九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
琉球王国史の基礎的研究
高良, 倉吉
https://doi.org/10.11501/3065585
出版情報:Kyushu University, 1992, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
「察温とその時代」 への視点
禁温(具志頭親方文若)は一六八二年旧暦九月二十五日、久米村に生まれた。今からかぞえるとちょうど三OO年前のことである。広く知られているように、彼の残した事蹟はまことに巨大であり、琉球史の「スーパースタl」の一人としてその名は不朽の地位を占めている。
Aev '-、♂、 、 乎hムμ
つくづく考えてみると、察温に関する私たちの知識はきわめて限られている。研究もほんのかぞえる程度しかない。有名人物であるわりには究明がほとんどなされていない、
というのが察温研究のいつわらざる実情であろう
と思う。察温が活躍した十八世紀前葉は近世琉球のほぼ中間に位置しており、
歴史的にもかなり重要な意義をおよびた段階であった。察温はその時代を代表する政治家であり
、
学者・
思想家であった。政治家としての彼の使命は、
十七世紀中期i後期にあの向象賢(羽地王子朝秀)
によって確立された政治路線を継承し完成させることであった。
察温の政治を細かく分析し、
個別的施政をいくつかの大きな柱に整理してみると、
その柱のほとんどが向象賢路線につながっているとことがわかる。
従来の察温論に決定的に欠けていたのは
、右のようなマクロ的視点であった。察温の政治とは何か、彼の政治はそ
れ以前の政治とどのようにつながっているのか、
また、
彼の政治はそれ以後の政治をどのように規定したのか、
とい
う問題を具体的に検討する眼をもたなかった。つまり、近世琉球全体の大きな動向の中で禁温とその政治をとらえる
、
という視点を欠落させていた。そのような状況下では、察温という人物を具体的にうかびあがらせる仕事は出てこな
し、
。
向象賢から察温につながる政治路線の基本的な枠組とは、
私の理解によれば次のような問題であった。一六O九年の島津侵入事件を契機に、琉球王国は薩摩藩を介して日本の封建国家体制(幕藩体制)の一環に明瞭に
編成された。このことにより、王国内に困難な主要課題が生じることになった。それは、古琉球においてすでに確立
していた琉球社会(いうまでもなくその総括的表現が琉球王国である)の伝統と
、
薩摩藩を介してあらたに導入されてくる幕藩体制の論理とをどのように調整し、琉球の近世体制εつくりへと止揚をはかるか、という問題であった。
この問題に対処する方法は三つしか考えられない。
一つ
は、幕藩体制の論理を徹底的に導入し、琉球社会の伝統と
いう衣を完全に脱ぎ去って、幕藩体制の論理にすっかり衣替えした社会を実現する、というやりかたである。今一つ
近世琉球史分析のための若干の課題
はその逆の方法で、琉球社会の伝統に徹底的に固執し、幕藩体制の論理をできるだけ排除するという方式である。
つ自の方法は、両者の中間型
・
折衷型ともいうべきもので、琉球社会の伝統と幕藩体制の論理とを対照し、とるべき
もの、捨てるべきもの、妥協すへきものを各面にわたって検討して実施するというやりかたである。
向象賢から禁温にいたる首里王府の基本路線は
、
右の三つの方式のうちどれを採用したものだったのか、
この点を私たちは十分に検討してかかる、べきである。そ
し
て、
その路線設定にあたって向象賢や察温の果した役割を、
彼らの個人レベルにおいてではなく、首里王府の意志決定者レベルの問題として論ずべきだと思う。むろん一つの方法の
第7章るまでもない。 状況をきちんと把握したうえで論ずべきである点はことわ中のある方法H政治路線が決定推進されていく時の条件
qペU 1i 丹、U
一 一
-
3 1 2-
察温は、
たしかにすぐれた政治家であったと思う。
しかし、彼の政治家としての資質は、彼がおこなった政治的業 績を平板に羅列しても評価
しきれるものではない
。問題なのは
、彼の政治の構造であり、
その構造の近世琉球にとっ
ての位置なのである
。こ
こにいたってはじめて、彼の政
治家としての
苦闘
・
苦心を実体的に理解することができるの
ではないか。
やはり、奈温のような傑出した人物
も、あらゆる意味で「時代の子」であろう。
となれば、
二七O年におよぶ近世 琉球というひとつの時代を鏡にして彼とその生きた時代をうつしだす努力が必要
だ。
同時にまた、禁温とその時代を 鏡にして近世琉球の現実をうつしだす方法が必要だ、
と私が思うのは当然の話であろう。
さて、次に問題となるのは察温その人のことであろう。
彼は、周知のように
『自叙伝』『独物語』をはじめとする 多くの著作を書き残している。
彼が三司官という要職にあって
、
さまざまに展開したところの施策を検討しうる史料 もかなり残されている。
それらの中には、察温という人物の物の考えかた、性格、
器量などを把握できる材料もかな
り含まれている。
だが、残念なことに、察温関連史料をトータルに把握した察温論はま
だ書かれてはいない。
禁温の生涯を細かく詮
索した年譜的研究も全く不十分のままである。
はやい話、『自叙伝』の成立年代を実証的に確定した研究を私たちは まだもってはいないのである。
これが研究のいつわらざる実情だと思う。
たしかに、伊波普猷以来、察温は多くの研究者によって論じられてはきた。
評価(ハンガー)事件のこと、仙山対
策のこと、
羽地川改修工事のこと、平敷屋朝敏事件のこと、『御教条』や
『農務帳』に見る施策のこと、『中山世譜』
重修のこと、先島の強制移住のこと、
など話題はさまざま提供されている。
それらの施策
・
事件に察温が具しかし、
体的にどのように関与していたのか、
それらは禁温政治の枠組の中でどのように位置づけられるものなのか、
こうし
た疑問に従来の研究はほとんどこたえてはくれない。たとえば仙山対策の問題だが、なぜそのような対策が必要だったのか、その対策は、先島を含む各地にどのように
浸透し、各地域社会にいかなるインパクトを与えたのか、旧来の研究では全く問題にもされてこなかった。あるいは
先島の強制移住の問題、本当に察温のアイディアなのかいかなる背景の下で強制移住はおこなわれたのか、その実
際はとうなのか、これらの問題を掘り下げる形で察温との関連が検討されたこともない。
