九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
琉球王国史の基礎的研究
高良, 倉吉
https://doi.org/10.11501/3065585
出版情報:Kyushu University, 1992, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
232
(日)文面は「背氾之御詔/問得大君井知念/間切惣地頭知行高/弐百桝者尚姓/瑞慶覧按司給之/乾隆四十九年中辰四月廿九日」である。拙稿「伊江家辞令書について」(『沖縄史料編集所紀要』第一一号、一九八
六年)参照。
辞令書に見る王国制度(その二) 第四
第五
古琉球とその意義
琉球王国否定論の問題点
1
琉球H附席国論
琉球王国否定論の問題点
辞令書の分析をひとまず了え、古琉球像の一端を垣間見た今、筆者の脳裏をしきりに横切る問題が
ある。それは、明確な制度をもち、一個の独自な国家として厳然と存在してきたはずの琉球王国に対
し、従来の研究者のとってきた不当な態度のことである。同時にまた、琉球史を扱う際に琉球王国の
問題を無視・軽視するか、場合によっては綾小化さえしてきた研究史の大勢のことである。このよう
な潮流に長く浸ってきたためなのであろうか
、
現在の研究状況においてなお琉球王国の問題を真剣に、
233
かつ率躍に考え抜く緊張感が共有されないままでいる。
たとえば、研究者の著作・論文の中で、島津位入事件のことを「島津の琉球入り」などと平然と表
234
記するケlスによくお目にかかる。
「琉球入り」なのか。
院摩軍は友好使節として「琉球入り」などしたもので
はな
聞する目的で行動し、 く、王国を侵略・探
王国を征服した後に国王以下の重圧たちを悶外に連れ去ったのである。
明白な 一体
、
三000
の兵が征服を目的に行動したところの事件がなぜ
古琉球とその立高
伐略的行動であったこの事件は
、
薩・摩側にとってはたしかに「琉球出兵」であったかもしれないが、
琉球側にとってはまぎれもなく侵入・侵冠・
慢略の事件だった。用
語に対するこのような暖昧な態度
、
あるいは一和の無緊張状態は、筆者の見るところ、
侵略をこうむった琉球王国をどのような存在と捉第五
えるべきかという基本的な認識を欠落させたところから生じている。
一体、
膝関されたところの国土 は円本の「同内」であったのか、
もしくは「国外」であった
の
か、
そ
れと
も「国内」でもあり「国
外」でもあるという性格の土地だったのだろうか。
琉山内史に関する初の木格的な通論として明治三十九年(一九O六)に発表された幣円以坦「南島沿革史
論いは
、
「我木土との関係」を中心に
「沖縄の治市を論述」したその中で
、
白津口入事件に触れ、
この事件の原附は「室町抗府の末より徳川砕府の初にかけて、
彼〔沖縄のことーーー引用者)が礼を我本土に失せしこと」にあると断じた。
幣原によれば琉球は「我木土」の「附山国」だった
ので
あり、-我本土」としても琉球をそのまま「支那の掠奪〔冊封
・
進貢関係を指す||引用者〕に任せんとの考はなく、
限州島津家より九んが院理を行へるものとなせり。
然るに立〈附附同と思へるもの
が、附町周たるのを突を尽さずして
、
浸りに礼を我に失せし
ことなれば
、
我の憤怒を招くに至
れるも偶然にあらず
、
仮令其問に於て、
情状の察すべきものありとするも
、
彼亦推党百なきを件ざるなり」という。ようするに琉球は円木の「附附国」だったのでありその
「附師同」
たるものが円木に礼を失し「疎遠」となった
」とが白川津侵入事件を切引いた瓦の原閃でありこの事件によって琉球は「戎同山たるの尖を顕」
ようになった、
とするのである。
'vh川川&れ|↓サ仔リ.叶立川TfFγ+
ム wwhrL川ri--J-A川琉球非礼論をもって品作付人予件を説く枇川原のこ
の論法は
、
琉球史の研究に長く同座ってきたものの一つであるが
右の論に典型的な形で見られるよ
うに、い日略された琉球王同は一仰の独立した同家などではなく円木の「附山間」
、
つまり準「国内」ともいうべき土地であったにすぎないとされたのである。
琉球王国否定論の問題点
打の不℃なレトリックが近年においてもなお御用済みでないことを
について||もう一度、私のいいたい
ムμ
」の中で述べている。 仲松弥方が「『琉球王国存否』
仲松は「木土中央政権から遥かな遠
い枕円にある琉球ではあってもその町球は組によって結びつけられていた。その紐は他の本士諸侠
のそれとは巡って、
長い紐になっているのは吋然のことでありよってこの組を中間で捉らすべく島
というm解を一イし
、
のによって結びつけられていたはずの琉球が沖をして琉球守設にした」「紐」
「日木内から離脱」する態度をとったために、「とうとう川出し切れず徳川小川府も認礎の安定を見定め
た時において、
日沖の話いをす川び入れ
征代川となったのが真相ではなかったか」とした。したがって
、
235
仲松は十日琉球の琉球王同など独立同家として存在したものではなく
、
「円木の軒下」に ある単なる地
方政作の一つにすぎないものであり、琉球は「『日本間内』の一部であり、いわば今まで我々が忠っ わす
ていたような独立国ではなかった」、と考えた。
236
古くは幣原坦によって、近年においては仲松弥秀によって明えられた琉球王国否定論は、琉球を日
古琉球とその意義
本の「附席国」H「軒下」と捉えるその刃で王国の独門性をも切り捨て、ついには日本に対する非礼
H「離脱」をもって対外伝略戦争たる品作いは入事件の原閃を説く点で
、基
調を同じくする議論といわ
なければならない。
第五
2
附町同論の問題点
敵川原や仲松などの琉球H附間同論将が符芯顔で線拠の一つに挙げるお古附山
、
つ まり
、嘉吉元年(一一円四一)島津忠同が大党守義昭討伐の功により将平足利義教から琉球を賜ったという所伝は、紙屋(3) 敦之が「琉球国司考ーーー近世日中関係史の一視点
」
の中で詳細に分析したように、
近世の時期、
すなわち克永十一年三六三四)に島津氏の知行に琉球の分を加増して幕府へ披露する際の根拠として用い
られたものであり、その「史実」は慢入事件直後に鹿児向において国王尚昆Jに薩摩側が認めさせたこ
とにはじまる全くの虚構にすぎないものであった。また
、
中世の琉際関係史でしばしば引き合いに出される三宅国秀事件、すなわち、永正十三年(一五二ハ)琉球遠征を目的に坊津に寄航した三宅和泉守
