九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
琉球王国史の基礎的研究
高良, 倉吉
https://doi.org/10.11501/3065585
出版情報:Kyushu University, 1992, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
第 十ハヰ早
墓と位牌をめぐる若干の問題
伊是名玉御殿をめぐる諸相 創建および移設伝承
第尚氏王朝の開祖尚円
(金丸) は伊是名島の出と伝えられる。
同王の治世において、
姉真世仁金は伊平屋の阿母 加那志職を、
叔母真世仁金は
一カヤ田の阿母職を、
叔父真三良は銘苅大屋子
(銘苅里主、
銘苅親雲上)職をそれぞれ 賜い、代
々嗣子へ
継承するならわしとな
った。
一人の娘、かいて
母の卒去により姉
が神女職を継い ただし、
叔母には だものの、
妹の側からも継承要求があったため、
一カヤ田の阿
母職は二代
目か
ら南風・
西の両家に分割して承け継が れることとなった。
伊是名島においては、
右の四家を指して「四殿内」(ユトゥ
ヌチ) と総称し、
伊平屋の阿母加那士心を「アンジャナ シ|」(同家を「
俳舵
」)、
二ヤカ田の阿母
を「タハダ」
、銘
苅大屋子家を「、ケル」と呼びならわしている。
なお、
ア
ンジャナゾ!とミケルの屋敷は字伊是名に
タハ、タ 一家は字仲田に屋敷があり、
王家ゆかりの門閥を形成してきた。
右の事情に関連して
、伊是名島には尚円
出自にからむ旧蹟がある。
『琉球国由来記
』巻十六の掲げる
「金丸 王加那 士心御屋敷
」(
御膳所
)、「オヤダ」(親田
)、それ
に「
玉御殿
」がそれである
。とくに伊是名玉御殿
(王
国時代の呼称は
(1)
「伊平屋島玉御殿」)
は、
尚円の一族を葬る墓陵として重要な位置を占めてきた。
本節ではこの伊是名玉御殿をめぐる論点をとりあ子、
若干の論究を加えたいと思う。
伊是名クスクの麓、北面して伊是名玉御殿は造営されている。墓地は横七・六四メートル、奥ゆき五・0メートル、
最大高-O一一一メートル、中央で二分されており、向って左側が東室、右側が西室である。
伊是名玉御殿は、さまよえる墓ともいうべき移設伝承をもっ点に一つの特徴がみられる。銘苅家の『向姓系図家譜』
(大宗、
一世
朝烈)によれば、この墓はもとは勢理客村の東於津田原にあり、その後仲里H仲田村の東長佐久原に移
建されやがて伊是名村の東本島原つまり現在の地に造営されたという。家譜の序文に記されているので、この伝
承は十f世紀中期にすでに存在したのであろう。『伊是名村誌』(一九六六年)も右の記事を紹介した後、「本村の伝
説によると、古玉御殿は初め勢理客の東の村はずれウツタグチテランソウにあったのを、後仲田の東佐久原に移され、
更に伊是名村元島にある伊是名城の麓に、建造されるまでを古御殿と称えたと云レ伝えられている」(ご一一一頁)と
述べ、玉御殿の移設伝承が文献とは別のレベルで存在した事情を教えてくれる。移設の年代、理由は不明であるが、
右の伝承がもし事実であるとすれば、伊是名玉御殿は何らかの事情により、立地の安定を求めて二度移動したことに
なる。基とは牌をめぐる岩干の問題 伊是名玉御殿は尚真代に創建されたと伝えられている。『向姓系図家譜』(銘苅家)
は尚真代に軒の瓦ぶきの木屋
(長さ一丈八尺
、横
丈が建造されその屋内にさらに板ぶきの一尺)
屋 (長さ 丈尺、横九尺を造りその 中
基の「唐石厨子」を安置したと記している。『伊平屋島旧記集』も「おきやかもひかなし御代に御建立為被遊
由、伝承候」と述べ、長さ三間横二間の瓦葺家の内に、長さ二間横九尺の板葺家をこしらえて、その中に「御厨子」