あるいはまた、こういう問題はどうだろう。察温は儒学
、
その中でも実践的かつ実学的な性格をもっ陽明学を勉強したのではないか、とよくいわれるけれども
、
では、
彼の残した仕事・
著作の中にそのような性格をどう具体的に見つけ出すことができるのか、その根拠を示した研究は全く書かれてレない。
ようするに、私たちはまだ察温の内側に入るだけの蓄積をもってはレないのである。近世琉球の中に察温をおいて
観察する方法と同時に、右に述べたような、彼の内側から当の察温像を見るという方法がなお依然として残っている
近世琉球史分析のための若干の課題
のであり、この現実を直視すべきだと思う。
旧来の察温論に不満な点が今一つある。それは
、
禁温とその時代を論ずる際に、
先島をはじめとする各地域の状況が基本的に軽視されていることだ。
向象賢路線の完成段階ともいえる察温の政治は、それが巨大であればあるほど琉球全域に多くの影響をおよぼした
であろうことは容易に推察できる。
察温が三司官の地位にあった一七二八年から五二年までの約二五年間に、たとえば先島では系図家譜の編集がおこ
第7京が
、
し」変死「件での一松立柏山仕上雲大山親番は在で八重山に年関係者が流罪などの強制処分を七四六一なわれうけた。
伊是名では銘苅家が夫地頭でありながら譜代士に叙せられ系図家譜の所有を認められており、
また、諸要津
-314- -315
に配置されていた
人の諸浦在番が一七三八年から異国力
・
抜荷のほかに地方行政に関与する性格変化がおこっている。
こうした各地に発生した事態と奈温政治はどのように関連するのか、
やはり全琉球レベルの状況をカウントに
いれたうえで察温政治は論議されるべきだ。
察温政治の守備範囲は決して首里
・
那覇だけだったのではなく全琉球におよんでいた。
その彼の政治の守備範囲に即して、
私たちもまた、
実態に迫る努力をする必要があると考える。
以上、「察温とその時代」をとらえる際
に、
①近世琉球の基本的動向の中で考える、
②察温の内側に分け入って考
える
、 ③
全琉球レへ
ルで考える、
とレう三つの視点が必要なことを力説したつもりである。
そのほかに、今
、
私自身が最も興味をいだいているテlマこ即してつけくわえるとすれば、
奈温が「スーパースタl」
であるだけにかえって、近世
琉球の歴史から落ちこぼれてしまっている名もなき人々の足跡に立って「察温とその時 代」を見るべきである、といいたい。「階級的視点」などというえらそうなことをいっているのではない。農民
・
下 級士族はもとより遊女、
ユ夕、
流入、
船頭、
水主、
滞在人など近世琉球を無名のまま注視されることもなく生きた人 々(人口の大半はこれらの人々である)の歴史を掘りかえし、その地点に立脚しながら「察温とその時代」を見る視
点がとうしても必要だということをいレたいだけである。
さて、以上によって察温にまつわるいかなる歴史が見えてくるか、それを説く前に私自身が勉強しなければならな
いテーマがまだ山ほども残っている。
〈付記〉ゾンポジウム「察温とその時代」に向けて私は琉球新報一九八年九月十五日朝刊に「なぜ察温が重
要か」を書いた。部その文章と重複している。本節は
四
王国時代の泡盛
ウンシャク酒
一円七七年、朝鮮済州島の漁民、金非衣ら三人が与郡国島に漂着した。やがて
、
彼らま八重山・
宮古の島々を経由して那覇に護送されたのち、琉球国王のはからレで無事故国に送還されてレるが、帰国後、見聞した琉球の国情につ
いて朝鮮当局に報告をおこなっている(『李朝実録』)。
近世琉球史分析のための若干の課題
その報告によれば、与那国の島びとの手厚い介抱をうけ酒食を供された時、彼らが飲んだ酒は「濁酒」であったと
ぜ ト し ゅ
いう。「
この島には濁酒はあるが清酒はない。濁酒のつくりかたは、 米 を水に漬けておき
、
そのあとでそれを女に口きおふけ
でかませて粥となし、さらにそれを木桶に入れて三、四日醸すと酒になる。非常に軽い酒で、さく・4h L ち484
一五三四年に来琉した中国の冊封使・
陳侃も「琉球の造酒法に、
いくら飲んでもちょっびりしか酔わない」とある。米を水に漬け向日か寝
かせたあと
、
婦人がそれを口でかんでつくるものがありという」(『使琉球録』この酒を米奇(ミキと報告している。
以上の一
ち冷人
つの報告から、十五、六世紀の沖縄にいわゆる「口噛の酒」ともいうべき「濁酒」「米奇」が造酒され飲
m7皐
まれていた事実を知ることができる。
唾液中の酵素を利用してアルコール発酵させる円噛みの酒
ガメ ン
つまり阻噛酒を沖縄ではミキ、
ウンシャク、
-
31 6ー
-317-
コなどと称しており、
地域によっては戦前までつくられていた
平敷令治「食制」、『沖縄県史』第二二巻)。この酒
は、おそらく最も肯い酒と見られ、沖縄で米
・
麦などの穀類農耕が木格化するグスク時代、つまり卜二世紀頃までさかのぼる可能性がある。
飲めや歌えやといった式の宴酒というよりも、
もっぱら神事に用いられる儀礼酒、
聖酒であ
った。たとえば
、 米
・
麦の刈り入れをすませたあと、初穂を口でかみ、(米・
麦を臼でっき、それを水でう
シルマシ
すめたもの)にまぜて酒をつくり、それを神前に捧げて豊作を感謝する儀礼などがそれにあたる。米
・
麦をかむのは 女性でなければならなかった点もこの酒が聖なる儀礼酒であったことを示唆しているといえよう。
沖縄のこの口噛みの酒を
」こではウンシャク酒と総称しておきたレ。
シゲチ酒
五八七年の伊平屋の首里大屋子にあてられた辞令書を見ると
興味ぶかレことに、酒が国王に対する貢物の一つ
であったことがわかる。「正月みかない(貢物)」として「御さけ」を納入すベし、
とする規定が辞令
の文面に登場
するからである。
」の事実は古一謡オモロでも確認することができる。
たとえば
「名護境に来たから
あ h や ふ
安和
・
屋部の酒を運んできたから」
という羽二 地L の 酒
我を入れよ門をあけて
意味のオモロがある。オモロにはまた、「さけょせが、ちゃうぐち」(酒寄せの門口)なる表現があり、貢酒を運び入れ
る城門の意、転じて按司(アヂ)のほめことばとして用いられている。
貢物としての酒とは
なら、 一体どのような酒だったのだろうか。口噛みの酒、ウンシャク酒とはとても思えない。
なぜ ぜ な
やι4・。ウンシャク酒は保存のきくようなものではなく、伊是名
・