同秀の平を島沖忠隆が討伐し阻止したという一件にしても、田中健夫が「三宅国秀の琉球遠征計画を
(4) めぐってーーその史料批判と中世日琉関係史上における芯義について」の中で明らかにしているよう
れた虚構にすぎないものであった。
に、
琉球に対して有利な地位を得んとした薩摩側により創作 実証的な究明をねきにお士口附府を琉球H附山国論の根拠とした点でも問題だが、
それ以上に乍者が 前一視したいのは、
では、
その附同国であったはずの琉球に対して円凶作氏が巾世の時期にいかなる具体 的権力を行使したのか、
国王のもつ王権をどう拘束し、
対巾閃外交・貿易をどう規定するに至ったの
か
、
これらの基木問題を
琉球史に即して何ら検討するこ
ともなく
、
王国有定論を主唱したその姿勢で
ある。
当人におかまいなしに、
誰々の名において何某に何々を与える、
ということはあるいはありう るかもしれないが、
しかし、
附府国は託手形で決せられる筋の問題ではない。
附山国たる具体的な内 界が必安なのである。
この而の検討を怠ったばかりか、
ついには近世初頭において創作された虚構に
琉主主王同再定論の問題点
根拠をおいて論を立てるなど実にお机末というほかはない。
ことわるまでもなく、
薩摩平の伐略をこ うむった琉球王国は、
日本に対して独nな同家として存在するところの「外国」だっ
た。
この軍事行
動はおそらく朝鮮
王国に対する壬反
・
了間の倭乱H「朝鮮出
兵」同様の対外任時戦争であり
、
両者の異なる点はといえば、
島津付入事件H「琉球出兵」の場合は琉球を日本社会へ統合する一つの契機と
なった、
という歴史的意義をもつことだろう。
237
今一つ、
附市川岡論者に共通するのは、
琉球と日本が同文同和であり、
彼我の交流が比較的活発であ って
、
両昇問に一一柑の親近感・
一体感が共有されていたことを力説し、
そこから相互を「外国」とは 見ない立識が定着していたことを挙げ、ついには琉球王国が独自な
家として存立していたそのこと
238
に対して疑問を投げかけるという論理を駆使してい
る点
であ
ろ う。献川原は『南島沿革史論』の中で
「彼等沖縄の学者は、動もすれば、自国は自国にて独立の発達をなせりと主張」するが、これに反し
て沖縄の住人は「上古本土の人の渡りしもの」であり、また「室町時代に沖縄人の渡来せしこと稀な
古琉球とその意義
るを知る者は
、
恐らく我に腺なるの致す所と論断せむ。
然りと雌余は思惟す、
彼れが支那に対せし如き関係は我に見る可からざりしも、亦決して我に疎澗なりしにはあらざる」と述べる。仲松も前掲論
文の中であれこれの「根拠」を挙げ、「南島人は本土人と同一という意識のもと
にあ
り」、「琉球支配
第五
権者も「日本の内』
、す
なわち幕府を上に頂く琉球と思」い、「一方砕府でも琉球は自己の支配下とし
て見てきた」と強調する。木荒川第二l三において
、
辞令許が平仮名表記である点に関連して述べたように、琉日間には国家を府内にしながらもお互いを一般の外国とは考えない一新の同文同根芯識に立つ
同胞観があり、それが後に展開される日琉同担論の前捉となったことはおそらく事実であろう。
しか
し
、
このような芯識や交流が存在したからといって、
何故に両者は同一の同家に編成されているべきだと考える必要があるのだろうか。仲松の一一一門説に関して集者は「文化的な一体感、親近感が両者の間
それぞれが別個に問家を形成している例は世界史に数かぎりなくある」、「国家が一体感
や親近感という立識によって
、
その存花を存定されたり、
打定されたりするものであるならば、
世界(5) 史は、文字どおり神様が現むような形で反問したはずである」、と批判を投げかけたことがあった。
にあっても、
琉球王国の存在を木内定したいがために、たとえば仲松は王の呼称の問題を採り挙げ、その素材を尚
真玉川別に造常されたところの王家の京段玉御殿に求めている。そこで
、
今少し否定論者の諭法を紹介しつつ、その批判を展開してみたい。み
のそ尚円を見上歴代の王と
、
し安非するとともに遣から森陵王父一)にO
(一五年は弘治十四御殿玉 げもりあ一九七四年から七七年にかけ同基の復原一族を収めるために尚真によって造常されたものであるが、
修珂工事が実施された際
、
学術利賀も併行しておこなわれ、
(6) 事報告主』の形で発表されている。 その成来が『重要文化財玉阪彼原修理工3
王同不ハ定論者の「根拠」
琉球王同否定論の問題点
玉御殿は東室
・
中主・
丙主の三宝をもち、
そのうち山代同王は洗什されて東宝中の石一川子・
厨子謹 の中に収められている。厨子の外回には銘丹(万一一一けでメガチという)が塁芹で記されており
、
その記述(7) 内容は表V 1 1
に掲げ
た通りである。
これを見ると、
尚円から尚登までは「公」と称され、
同じく尚立から以後は「王」と称されていることがわかる。この事尖から仲松弥秀は
、
「琉球世の主は、
中国・
諸外国に対しては琉球王の称号をつかっている。しかしながら国内においては同斗の地位であったこ
239
とによって
、
尚家主御殿内の石柁には尚円以下尚世まで(尚寧不知)「
OO公』とされているのではな(8) かろうか。まさか後世段辺を閃けて『公』の字に拝き改めたものとは忠われない」、
「この経緯からみ 円本から名日・形式上ながら独立王国として認められたのが尚賢からであり、これによって以ても、古琉球とその意義 240 第五
代王 表vーー石厨子銘書一覧
別一
見一
円r -
玉一
玉一
玉一玉一極一4n・一玉一尚久公のおもひくわ天きやすゑあんし円Uかなし法名向盟公玉一尚豊王かなしのおもひくわ尚賢王かなし玉一尚賢王かなしの御合弟也尚質王かなし玉一尚貞王玉一王世子尚純了一神位
玉一尚益王
玉一向敬王玉一尚穆王玉一
先世
子尚
脅宝宮
(玉)一尚温王(玉
〉一
尚成王
玉一尚瀬王
玉一尚育王従一
位侯爵
尚泰
石
厨
子
銘
者
尚尚向向尚 尚 尚尚 尚 尚 尚 向尚尚尚向向 尚 尚 尚 尚 円 泰育瀬 成 温哲程敬益純貞質賢豊寧永元清真威円 名
成化一二年七月二八日成化一三年八月
四日 お靖五年二一月一一日嘉靖三四年六月二五日隆慶六年四月一日万麿二ハ年一一月二五日万暦四八年九月一九日崇禎二二年五月四日順治四年九月一一一一日成照七年一一月一七日康照四八年七月二二日康問四五年二一月三O日成問五一年七月一五日乾隆二ハ年一月二九日乾隆五九年四月八日乾隆五三年八月二O日訴庄七年七月一一日嘉庄八年二一月二六日道光一四年五刀二九日道光二七年九月一七日 尚円公のおもいくわおきやかもいかなし法名尚真公尚真公のおもいくわてにつきのミおまへ法名尚清公向清公のおもひくわてたはしめあんしおもひくわ法名尚元公尚元公おもいくわゑそにやすへミ御まへ法名向永公
