式の水田が登場するなど、全体に土地利用形態に変化が起こった、と見られることである。右に述べたような複合的な現象がいかなる契機によって発生したのか残念ながら不明であるが、研究史のうえでは
日本における古代から中世への移行にともなう時代変化の影響を何らかの形でこうむったのではないか、と想定する
傾向が強い。その当否は今後の研究の進展によって解決されることと思うが、たしかに穀類農耕といい、鉄製利器と
日本列島の動向をぬきに琉球
・
沖縄へのこれらの文化の展開は考えられない。須恵器にしても、徳之島のカムイヤキ古窯群の発掘によって琉球自作説の可能性が強まったとはいえ、依然として日本の須恵器文化の影響を念頭に
置く必要があるなど、総じて北からの文化的規定を一つの契機として古琉球の開始を検討すべきである。しかし、そ
れと同時に、中国における動向とその影響、といった視点および先史時代の蓄積とその帰結としての古琉球の登場、
を看過すべきではないと思う。なぜなら、古琉球を生む背景は日本
・
中国を中心とする東ンナ海によって結ばれた諸地域|環ゾナ海世界|の動向の中にあり、同時にまた、長レ先史時代の営みの帰結に求められると考えるからで
ある。かつて新里恵二は一九五
0
年代の日本歴史学界における時代区分論争に学んで、「大体の見当では、沖縄の歴史は
、
日本本土の歴史にくらべて、最初の出発点で、
ほぼ十世紀ないし六世紀、
平均して約八世紀ばかり、
遅れていた」とし、「沖縄の歴史に見られるこういう立ち遅れと後進性の原因」を考えることこそ、「沖縄史を学ぶ者が、いつも根
(川)
本的な疑問として念頭」に置くべき条件の
つでなければならないと力説した。
新里のこの意見は稲作農耕の開始や 鉄製利器の使用、
あるいは
また「政治的支配の発生」や「国土の統ごなとといった指標を比較して得たものである
カL
同時にまた、
その歴史認識の前提に
、
あらゆる個々の社会が奴隷制的
l
封建的|
近代ブルジョア的l
社会主義的発展段階をたとるはずだとする濃厚な単線的社会発展段階論を置いてい
る。百歩譲って、
新里のいうように日本に比
べて琉球
・
沖縄の歴史の「出発点」が「平均して約八世紀ばかり
」遅れ
、
ために社会的な「立ち遅れと後進性」がそ の後の歴史において現出したとしよう。
では
、
何故に、
クスク時代になってやっと本格的な穀類農耕の開始と鉄製利
器の使用
が展開したにすぎない琉球
・
沖縄において、
その後急速な形で独自の国家、
すなわち琉球王国形成に向って
歴史形成の速度は速くなるのであろうか。
この疑問に答えるためには
、
ある特定の社会における単線的な社会発展段階に目を奪
われすぎる態度をひ
とまず捨て去り
、
当該社会を包む国際社会の存在を直視しなければならない
。つまり
、
歴史の「出発」が遅れた社会ではあっても、
その社会の内部変化とそれを取りまく国際社会の動向が相乗的に作用す
るならば、その社会は急速な歴史的展開を示すと考
えるべきではなかろうか
。
グスク時代の開始、
いレかえると古琉
琉球・沖縄の歴史と日本fl会
球の登場とはまさしくそれであり
この時代的転換の規定要因として次に述べるような環シナ海世界の動向こ着目す べきだと考える。
転換の契機としての国際社会の動向
序章
グスク時代H古琉球開始期の特徴のうち
、
穀類農耕の展開と土地利用形態の変化および鉄製利器
の使用など