伊平屋の両島や山原から数日かけて首里に運ぶような酒ではなかったからである戸先の朝鮮漂流民は、「渇酒」は長くおくとすえて飲めなくなる酒、と説明している)。
そこでオモロを調べてみると、
「さけ」「みき」「しげち」「ぜに」などの言葉が登場する。
これらの言葉はレずれも
酒を指しており、
そのほかに
「
さけかめ」「
みきかめ」「
しげちかめ」
などの用例も登場し、
サケ・
ミキ・
シゲチが斐入りの酒であり
、 保 存のきく酒であったことを示唆している。オモロで「さけくに
」 「
みきくに」とうたわれる時は、
酒
・
仲 酔 がゆたかに産する土地
、
穀物の豊富な土地のことであり、 転 じてその地域の美称として用いられた。たとえ
ば、英祖をうたったものと
いわれる次の有名なオモロもその一つである。
ゑぞのいくさもひ(伊祖の英祖さま) 月のかずあすびたち
月ごとに祝宴をひらいて) ともLとわかてだはやせ永遠に、英祖さまを讃えよ) 又
いぢへきいくさもいすぐれた英祖さま 又
夏はシゲチを盛り)なつはしげちもる
近位琉球史分析のための若干の課題
ふよは御さけもる冬は御酒を盛る)又
あ l 按司の祝宴にシゲチ
・
サケがふるまわれており、
酒を飲むことは按司の霊力(セヂ)
の高さをほめたたえることを なか〈すく(池宮正治「酒と土地と太陽的人物」)。久米島の中城グスク意味していたことがわかる(字江城グスクのこと) 按司をほめたたえたオモロにも、「冬は御酒を盛り、
夏はシゲチを盛る」とあり、また、
浦添をたたえたオモロにも
「浦添にはミキがあるぞ、サケがあるぞ」とうたわれている。
サケ
・
ミキ・
シゲチなどは明らかにウ、ゾャク酒とは別物の酒である。たしかにこれらの酒
以上の用例からすると、
第7'Y
も、ウンシャク酒同様に儀礼酒
・
聖酒としての性格をもっていたとは思うが、
ウンゾャク酒にくらべるとより娯楽性
のつよい酒だといわなければならない。貢酒に指定され、按司の祝宴に供され飲まれる酒、
という事実がこのことを
の
-318- -319-
裏づけているのではないか。
」れらの酒を仮にシゲチの名で総称すると
シゲチ酒の多くはおそらく「どぶろく」のようなものであり
その中 の一部が蒸留酒H「清酒」の域に達するものであった。
そして、その中の蒸留酒の類が貢物として王に捧げられるも
のであった
、
と推測される。舶来酒の状況
このように、古琉球時代の沖縄にはウンゾャク酒ソゲチ酒とよぶべき二種類の酒がすでに存在していた。こうし
た酒文化のなかから泡盛はいかなる経緯で登場することになったのか。
先の金非衣らの報告によれば、首里、那覇
には
「清酒
円〈JV ハリvnfH 」 「濁酒」があり、そのなかの「清酒
」は
朝鮮の酒に類似し
ていたという。「そのほかに、南蛮国の酒もある。黄色っぽい色をしており、味は焼酒に似て非常に強く、一、三杯
飲んだだけでたちまち酔ってしまう」という記述がある伊波普猷「朝鮮人の漂流記に現れた一五世紀の南島」)。
一五三四年来琉の陳侃も『使琉球録』のなかで
、
「王が進めてくれた酒は清酒であった。強い酒で、
ゾャムより伝来したものであるらしい。わが国(中国)の露酒に似ている」と報告している。陳侃のいう「露酒」は単に「露」
とも書き、中国では匂いや香りの強い酒の意味で使われる。
二つの証言を総合すると、琉球王国の中央には「濁酒」(ウンシャク酒およびシゲチ酒のなかの「どぶろく」的な
ものを指すか)と「清酒」(シゲチ酒のなかの蒸留酒を指すか)から輸の二種があり、その他に外国(東国アジア)
入された酒があった。そのうち「清酒」は朝鮮の酒に類似し、舶来の酒はシャム伝来のもので中国の「露酒」に近い
ものであった。となると、泡盛の歴史を検討しようとする時、ウンシャク酒やシゲチ酒などの琉球伝統の酒文化のま Lハ'F
」 、 1t
外国からもたらされた酒文化の影響を念頭におく必要のあることがわかってくる。,L.
二円 かニうL , λ円句AZA--円斗〈L ,
琉球王国の外交文書集『
歴代宝案』
は、 「
南蛮酒」「
天竺酒」 「
香花紅酒」「
蜜林檎香白酒」
などの酒類が輸入された 事実を-記録している。これらの酒は
、
榔子や果実などを原料につくられるもので、
東南アジアおよびイント産のお酒である。こうした南方産の酒類が大量に輸入されていたのである(同ogF〉-w宮ωZEP宮・月三}45口問巳ω円。
553己戸間22自己ωO己吾ωgnoSEg
-
-十六世紀初頭にポルトガル人トメ・
ピレスが著した報告にも「琉球人たちの間ではマラッカ産の酒がたいへん珍重される。かれらは、,ブランデーに似たその酒を大量に積荷する」と
記されている『東方諸国記』、生田滋ほか訳)。
マラッカ産の「Jブランデーに似た」酒一体いかなる酒だったのだろうか。残念ながらマラッカを含む東南アジア
地戚の多くがイスラム化してしまい、
-321-
酒文化が伝わらない現在においては確かめる術がない。しかし、『歴代宝案』
の記す舶来の酒とあわせて考えるならeI、東南アジアこ豊富な果実を用いた酒の類であったのだろう。それらの酒は、
近i吐琉球史分析のための若干の課題
おそらく南蛮斐に収められ、南ゾナ海、そして東ゾナ海の荒海を越えて郡覇にもたらされたと思われる。海外貿易はおものぐすなやかなりし頃の公倉「御物城」(那覇港の中にあった)ま「酒庫」とも呼ばれており
、事
実、その中に斐入りの南
蛮酒が山積みになっている模様を朝鮮漂流民は目撃しているのである。
以上の点から、当時の琉球王国が、主に東南アゾア産の酒類を大量に輸入し、それを珍重していたことを知ること
ができた。「黄色っぽい色をしており
、
味は焼酒に似て非常に強く、
二、三杯飲んだだけでたちまち酔ってしまう」南蛮国の酒
、
中国の「露酒」
に似たシャム伝来の「強い酒」
これらはいずれも琉球の大交易時代の渦中においても第7ìJr
たらされた輸入酒であった。
泡盛の誕生
朝鮮国王が「天竺酒」をぜひ一度飲んでみたいと琉球の使者に所望したので、次の使節が朝鮮に派遣された時、琉
球国王は天竺酒をもたせた。ところが
、
斐のふたを開けてみると中身は黒砂糖であったので使節は大いに恐縮し、の次の機会に約束どおり天竺酒を贈った
、
という有名なエピソードがある。このエピソードの裏には、琉球国王にお願いすれば天竺酒が手に入る
、
という前提がある。在来のウンゾャク酒
・
シゲチ酒のほかに、こうした舶来の酒が琉球に存在し、
貴人・
官人のあいだで珍重され、