形 式 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 14 13 12
19 18 17 16 15
死
去「世譜」)
畳 間同岡山 銘
同同同陰刻虫入銘墨書銘間金箔押同同同同同同
墨書銘
注)死去年月日は『中山世諮』葉温本による。「見」は見上森陵、「?」は不明、「玉」は玉御殿、「極」は極楽陵(浦
添ょうどれ)のこと。石厨子銘書および銘香形式は『重要文化財玉隈復原修理工事報告書』による。
(9)
後石棺にも『00王』とされるようになったのではないか」、
な根拠に挙げている。 と述べ、自己の琉球王国否定論の有力 仲松の右の説は二重の意味で愚論とす
べきである。「琉球世の主〔琉球国王の別称||引用者〕は
、
中国
・諸外国に対しては琉球王の称号をつかっている。
しかしながら圏内においては〔中略〕「OO公』
とされているのではなかろうか」というのだが、この説は、同時期の古琉球の幾多の金石文で国王が
「王」「国王」「大世主」「世主」「尊君」などと表現され
、
「OO公」なる表現は全くといってよいほど
(叩)(日)
見出すことができないという事実を
無視し、また同時代史料、たとえば
『琉球薩摩作筏文京μ案』に収
められた、琉球から薩摩へ送られた文書一五点、薩摩から琉球へ送られた文書二三点、
中に
、
「琉球国」
一Oカ所以上、「琉球国王」七カ所以上、「琉球国中山王」三カ所以上、「中山王」八
その他七点の
琉球王間有定論の問題点
カ所以上、国王の同義語たる
「世主」「世王」それぞれ一カ所以上の用例を見出すことは
でき
るも
の の、「公」の用例は全く見られない、
という事実を度外視したところから生まれた思いつきに
すぎな
い
。
もし仲松εかいうように、
「国司」
であったがゆえに「O O
公」
を称していたはずだとするなら
ば
、
何故に同時期の
金石文あるいは史料にその用例が見
当らないのか
、
という疑問を検討し、
それに対す
る符えを準備すべきであろう。
このような基本的論点を一切無視し
た点に
、
仲松説を愚論とする第一241
の理由がある。第二の到巾は (ロ)
拙杭「玉御殿の石附子銘訟について||仲松1川城説的解釈の問題点」
において詳
242
納に論じたところであるが、日本の古見事なまでに史料批判を欠落させている点である。玉御殿は、
坊やエジプトのピラミッドのように、ある特定の被葬者を安葬すると後は閉じてしまうといった弗悲
古JjjtERとその意詫 制に支えられたものではない。松穴式の石室を三室もち、葬儀を経て死者を中室に収めた後、数年後
に亡似を取り出して洗滑したあと石棺や誌などの厨子に収めて再び安非するという琉球の民衆レ
ベルにおいても広くおこなわれていた非京制に支えられた京である。しかもこの法阪は、古墳やピラ
、ッドのような個人裂ではなく、王とその一族の眠る集団れであり、追非がおこなわれるという点で
第五
も、琉球の一般的な非京制の延長線にある五だったのである。二代尚行一減、七代尚飽Jを除く第二尚氏
王朝佐代の回王とその一族が川以に収められていることをμれば右の点は疑問の余地なく了解でき
るところであろう。そこで間出は王御殿は被葬者を迎える皮にその辺口が聞けられる長期使用型の
叶いがであったために、葬来制の肢史的変化によって内部の改変がおこなわれるはずだ、という点を想定
できるかどうかにかかってくる。つまり、死者の置かれ方は初代尚円から十九代尚泰まで同じであろ
うはずはなくそれぞれの時代的変化を吸収しつつ玉御殿が現在われわれの限前にあるという点を
念頭に山くことができるかどうかである。玉御殿を観察する時、」の視点を欠落すると、たちまち五
00作に及ぶ玉御殿の使用の股史にふりまわされることになる。洋し、命正ま出清こ喪ってと口令eニナ
- i L
きH
ZEJV4dJZ引lv - 2 6
寸ψ亦 二
dJjレ v a
を述べると表V11に技場する尚円以下内政までの「公」表記は何時代に件きこまれたものではな、Eftk刀賞、
H bχ 4 H・γわIh21 - L
つまり、その銘昔一六二0年代から四0年代に新たに告きこまれたものである。は古琉 球の史料
ではなく
、近世琉 球を論ずべき史
料なのである。
仲松は近世
琉球の史料を十
日琉
球の史 料と思いこみ、
それを根拠として、
同王は「公」で呼ばれる「同司」にすぎなかったというのである
から、
同時代の金石文や史料
のいや例と氏の説が符合しようはず
もない
。残念ながら
、このような治論 をいくられびせても、
琉球玉川円の存在は微動だにしないのである。
4
単一民族H単一一門家論の陥非 琉球王 囚「小什(疋ぬがくりかえしな場する北川氏
、いいかえると
、琉球王旧に対する真剣な検討がおこな われない事態には
市いい〈は白木社会の形成過程についての正当な歴史認誠が定着していない川題が挙げ
(日)この点に関して 泊者は「琉球
・沖削の町史
と日本
社会
」の中で
次のよう
に
琉球王国否定論の問題点 られるのではなかろうか。
問題を提示したことがある。
研究者をこのようなむ仙な状態に放位してきた基本的な原凶ははっきりしている。
琉球処分に よって 琉球・沖利
が日本社会
の一 μに制成されて以後
、現に
琉球・
沖縄が日本社会
の一
員である という既定
の主夫が過去の歴史を
も非腕史的に
伴してきたからにほかならない
。つまり
、琉球・
沖縄の
惟史はそもそ
ものはじめから日
本社会の
.歴史の一環であり
、た
とえ特見なあゆみをたど
っ
243
たにせよ、
その叫跡 は「日木民族」
史の範凶に
属する
、という概念が支配してきたからである。
しかし、
このような制念は、
中世日本において少なくとも二つの旧家
ーーー
いうまでも
なくH本中
244
立国家と琉球セ同ーーーが併存していたという亨態を黙殺することによって成立するか、さもなくば、古琉球における琉球王国を独日の同家としては認めないm一民族H単一一同家論において成立
('1-琉球とその立r�
する観念にすぎない。琉球
・
沖縄に川住した人々が口木列μの人々同様に原日木文化と称すべき文化複合の所有有であったことは疑いないところであるが、しかしこのことを而的に強調するあまり、
彼我同一の社会生活や同家形成を有史以来与件として与えられてきたかのような非歴史的解釈をなすことは
、