基を蔵置したという。『琉球国由来記』も「尚真王御代ニ、御建立為被遊由、伝アリ」と記す。
第6 �聖 しかし移設伝承がもし正しいとす尚真代創建説と移設伝承はどのようにかかわるものなのかあレまいである。
れは、尚真代に創建された瓦・板ぶき木造二重構造の長一御殿は勢理客の於津田原にあった。その後仲田の東長佐久原
phv fhd 円ノム】 月iFhd nノ臼
に移り、
さらに現地に移動したということになる。
しかしながら、
尚真代創建説は移設伝承を前提とした形で語られ
てはおらず、
現地に造営されている玉御殿そのものの由来語としての性格が強い。
とすれば、
両伝承は発生を異にす るものであり
体のものではない。
このことが、
両伝承間のあいまいさを生んだ原因だと思う。
ところで、
伊是名玉御殿は、
近世期に大幅な重修工事がほどこされ、
今日見る姿になった。
重修とその背景 康照二十六年(一六八七)、
大美御殿大親津覇親雲上実賢(『琉球国由来記』による。『伊平屋島旧記集』では「津 覇親方」)が渡海してきた際、
玉御殿が大破しているので修補されたい
とサバクリが訴え出たため、
津覇が帰朝後国 王に上申
し、
その結果重修のはこびとなった。
翌年、
修補奉行前石原親雲上
『伊平屋島旧記集』による。『向姓系図
家譜』で
は楊自昌伊是名親
雲上昌武)、
筆者糸数筑登之親雲上
、大工金城
筑登之らが渡島し重修工事をおこな
った。(2)
つまり今日の伊是名玉御殿が出現したのである。
したがって、
現伊是名玉御 この時、
石造りで石灰塗り仕上げの墓
、
殿は一六八八年に新たに造営された墓であるということになる。
」こで注目すべき三つの点を指摘しておこう。
一つは、
重修前の大破におよんだ伊是名玉御殿は瓦
・板ぶき木造二 重構造の墓だったことである。
つまり、
尚真代創建説のいう構造をもっ建物が大破したために、
堅牢な石組みの墓に 造りかえられたのであった。
二点目は、
重修の際に用いられた石材の出所が伊平屋の阿母加那志屋敷の石垣だったことである。『伊平屋島旧記
集』によれば、阿母加那志御殿は王府の手で普請されてきたが、玉御殿の重修が決まった一六八七年、その
石垣 は玉
御殿修補の遺石となったという。伊是名玉御殿は、石垣を積んだ墓室を造り、その表面仕上げに石灰を用いている。
その積石に用いられた石が実は阿母加那志御殿の石垣だったというわけである。
では、阿母加那志御殿のほうはどうなったのだろうか。『旧記集』によれば、同御殿はその時点で伊是名部落の現在の地に移動した。「右御屋敷ハ、今之御屋敷ヨリ半里程山越ニて、難持越候て、遺石成為申由、御座候事」と『旧記集』は-記しているから、
新屋敷に石垣を運搬することが困難だったために旧屋敷の石垣を玉御殿の重修に供した、
ということになる。なお、付説すると、
旧阿母加那志御殿は現玉御殿付近から北方にゆるやかに展開する傾斜地の一
角にあった。この一帯は伊是名部落の古シマ・元シマであり、
玉御殿の位置する場所のハル名「本島原」もこれに由
来する。集落
移動後も阿母加那志御殿は旧地にそのままとどまっていたが、
一六八七年に現地(伊是名部落の通称ウ
ドゥン屋敷)
へ移動した、
という事情を右の史料によりうかがい知ることができる。
三つ日は、伊是名玉御殿の重修を記念してその近くに碑文が建立されたことであろう。この碑文は、建立後何らか
基と(ι牌をめくる託子の問題
の事情により失われたらしく、
王府よりの照会に対して伊是名側の役人は威豊十二年二八六二)
四月、行方不明と報告している。しかし、さいわい碑文の文面を写し取った者がおり、その文面を王府に届けることができた。?)