た、賓客をもてなす際にふるまわれたのであった。むろん、自国で消費するだけでなく外国への輸出品としても用い
られた。当時の那覇は、東アジアの代表的な貿易港であり、国際都市であった。この港町には中国人
・
日本人それに東南アジア人が参集し、商売をいとなんでいた(申叔舟『海東諸国紀』)。当時の状況に照らすと、琉球人みずから外国で酒づくりを学んできたという可能性のほかに
、
居留外国人のなかに酒造技術をもっ者がいて、
彼らが酒づくりをもたらした点も念頭におく必要があろう。しかも、蒸留器の素材となる錫も東南アンアから大量に輸入されているので、酒
造技術一式が外国人によってもちこまれた可能性も想定しておきたいのである平敷令治「泡盛文化史抄」)。
泡盛はこうした歴史的背景をふまえて誕生した。誕生の経過は不明であるが、おそらく母は沖縄の風土、とくにそ
の風土が生んだシゲチ酒だったのではないか。そして、父は海外交流、より正確にはその交流によってもたらされた
外国産の酒および外国の酒造技術であったと思う(坂口謹一郎「君知るや名酒泡盛」)。「父」の出自は、中国南部か
ら東南アジアにかけての大稲作地帯であり、そこで生まれた米を原料とする蒸留酒と想定できる。それにまた、
マレ
|
半島を中心に生産された果実酒の系統も何らかのかかわりをもってレたのかもしれな
レ。
「母」は沖縄の風土に育ま れたンゲチ酒、たといったが、
おそらく黒麹菌がその正体であろう。
ジかしおん作ゆかιしん
東 納寛惇は恩「泡盛雑考」のなかン酒すと」」ラオロ「をタイの父で「る説
をとなえているが
、以上の文脈で評
価すると、
今なお妥当な想定の一つだといえよう。
なお、
泡盛誕生の時期で
あるが
、
東南アジ アとの貿易が最も活
発
であった十五世紀をひとまず想定してよいのでは
なかろうか。そして
、
十六世紀に入ってこの酒はしだいに
「琉球の
酒」として成長したはずであ
る。というのは一五七七年の
記録にすでに泡盛らしき酒が
外国への献上品として登場
するからである。
名酒への道
近ttそ琉球史分析のための若干の諜題
一六O九年春、
琉球王国は薩摩島津氏の送った三OOOの軍の前に破
れた。
敗北の王となった尚寧は囚われの身と すんぶなり、鹿児島に連行された後、駿府で徳川家康に
、
江戸で将軍秀忠に謁見したが、そのとき持参した献上品のなかに泡盛が含まれている。
近世に入ると、
泡盛は薩摩の殿様や徳川幕府の将軍への献上品の一つに加えられるようになる。
たとえば、東恩納
寛惇の研究によると、
琉球王国から将軍家に泡盛が献上されたのは十七世紀中葉から十九世紀までの近世全般におよ んでレる。注目されるのは一六五0年代まで「焼酒」と表記されていた泡盛が
一六七0年代になってはじめて「泡 盛酒」と表現されるようになったことであろう。
現在知られている史料のなかで「泡盛」なる言葉がはじめて登場
す
第7章るのは一六七一年であるから、「泡盛」の命名は近世期に入ってからである
日本の焼酒と
「泡盛雑考」)。おそらく
区別するために、泡盛の名を日本(具体的には薩摩
)側が与えたのであろう。
なぜなら、沖縄において泡盛は単にサ そ
ま
円ノ』円ノ白円〈d
qtu つ''】司ペリ
ケ
・
サキ酒)としかいわずこれを泡盛というようこなるのはごく最近のことだから。泡盛の語源については二説がある。その一つは、泡盛の蒸留の過程で泡立つ場面があり、その様相に由来するとす
る東恩納寛惇説である。今一つは、泡盛の原料がもともと粟であったことに由来するとする伊波普猷説である。明確
な結論は出ていないが、
今の
ところ前者が有力である。
泡盛を献上品として用いることになったため
、
品質の向上がめざされた。そのプロセスは、
同じ献上品となった漆器や御用布となった織物が、それぞれ技術の高度化をめざした事情によく似ている。
一六一四年の令達のなかで、薩摩は他国へ輸出してはならない琉球特産品の一つに「焼酒」(泡盛)をあげ、その
また
、
首里王府も御用酒確保のために首里の一一一勧(崎山・
赤田・
鳥堀の確保を図っており(『薩摩旧記雑録』後編)、称
に酒造家を限定しその管理をおこなっている。
献上品としての泡盛
、
王府管理下の泡盛づくり、といった事情は結果として泡盛そのものの高度化を決定づけたといってよい。こうして、海外貿易の活発な古琉球において誕生した泡盛は、薩摩支配下の近世において磨かれ、名酒
の地位を不動のものとするまでに発展するのである。
琉球から薩摩に届けられた泡盛は
、
さらに薩摩から将軍家あるいは幕府首脳に贈られた。ある時、薩摩から幕府に献呈すべき泡盛が不足したことがあった。不足分は薩摩藩の焼酎をつぎ足しては、という臣下の意見に対し時の殿様
は、「琉球の泡盛は単なる宴会用の酒とはわけがちがう。薬用としても貴重なものであり、それゆえに将軍様はじめ
諸侯はよろこばれるのだ。にもかかわらず、みだりに別物をまぜるとは言語道断だ」、と部をしかりつけたという
東恩納「泡盛雑考」)。
-七五六年に来琉した冊封使周埋も泡盛を飲んだあと、「この酒のうまさときたら、他にくらべるものがない」へ『琉
時M下回出土心腕叩U』と激賞している。
近世における泡盛の高度化は
このようなエピソ|卜や評価を引き出すまでの水準に 達したのである。
王府管理下の泡盛
肯里王府の行政機構のなかに
「銭蔵」「賦方」
は文字eとおりお金の意味もあった と呼ばれる役所があった。「銭」
が、
酒の代名詞としても用いられた
「‘ぜに」
銭蔵は王府御用の泡盛の出納を の用例があった点に注意)。
(オモロに
相一当するお役所
賦方は首里三箇の指定泡盛業者を管理するお役所であった。
一つ
の役所を通じて王府は泡盛
。コ
の生産および流通をその管理下においていた。
十八世紀、
沖縄の農村はしばしば飢鍾や流行病にみまわれた。
再生産構造の不安定なところへこうした天災がおと
近Ift.J.抗球史分析のための託子の課題
ずれるのであるから、農村はたちまち危機に瀕した。農業生産が沈滞化し
、
琉球社会は慢性的な食料不足にあえぐこまちかだとになる。危機を乗り切るために、薩摩から穀物を緊急輸入することもしばし主であった。「町方」
(首里・
那覇・
久 米村・
泊村の総称では穀物の値が急騰し都市民の生活を圧迫するまでになった。
」うした状況下で
王府の泡盛
管理ゾステムが発動される。
「職屋」規制措置は三点よりなる。第一に(三箇の製造業者)
の 泡 盛 生
「ー 産 椛
?