およそ不毛という・へきであろう。琉
球
・
沖縄にほ住した人々は、
たとえ共
第五
通の文化複合から出発したとはいえ先史時代を通じて日木列ぬの社会に対して只域としての反聞を遂げたのであり
、
古琉球において束アジア・
点南アジアの同際社会を北川対に独引の地域社会を形成し、その総抗的点現としての独円の同・家を成立させたのである。円木刈JMの川・一本は、中世において琉球・
沖利をもその内而に編成しうるほどの段附に注していたのではなく、
近世同心不H
応滞制同心不の形成、
およびその解体と近代同・
米の形成を辺じてはじめて、
琉球・一州制を段階的にその内而にル刊行づけることができたのであった。右の基木認識に立って乍行は
、
「日本列山から琉球・
沖制の筒川に及ぶ日木社会の町山人は、
そもそ ものはじめから一例の完結的な肢史として存花していたのではない。多様な経科や川四を合みながら
、
歴史的に形成されたものなのであって」れを行史以来一枚む的な凶史的枠組が存在したかのように捉える単一民族H単一岡山本論的な観念が、
L上つ主川地b水軍1町
、
でI1aJIL,号H,dlひいては琉球・沖約史評価を峻峠なかたちに してしまった主な原因だった」、と述べたのであった。
筆者の認識と王国否定論者の認識を対比するために、
今一度仲松弥秀の所論に御登場いただく。
仲
松はこう述べる。
「本土(ヤマト)といい、
琉球(商品)といい、
どちらにも同じ民族が住んでいます。
しか
しな が
ら、
琉球の 島々は
、主
体部をなしている
本土の南西速く
、点々 とつらなって仲びているという
、
いわば過去にさかのぼればさかのぼるほど往来困難な地域で、
かつ年中仰木さのない地域、
陵地よ りも海洋がはるかに展望される日然環境のなかで住民は太古の時代か
ら同住している〔中略〕ど うもわれわれ日本人は||いいすぎかもしれませんが||そこの住民大衆からではなく、
一部文
I;!tLj( fll�青山論の問題点
配者によってつくられた『国』なるものを前提にし
て、
文化を知らず知らずのうちにみるくせが ありはしないだろうか。〔中略〕たしかに『国』が文化の相違をつくり上げることはあるでしょう。
では
、
民族を同一にしている琉球弧の場合にも
、
これと同じく琉球国があったこと
によって
琉球
文化が形成されたのでしょうか。
もし そうであれば、『日本対琉球』といった姿勢で文化研究を
(H)
行なうのは当然といえるでしょう」
「〔前略〕
もし も琉球の島々における独自の文化としてこれをとら
えたとしたら、
そこに は文化的
245
に日本民族とは異質な民族がいたことになる。
この場合はたしかに「日本文化、
琉球文化」とし たとらえ方が可能と思いま
す。
しかし日本文化のなかの特色ある琉球文化と
みる
場合は、「木土
246
(ヤマト)文化、琉球(南島・沖縄)文化』とした地理的とらえ方が正しいのではないでしょ
九ど
「ところで、もともと南島人は、先史時代から古代・中世にかけての本土からの渡来者であり
、
古琉球とその意義
のちに沖縄に発生した豪族らも、平安・鎌倉時代に鉄や新しい文化、技能をもつことができた人々であったと推測されています。こうしたことによって
、
南島人は本土人と同胞であり、
そうしてその親元である本土にはすでに豪族・
貴族の上に朝廷があり、
幕府があるということも知って第五
いたはずです。南島人のこのような意識構造は政治的にも影響し
、
朝廷・幕府を上にいただいた(日)
沖縄であるという意識が相継いできたと思うのです」。見られるように、
仲松は、
単一民族H単一国家論を前提に、
しかも国家とはいかなる歴史的表現形態をとるものなのかを十分に吟味することもないままに、「国」の枠組を解いて同一民族としての「住民大衆」の側からながめると「日本」「琉球」の区別など生じないと主張したうえで、「日本文化のなかの特色ある琉球文化」的状況は、琉球が僻遠の地・島棋であり、また特有の「自然環境」をもつなど総じて「地理的」な条件のしからしむところでしかないという。このような非歴史的な「文化」論から出発する論理が、「私としては、少なくとも島津入り以前の琉球国なるもの
中国から、受けなければ貿易ができなかったこと を
詐
れ、とくに中国とはその冊琉球は外国との貿易上重要視さ成していた国であったと思うのです。きく古う
は、日本の一部を構貿易を潤滑に進めるため琉球を独立国とみせかける
必要があった。それで琉球政権のわがまま的な態度も黙認し、できるだけ我慢をしてきたのが本土政
(げ)
権だったと思います」、といった発言を生むのである。歴史を経世家風に述べたという点でも不毛だが、
しかしそれ以上におぞましいのは、
自然環境・
地理的環境を母なる舞台として長い歴史をつみかさね、ついには古琉球という独自の時代を形成したところのこの島に住む人々の主体的な歴史的営為が、ここではみごとに無視されていることであろう。(同) (ω)
『神と村』、
「古層の村ll沖縄民族文化論』を書き、
戦後沖組において民俗研究の牽引率的な役剖を発揮した研究者の一人である仲松弥秀の論だけに、改めて単一民族H単一国家論の陥穿が筆者には
深刻に映らざるをえないのである。古琉球評価の視点
古琉球評価の視点
1 独自の国家としての琉球王国
改めて強調しておきたいが、古琉球における琉球国王は中国皇帝の冊封をうけていたとはいえ、諸
外国に対し自立的な外交主体としてふるまう存在であり、その地位は外部勢力により左右されたこと
247
がない。当然のことながら、中世日本の守護大名や戦国大名のように天皇から位階を賜ったこともなく、また、足利将軍権力からその地位を安堵する書状を受けたこともないのである。琉球国王は王国
の論 理に従って即位し
、
版図全域の土地
・
人民に対する排他独占的な統治権を行使し
、
辞令 書の示す248
ごとく王府官入居に対して人事権を手中にする唯一の絶対的な存在であっ
た。王
は王国特有の新制
古琉球とそのtt:?も
度によって経付されたが、
それらの制度は円然発生的に形成されたものなどではなく、
王国が自己を 再生産するためのいわば同性として沌み出したものであっ
た。
このような国家が奄美・沖縄・先品の 三地域を統治していたが
ゆえに
、
円川津川代入事件後に昨摩
・
砕府は王国体制を温存したままで琉球を自
己の体制内に編成せざるをえなかったのであり、
琉球処分期においても、
武力を背景に王国体制を最
第五
終的に解体させることによってしか琉球併合H「沖納県」投目は尖現しえなかったのである。
