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琉球王国史の基礎的研究

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

琉球王国史の基礎的研究

高良, 倉吉

https://doi.org/10.11501/3065585

出版情報:Kyushu University, 1992, 博士(文学), 論文博士 バージョン:

権利関係:

(2)

38 (日)琉球の対外関係については小葉山淳『中世南島通交貿易史の研究』(初版一九三

九年

、増補版一九六八年、

万江脅院)、

東岡山納完惇『裂明期の海外交通史』(一九四一年)、

安男延『沖縄海洋発展史』(初版一九四一

年、

復刻版一九六七年

、琉球文教凶ふさ、

田中位夫『中世対外関係史』(東京大学出版

会、一九七五年)な

どのすぐれた成果があり

、日以近では十共栄平一房昭ご五・一六世紀における琉球

H東南アジア貿易の睦史的 位置」(『琉大史学』引二一号、一九八一年)、

同「琉球日京市アジアロ劫の民間と華僑

社会」(『九州史学』

第七六号、一九八三年)などの新しい成以が交場している。なお、机裂については拙著『琉球の時代』第

三官を参照。

(ロ)『地域と文化』第二ニ・一四合併号、一九八二年。

(日)同右第一九日守、

一九八三年。

(M)以下に述べる古琉球研究の潮流については拙稿「古琉球研究の方法||自分へのメモワlル」(『地域と 文化』第二五号、一九八四年)を参照。

古琉球とその概念 第一

第 辞令書と琉球王国

辞令書の変遷とその意味

1

辞令書の構成要件と研究史

辞令古の変遷とその意味

辞令書(辞令あるいは辞令文書)は今日の社会において

も広く用いられる公的な任職文

書で

ある

が、

ここでこの公文書のもつ一般的な性格につ

いて考えておきたい。辞令書

には

少なくとも四つの構成要件が必要であろう。それは、「いつ」「誰の名において」「誰に」「何を賜うか」という要件である。文書の時制的効力を特定するために必要な「

いつ」を発給年月日、

39

文書のもつ効力を保障するために明記される「誰の名において」を発給者、発給者から文書によって

指示された事項を受ける「誰に」を受給者、

そして文書において指示されたとこ

ろの事項である「何を問うか」を給与内容と称すると、辞令書とは、発給年月日、発給者、受給者、給与内容の四つを基

(3)

木的な構成要件として成立する公文書であるということになる。

その場合、

辞令書に直接記載される 40 ことは全くないのであるが、

発給者と受給者との問には、

個人的な関係

ではなく特定組織内の社会的 辞令ぜ?と琉球王問

関係が存在すること、

発給者は給与内容を受給者に対して保障しうる権能を有していなければならな

いこと、

受給者は給与内容を自由に変更しうる立場にないこと、

したがって、発給者と受給者との関

係は特定組織内における上下関係を含むこと、

などの点が一般に前提とされている。

このように一般

化して考えてみると、辞令書は、

ある特定の組織内の諸関係を反映する公文書であること

をあらため

第二て確認することができると同時に、その文面に記述された内容、

つまり前述の四つの構成要件はいう

までもなく、

記述されざるところの辞令書が前提とする新状況をも含めて検討するならば、

当該組織

の特質をさぐる貴重な手がかりを秘めた文書であることがわかる。

実は、古琉球から近世琉球にかけて存続した琉球王国において、辞令書が重要な怠味を市ぴて用い

られていたのである

。琉

球王国における辞令書の多彩な活用状況は筆者の知る限り日本史・開界史レ

ベルで見ても異彩を放っており、琉球王国の特質をみごとに反映しているように思えるのである。し

たがって、辞令井を素材として王国組織の内而を捉えることが琉球史研究の基本的な課題の一つとし

て横たわっているのであるが、研究史を同一服する時、琉球王国における辞令書の問題はそれ相応の評

価を与えられてはこず、研究成果もまたきわめて之しいままに推移してきたとの感を否めない。

研究史の中から日につく成果を挙げるとすれば、わずかに伊波枠猷・宮阜一栄輝・仲原菩忠・渡口真

百f令�Tの変l!lとその古味

清・山田尚二らによって苦かれた辞令書に関する論文であろうと思う。伊波旭川猷は「古琉球の『ひき

制度」について」(一九三五年)や「庫邦.について」(一九四O年)の中で、辞令書中に登場するヒキお

よび障理の用語について初の本格的な検討を加えている。宮里栄輝は「琉球古来の土地反別法」(一

九三七年)を発表し、その中で辞令令中に登場するカリヤ

・マ

シ制、ヌキ・オホソ制で表示さ

れる

(4) 球独特の丈量制H「土地反別法」に本格的な論究を加えた。仲原善忠は「田名文書に

おど

ろ 的群H田名家文書の史料脊る辞令わ年麻姓田名家に伝、き書)を(一九六四」解書試文「、五七年)九田名 (5) 」(一く

(7)

価値を力説した。渡口真清は「回名文書とその周辺」(一九五九年)、「位階称号と筋目」を書き、その

(8)

中で辞令書に関する若干の解釈を加えた。そして山田尚二は「中世ノロ文書の紹介」(一九六七年)、

「奄美の古文書」(一九七一年)を書き、奄美地域の辞令書に関する初の本格的な紹介・検討をおこなっ

ている。これら先学たちの研究は、等閑視されてきた辞令書に着目し、その史料的意義に具体的な論

究を加えることによって

、辞

令書研究を、琉球史研究の課題にまで押し上げたという点で研究史に残

る貴重な仕事であったということができよう。とくに、伊波「古琉球の『ひき制度』に

つい

て」、宮

旦「琉球古来の土地反別法」、山田「中世ノロ文書の紹介」の三本は辞令害研究史にひときわ輝く大きな仕事であった。

41

一九七0年代以後の辞令書研究の新たな動向は、右の研究成果を継承し、そのうえでこれを批判的

に総括することからはじまった。批判のポイγトは三つあり、一つは先学たちの研究が琉球辞令舎の

(4)

全体状況を把握したうえで論議されたものではない

こ と(たとえば、伊波・宮里・仲原・渡口の研究では

42

の辞令官一日が念にな逆に山田の研究で沖縄先島両地域の辞令書が基本的にカウンに入ってい

辞令書と琉球王悶 い て 二つ日は辞令書の成立する構成要件を含めてこれを構造的に分析する視点や方法をもたなかっ

たこと、三つ日は上記二点からいえることであるが、結局のところ辞令書のもつ史料的意義を深いレ

ベルにおいて位置づけられなかったことである。一言でいうならば、辞令書の全体状況の把

握、

およ

びその総体としての史料的価値を見出すほどの段階に達しえていないのである。

第二

2

研究の新しい動向と特徴

昨令書研究の新たな段階を切り拓いたのは、沖縄大学に府を置いて琉球史研究の集中的な検討をお

こなっていた安良城盛昭であった。安良城は

一九

七六年九月十七日、伊波普飲生誕百年記念事業の一

環として開催された講演会で「沖縄史研究の諮問題」と題して講演し、その中で近世琉球の石高をめ

ぐる問題、近代沖縄

の に価値料的史の 書そ、げありとを問題の令に問る辞おけ琉球古、にととも問題の期」慣温存「 つい て注目すべき問題を投げかけた。安良城は、古琉球研究の同時代史料として『おもろさうし』、冊封使録や「李朝実録』などの外国