をL_
-
全 や 面「 的 諸?に味ム禁
」 止 し
てコ
い 同 て 時
は• vこ 賦 泡 方 盛 の の 検1売者i買
も全面的に停止する。第二に
すでに製造工程に入っている分
すなわち
(担当役人)立ち会いのもとで生産を許可する。第三に、
各酒屋の在庫分については基本的に販売をストップさせる
第7ffr
ものののっぴきならない需要
許可さ
たとえば祝儀など)がある場合は
その者が賦力に特別許可申請を出し
れた時に検者立ち会いのもとで販売を許す。いうまでもなく
、
第一は基本措置、
第二、
第三は例外規定である。「「υqL qtu 44a nL 円〈リ
ぜな こうした規制措置を加えたのだろうか
。理
由はいたって単純で「経済危機」
「食料不足」↓「穀物を大量
に消費する泡盛の生産
・
流通の禁止」といった図式にほかならない。その証拠に、
経済危機や食料不足が深刻になる と泡盛まかりでなく味噌・
醤油・
豆腐の生産も禁止された。これらも穀物を消費する「元凶」とみなされたからであ 近世において、こうした規制措置は経済危機、食料不足のたびにしばしば発動された。その時、王府の泡盛管理の る「宝万」が鞘からぬかれたのである。
このような政策は近視眼的なものにすぎず、真の解決策ではないとする経済論を展開するユニークな論客さ'、お'Aもいた。あの有名な察温がそうである。 しかし、
察温の泡盛対策論
察温ご六八二1一七六一)はその施策論をのベた『独物語(ひとりものがたり)』のなかで、次のような意見を
述べている。
「去年、台風が四度も来襲し、唐芋(サツマイモのこと)にまで被害が出たため、人民は食糧難にあえぎはじめて
いる。そのうえ、穀物の値が暴騰し、困窮者の家計はますます深刻化する始末だ。国中の老若男女の間では、穀物が
こうも値上がりするのは、泡盛などを自由に製造させているため穀物の絶対量が不足しているからだ、という声が高
まりはじめており、そこから
、
泡盛などの製造をストップすれば穀物の値も下がる、
と思いこんでいる。王府の表十五人(各部局の長官
・
次官たち)もそう信じて、泡盛などの製造禁止に踏み切りたいが.とうでしょうか
、と私のところに意見を求めにくるほどだ」。「私は彼らにこうアド.ハイスしてやった。穀物の高騰を生んでレるのは泡盛などの製造が原因だ、と諸君は頭から
信じているようだが
、
それはまちがいだ。
穀物の市場供給力と穀物の値の上下が関連するのは、
それを媒介する貨幣 経済のなせるわざなのだ。泡盛が犯人でない証拠に、高騰を続けているのは穀物ばかりでなく、あらゆる品物の値が 上がっている。しかし、
私は諸君に泡盛製造禁止措置などとるべきではない、
とはあえていわないでおく。ためしに、
その措置を実施してみてはどうかね。私の見込みでは、
そのような施策を実施しても穀物の値が下がることはないと
思うが
し一
。
表十五人は、奈温のこのアドバイスをけっきょく理解できなかったものらし
い。
勢い込んで製造禁止措置をとって
みた。だが、事態は禁温の予言、とおりで、穀物の値は一向にFがる気配もなく、逆に上昇さえした。これを見て、「政
務をあずかる者はよくよく真相を見きわめねばならない」と禁温は苦言を呈している。
このやりとりを見て、いかにも禁温らしい態度だと私は思った。彼は、今日でいう「市場経済」のメカニズムに関
近1吐琉王者史分析のための若干の課題
する見識をもちつつも、しかし
、
部下たちが自己のあやまりに気づくには現実を教師とするほかない、
と思い
、
自分の見解を押しつけたりはしないのである。
『独物語』の中で彼は次のような経済論を展開している。食糧不足
、
穀物不足が発生した場合、穀物消費を押さえこもうとして泡盛などの製造禁止を施策として打ち出し、これをもって為政者のとるべき経済政策だと合点するやか
らが多い。この施策は二重の意味であやまりである。第一に、泡盛などの製造を禁止すると穀物の消費需要が低 その結果として穀物生産の意欲を圧迫する
、
という関連を見ていない。第二に、
穀物の生産意欲を圧迫すると、
穀物第7"{f
の社会的供給力をさらに低下させ、その結果として貨幣経済を媒介に穀物の高騰を生む
、と
いう認識が欠落している。
穀物不足ドでとるべき経済政策とはむしろ泡盛などの製造を奨励することである
、
と禁温は自信をこめてのべている。 円hunJh qぺJU司,,nノ』丹、υし
琉球の国政の頂点に立つ三司官の地位にありながら、
彼は権力をタテに部下の表十五人こ自分の見解を押しつけた
りはしない。
このひとはその著作の随所で飲酒の際の心がまえ、
酒におぼれることの弊害を説き、みずからは愛飲家
から遠くへだたった位置にいた人物なのだが、その察温が、
経済政策の観点から泡盛製造を弁護した構図が私には輿 味深い。現実の社会をクールに見つめると同時に、常に理念的な視点を堅持して事に臨んだ、いかにも察温らしいた
たずまレなのである。
泡盛の流通
しかし
、
ひとの世を生きる人びとは何も察温のような人ばかりではない。思慮深い彼にいわせると、世の大多数の人々はすべて「問題児」であったかもしれない。察温について語った手前、名もなき庶民たちの状況も解説しておか
なければ不公平のそしりをまぬがれないので、以下、私たちにとって最も身近な存在である民衆にもご登場いただこ
う
首里の三箇で造られる泡盛は、当時の高級品であった。その頃の沖縄には酒の流通を一手にとりしきる商人は一人
もいなかったたので」の高級酒は基本的につのルlトで地方や各離島に供給された。その一つは行商である。泡
盛の入ったカメをかついで地方農村に出かけ、はかり売りする。この形態の中には今日でいう屋台店のようなものも
あり、たとえばアブシパレーなど人の大勢集まる行事の日に
、
道端にカメを置いて泡盛を飲ませていた。今つのル|卜は、海運業者が船に泡盛を積んで渡航地の離島の人々にそれを売る方法である。
まあらAぜん沖縄造船技術史の最高傑作といってよい「馬艦船」を用いて、海運業者たちは各離島に渡航し
、税
金運送を請負うチャーター船のような活動をおこなっていた。むろん運送手数料として「運賃米」を取得したが、それだけでは満足
せず、 航海ごとの収益を高めるためこさまざまな知恵をはたらかせた。
たとえば、那覇に帰港する際には税金を満載しているからよいとして、目的地に渡航する際の船がからつぼのままではまずい。それに
、
からっぽの状態では船が軽すぎて航海の安全も保てない(船舶の航海には適当な総重量が必要)。そこで、行きの航海は商品をいっぱい積
み込んでそれを離島の住民に売りさばき、帰りの航海には税金を積んで手数料をもらう、という効率のよい方法をと
った。
行きの航海に積まれた商品の中に、
カメづめにされた泡盛がたくさん含まれていたことはいうまでもない。
海運業の墓地であった那覇には、右のような商業
・
運送業を通じて莫大な財をなす金持ちが多く、彼らの中には王府に献金して位や身分を買う者もいた。
これがいわゆる「コlイザムレ|(成金士族)」である。
しかし、地方
・
離島の住民にとって、那覇から来る高い高級泡盛を買い求め愛飲するなどという経済的ゆとりはな
ぃ。
ゆとりなどないにもかかわ
らずこれを求めるために
、