琉球を 日本社会に編成するうえで重要な契機となった右の二つの事件の際
に、
いずれも王国体制が問題とな ったのは、
その処遇ぬきに琉球の土地・
人民に
対する統治が及ばなかったことを示す。
このことの中
に、
古琉球において形成・成立・
反問した琉球王国の歴史の重み
が、
象徴的に表現されているように 問。う。安良城践昭は次のように明快に述べている。
沖組旧一一の前身である琉
球のぼ史は
、
五、
六世紀以来中央政府の統一的文配の
下にあった他府県 の時史とは民なって、
本土社会とは別個に独円の閃山本形成の途を歩み、
琉球主因H古琉球の社会 を作り出しているのでありま
す。
沖縄住民の祖先が、
本土の日本人と人和的には同一であり、一一・口 訪問的には共
通の一一一一日来をもち、民俗
・
習引にも共
通性が大き
いという点につ
いては
、
数十年にわた
る沖縄研究の成果として、もはや疑う余地はないのでありますけれども、そういう事実の存在と、
にもかかわらず、沖縄の歴史が本土の他府県の歴史とは板めて異なった独自な個性を持った歴史
であったこととは決して矛盾しないのであります。
沖縄住民は、確かに日本人の一分肢ではありますけれども、奄美から先口町に到るまでの琉球は、
日本社会の外にあって一四世紀の末に日本社会とは別個・独立の琉球王という国家を生み出し
たのであります。この琉球王国は、いまだかつて日本の天皇のもとに統率されたこともなければ、
室町幕府の将軍に忠誠を誓ったこともないのであります。ましてや島津の支配下に屈し、家来と
しての忠節を誓ったということもなかったのであります。ですから島津は、一六O九年に琉球を
征服しますと、もともと琉球は島津の家来であったが、その礼を尽くさなかったから琉球を征服
古琉球評価の視点
したのだ、と自らの行動を合理化するために歴史の偽造を行なうのでありますけれども、史実と(ぬ)してはそういうことは全くないのであります。
補足を要しない安良城のこのみごとな要約・指摘を得て、琉球史のもつ特質を改めて確認することができると同時に、古琉球が「日本社会とは別個・独立の琉球王国という国家を生み出した」時代で
249 円律的な国家であったことを反泊することができよう。
、
や「室町幕府の将軍」あるいはい支配下になのなどの外部勢力」「島津、
こあり天「が家国の皇」(幻)村井章介は
「
中世日本列島の地域空間と国家」と題する斬新な論文を書き、
環日本海・
環シナ海を合む日木列島全体の諾地域と諸国家を再構成するモデルを提示してみせたが
その中で中世日本の範
250
四は「陸奥から薩摩まで」とし、「やや強引に境界の典型を選びだすならば、東では外浜、
西で は鬼
古琉球とその怠))ci
界島(硫黄島)または壱岐
・
対馬にしぼることができ」、
「その外に位置するところの、
東では蝦夷島、
異域とみなされることが多い」と述べている。
村井はまた「建武・室町政
両では琉球または高麗は
、
権と東ア
九 一月」の中で、「日本中世史の立場から単一民族国家観を批判する際に欠かせな
い
のが
、琉
球および蝦夷の位置づけである」と明言して、
異域としての琉球王国をも含む日本中世史像再構成の
第五
課題に注意を促している。
妥当な規定・展望というべきであろう。
2
古琉球と近世琉球の対立
古琉球のもつ意義は
、
近世琉球の展開過程が逆に教えてくれる。古琉球に確立した諸制度が近世琉 球の諸制度にどうつな,かっていたか、前者が後者をいかに強靭に規定していたか、
」の点については 辞令書を分析した木編の各処ですでに指摘しておいたところであるが
、
)の問題をふ/少し別の角度か
ら述べてみたい。
近世の打里王府はその施策の過程で
、
いうなれば「近世の論理」をふりかざしつつ「古琉球の論理」と対立し、
できうることなら「古琉球の論理」を廃絶するか
、
さもなくばそれを「近世の論理」の 内 に再編することを目指していた。右の動向の典型的な事例が、安良城盛昭によって提示された
H 勧 州一似
と神あそびμの問題であろう。
(幻)安良城は「沖縄史研究の諸問題(そのことの中で、民衆レベルでおこなわれていた祭配に対して首里王府が展開した規制の具体例を挙げたうえで
、
何故にこうした規制が展開されたのか、
その芯図するところは奈辺にあったのか、について次のように説明した。①「お祭りやタブーが多すぎて農耕の妨げになるから」、「要するに、祭にともなう迷信的Hタプl的な要素が沢山ある為に、
農耕のさまた
げになることを排除するのが禁止の第一の理由」であった。
②「お祭りにひまどって農耕しない日が
一年に沢山あることが問題」となり、「一年に六O回近くもお祭りがあって、
誇張し
て
いえ
ば、毎日
のようにお祭りや物忌みがあるような状況が出てきて
、
それが、
農耕の妨げとなる。
つまり、
お祭り二 古琉球評価の視点
にともなう「神遊び』が、
長く多すぎるというような問題を処理するためにお祭りの
盤理が行なわれ」た。③「王府から見れば、費用がかかりすぎるという問題があり」、「その費用が
、よ
けいかかりすぎるので
、
首里王府は、
これを禁止・
制限」した。「以上三つの理由が、
王府として祭犯の制限・
禁止、民俗的儀礼・行事の禁止にみちびいた根本的な理由」である、
と明確に指摘している。
安良城のいう農耕の妨げとなる迷信Hタブlの排除の問題は
、
勤労投民とし
ても
つ デオロなμ価値観を儒教イ べきH合理的 ギーの形で王府が上から、在入する施策として展開されたも
のであり
、
労働251
日の増加策は生産増進策と表裏一体の関係にあるものであった。
そして冗費の排除は、納税負担者と
しての農民家計の再生産の安定化策および倹約策と深く結びついたものであった。
王府の攻撃する氏
衆レベルの状況、
すなわち、
迷信Hタブーを尊重しつつ投耕に従事するこ
と、
神々を敬うために必要
252
な祭配・儀礼は必要とされるだけ挙行すること、
神々への感謝の念を表明するためなら供物は必要な
す7琉球とその怠諜
ハ刀だけ十分に準備すること、
これらはいずれも古琉球において形成された民衆レベルの「古琉球の論 理」だったのである。
これに対置されるもの、
すなわち、
迷信HタブーにとらわれないHA打開的なμ 勤労農民であるべきこと、
労働日をなるべく増やして耕作にいそしむこ
と、
供物は物入りとならない
知五
ょう倹約をもって臨むこと
、
などが王府レベル
の「近世の論理
」で
ある
。したがって
、祭犯
・
儀礼をめぐって
民衆のH神あそびμ観念と
王府の