史料、それに「原代宝来』の三タイプはよく知られているものの、これに辞令書および碑文のもつ価値を明確につけ加えるべきだと力説し、従来の研究に

おい

ては「辞令書が、古琉球研究のための第一

級の史料であるというようには、

それほど価値のあるものとは」認識されてこなかったと批判した。

そして、

ノロが 生泥独身だったという説が何ら根拠のない謬見である点を辞令書が明確に教える

こと、

辞令書に登場する丈量単位は「度量衡と階級閣係という大変大きな普遍史的な問題を解いてゆく手掛 かり」を

秘めていること

十七世紀後半に向

賢によって主旧

された日山

同机論の前提となる状況

辞令許の

表記形式が示唆して

いること

、などの具体的な例証を示しつつ

、辞令市一日研究の必要を説

いた

のであった。

辞令苫の変遷とその意味

安良城の右の辞令市川に対する捉J一一円は、

氏の砕令唯一日理解のほんの総括的所見を示すにすぎなかったこ とがその後の研究活動によって明らかにされてゆ

く。

津竪白仰の地別制度遺構の実地調究にもとづく論 (日)文「地別制度の遺構 としての津

川島

の灼間担州

地形態」(

一九七七年)

、波口真消の旦

主所理解に痛烈

な批判を

加えた論文「古

琉球の「

さとねしと

に叫ん』

」(一九七八年)

などに代表

されるように

、安良一城は

辞令許の吟味を通じて、+口琉球における土地制度の基本的状

況お

よびそれ

にかか

わる地割制度の起源 につい

明快な展望を提示したのであ

る。

それまでの研究にお

いて、不分

明とされてきた古琉球の

地制度や地割制度の起、源の問題に対し、辞令市一什が史料

としてい

かに有効であるかを具体的に開示する とともに、

同時にまた、

辞令令官を通じていかなる歴史状況が展望できるかを具体的に描いてみせたと

)ろに、安良城の

仕事

の真骨頂があった。

さら に安此城は、奄美地域から先山地域におよぶ琉球全域

43

上江洲敏夫

をまとめ役とする古文

書調査団

の活動とも提携して、辞令の辞令 丹調査を企画

・指導し、

(5)

44

書研究に画期をなす報告「辞令書等古文力調究報化

山部

(一九七九年)を生む力にもなったのであった。このように、

安良城は辞令書研究に新時代を画する問題を提示して研究状況の刷新を凶ったのであ

辞令曹と琉球王国

るが、

その提案・成果に学びつつ筆者も辞令井研究に取り組むよ

うになり、若干の仕事をこれまで発

表してきた。「古琉球辞令市Uの形式につい

」(一九七八年)において確認できる全辞令丹をもとに形式

的な分類をおこない、

形式上の異同が生ずる理由・背景を考えて

みた

。「古琉球的耕地沢一分の

札制

」(一九八二年)では近世の耕地民分の基形が古琉球にお

いてすでに成立していたことを辞令丹に基づい て検討し、「多良川島の辞令許とその背景!妥社会における近世的転換の一

」(一九八六年)においては昨令書の変進

出入の渦中にな湯する過渡期静令書の問題を論じてみ

た。また、「琉球主同におけ

(げ)

る王府制伎の特質llm令内に見るヒキと店周に関する党計」(一九八七年)では、辞令丹によって古

第二

琉球における王同内部の制度的訪状況(とくにヒキと咋刊について

)を

いかに展望

でき

るか

試論的に提示してみた。

安此城盛昭の問題提起以後、

たしかにまだ不十分な点も多々存在するものの、

辞令芹は琉球史研究の有力な史料として再認識され、また、

辞令市刊をめぐる論議についても辞令拝の全体状況の把握のう えに立っておこなわれるべきことが門明の理となりつつあり、

さらにまた、辞令書文而の解釈のみで

なくその成立根拠をも含めて椛造的に検討する視点が必要である点が了解されつつあ

る。こうした新しい研究動向においては、琉球王悶史の展開に即して辞令存をどのように位置づけ評価できるかとい

う問題と、

辞令書に反映される諸状況を通じて琉球王国内部をどのように捉えるかという問題とを統

一的に理解し、

この二つの課題に向って辞令書の史料的可能性をどこまで活かしきれるかが基本的な

目標となりはじめたのである。

3 辞令来日とその形式

琉球主国時代に発給された全辞令書を総称して「琉球辞令書」と命名すると、琉球辞令市一けは形式上三つのタイプに医別できることがすでに明ら

かと

なっている。「古琉球辞令害」「過渡期辞令書」「近世琉球辞令占」の三つがそれであるが、何はともあれ、それら三タイプの辞令軒の代表的な例を左に

辞令書の変遷とその意味

紹介してみよう。

(出)

肘波山川船タカラ丸官A掛け職叙任辞令書(一五二三年)しよりの御ミ事 一人しほたるもいてこぐに せいやりとミがひきの たから丸がくわにしやわ 回たうへまいる

45

回たまわり巾候

(6)

辞令子?と琉球王同 46

被lf17船タカラ丸T守f?f時代n:辞令lt- 2平令1}の変遷とその意味 第二

47

しよりよりしほたるもいてこぐの方へまいる部靖二年八月廿六日

川刊尺政ノロ職叙任辞令書三六二五年)

行旦の御ミ郡岬

回はねじまぎりの

店がのろハ

もとののろのうまが

回一人おとうに たまわり巾候 (天)口円五年同月竹口

(却)

肋八市一山日符山岳山職叙任辞令書(一七七五年)

計旦之御前

回八章一山鳥羽常良

大打民大尺子者

長栄氏桃原与人

回十μ般衿之

(7)

乾隆四十年乙未九月廿六日

48

せいやりとみ

.く的は現存する最古の辞令丹で、

渡円船タカラ丸の官舎職に勢泣富ヒキのシホタルモイ文子を任じた もの、的は羽地問切の足我ノロ職に元のノロの孫(「うまが」は琉球方言で孫の意)オトウを任

じたもの

ゅんちゅ例は八重山島の宮良頭職(その称号を宮良大肯旦大垣子という)に長栄氏の桃原与人を任じたものである9 右の例示歩二見すれば明らかなように、同じく琉球辞令書とはいっても、例l切の問には表記上明瞭