けっきょくは払うべき税金さえ手元に残らなくなり、
"'J し、
に滞納者が続出する事態が生じている。
王府がこの問題に危機を感じて、
購買状況に規制を加えたことはいうまでも 近世琉球史分析のための若Fの課題
h、 、 0 4JL I --v
しかし、生活のゆとりはないにしても、
泡盛でも飲んで生活のうさを晴らし
、 少
しばかりは日常をエンジョイした
いと思うのが庶民の木音であろう。
この庶民の当然の要求がある限り、
泡盛の生産をいつまでも首里三箇の免許業者
が独占したままでいることはできない。ここから「泡盛の地方化
・
大衆化」ともいうべき状況が起こってくる。注目されるのは
、
地方・
離島において卜八世紀中期頃にはすでに泡盛生産の簡便な体制が存在したことであろう。
「垂鍋(たれなべ)」「甑(こしき)」「竃(かまとと呼まれる製
造器具名が史料に登場し
、
また、
製造所である「
酒第7市 屋」「焼酎蔵」の語も出てくる。
これらの用語が登場する背景をさぐると、
地方
・
離島においても自前の泡盛製造体制があり、
地域の需要に対応していた状況が明らかとなる。
口δ円ノ臼円ぺU
-
3 2 9-
泡盛の地方化・大衆化 たしかに、
首里三箇の高級泡盛に比べると品質の低い泡盛であったと想像されるが、
しかし、
ここで注目すへき点 は、等質ではないにせよ、
泡盛文化が首里を越えて
地方
・
離島にまで広が
っていたことではないだろうか
。
泡盛の普及を支えた要因は
二つ
あっ
たと見られる。その
一つは
、先述したように泡盛に対す
る地方
・
離島住民のニ
|
ズの高きで
あり、今一つは、地方
・
離島においても生産可能なまでに技術が
発展していたこと
、いいかえると、
製造
器具の簡便化に成功したことがあげられる。
当時の製造器具が現存しないので正確な点は不明であるが、
史料より類
推すると
、
まず小型で持ち運びに便利なものであったこと、
海運業者などが商品として持参するため比較的入手容易 なものであったこと、
器具の修理もさほどむつかしくはなかったこと、
などの特徴点が浮かびあがってくる。
ょうす
るに、
製造器具一式とレった形態の簡便なものが考案されており、
それが
地方
・
離島にもたらされたのである
。
ここから次のような問題が派生することになる。
第一に、
泡盛の供給体制が充実しはじめたために
必然的に地方
-
離島住民の間で
飲酒
・
用酒の機会がふえ
、
そこから「風俗」上の問題が急増したことである。第一は、
製造に用い る原料の米および粟の消
費がふえたため
、税金の支払い
、食
糧自給の面
で再生産バラ
ンスをくずす
事態が生じたこと である。こうした事態を王府が黙視するはずはなかった。
あの手この手の対策が打たれたが、
その主な点を整理すると次の ようになる。
第一は製造管理対策である。
たとえば、
慶良間では
村につき二軒の「酒屋」
、宮古では平良地区で五 世帯につき一軒の製造所を認可したこと
などがそのよい例といえよう。「酒屋」
一軒の一
日の原料消
費量を粟
一俵以
内とし
、
米を用いること は当 面禁 止す
る
、
とした規定も右の対策の一環である。
あるいはまた製造器具にしばし、ま封 印をし、
その利用について村役人に許認可権を与えたことも右の一例といえる。第二は流通管理対策である。泡盛を必要とする場合、申請手続をとり、「印紙」(認可証)を発行してもらったうえで指定の「酒屋」から有料で受け取る、
という方法がとられた。慶良聞の事例では
、
泡盛一沸(チュワカン、
約一升)につき粟三升と規定されているが、
米島の事例では実際にはその三倍以上の一斗で取引きされていたらしい。右の対策を見ると
、
経済危機に際して王府が首里三箇の泡盛業者に対してとった施策、
すなわち生産・
流通管理対策と全く同一であることがわかる。だが、王府の対策は卜分な効果をあげえなかった。名もなき庶民からお役人に至るまで、生産
・
流通管理におかまいなしに不法に泡盛を愛飲しつづけたからであった。王府のいらだっ姿を伝えるさまざまな史料が、
その雄弁な証人として歴史家のもとに届けられている。
ついでに補足を二つ。その一つは地方
・
離島の「酒屋」の件であるが、
我々がその名称から想像するような専業の造り酒屋ではない。簡便な製造器具一式をおいて農業のかたわらに泡盛を造ったのであり
、
二、三年の担当期間を過近世琉球史分析のための若ー下の課題
ぎると器具一式別の農家に移され、次はその家が「酒屋」こなるという、そのような程度のものであった。今一つは
原料の問題である。泡盛の原料は昔からゾャム米である、という説が信じられているようだが、これは大変な誤解で
ある。早い話、
近世琉球においてシャム米の輸入はおこなわれていなレ。
したがって、沖縄産の米
、
粟などが用いられたことを銘記すべきだろう。琉球の中国貿易(進貢貿易)の歴史はよく知られているが、ひとくちに中国貿易とはいっても
、
その中身は大別すると三つあった。つは薩摩からの注文を受けて特定の物品(贈答用の高級品が多い)
を調達する仕事
、
二つ目は首 第71者里王府の営む公的なビジネス部分、そして三つ日は、進貢船に乗って出張する旅役たちの私的取引である。そのなかの「旅役たちの私的取引」とは、次のような事情を背景としている。旅役には出張手当が支給れなかった。そのか
nu qJ qtu
久 -331-
身分や位に応じて積載スペースに制限があり、
それを中国で売って自己の収入としてよい特権が与えられてレた。
それを当時の用語で「
寵昨
」 「 影昨
」と
称してレた。 わり、自分で入手した商品を進貢船に積みこみ、
この私的ヒシネス部分に泡盛が登場するのである。たとえは、ある中国行きの船のケースを紹介すると、「ャイ府
00
沸」
「一九E事
OO
沸」
「眺芯事七O
沸」
「総叡四
O
沸」
「ZE
・
佐害・
ホ主 三九人ノO沸」の焼酎(H 泡盛)が積まれてレる(『大清国江為御返船指渡1ノ数私物帳』)。r府
・
大通事・
脇通事・
総管は使節団の一員、五
-
佐事・
水主は船員である。「
沸」(
ワカゾ)
は沖縄独持の単位で、一沸(チュワカシ)日約一升に相当する。右の場合は実に五九O沸、つまり一升ビンにして五九O本の泡盛が私的ビジネスのために中国に運ばれたことになる。
琉球からもたらされる泡盛に対する中国側の評判はどうであったか
、
気になるところであるが、
残念ながら今のと ころ確かめる史料がない。いずれにせよ
、
中国との進貢貿易の時代に泡盛も輸出商品のつであったことは銘記してょいと思う。
ノ五九年、現在の岩手県宮古市の民間商船が江戸から帰帆の折、台風のため
良間島に漂着した。 か月も漂流したあげく、宮古の多
一行は那覇に護送されたのち薩摩経由で故郷に送還されてレるが、那覇滞在のとき国王尚泰から
斗二、主升入りの斐にはいった泡盛を賜っている。ひと円飲んで、「こんなにうまい酒を自分たちで飲むのはもっ
たいない。故郷の殿様にさしあげたいのだが、もちかえってよいでしょうか」と願いでている(「宮古通漂流人一件」)。
むろん許可されたので、南部藩の殿様は泡盛を賞味したはずである。
幕末、琉球に来航したヨ
ー
ロッパ ・
アメ
リ
カ船と
泡盛のエピ