H制民μ策が
、
いいかえ
る
と
、
「肯琉球 の論理」と「近世(鈎) の論理」とが、
近甘い琉球を舞台にするどく対立していた構図を見出すことができるのである。
こうした対立の構図は、
神女や忠一硯をめぐっても発生している。やけ旦王府の中で取次職として重要 な位置を内めてきた打里域内の神女たち、
国家祭犯を担う聞得大打以下の神女たちが近世においては 例外なしに地位
・
役割を制限され、
結果としてその職能の地盤沈下を生み出している。
+円琉球におい てすでに存在し活動していたと見られるトキ
・ユ
タなどの亙硯にしても、
近世に入ると禁圧の対象と
なり
、
死刑に処
された者が確認できるほか
、
「時よた科定」などの取締
り
・
罰則規定すら笠場するよう
になってい
(
的。
しかしながら
、
「 近世の論理」
をふりかざして規
制
・
禁圧を推進したにもかかわらず
、
村女組織そのものを廃止するまでには至っておらず、
トキ・
ユタなどの忍硯を根絶することもとうて いできない相談で
あった
。たしかに
、「
近刊の論理」は
、
「古琉球の論理」をある而
では克服するこ
と
ができたものの、
所期の目的通りに「古琉球の論理」
を完全に越えることはできなかった。
それは、
王府のHH制民HH策が民衆の
HH神あそびμを当初の口標通りに誘導できなかったことによく象徴されて
おり、
このような図式にしばしば触れるたびに、
古琉球の重みを、
改めて痛感せざるをえないのであ る
3
近世琉球への転換点 信者は琉球史の時代区分の中で、
+円琉球の終点は万肝三十七年三六O九)の応沖付入事件であると
したが、
これは区分上の目安であって、
厳密にいえば右に挙げた事例に象徴さ
れる
よ う
に、「古琉球
古琉球評価の視点
の論理」は近世琉球の中に流れ込み、「近世の論理」と衝突
・
妥協をくりかえし な が ら
、
同時に近世 琉球を規定しつつ徐々に衰退して行った、とすべきである。しかしながら、
近世琉球の側に内却を置い
て考える時、
古琉球はある時点で基本的に終了し、
あとは近世琉球が好余耐折を重ねながら自らを形
成する時代、
と捉えなければならない。
薩摩を介して幕落体制の一環に編成される従印刷的な王国の段 階が近世琉球であったとしても、
近世琉球もまた古琉球同様に、
この島々で社会を形成し主体的に庇 史を枠内んできた人々の足跡であった。
253
れている一つの転換のシェーマ 最近の近問琉球史研究の第一線の研究者の問で
、
ほぽ共通に確認しようしよう寸んがある。向象貨の摂政則三六六六
1
一六七三)から奈川仰の三司代期(一七二八i
一七五二)に至る時期、
254
すなわち十七世紀後半から十八世紀初中期の時期に首里王府の近世的政治行政路線が確立されるが
、
その基本的枠組は
、
向象賢段階に準備され禁温段階に至って完成する、
というシェーマである。たと古琉球とその立高
えば
、
祭砲や神女・
亙親に対する規制措置を見ても、
その規制の論理はすでに「
羽地仕置』
の中に総論として見出され、薬温の時期に布達されたさまざまな文書の中で各論として体系化されていること
がわかる。この背景には糸数兼治が指摘しているように、王府為政者の側の「亙術的非合理的な世界
から理性的合理的な世界への転換」を図る画策があり、向象賢から奈温につらなる治者のイデオロギ
第五
ーの深化、とくに奈温に至って
、
「儒教思想ことに朱子学を体系的に受容し現実の政治実践の中にこ(お)れを十分に生か」すことができたという思想史上の事情も横たわっている。
また、この時期は急激な
人口上昇期に相当しており、
向象賢段階から禁温段階に至るまでに人口規模は了五倍に増え、
人口(幻)の都市H町方化、諸士化の動きが顕著であった。土地利用の変化、つまり旧来の迫田式の田地に加え
て海岸低地の開発が本格的に進行し、
集落の立地および再編が広汎に展開されるのもこの時期を重要
(お)な契機としている。特筆されるのは、
近世的な身分制を確立したのがこの時期であったことだろう。
向象賢段階においてすでに身分・地位の差別、
序列化路線は開始されており、これを承けて康照二十
八年(一六八九)に王府部内に系図座を設置して本格的な系図家譜の編集をおこなってお
り、系図をも
っ身分を系持H士、
もたない身分を無系H百姓とする士農分離の特異な原則を敷常備してい
(初
日 こ
の原
則は先島に対しては茶温段階の斑正七年(一七二九)に実施
され、ここに近世琉球の統治を担う身分が
新しい制度のもとに確定されることになったのである。
このように
、
向象賢から禁温に至る時期は、
「近世の論理」
が「古琉球の論理」を凌駕していく→速の転換のプロセスだったのであり、行旦王府が近世期の新たな状況に対応するために自己とその機
能を再編
・
強化していく時期であったといえよう。古琉球の終駕という事態にひきつけてその推移をながめると、古琉球的枠組を否定し近世琉球への転換軸を準備した向象賢の施政が一つの目安になる
と思う。この目安は、本編ですでに触れたように、古琉球辞令軒が島津侵入事件によって変化し過渡
期辞令舎を生み
、
古琉球辞令書的性格を濃厚にとどめていた過渡期辞令書が、
向象賢治政下において廃され近世琉球辞令書へ転化する
、
という辞令書形式の歴史にみごとに符合しているといわなければならない。この問題に関して安良城盛昭も、「一言でいうならば、
「
羽地仕置』の以前の段階は、辞令古琉球評価の視長
書という首旦王府から出される役職の任命書によって琉球王肉の政治的秩序が編成されている体制だ
ったわけです。それに対して向象賢の改革以後は、辞令拝ではなく系図によって、つまり系持ちであ るか無系かが政治的秩序編成の基礎となる、そのような社会に移り変わっていくのです。そういう芯
味で
、
この時期はたいへん大きな転換点であらねばならないと同時に
、
この転換は、
回行信仰・
祭杷(ぬ)等にも深い杉山静H変化をもたらしているのです」、
と拘摘している。255
たしかに古琉
球は政治的軍事的に日津位入事件によって終止符を
打たれるが
、
しかし、
施策体系の而では印象賢段階において終息させられることになった。
にもかかわらず、肯琉球において形成
れ
256
た「論理」は近世琉球社会の底流に依然として存在しつづけ
、
「近川の論理」としばしば対立しながら、近世社会の展開そのものを規定する「論理」の一つとして強制な役制を発揮し
た、
という点も銘
合流L.I<とその.0:1色
記すべきだと思う。
4
むすびにかえて