辞令書と琉球王国

な具同のあることがわかる。まず三者に共通する点を挙げるならば、辞令書の口頭が首里の御訊で始

第二まること、朱方印「許旦之印」が上部左右に押印されていること、年号に中国元号が用いられている

こと、などの点が確認できる

。三

者が相違する点は、まず第一に、肘、的がほぼ完全な平仮名表記で

あるのに対して例は完全な漢字表記になっていることであろう。

第二に、的、制には受給者の限定句であるご人」が入っているのに対し例では欠けていること、

例には「しよりよりしほたるもいてこぐの方へまいる」といった文句が見られるのに対し料、例では

(れ)完全に欠落していること、開、

制で

は年号表示に干支が登場しないのに対し例では登場していること、

などの相違点に気づく。説明するまでもないと思うが、併が古琉球辞令書、例が過渡期辞令書、例が

近世琉球辞令軒であり、右に指摘したように、三者はそれぞれ共通点・相違点を含みつつ、形式上相

互に灰一別されるべき特性を有していることがわかる。

注目されるのは、右三タイプの辞令書は、ある特定の時代に同時併行的に用いられたところのもの

ではなく(したがって、ある特定の時代における辞令存のパリエlショソを示しているのではなくて時系列で

見ると、

まず最初に古琉球辞令許が用いられ、

その次に過渡期,M令書が使用され、

そして最後に近世

琉球砕令古が用いられるというように、

各辞令書が明確に時代を異にしながら継起的につながってい る点である。いいかえると、

もしある辞令書の年号表記に損欠が見られたとした場

合、その辞令古の

表記形式によってどのタイプの辞令書に属すかを特定できると同時に、

該辞令書がいかなる時代範凶 を含むかがたちどころに判明することである。

さらに注目されるのは、

古琉球辞令押と過渡期辞令当 を区切る画期が万暦三十七H慶長十四年三六O九)に惹起した島沖位入事件であること、

過渡期辞令

舎と近世琉球辞令書を区切る年代が琉球における近世体制の確立を目指したあの向象賢の摂政就任直 辞令11J:の変遷とその意味

後の康照六年(一六六七〉であること、

また、

近世琉球辞令書の終了が琉球王国の解体を告げる琉球処

分期に相当すること、だろう。つまり、

琉球辞令書の継起的変遷といった場合、

それを医切る画期は

いずれも市一要な政治的社会的事件であったという問題が横たわっているのである。

4

辞令書を玄切る論理と年代 本苫の巻末に付録として掲げた「残存古琉球辞令書一覧」に示したように、現時点で確認できる古

49

三十七年三六O九)二月十一円付発給の名瀬間切丙の里主職ま任辞令

書であり、

過渡期辞令存の最初は同四

十年三

六二一)十二月〔欠〕日付発給の今帰仁間切謝花錠職叙 琉球辞令hpげの最後のものは万

(8)

50

任辞令書である。

両者はわずかに三年ほどの歳月を隔てる

のみであるにもかかわらず、

形式が古琉球

辞令書から過渡期辞令書へと明確に変転している。

しかも付録中の過渡期辞令書のリストを見ると、

辞令3とffit球王国

奄美地域からは一点の過

渡期辞令書も確認できないのであり

、この

地域が過渡期辞令持段階以後辞令

市川問内からいき

なり遠のいていった事情が推察できる

。以上の状況に加えて

、古琉球辞令需の最後である先の名瀬川切西の旦主職叙

任辞令書の発給月日が

二月十一日、つまり島津侵入事件の直前の時点で

ある点を考え併わせると

、古琉

球辞令書と過渡期辞令書の

分岐点が薩摩平による伶略事件であった

第二

」とはまちがいないところである。

現段階で確認できる過渡期辞令告の最後は康照二年

(二ハ六三)の読谷山間切城ノロ職主任辞令書、

近世琉球辞令判中で故初のものは同十年(一六七一)の儀問盟主所給賜辞A

K初であるから、両者の問に

は八年の削りが横たわっている。

この八年間のいずれかの年に泊波則辞令書から近世琉球辞令書への

転換がおこ

なわれたことはまちがいな

いところであるが、では、

その年代は、どのようにして特定でき

るのであろうか。

ここで注目したいのが「球陽』巻六、

尚質王二十年(一六六七)の条に掲げられてい る次の記事である。

往告の世、立賊市一軽を論ぜず、

古川州を授川附するに

、則

ち御朱印を以てす。

今年改定して、金奉行-以間半行・螺赤頭奉行・勢頭・筑登之・諸政役人・籾μ世役人・問役・店主部・久米村錠・那制大筆者・協筆者・訪郡酋長・錠・日差・祝女・三平作事提・太平山、八重山脇行里大尼子・

(幻)栄良比等は、{日職を授くと雌も、

御朱印を授けず

、高官・市一職に擢んづれば、則ち此の印を賜ふ。

右の記事によれば、

作北口よりこの年までは賀賎軽前一を問わずπ職を授ける際にかならず御朱印H辞 令升を発給するのが引

例となっていたが

、この年より大幅に改定さ

れて金奉行以

下の椛職・一卜官の任

その者が前一般・百円にのぼ 職にあたっては役職への叙任はすれども辞令杵は発給しないことになり、

つまり、辞令44hの発給範聞を

る時にのみ辞令官けによる任職をおこなうように変更したことがわかる。

辞令書の変遷とその芯味 表II-1 近世琉球辞令書の発給状況

51

里主所・知行高の下賜(地頭叙任含む)

也空!竺 I

32件

按司掛の下賜 |

三司官職の叙任 |

問符大nn決の叙任 |

名品の下問 I 6

奉行職等の叙任

I

2

大夫職の叙任

I

2

顕臓の叙任

I

18

大阿母職の叙任

I

2

大出子(夫地問)職の叙任 5

"""

'()-

ト四・

注) n平令書等古文書調査報:I-J古』所出の分に拙 稿「伊江家辞令苔について」の紹介分を加えた

もの。

著しくせばめたのであり、

このことは琉球辞令書の歴史 にとって間期的な改訂であったといっ

て よい。「琉球国 由来記』巻二の記す記事、

すなわち御印判日辞令書は納

殿にて認めて

いたが康限

六年正月十八日

より御右筆が古(M) くよ

うになった、とい

うのも右の発給範聞の限定に関連 する措置であったろうと忠われる。

「辞令書等古

文害調査報告書』所哉の分四九点に伊江家辞令書二一点 実際に近世琉球辞令書について見

ると

を加えた都合七O

点の発給状況を整理す

ると表Ellに

示した通りであるが

、たしかに古

琉球辞令井・過渡期辞 令書の段階に比べると任職範聞に大きな相違点が横たわ

(9)