ソー
ドも興味ぶかレ。
ウランダーたちに対して琉球側はしはし工泡盛合プレゼントしている。一一/一六年に来たイキリス艦一フイアラ号の艦長ハジル
・
ホlルらは、琉球側から-五カロン人りの「サムチウの壷」を六個もらっており『大琉球島探険航海記』一八五三年に来琉
焼酎
したベリl提督一行も「米から蒸留してとった、飲むと酔う大変強い液体の酒」を大量にプレゼントされてレる(『日本遠征記』)。首里王府の現存する行政日記によると
、
その量は三五O沸、すなわち一升ビンにして三五O本以上に達している『沖縄県史料』前近代2
3 1
エピソードのきわめつけはポlド事件であろう。艦から陸に上陸した水兵ウィリアム
・
ボードとその同僚は郡覇の露店市で売られている泡盛をむりやり買い込み
、
それを飲んでしたたかに酔っぱらった。同僚は道端にダウンしたが、
ボー
ドのほう
はふら
ふら
さまよっ
たあげく、ある人家に押し入っ
て老女を暴行してしまっ
た。騒ぎを聞いて駆けつけた住民に石で追われたすえに、ボードは足をふみはずして那覇港に転落、
溺死してしまったのである。琉球側とペリー提督のあいだでするどい対立にまで発展するこの事件の「真犯人」は、
実は泡盛だったのである。以上にのべたように、
古琉球の大交易時代に誕生した泡盛は、
近世琉球において名酒としての発展をとずた。その閉さまざまなドラマを含みつつ、人間たちの社会生活の模様を表現する役割を発揮しつづけたのであった。
また
、
近近世琉球史分析のための若干の課題
世を通じて泡盛は首里の三箇で生産される「高級酒」と
、
地方・
大衆のあいだに流布する「
庶民酒」
に分化した。そして、
かつてのシゲチ酒が泡盛のなかに吸収されてしまったために、琉球の酒文化は娯楽性の強い「泡盛」と神の「ウンシャク酒」の二枚看板をもつようになった、
と推定される。このようにとらえると
、
狭レ意味での泡盛ま首里産の高級酒のことであり、広い意味での泡盛はシゲチ酒を吸収した庶民酒レベルまでを含むもの、
ということになろう。ノ七九年(明治十二)の琉球処分によって沖縄の近代は荒々しく幕をあける。この世替りの結果、士族たちの多
混7 fl
くは生活に窮することとなり、農村への移住が大量に発生した。王朝芸能を身こつけた人びとま
、
芸を見世物にすることによって活路をひらいた。首里で育った高級酒も、新しい買い手を求めて産業化の道を遁進することになる
。 用 円ノuq叫U丹、υ円〈υ円べU丹、υ
明治 十年代の初期まで
、 沖縄にまイモ
・
黍を用いる「焼酎酒造家」と「泡盛酒造家」が
万戸以上も存在したよ うだ。
ここ
でレう「泡盛酒造家」は例の高級酒の製造業者を指している。
「焼酎酒造家」のほうは庶民酒の造家を していると思われるが
一一卜年代後期になると、
全体で二OO戸程度にまで激減してレる
『沖縄県統計書』)。
この 数字は、
首里産の」局級酒系統の産業的展開によって庶民酒系統が駆逐された結果、
と解釈できる。
以後、
泡盛H高級 酒の一般化が進行し
近代期を迎え
るのである。
〔付記〕
拙著『続おきなわ歴史物語』(ひるき社)所収の「名酒泡盛をめぐる社会史」を参考とした。
五
スカマの語義をめぐる状況
ーー中木正智『図説琉球語辞典』を読んで 中本正智(東京都立大学助教授)
の大著『図説琉球語辞典』(一九/一年、
力富書房金鶏社)
をその専門領域に立 ち入って論評する力は私にはないが、
ただ、
歴史学の立場から、
琉球語の中に秘められている歴史分析の可能性につ いて少なからぬ関心をいだいており、
その
関心から中本の大著の
出版
を人 一倍歓 迎した 者の一人として
、
素人なりの 読後感を若干記しておきたいと思う。
この本が
、
研究史に残る大変な力作
、
労作であることは私のような門外漢が改めて強調するまでもないだろう。
琉
球語の基本像についてよく整序されており、私のような言語学音痴の頭にも入りやすい。私が中本の仕事にとくに魅かれるのは、氏が比較言語学や言語地理学の方法を援用しながら、琉球語の歴史的発展過程、つまり言語の内包するダイアクロニックな側面に傾注する研究をおこなっているからである。この『図説琉球語辞典』においても、O六におよぶ基本的な項目語を掲げ、その分布状況を方言群と関連させてバリエlゾョンが示されているのであるが
、
単にシンクロニックな状況を開示するようにとどまらず、ダイアクロニックな問題が随所に指摘されている。私の興味に即してその一例のみをあげてみると、たとえば「朝」という言葉がスカマ系、ストメテ系、アカツキ系に分類されたうえで、
琉球弧の島々にそれがどのように分布しているかが手ぎわよく明示されている。
そして、「スカマ
」
という言葉が地域によって意味内容がずれている点を中本は明確に指摘する。奄美大島では早朝、
宮古島の島尻では午後、名護市羽地では正午、宮古の城辺町では日出から日没まで、大宜味村では午後三時頃、多良間島では働ける時間内、石川市では午後および午後の一定時間、といった具合に「スカマ」の示す時間帯に大きなずれが存在す近世琉球史分析のための若干の課題
の項においてもスカマ系の存在状況が示されている)。 るの語」仕事「、の分布が系、朝食の語の項でもスカマモノ」「た(カマ系の分布が示されシはでの語の項
」
昼「
、ま「このように各地でスカマの表す時間帯がずれているのは、
なぜだろうか」と中本は自問したうえで、要旨次のように解説する。スカマは琉球全域に広がった古層語であり、原義は早朝であったのがやがて労働を表すようになり、
その上にストメテ系が沖縄中南部から入って周辺に広がり、
首里王府の権力を背景に先島にまで南下して、結果とし
スカマの語にインパクトを与えて時間帯を後方へと徐々にずらせることになった、
て
と。門外漢にすぎないが
、
私第7 �ま
はこの中本の説明に同意するとともに強い示唆を与えられている。
というのは、
歴史学の面から見てもこのスカマという言葉ははなはだ興味深いものだか
らだ。万暦二十三年二五
Aq qペU円〈U phd q、υ 勺J
九五) 八月二十九日付の宮古下地の大首里大屋子宛辞令書(沖縄県立博物館蔵)
の中に、「七人のすかまくちたわら、
又一年になかこはらのわくこな一人か三すかまっ斗、
又しよりの大やこかまきりのわくこなの一人か一すかまつ与給
候
」
という文面があり
、
「これよりほかにしまくにの人のてまっかい、
又とりあわ物、しめてゑりハ御きんせい
にて候」とつついている。
未群語があり判読のむつかしい史料の一つであるが、
七人のスカマクチ、ナカコハラのワ
クコナ一人の三スカマづっ、
首里大屋子の間切のワクコナ一人の一スカマづっ、
とあるように、スカマという語がこ
こでは夫遣を規定する際の単位として用いられており、また、『河充氏系図』に「五人スカマクチヲ給御朱印頂戴」
五人と役職に付帯して所有された状況を示している。『羽
地仕置』(一六六六1七三年)中に
はまた「此中地頭衆へ唆中之百姓男女居分、年中-一両度夫遣被下候処、外ニすか
れι被遣方も稀一一有之由」とあり、『法式』(一六九七年)にも「百姓中へすかま銭渡置、夫遣申儀」とあって、スカマ、 とも登場するように、スカマクチな
る社会的存在が七人
、