木舎における隼者の課題は、辞令守口という文丹のもつ史料的な可能性に依拠して古琉球後期におけ
m五
る琉球王国の内部状況を垣間見ることにあった。
たしかに、個々の辞令書は断片的内容のものであり、限定された記述を載せて雁史の時間帯に秩序
なく点在するにすぎない。歴史家の仕事は、まずこの文丹を収集し、これを年代順に泥べて、砕令乃
のたどった軌跡を把握することからはじまる。と同時に、この文力がどこから-発給されどこに述する
ものだったのかを検討し、受給者の居住地を地図に印し昨令市刊の・ML間的な広がりを確めねばならない。
単純なこの基礎作業から得られる結論は、辞令詐の歴史が琉球王国の歴史そのものであり、辞令計の
広がりが琉球王国そのものの空間である、という点であった。つまり、辞令書は王国の一部であり、
王国は辞令丹にその姿を百按反映している
、
という事実であった。右の点をふまえて、
いよいよ文一向の解読にとりかかるわけであるが、その際、一定の段式に文えられた辞令科の形式を把犯し
、
そのう
えで分析のための手がかりを得る必要があった。この形式の検討が辞令持の構成要件の問題とともに
、
辞令市μの変遷を明らかにす
る糸口となったのである
。
あとは文面をじ
っくり読み込み
、
そこからでき うるかぎりの情報を引き出す作業となるわけだが、
未詳訴も多く、
正直いって作業は難渋した。
しか
し
、
未詳訴は未詳江川として残し、判明した情報のみを取り集めて
、それ
らをテ lマごとにグル1ピン
グし、
グループ問の関係を考えることを目標と
した。
そして、
そこから琉球王国がどう見えてくるか に最大の関心を置いた。
右の作業過ねで年者を支えてくれたの
は、
琉球史研究のありかたに根底的な吟味を加え
、研
究の方
向に明快な展望を与えるとともに、
その具体的な例示として辞令書のもつ可能性を示した安良披盛昭
の先駆
的な仕事であった
。
安良城は筆者に
、
「たとえていえば史料は楽器のよ
うなもので
あ
る。同じ
楽甲府ではあっても、
抑きこなす人によって発する音色が違う。
演奏者としての歴史家の責務はこの楽
T片琉球評価の視点
探のもつ可能性をいかに引き出すかである」
、と
いう趣旨のアドバイスをしばしばしてくれた
のであ
るが、
辞令刊の科き方を具体的に実践してくれた安良城の仕事が筆者にとっていかに心強い導きの糸 になったか、
このことを特に明記しておきたい。筆者を支えた今一つの存在は、『おもろ
さうし』と
格闘しながら、
琉球史の存在理由および古琉球の意義を力説してやまなかった伊波普猷である。
限り
257
ないお久的をこめて「古琉球」という一一一一日架を立識的に多用したこの先学は、
当時の研究状況下において
(出)
古琉球の政治』にお
独門性を抹殺
れかかっていた古
琉球の内而に深く
分け入り
、
たとえば、
主著 いて、「日本民族の一支族が、異なった境迎の下に白かれて、
どう変化したか」、
その重々しい歴史の
中に古琉球独白の世界を位置づけ描いて見せたのであった。彼の仕事に一貫して流れる古琉球像は
、
258
王国を形成して独白の歴史的営みを重ねた時代としてのそれであり、この島々に住む人々の営為が最
古琉球とその窓�
も口出澗達であった時代のそれであ
る。
このような古琉球をもつことによって「変格に
な っ た
琉球
人」が、複雑な過程を経て日本という「団体」に加わるのが、その後の琉球史の軌跡であった
と、
彼
は述べている。
右の二人の先学の仕事と出会うことがなかったなら
、
おそらく筆者が古琉球や辞令書に深い関心を第五
いだくことはなかったであろう。同時にまた、独自の国家としてまぎれもなく存在してきたところの
琉球王国のアイデソティティを、辞令書によって回復する、という課題に触れ合うこともなかったに
〉,
、母、
‘、
IVf刀1VJωt、o
本科で筆者が提示した古琉球像は、ある体系だった研究の結論としてかれたものではない。先手
のすぐれた精神と仕事に学びながら、筆者臼身が辞令書やそれを生んだ古琉球とどう向い合ったか、
また
、
向き合い対話を重ねる中で琉球王同の尖像をいかに垣間見たか、
そして、
垣間見た成果を頼りに古琉球をどう評価すべきだと考えるに至ったか、といった作業現場を公開した程度のものにすぎな
、。'LV
肯琉球H琉球王国研究のためのタタキ台のつもりで舎かれた木古を一つの契機として
、
研究者の間で議論がますます深められ、古琉球u琉球王国に対する正当な評価が形成されることを期待せずには
おれない。
注
(1 ) 2( ) (3 ) (4 )
(5)
古琉球J'f-ÍI凶のf>l点
冨山川問。何別に発表した論文を集成したもので、
一八滑にわたって琉球史を通論している。
『沖縄タイムス』一九八一年十二月四!八日(四日)。
北品正元一耐『近世の支配体制と社会構造』所収、
吉川弘文館、一九八三年。
竹内理主制『統荘園制と武家社会』所収、
吉川弘文館、一九七八年。
拙稿「『琉球王国』の評価||仲松弥秀氏の見解
をど
う見るか」(『沖縄タイムス』一九八一年十二刀九
l十一一一口)。(6)市一要文化財弔陵伐ぽ修理委日以会、一九七七年。(7)拙稿「玉御殿の石厨子銘告についてーーー仲松日高城説的解釈の問題点」(『沖縄史料編集所紀要』第九号、一九八四年)に発表した。
(8)「『琉球王国存否』について」一九八一年十二月六日。
(9)「沖縄文化研究の課題と姿勢について||琉球王国をどうみるか」(大林太良他編『シンポジウム沖縄の
古代文化』所収、小学館、一九八三年)五0ページ。なお、
仲松のこの文章は収録本と同名のシンポジウ
ムにおける基調報告であり、
同シンポにおいて筆者は司会兼パネラーであ
った。筆者と仲松のシンポにお
ける論議は右の本に収められており、
その後の「論争」の経過については拙稿「玉御殿の石厨子銘在につ
いて」を参照。
(叩)『金石文||歴史資料調査報告書V
』(沖縄弘教育委μ会、
笠宮な金石文が収められている。
259
一九八五年)に古琉球時代の王の称勺を知る
一九七O年)所収。
260
(日)
『那
覇市史』資料お第一巻2(那朝市役所、
(ロ)所載は注(7〉に同じ。
(臼)朝尾直弘他編『日本の社会史』第一巻(岩波書店、一九八七年〉所収。
(M)前掲大林太良他編
『シ ンポジウム沖縄の古代文化』二八
・二
九ペー
ジ。
(日)同右三八ページ。
(日)同右四三・四四ページ。
(口)同右五七ページ。
(日)伝統と現代社、一九七五年。
(四)沖縄タイムス社、一九七七年。
(却)『新・沖縄史論』六七・六八ページ.