52 っていることがわかる。たとえば、過渡期辞令書の時期まで発給範囲に含まれていたところのノロ・

日差・与人・首里大屋子などが表E11に登場しておらず、『球陽』の右引用記事が述べる

うに

軽職・下官に対しては任職はすれども辞令書を発給せず、という拘置が現実のものとなっている事態

辞令書と琉球王同

を確認できるのである。

右のような施策の転換とそれを支える論理を考える時、康照五年(一ムハ六六)十一月王国最高の政治

ポストである摂政の地位に就任し、同十二年(一六七三)十一月退職するまでの七年間、古琉球的原理

の否定H近世的原理の確立を目指した向象賢の存在が浮かび上って

し列

。辞

令書の発給範間H受給者

第二

の限定によって登場する近世琉球辞令書は、彼の施策の一環としておこなわれた改定である可能性が

強いのである。そのことを立証する明確な根拠は今のところ見当らないが、たとえば、彼の施策の骨

子を伝える『羽地仕置』に「若里之子座之儀、当若旦之子・勢頭・筑登之と申候て、京旦之子は筑登

之座敷より位上-一て候処、下座仕侯儀、不レ可レ然候問、此節より、筑登之

り上座ニ刀い成候軒」よ (

(原漢文〉とあるように、向象賢は王府内における序列と若座の関係が暖昧な状態になっている現況を

改訂し、明確な基準を設定しようとしている。また、「普代筋口之衆ハ、新間切衆中或ハ新参

衆、

此中同位ハ歳次第座仕候得共、此節より相改、普代筋口之衆ハ可レ為一一陸上一候。其外、細工上り、町上り、田舎衆中

if

内上りは歳次第-座可レ仕候。附、諸人筋日之儀、公儀一然と不二相知一候問、各系図仕、可ν被一一差出-俣」(原漢文)とあり、譜代筋目の序列上の優位を力説し、筋目を明らかにするため

に諸

士に対して系

図の作成・提出

を求めている。

このように、身分・役職・位階

上の序列

を明確にし

たうえで、序列に応じた規

定を設定

しよう

と図 った向

象賢 のこの 施策と、身分・役職・

位階

上の序列

に関係なくいかなる任職に際しても辞令存を発給してきた過渡期辞令詐段階までの論理とが矛盾・対

立し、

前者が後者を退けてしまうところに、

過渡期辞令書と況世琉球辞令店を反切る論理を見出す

である。

したがって

、『球陽』

のいう

発給範閲の限定がおこなわ

れた康照

六年 (一六六七〉をもって

そのまま二つの辞令書を区切る年代とすることが妥当と考える。

たしかに

、古琉 球から近世

琉球への時代的転換の契機は応

津位入

事件に求めら

れるのであるが

、し 辞令,'fの支辺とその立味

かしながら、

古琉球的原理を近世的原理に組み換える作業そのものは向象賢路線段階において木絡的 に実施された。

古琉球辞令品川いから過渡期辞令主への転換、

過渡期辞令書から近世琉球辞令』への

転換

とは、

古琉球から近世琉球への段断的な転換点にそれぞれ照応

していると見なければならない。

5 辞令書の変遷と王国の変遷

周知のように

、明治五年

(一八七二)政府は胞児島県を介して

琉球の入朝を促し

、これを受け

て主

が維新底究使を参朝させたとこ

ろ、

同年

九月十四日付で維新政府は琉球王国を「琉球藩」

とし、

国王

尚泰を「琉球滞王」に封じ草族に列する旨の詔文を下した。

この「琉球藩」の設置以後、

政府は台湾

53

出兵などをからませながら琉球処分を本格的に推進し、

同八年(一八七五〉には松田道之を処分官

に任

(10)

54

じて案件を主管させた。

松田はいたずらに難行する局面に臨んで、

琉球側の反対、中国側の抗議を度

外視する形で、ついに警官・軍隊を動員し同十二年(一八七九)琉球処分を断行して「沖縄県」を設置

仁認

。こ

の事件

により琉球

王 国けだにお程のそはが、したわ体解に的終最過いて辞令書もまた

主 国と

述命をともにした。現存する近世琉球辞令古の最後のものは、

管見では同治十三年(一八七四)九月十 二日付の尚氏伊江王子朝直に加増知高二OO石を給賜した一枚であ

る。同年八月二十九日付の宮古島

平良

川 切頭職

叙任

の一枚と前年

九月十四

日付の美盟問切

伊波旦

主所

給賜の一枚も存在するので、

同 治

辞令書と琉球王国 第二

三 H 明治 七年頃までは辞令書発給業務が

なお 継続していたのであり、松田道之

の琉

球処

分官就任

よび彼を中心に処分作業が本格的に推進される明治八年から処分に至る同十二年までの閥、

いいかえ

ると

、琉

球王国が激しく動揺し解体していく渦中において辞令書の歴史もまた終止符が打たれた、

推定される。

三タイプの辞令書を区切るそれぞれの画期を検討すると、琉球辞令書の継起的変遷は王国そのもの

の変遷とみごとに

照 応しおてり

、琉

球辞令書の歴史がまさしく琉球

王 国の歴史の

不 可分の一環をなし

ていたことがわかる。

次に、琉

球辞

令書の

分布状況

を見ると〈付録参照)

古琉

球 辞令書は奄美・沖縄・島地先の三

域令体 にまたがって発給されたためこれら三地域に共通に残存するが、過渡期辞令書・近世琉球辞令丹は沖 縄・先島両地域にのみ限られ、奄美地域には分布していない.この事実は、古琉球辞令普段階までは

三地域のすべては琉球王国の版図であり、過渡期辞令書段階以後奄美地域が王国の版図より分割され

院摩藩の

広帖

領になった、という同知の事実に

照合 しているのである。古琉球辞令書・過波期辞令引いが琉球内の各島帆に比較的よく分布しているのに対し、近世琉球辞令 みひ ら

舎は沖縄島では町方(首里三平等、那覇、久米村、泊村など諸土・門閥の集住した都市部のこと)、先島

地域

では諾士の集住地であった平良三箇・石町四簡などに分布が偏っている点にも注目すべきである。た

とえば、過渡期辞令書は宮

古の

多良間島に四点

、 今 帰仁

間切に二点、羽地間切に二点、読谷山間切に

一点、中城間切に二点、渡名喜島に二点それぞれ残存しているのであるが(付録参照)、しかし、これ

らの地方・島艇から同様に近世琉球辞令書が見出されることはありえないのである。重職・高官の任

辞令J::の変遷とその意味 職に際してのみ辞令書を発給し、軽職・下官の任職に対しては任職はすれども辞

令書

は発給せず、

いう近世琉球辞

令書 の論理が受給者の範囲を著しくせばめてしまった結果の

反映

を、そこに見出すことができよう。

辞令書発給の範囲を限定した近世琉球辞令書段階の論理はまた、古琉球辞令書・過渡期辞令

書段

5S

に比べて辞令古そのものの帯びる価値を著しく形式化、

低下させる結果を招き、これにかわる日入居編成のあらたな論理、すなわ

ち系図家譜に基づく身分制を前提とする組織化の論理を浮上させること

(辺)になった。辞令丹的編成から系図的編成へ、とも称すべき王凶における官人層制成の質的転換に述閃して、近刊琉球辞令書は登場している。たとえば、多良間島に残る四点の過渡期辞令守(付録E|6・m-