スカマ銭なる語が近世においてもある特定された意味内容をもって用いられていたことがわかる。
さらにまた、近代
においてはスカマ(あるいはシカマ)名で呼ばれるところの債務のカたに貸主家に労働力を提供する社会的存在が広
汎に存在した(来間泰男ほか「近代沖縄農村におけるウェlキ日シカマ関係」、『南島文化』創刊号、一九七九年)。
夫役の単位となり、役職に就く人物によって所有される社会的存在の名称となり、夫遣の形態となり、夫遣を確保
するための借銭の名称となり、
そして貸主に労働力を提供する社会的存在を指す、
こうした様々の意味で用いられる
このスカマという語に共通する真相は一体何なのか
、
そもそもスカマという語の原義は何なのか。たとえば、」のような関心をもって私は『図説琉球語辞典』の「朝」「昼」「朝食」「仕事」の項目語をひもといたのであった。
先述した中本のスカマに関する論旨が私にとって示唆的だといったのは
、
スカマがもともと早朝のことで、
転じて
仕事の意味となり
、
その一方でストメテ系の進出により早朝から後方へと時間帯がずれていったのではないかというストーリーの中に、
実は古琉球辞令書から近代農村が伝えるスカマに至るまでの歴史的変遷もまた位置づけられるの
ではなレかと思ったからにほかならない。
中本の示唆を受けて私なりの勝手な論を進める
と、もともと早朝を意味したスカマは一重の発展方向をたどったの
である。一つはストメテ系のインパクトで時間帯が後方へとずれる方向に
、
今一つは仕事にからむ語義の方向に、ある。この場合問題となるのは仕事の方向であるが、
おそらく諸労働の中に早朝からはじまる労働があり、
それがや
がては単なる仕事一般からある特定された労働を指すものに変容してレっ
た。また、その労働が夫遣の単位としても
数えられる労働となり、あるいはまたそうした労働に専従する社会的存在を指すものにまで展開してレき
、
変容を重ねながらも近世
、
近代へとつづいていった、
というゾェlマが設定できるように思う。『図説琉球語辞典』の中には
、
右のように自由な着想を示唆する情報が沢山盛りこまれており
、
その一々について例示して高評をあおぎたい欲求にかられるのであるが、
それは別の機会の楽しみにとっておきたい。ただ
、
ここであ近世fÁE球史分析のための若干の課題
えて述べておきたレのは
、
もともと大著とは、
さまざまな分野からするニーズに対して示唆的な内容と論理とをはら
むものをレうのであり、
その見本として私は中本の力作を呈示したいのである。
スカマについて例示したのも、
その
ような趣旨からであった。この大著に対して、沖縄協会が第三回沖縄研究奨励賞を、毎日新聞社が出版文化特別賞を
それぞれ贈ったのは当然であると思う。
歴史分析の方法の一つとして、
ある言葉が奄美と沖縄でいかなる異同を見せるのか
近世以後の政治的分離が逆に
手がかりになる)、方言上のバリエーションあるいは異称
・
別称のボリュームと首里王府官語の関係(たとえ.ま間切第n幸一は呼称の存在状況からして完全な首里王府官語である)などに私は関心をいだいているが、
望むらくは、中本が『図
説琉球
語辞典』につついてさらに多くの項目語をとりあげ、
同様の仕事として今後集成されるよう期待してやま
ない。 phu qベリ円〈U
で
司i円ぺU円ペU
歴史家もまた、『図説琉球語辞典』につεついて将来のその仕事から多くのことをA
第八章
近世末期の八重山統治と人口問題 ーー翁長親方仕置とその背景
千びたいと考えている。
円円uqtu qぺJV
規模帳布達の経過と仕置の意図 つあるテlマのつは、 近世期の両先島の社会状況とこれに対する首里王府の施策の展開過程を検討するうえで、近年とみに注目を集めつ
王府、が両先島に五度にわたって派遣した検使とその仕置に関する問題であろう。ことに、検
使の仕置の結果として布達された規模帳を中心とする文書群は
、
両先島に対する王府施策の具体的状況を指し示すにとどまらず、それぞれの時期の両先島の社会状況を浮ひ上らせるうえでもその史料的価値が高い。
表的μは検使派遣と主な布達文書の状況を示したものであるが
、
本章では、
その中から翁長親方朝典の例をとりあげ、
長親方八重山島規模帳』
に求め、
その仕置の内容と背景について論じてみたい。準備の都合上、分析の対象をもっぱら八重山にしぼり、主な素材を『翁 威豊七年ご八五七) とくに人口問題と関連、、つけて検討をおこなうこととする。月五日、首里王府派遣の検使翁長親方朝典一行八人が八重山を訪れた。一行は前年の冬、
宮古島を訪問し行政視察をおこなったのであるが、当初渡海の予定であった多良間島については、八重山への渡海の
惣横日以下五人の宮肯蔵元側役人を渡島させ
、
時節にすでに遅れていたのでこれを割愛し、宮古から直接八重山に向ったのであった。ただし、多良間穿撃方として向島の実情については彼らから八重山で直に報告を受ける形をとった
ようである(以上『宮肯島在番記』『御使者在番記』による)。
『球陽』巻二十
、尚
泰王九年二八五六)
+円
・
八重両島に前み到らしむ」
として {呂肯・
八重の両島、
近年、
百姓困疲し風俗類牒す。特に向汝璃翁長
親方朝典を遣はし、惣山奉行を帯
ひ て
両島に前み到らしめ、教ふ
る 疲 変を じ (谷 を 改 国 む に を 凶 以 る主て。 す
市中仏年五月ー三日
と記し
、
検使翁長親方一行派遣の事情を伝えている。これによると、仕置の
目的は経済的疲弊の振興と風俗の改良
近l吐末期の八重山統治と人11問題
にあったことがわかる。一行は八重山
にご一ヶ月半ほと滞在して視察をおこな
い、『球陽』によれば同年五月
口、『御使者在番記』によれば五月
十←口、使船に乗じて帰任の途につい
た。
�1 8 �ま 帰任後、翁長親万らは視察結果にも
とづいて八岳山什会の問題点とその改 の条は
、
「本年、
向汝璃翁長親方朝典に命じ、
充てて検使と為し、
宮検使一覧
検 {吏 名 派 遣 年 主 な 布 達 文 書 恩納(佐渡山)親方安治 康照1 (1678)
「恩納親方規模帳J (現存せず) 尚貞王10
奥 武 親 雲上C ? J 康県50(1711)
「奥武親雲上規模帳J(現存せず) 尚益王 2
「与世山親方宮古島規模帳JI与世山親万八重 与世山(漢那)親方朝昌 乾隆3 2 (767)
山島規模帳JI与世山親方八重山島農務帳JI八 尚穆王16
重山島小与座公事帳」など
戚豊6 (856) 「翁長親方宮古島規模帳JI翁長親方八重山島 翁 長 親 方 朝 典 �7 規模帳JI八重山島諸締帳JI八重山島船手座公
尚泰王9 �10 事帳JI八重山島上国役人公事帳」など
「富川親方宮古島規模帳J (現存せず) I富川親 方八重山島規模帳JI富川親方宮古島農務帳」
同治1 2(1873)
「富川親方八重山島農務帳J I八重山島仕上世 富 川 親 方盛 歪 �13
尚泰王26�27 座例帳JI八重山島諸村公事帳JI八重山島蔵元 公事帳JI八重山島所遣座例帳JI八重山島仙山 職務帳」など
一
長2 2
注)八重山は史料の残存状況が宮古に比べてはるかに良好である。
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