(幻)『思想』七三二号、一九八五年。
(幻)歴史学研究会・日本史研究会制『誹凶日本版史』4、東京大学出版会、
(幻)『新・沖縄史論』第一部第三論文。
(加)
この矛盾の一端を笠見山和行「首里王府の祭配規制策と西表||投耕儀礼との関連から」(『地域と文
化』第四0・四一合併号、一九八七年)が若干の事例を挙げつつ具体的に指摘している。
(お)拙稿「首里王府とトキ・ユタ禁圧||近世琉球におけるユタ問題の構造」(『沖縄史料編集所紀要』知一
OH守、一九八五年)参照。
(お)「察温と朱子学11近世琉球におけるその思想史上の位置づけ」(『球陽論叢』所収、ひるぎ社、
六年)。
古琉球とその立高 第五
一九八五年。
一九八
〈幻)拙稿「人口から見た朝燕の時代」(玉城朝京生誕三百年記念事業会展示委員会編『琉球芸能の世紀』所
収、
一九
八四年)多照。
(お)たとえば、
小川徹の「久米自民俗社会の基盤ll水田造営形態と集落移動の関係
について」(沖縄久米
島調査委員会編『沖縄久米島』所収、
弘文堂、
一九八二年)は久米島の詳細な調査・分析に基づき、「あ
えていえば、古代以降の神事優先的な村落生活、つまり神政時代が終りを告げ、封建下の世俗的な村落生
活の優位が始まろうとしていた。神祭りのための米作りから、
貢租の対象としての米作りを目指す意識が
これ以後農耕生活を支配する。
しかし近世はなおこの新旧の伝統が併立しえた時代であった」、
と注目すべき提示をおこなっている。なお、沖縄島北部の羽地一帯の即地的な調査としては中村誠司・仲原弘哲
「羽地間切竿入帳の分析||実地的検討に向けて」(『地域と文化』第三三号、
一九八五年)、安県進「近世
羽地間切の村と耕地||『羽地間切竿入帳』の考古学的検討」(『地域と文化』第三四号、
一九八五年)などのすぐれた成果があり、土地利用の変化と集落(シマ、村)の関係を考える示唆的な提示が含まれている。(m) (初)(出)
回名真之「琉球家諮の成立とその怠義」(『沖縄史料編集所紀要』第四号、
『新・沖縄史論』一五ページ。
『伊波普猷全集』第一巻(平凡社、 一九七九年)参照。
一九七四年〉所収。
261
262
〔付録〕残存古琉球辞令書一覧(合過渡期辞令升)
〔付録〕残存古琉球辞令書一覧
263
〔凡例〕残存の確認できる五四点の古琉球辞令押を叙任
型、
折衷型および得分規制何型に二分し
て掲げ、
安ヰのため過波期辞令書一九点も併せて示した。
配列は年代順とし、
奄美・沖縄・先 島三地域の医別、受給者名、主な給与内容を
一覧できるよう工夫した
。容せ下のカタカナは本 持引用の分を示す。
各辞令書の出所については『昨令乃等肯文計調査報告芹』(沖縄県教育委
民会、一九七九年)、
拙著『沖縄挺
史論序説』(一三代川ω、一九八O年)第一部E
論文を参照さ れたい。
ただし、
この一覧表には両告発表以後に発μされたものが数点含まれている。
No
年 叙任型昨令書
同王 I 6 5 4 3 2 1
(セ) (ス) (シ) (一五四五 一五四一 一五三七 コ一五三六) 一五二九 ("対一五二三 8 7
(斗一五凶八
一五五一
27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9
(キ) 一五六三 一五六二 一五六O 一五五六 一五五凶 (吋一五五四
(拡哨一五六八
一五六八一五六九
一五七一
一五七二
一五七二
一五七九
一五七九
一五八二
一五八三
一五八四
一五八七
イt
UJリH1.、FhuよいlJノ44・
尚治3
nu
句・ムーi司1ム戸hd‘,ムハ可u噌IA口。円ノU
no n4
尚元1
Fhu
尚 年
永 間
15 12 11 10 7 7 17 17 16 14 13 13
'-/
8 7 25 22地 域 勢出店ヒキのシホタルモイ文子 元の首型大屋子の子チヤクモイ 北の時理の口舎 南風の昨理の天久の大屋子もい 円Uカネ昨理のマサブロ文子 市凪の昨理の天久の大屋子もい
m. メ、
給
者 河1 11'沖沖奄沖 縄純利組長制 沖奄
純美 東の首川よ大屋子 南風の庫理の儀間金城の大屋子も
、しV謝園山ヒキの沢の捉
タラツイハγ
名音の提
北の障理の瀬底の大屋子もい 市凪の呼理の大慌の大屋子もい い間風の昨理の大嶺の大尾子もい 笠利のヒガセ
ト
立日瀬大屋子
喜瀬大屋子 元のノロの妹エクカタル 名柄の捉
大和浜口差
瀬戸内束のアクニヤ目差
屋喜内の大屋子
南風の伴理の束の首旦大屋子
元の大阿母の姪オトマスモイ
元のノロの姪ツル
元のノロの子マカトウ
元のノロの姪マクモ
奄ド1]奄沖奄奄奄奄奄奄奄奄奄沖沖沖奄奄奄 美純美縄芙美美夫美美美英美縄純利美英美
与
内
"'"
仕 給 波山川船タカラ丸の官令職 奴利川切の宇桁
の大臣
子職 間以川切の天久のmι主所 波山船世継むの船頭職 波十附蛮船勢治荒芯の筑殿職 打ハ和志間切の俄問の金城の旦主所
瀬戸内西間切の西の大屋子職
真和志間切の儀聞の里主所
喜界の志戸桶間切の大城の大屋子職
屋高内間切の名音の提職
屋喜内間切の名柄の捉峨
山一足比城間切の大嶺の里主所
相応沼ヒキの家来赤頭の船頭職
勢治荒富ヒキの虫主部家来亦頭の船頭職 瀬戸内東間切の首里大屋子職 笠利の首里大屋子職 瀬戸内東間切の首里大屋子職
喜界の東間切の阿伝ノロ職
瀬戸内東間切のアキニヤ日差職
屋喜内間切の屋喜内の大屋子職
屋喜内間切のサキハル目差職
屋喜内間切の部連の大屋子職
名瀬間切の首史大屋子職
那覇の大阿母職
屋嘉内間切の名柄ノロ職
金武間切の恩納ノロ職
名瀬間切の大熊ノロ峨