(11)

56

申んちゆみんなu・日)は、多良間島統治の要職であった多良間首豆大屋子、仲筋与人、仲筋目差、水納目差、イル イ筋日差の各職に同島出口の有力者を任じてきた古琉球以来の制度的状況を伝えるのであるが、康照

辞令i'iと琉球主同

十七年三六七八)の恩納親方の仕置によって暖役人が旧来の終身制から三年交替制へと大幅に改定さ

れたために、右の職は多良間出身者が円動的に就くべき役職ではなくなってしまい、以後は系図家譜

的な論理によって編成されたところの訪士の集住地である平良三箇のエリート層たちの三年交替制の(お)ローテーションポストに転化してしまうことになる。軽職・下官の任職に辞令書が発給されなくなる

こと、唆役人制度が改訂されたこと、この二重の意味において多良間島から近世琉球辞令書が発見さ

るれことはない 第二

。 近

世琉球辞令書とは、こうした近世への転換を背景に成立してくるものなのであり、

その結果として、辞令書そのものがみずからを完全に形式化してしまった段階を指し示すのである。

したがって、史料的価値の点からいえば、琉球辞令書の価値は時間の推移に反比例することになる。

以上に述べたことによって、琉球辞令書の変遷とその背景が判明したと思うが、そこでいよいよ、

尚真王期を起点とすると見られる琉球辞令書の陀史の中で最も史料的価値の高いもの、すなわち、古

琉球辞令吉に焦点をしぼり、この史料を古琉球後期像を描くうえでどう活かせるか、という本書の主

題にとりかかってみたい。

古琉球辞令舎の形式をめぐる諸問題

1

古琉球辞令占の分類

古琉j求砕令』の形式をめぐる諸問題

古琉球辞令荒川は、その記載形式からいって大きく二つのタイプに分類できる。(例)

伸瀬戸内丙間切の丙の大尽子職叙任辞令書(一五四八年)

しよりの御ミ事

回せんとうちにしまぎりの

にしの大やこハ

一人ひがのしよりの大やこに

回たまわり巾候

しよりよりひがのしよりの大やこが方へまいる

京靖二十七年十刀廿八日

57

ひが右の砕令乃は、奄美瀬戸内向間切の阿の大民子職に、これまで瀬戸内東間切の汁里大屋子職にあっ

た人物を任じたものである。この場介、発給年月日が山知的二十七年十月二十八日、受給者が「ひがのし

(12)

ろ給者は誰なのだ発、では、と思うが明を任である点は説な要しい大切の丙の叙子)職屋問 58 戸内瀬まぎりのにしの大やこ」(し国給与内容が「せんとうちに、こ(や」よりの大東間切の首大屋子)里

かう

。「し

よりの御ミ事」「しよりよりひがのしよりの大やこが方へまいる」の文句に注目

るす

と、辞令書とは

)「しより」(、くいうまでも首里な之印」である点も発給者が「打旦」であることを示唆している。辞令書と琉球王同首旦「右の判形が朱方印部左、。た旦上」まになるとれる存在であるこ称さしより(許)ともなく「れ 発給者はまぎ、よとり受給者に及ぶれ表現さるので御」(計里)の「しより詔「しより」(首里)、であり

、したがって。られた語として用い義の同王府転じて王頂点たる国または王府のうに、るよき推定で

(お)

第二詩史料より、代、同時にまた王都の核をなする王宮首里城の名詞であるが都名でありの王同王球琉は

右辞令書の発給者は国王である、という結論を導き出すことができよう。

古琉球辞令41hの今一つのタイプは、次に紹介する下地の大首里大屋子宛辞令書によって代表される

ものである。

同下地の大首旦大屋子宛辞令書(一五九五年)

しよりの御ミ事

回大ミやこまぎりの

もとのしまじりのしよりの大やこがちのうちより こか

りやたに十三まし

あかっちはる又さちはる又たまちゃらはる又いちへミちやはる又かニたてたはるともニ 又百ぬきちはたけ六おほそ

ま大はる又しろいはる又

うし

はる又なるかわはる又もい

くぽ

はる又

円U

はるともニ

七人のすかまぐちたわら 回又

はら

わく

人がなかすよりの大や

がま

又まづL

りのわく

こな

一人が一すかまづL給候

二 古琉球辞令書の形式をめぐる諸問題

」のぷんのいろいろのミかないハ 御よるしめされ俣 これよりほかにしまくにの人のてまづかい又とりあわ物しめてゑりハ御きんせいにて侯 固一人しもぢの大しよりの大やこにたまわり申候 しよりよりしもぢの大しよりの大やこが方へまいる 万暦二十三年八月廿九日 右の辞令書(写真参照)は発給者(琉球国王)の名において大宮古間切の下地の大背里大屋子(受給者) に与えられたものであるが、一見してわかるように先の仲に比べて長文である。一定規格の唐紙(き

59

一枚に記述される同タイプに比較すると右の同(388×∞雪国

)は

唐紙二枚を横につない

だ大きさであり、そのため上部巾央のつなぎ目に今一つ朱方印が押されるなど、判と側の相違は規格 88×ちS)

(13)

辞令書とるítf;j(王国 60

第二 下地の大首里大

古琉f;j(辞令書の形式をめぐる諸問題

61

を一見しただけで明らかである。しかし、それ以上に重要な相違点は、給与内容の面で両タイプの違いがとくにきわだっていることであろう。同の辞令書の大意は、元の島尻の首里大屋子所領の田畑から三カリヤ(一三マシ)の田と一O。ヌキ(六オホソ)の畑の所領を許すこと、また、七人のスカマグチを与えるとともにナカコハラ(地名か)のワクコナ衆(意味未詳)から一年に一人につき三スカマずつ、行旦大日子所轄の間切のワクコナ衆から一年に一人につき一スカマずつの夫泣を許すこと、以上の給与分に関し租々の貢租を免ずること、ただし、右に規程された以外に間切やシマの人民を使役したり雑税をとりたてるようなことがあってはならないこと、つまり、この辞令書におけというものである。

る給与内容とは、受給者である下地の大首里大

屋子にこの度何か新しい役職を与えるというよ う なものではなく

、すでに下地の大首里大屋子

(つまり、

下地間切の頭)職にある者に対して新た に田畑を増賜するとともに夫遣権を付加した内

容より

なっているのである。

)のように、

古琉球辞令書の給与内容には仲 のように特定の役職への叙任を規程するものと (前掲四五頁の肘もこれに同じ)、

怖のように特定 の経済的得分を規程するものの二種があり、

者は長文で規格も大きい。

筆者は前者を叙任型、

後者を得分規程型と命名し区別してきた。

ここ で注意を 促しておきたいのは

、叙任型はすでに 的iMW(四五・四六頁)として示したように

古琉

球辞令書・

過渡期辞令書・近世琉球辞令書の三 者に共通する基本タイプであるのに対し

、得

規程型は古琉球辞令書にのみ見られるタイプで

(14)

62

あるという点であり、

この得分規程型をもつことが古琉球辞令書の帯びる史料的価値を一一層きわだた

せているという点である。

辞令書と琉球王国

2

叙任型と得分規程型の関係

なお、付説すると、

現在確認されているのはわずかに一点に

すぎないが、叙任型と得分規程型の両

タイプの性格を同時にあわせもつ折衷形式の古琉球辞令書が存在する。

ω具志川ノロ職叙任辞令書(一六O七年)

(り)(御ミ事)しょ口の円UU

第二

回ミやきぜんまぎりの

ぐしかわのろ又ちとも

五十ぬきちはたけ四おほそ ぐしかわはる又によははる又はまかわはる又ほきはるとも

もとののろのくわ

一人まかとうに

回たまわり申候

しよりよりまかとうが方へまいる 万府三十五年七月十五日右の辞令害では、元のノロの娘マカトウを今帰仁間切の具志川ソロ職に任ずる叙任型の文言と、同

ノロ職に付帯する五Oヌキ(四オホソ)の州をノログモイ地として給賜する旨の得分規程型の文-一一パとが、 一点の 辞令書の中で同時に記述されている。この唯一の折衷型は

、古

琉球

辞令

許において何故に叙任

型と得分規程型の区別が生ずるのか、

両者はいかなる関係にあるのか、という基本的論点の一つを検 討する際の重要な手がかりを含んでいる。

古琉球辞令書の形式をめぐる諸問題

先代の具志川ノロ(マカトウの舟)が死去もしくは引退したことにより娘のマカトウが同職に就くの

であるが、

この任職に際して二つの規程が必要であった。

一つはマカトウをノロ職に任ずる旨の叙任

規程、

今一つはその職に付帯して円動的に与えられる所得(この場合はノログモイ地

)を明記する得分 規程、である。つまり、叙任規程・得分規程は、ある特定の任職に際して生ずる給

与内

容の二つの事

項を別々に表現したものであり、両者はそれぞれ任職によって生ずる同一時点での不可分の規程であ

った。この想定が正しければ、

倒の折衷型は同一時点での両規程を一枚の辞令書において表現したも

のと理解できる。

右の想定を裏づける辞令書が「女官御双紙』の那覇の大阿母の項に筆写されてい る

63

制那覇の大阿母職叙任辞

化却下

(二九八二年) しよりの御ミ事

(15)

回なはの大あむハ

64

もとの大あむがめい

辞令書と琉球王国

国 た ーま(人 ハむおり と

〔 す申 ま

\_} \,、候 も

しよりよりおとますもいの方へまいる

万暦十年八月二日 第二

例オトマスモイ宛辞令書(一五八二年)

しよりの御ミ事

回 ミ 二 も ま や(か(と わ き三ち立ハ し と や あ ま は た ま ぎ る に も り

〔 二 い(の 中 ま のどう

し ち ち 人ま ぢ 又

五十ぬき〔ち〕はたけ一おはそ

あめくはる〔中略〕

このぷんのおやミかない又のろさとぬしおきてかないとも〔ニ〕

(侠)御ゆるしめされし

もとの大あむのめい一人おとますもいに

回たまわり申(候〕

しよりよりおとますもいの方へまいる

万腔十年八月二日

二 古琉球砕令書の形式をめぐる諸問題

一見して明らかなように、先代那明の大阿母の退職によってその姪であるオトマスモイが大阿母に

任職されることになった時、何で就職にともなう叙任を明記し、的で同職に付帯する

ノ ログ

モイ地

||元はアマモイ(人名)所領のもので現在は真人地である田畑の中からニカリヤ(二マシ)の田と五

Oヌキ(一オホソ)の畑を役地として与え、この耕地にかかる諸税を免除するーーを得分として規定し たのである。叙任規程型たる同と得分規程型たる仰がともに同一受給者に与えられていること、発給

年月日が全く一致していることから考えて、右の両辞令書は大阿母への任職の際に発生する不可分の

二規程を、闘のように一枚においてではなく、

二枚に分けて記述したものであることがわかる。

この

ことから、

叙任担と得八刀規程型は任職の際にセットで発給されるのが基本であり、

両者一体となって

はじめである特定の任職の実際を表現する、

という見通しを得たことになる。

65

右の見通しに立つと、

次に掲げる得分規程型の舎かれざる背景を推定することが可能となる。

例玉城の大屋子宛辞令書

(一五九二年)

(16)

66

しよ や)のみ?り き 御(ぜ みふ ん 事ま りぎ

辞令書と琉球王国

よなみねのさとぬしどころ 六かりやたに四十九まし

(ニ)

しよきたはる又もくろちかわはるともに 百四十ぬきちはたけ七おほそ

第二

(ユ)

やたうはる又ひらのねはる又はなはる又さきはる又なかさこはる又おゑはるともに 文 か よな な の ねい み 大 のお 四 き 十

と ぬも(き

回一人たまぐすくの大やこにたまわり申〔候〕

しよりよりたまぐすの大やこ〔が〕方へまいる

万暦二十年十月三日

3

両タイプの対応と非対応

右の辞令書は、

今帰仁間切の与那嶺の旦主所ーーその内訳は六カリヤ〈四九マシ〉の田と一四Oヌキ (七オホソ)の畑よりなる||の所領を認めること、

それに加えて四五ヌキの大蛇カナイ(税収〉を玉城 の大屋子に給したものである。

この得分規程型が玉城の大屋子職への任職に際して発給された一一枚の 中の一枚であると仮定すれば、

現存しない今一枚の辞令書は次のような叙任型であったはずである。

しよりの御ミ事

回ミやきぜんまぎりの

よなみねのさとぬしどころハ

「ー\

、J

X

古琉球辞令占の形式をめぐる諸問題

一人たまぐすくの大やこに

回たまわり申侯

しよりより〔X〕たまぐすくの大やこが方へまいる 万暦二十年十月三日 右の推定辞令書中のXは、

玉城大屋子の修飾句があるいは存在し

たかもしれないので仮においたも

のだが、

例の記載からするとあるいはXはなかったのかもしれない。

右の復原物を見てたちどころに 思いうかべるのは、

実際に存在する里主所給賜の辞令書と一致していることであ

ろう。たとえば、田 名家の辞令書群の一枚、

判天久の里主所給賜辞令書(一五三六年〉

67

しよりの御ミ事

(17)

回にしはらまぎりの 68

あめくのさとぬしどころハ

辞令古と琉球王国

にしのこおりの

一人くわんしゃに

回またわり申候

しよりよりくわんしゃが方へまいる

第二

対前十五年五月十三日

と比べると、復原した先の辞令書と右の辞令書とは様式上完全に一致することがわかる。同は岡原間

切の天久の屯主所を北の庫理に所属する官舎に給賜することをうたった叙任型であ

る こと は いう ま で

もないが、部者の想定する原理に従えば、MWも叙任と同時に天久の旦主所の内訳を述べた今一枚の得

分規程型とセットになっていたのではないか、と見ることも可能である。 しかしながら、古琉球辞令書のすべてにおいて叙任型と得分規程型とが一対一対応のセットをなし

ていたということはできない。その良い証拠は、先に引用した刷、

つまり下地の大計虫大屋子宛辞令 辛口(五八ページ)であろう。受給者である下地の大首旦大屋子は下地問切の頭職の称号で、宮古最高のひらら行政ポストの一つであった。この地位と同等の峨は平良間切の頭職(平良の大首旦大屋子)もしくは砂

川町切の頭職(砂川の大村坐大屋子)しかない。このうち砂川山切頭職は万府三十七年三六O九)に新

設された新しいポストである(閥、

平良間切頭臓は万府二十二年ハ一五九四)から同二十五年まで忠導位

のウマノコ、同二十五年から四十一年までは忠導姓のマフトノが就任したことがわかって

いる

。とな

ると、同の受給者が下地問切の頭職から砂川・平良両間切頭職の

いず

れかに同辞令存の発給された万

岡山二十三年時点で転任することは史実に反することになり、同時にまた、頭職以上のポストが当時の

宮古に存在しないので上位職への昇任の可能性もありえない。結論

はお

のずから明らかであろう。得

分規程型た

る附

は特定の任臓を前担としないもの、

つま り、叙任型とセットになった辞令乃ではない

ずïJ;ltJぷí;i令,I}:の形式をめぐる訪問題 のである。したがって、先に解説したように、この得分刻程型はすでに下地の大打川に大伝子(下地問 切の克服)の地位にある者に対して、新たに田畑および夫泣権を追給したもの、いいかえると、以前

に受けた給与内容に同の発給時点で改訂を加えたもの

であり

、叙任型を前提としない巾独の辞令古と

結論づけざるをえないのである。

以上に述べた点をひとまず整理し

てお

こう。①古琉球辞令占には叙任型と得分規程型の両タイプが

あり、両者を折衷した形のわずか一例を除くと、現存するすべての古琉球辞令芹は両計

いず

れかに分

類で

きること。②叙任型と得分組程型の関係は、同一の任峨に際して生ずるこつの規程として両者が

セットになっているタイプと、セットになってはおらず単独に発給されているタイプの二つがあるこ

と。

③叙任型は古琉球辞令市いげをはじめ過波期昨令古川、近世琉球辞令古へと継承されるmAHAの法本型 69

式で

あるのに対し、得分刻程型は古琉球辞令書特有のもの

であり、

過渡期辞令書以後は姿を消すこと。

(18)

70

④古琉球辞令書は得分規程型をも

つことによってとくに史

料的価値の高いものであるこ

と。以上の四

点をとりあえず確認しておきたい。

辞令書と琉球王国

4

任職と辞令書の発給

辞令詐の発給が国王の名においておこなわれるものであったことはすでに指摘し

た。辞令書の別称

として用いられる「しより

の御ミ事」「御朱印」「御印判」などの名が示すよう

に、この公文書は国王

第二

の訊なのであり、また、

国王の親印を押印した権威あるお墨付きなのであっ

た。この点は古琉球辞令

舎から近世琉球辞令書におよぶ琉球辞令書のすべてに共通する性格だといえる

。だが、

以下に述べることがらは古

琉球辞令書においてのみ見られる特徴的な状況であ

る。まず第一に、

古琉球辞令書において国王は官人の任職に際して特定の役職への叙任を指示するのみならず、

職に付帯する給与内容を事細かに指示することもおこなって

いた。

この点はすでに叙任型と得分規程 型の閃係を述べた時に例示したので再説を要しな

い。第二は、

古琉球における王国は版図として奄美

-沖縄・先島の三

地域を包括していたのであるか

ら、当然のことながら国王の名において発給される

辞令書の発給対象にこれら三地域が

区別なく含まれていた。現に、

古琉球辞令書はこれら三地域に分

布し残存している。第三に、

古琉球辞令書(過渡期辞令書を含む)の発給範囲は近世琉球辞令書段階と

ちがい限定さ

れてはいなかったので

、重職・高官から軽職・下

官にいたるまであらゆる宮人の任職

際して辞令書が発給されていた。つまり、辞令書の発給に差別がなかったのである。このことに符合

して、奄美i先島の三地域のあらゆる官人が辞令書の受給者であったことを残存する辞令書が教えて

いる。右の二、三点目も,辞令書の形式とその変遷を述べた前節においてすでに指摘したところである。

したがって、古琉球辞令書とは、国王の名において、奄美・沖縄・先島の三地域のすべての官入居

に対し、

あらゆる任職の際に叙任もしくは得分を明確に規程し発給されたものであった。

ここで注意

二 古琉球辞令書の形式をめぐる諸問題

すべき点は、琉球王国のすべての官人層に対してあらゆる任職の際に、ということの意味をどう考え

るかである。右の要約に従えば、論理的にいって、かつて存在した古琉球辞令書の数は国王名による

任職件数に一致することになり、また、任職に際して叙任型・得分規程型の二点がセットで発給され

る場合もあるから、より厳密にいえば、

古琉球辞令書は任職件数を大幅に上回る数でかつて存在して

いたはずだ、という結論が得られることになるのである。この図式的把握が正しいとするなら

ば、

書末尾の付録に示した五四点の残存古琉球辞令書は、かつて存在したはずの古琉球辞令書のごく一部、

文字通り氷山の一角程度の点数でしかないということになろう。

右の理解を証明するのは現時点の史料状況においてきわめて困難であるが、しかし、全く手がかり がないというわけでもない。その一つは、近世琉球下の十七世紀末以後に編集された系図家譜であり、

71

各系図家譜には編集時点に現存していたところの古琉球辞令書を用いたと見られる比較的豊富な記述

例が多い。たとえば、宮古の『

悦治

氏系図家譜正統』の二世真鏡の項に、万暦「四十一年突丑(一六

(19)

二一一)閏八月二十九日、三矧町・百民自回・五人スカマクチヲ給うの伽わ恥を頂札刊」(原漢文

)と

あり、(MW)

附の下地の大首里大屋子宛辞令書と同じ内容の得分規将型が存在したことがわかる。宮古の多良間島

んたぱるを代表する「土原氏系図家譜正統』中にも、四世蒋村が「隆慶元年丁卯(一五六七)八月五日、多良間(必)

首里大屋子に任ぜられ

、囚て御朱印を賜」(原漢文)ったことが記されている。右の二点ともにすでに

失われ現存していないが、こう

した辞令科発給の記述を各系関一家訴の中から数多く折い出すことはさ

(幻)

麻抗家譜』田名家を用いて問題の所

辞令書と琉球王 閏 72 第二

ほどむつかしいこと

ではない。ここではその典型的な例として 在を検討してみよう。

麻供田名家には系関家譜とともに三二点にのぼる琉球辞令官行(田名家文許あるいは田名文書と過称され

る)が残されておりその内訳は、一一点は古琉球辞令書、五点は過渡期辞令書、一六点は近世琉球

することができよう。第一に、残存の古琉球辞令書 辞令書である。そこで、家譜中より三世其福(一四五一i一五三冗)、四世真孟(一四九四i一五七七三 五世真命(一五二ニi一五九五)、六世真常(一五五七1一六四四)四代にわ

たる主な記事を抽出し、そ

れと現存の古琉球辞令書との対応関係を見るために表E12を作成した。その表から以下の点を確認

一点と家譜の記事は例外なしに一致しており不 照合は全く見られない。このことは、家譜編集の時点で辞令官官が史料として利用されたことを物語っ ている。第二に、家譜中に年月日を明確に記す記事が掲げられていながら、対応する辞令書をもっ記

三世真福は正徳元年(一五O六)八月十日に渡唐船駅 事とそうでない記事の二精類がある。たとえば、

辞令書1 -6 辞令書1-8

「きまの大ゃく点L、」

(尽良隠れー械の俳文) 辞令古1-5 世i.fÆf./(昨??占の形式をめぐ.る諸問題

表II-2 IiJll姓家J昔.Jl I記事と成仔砕令/Fの対応関係 73

E宇

辞令書 ト12

辞令書1 -13 辞令書1 -14

辞令書1-29 辞令書1-1

辞令書1- 3

辞令書1-4 f子 家譜中 の記載記 'J�

3世真福(童名思武太)

@勢遺富船の宮舎として渡閏

・官舎として渡間, その後兼城地頭 職に任ぜらる

真和志間切儀間 平良地頭職 4世其孟(童名小樽兼)

・宝丸船の官舎として渡閤

・西原間切天久地頭職に任ぜらる

・座敷に叙せらる

・世続宮船の使者ーとして渡悶

・進貢使者として波間

・真和志間切儲Ril金城地頭職に転任

・真和志間切儀問地頭職に転任

・牙浪沙森石普請を経営す 5 i立真命(藍名真三郎)

・勢治荒富筑登之として南蛮に赴く

・官舎として渡間, 回国の後今帰仁 間切j頓底地頭職および勢治荒富勢 頭に任ぜらる

・才府として渡悶

・程見城間切大嶺地頭職に転任

・才府として渡岡

・相応富勢頭に任ぜらる

・勢治荒宮勢頭に再任

その後数旅の忠tl・により座敷に叙 せられ, ついに父の家跡を継いで 真和志間切儀問地頭職に任ぜらる

6世真常(藍名真市)

・父の家跡を継いで真和志間切儀問 地頭職に任ぜらる

・押明富勢頭となる

・謝国富勢頭に任ぜらる 同34年 1 月10日

間39年8月8日 間41年 2 月25日 11 12月5日 間42年11月5日

万暦21年5月16日 正倍、元年8月10日 間 3 年8月13日

同1::1年6 月 9 日

都立青2 年8月26日 間15年5月13日 間16年8月 9 日 11 8月20日 間20年 9 月7日 間24年11月6 日 間30年 4 月13日 間31年6月中

同20年8月10臼 同29年10月8日

fド

同24年6 月5日

間3・1年8月11日 辞令書1 -35

注) 残存辞令書の数字は付録・残存古琉球辞令書一覧中の指示。 なお, 家譜 の記事にーカ所年代の誤記があり, 辞令書によって訂正した。

(20)

74

やりとみ辺日の一行合として悶(制建行)に赴き、また、同十三年(一五一八)には真和忘間切の儀間平良の里主所(いわゆる地頭職)を得ているにもかかわらず、対応する辞令丹がない。これに対して四世真孟は、川知

辞令古と琉球王国

的二年(一五二三)八月二十六日に渡円船宝丸の宵令として減問、

同十五年(一五三六)五月十三日に西

原間切の天久の旦主所(地珂峨)を給されたが、

彼の場合はこの二件ともに対応する辞令汗が存在する。

ということは、

家譜作成の時点で三世真福の記事も四世其孟同様に参照しうる辞令丹が残っていたの

であり、その後真福の分は失われ、真孟の分は残ったと考えるべきであろう。第三に、以上の理解に

第二

立てば、

表E12の年月日を記す家譜記事は対応する辞令書を

すべてもっていたということになる。

それらの辞令書は家譜編集の時にはまぎれ

もなく現存していたのだが、一一点を除いてはその後何ら

かの事情により散逸してしまったのである。

↓口琉球においては、すべ

ての宵人府に対してあらゆる任峨の際に辞令許が発給されたこと

、し

たがってまた、

古琉球辞令許は任職件数を大幅に上凹る数がかつて存在したこと、

の見通しを表E|2は支持していると考える。

5

一回性の効用

古琉球辞令許の発給状況を考える今一つの手がかりは、辞令持そのものの発給原理にかかわる問題である。

古琉球辞令書には例外なしに受給者の円一政に「一人」という文句が古c込まれている。

パ初どに人」

なる句の意味を検討するに際して想起されるのは、

王家の陵怒として造営されたところの玉御殿の一 角に建つ碑文であり、

同玉御殿の碑文(一五O一年、

本草八三ページ参照)中にも

八カ所にわたって「御

一人」なる言葉が登場する。

同碑文は、

尚維衡追放事件を承けて玉御殿の被葬資格者九人とその「御 すゑ」(子孫)を規定した文面をもつことでよく知られているが、

文中に登場する「御一人」は被葬資 格者をいちいち指示する限定句として用いられ

ている。

同様に辞令書に登場するご人」もそれと同

二 古琉球辞令書の形式をめぐる諸問題

じ限定句であり、

給与内容が受給者として辞令書に明記された人物のみに与えられることをニ一けってい

る。そして、

この限定句の効果をさらに高める形で後段の「しよりより000が方へまいる」という 常套の限定文が記述されているのである。

ωの辞令書で、

具志川ノロ職に叙任されると同時に同職に付帯するノロクモイ地を給されたマカト ウは元のノロの娘であった。

先代のノロ、

つまりマカトウの母の死去もしくは退職により娘のマカト ウがノロ峨を継いだことになるわけだが、

では、

何故に母から娘へというノロ職の継承に新たに辞令 書が発給されねばならなかったのだろうか。

もし

世襲制が確立しているのであれば、

マカトウは母親 の占めた神女職およびその得分を門動的に承ければよいわけであ

り、

この相続に対して国王名の辞令

75

書が新たに発給されること

などは不要だったのである。

同様の神女職の継承は現存する辞令丹にもい くつかの事例があり、

たとえば、

中城ノロ職を継承した元のノロの娘マウシ、

恩納ノロ職を継承した

参照

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