その文面が『旧記集』に掲げられているの
で、全文引用してみよう。
伊平屋島五御殿碑文記之趣
犬中山国之北方ニ首里ヨリ三拾八里相離海島有之名ヲ伊平屋島卜申候其島中一一小村七八有之城下者伊是名村ト
庁
申候此村東方ニ高キ岸有之往古此所ニ城ヲ相構置候ニ付子今伊是名城卜申伝候其境域之林麓一一古墳有之玉陵
第6市
殿ト申候乍恐其元来ヲ尋承候得ハ
口。にdつ白
QJ phd 円ノ臼
金丸王加那士心御伯父御回以母御姉御三iノ御葬埋有之墳墓之由然共何之世何之年ニ封築有之候哉其自記之初ヲ相考
候
得共世一遠ク年久舗相成其子細詳一一相知不申候且修築之年ヲ相稽候処 尚質尊君御宇康県七戊申年ニ修営夫ヨリ今年迄一一十一ヶ年相成申候且中古以来御墳之棟梁漸々相壊候段 尚貞尊君及御聴往古ヨリ之御由緒御追感有之此御墓廃墜一一及候儀深ク御悲歎被遊急度右-一築替セ候様-一卜勅誌被 成下候付則吉田ヲ撰康照二十七戊辰年九月三日ヨリ取付同廿四日迄石工成就仕其段達 上聴候処御喜悦不斜御事候扱御墳之前後ニ相続候山林者誠二御墳之霊所且左右之土壇ハ明堂之奇観ニテ候故竜山 ニ遊候者共ハ誰-一テモ自然卜膳仰致候況島唄之民中至テハ弥崇敬無之候テ不叶事候右通肝要成御由緒有之御墓 ニテ候処阿むか那士心を始二かや田の阿む並銘苅里主此三職ニ限リ葬埋可有之候仮初ニモ外之人合葬致問敷候仰 テ後之人々其忘却不仕候様ニ卜之
叡慮ヲ以右之件石ニ寿候テ立置候様-一被仰出候事 康照弐拾七年戊辰九月 右が玉御殿重修を記念して建立されたという碑文の「趣」として威豊十二年に伊是名から王府に報告された文面で
ある。
一六八八年の重修以前、
つまり尚質代の康照七年(一六六八)
にも修理がおこなわれたことなど貴重な記述を
含んでいるが一
読してわかるよ
うに、
十七世紀後半の王府建立の他の
碑文に比べて文章がはなはだ
稚拙でしかし
あるとの感が一台めない。
文面も同時代の記述、
とくに重修記念であることを念頭におくと、
きわめて事後的、
一般的 な叙述に傾きすぎている。
だいいち、
重修工事関係者の名を欠くなど碑文の形式から見ても不完全であるといわなけ ればならない。
はたして右の文面は重修記念碑そのものなのであろうか。
たしかに、
碑文は重修を記念して建立されたはずだが その後向らかの理由で失われて
しまい、
実は伊是名側にその写しさえなく
、後世、
王府の照会がありあわてて碑文の
「趣」を作文したのてはないか、と勘ぐりたくなるのである。しかしそのいっぽうで、王府による造営工事を記念し
て連立
れたはずの碑文であるにもかかわらず、何故にその文面が王府編集の『碑文記』などに収録されなかったの
か 開祖尚円一族(碑文を集成した文書は十八世紀中葉にはすでにできているのだから)。という点も不可解である
を葬る聖墓であるという点から見て、右の事態は奇妙であるといわなければならない。
『旧記集』の伝える碑文の「趣」は実際の碑文を忠実に写したものかどうか、
それとも、全くの作文かどうか、今
後吟味が必要であろう。
次に着Hすべきは、伊是名玉御殿の重修工事の背景についてである。尚質代の一六六八年修理がおこなわれた後、
八八年に大幅な重修が実施されて伊是名玉御殿は今日見るように面白を一新した。
開祖ゆかりの他に対する王府のこ
うした整備事業は、別段伊是名玉御殿にかぎったことではなく、西原間切の内間御殿、国頭間切の宜名真御殿に対し
ても同様におこなわれたのであった。たとえば、内間御殿の場合を見ると、尚質代に東殿が整備されたのを皮切りに、(4) 尚貞代にも何度か整備がおこなわれ、尚敬代の一七三八年についに完成している。これは開祖ゆかりの地を国家的聖
墓と位牌4どめぐる若干の問題
地として意義、つける事業の一環であり、伊是名玉御殿の重修もまた右事業の一環にほかならなかったのである。
被葬者をめぐる問題
第6frí"
周知のように、伊是名五御殿東室にはいわゆる輝緑岩製石棺が収められている。石棺の寸法一基の「唐石厨子」、
レリーフ、銘については『向姓系図家譜』(銘苅家)や『伊平屋島旧記集』『琉球国由来記』などに詳しく記
れてお
-260- -261一
り、
また『重要文化財玉陵復原修理工事報告書』(一九七七年)
にも写真が収められてしるので、参照に便利である。
行惜のつに銘文が刻まれて
おり
、左柱に「
よそひをどんの大あんじおぎやか
」、右柱に「
おもひまぜにがね御物
」
とある。
今
つの石棺には銘が入ってしない。
有銘の石棺に記される「おもひまぜにがね」は尚円の姉、
初代の伊平屋の阿母加那志と伝えられる人物のことであ
ろう。
彼女の名前の下につく「御物」とは、
他の用例とあわせて考える
と、当人のもの、
つまりその人物の被葬され
る七時を指す文言である。
右有銘石棺に初代の阿母加那志が収められている点はひとまず
確認できたが、さて、問題
は「よそひをどんの大あんじおぎやか」
のほうであろう。
世添御殿大按司オギヤカとは、
尚円妃、すなわち尚真の母
后であることはいうまでもないが、
しかし、
何故に尚円妃が初代阿母加那志とともに一基の「唐
石厨子」に収まり、
しかも伊是名玉御殿内に安葬されているのか。
王府側の諸記録、
たとえば『中山世譜』などによると
、オギヤカは正統十年(一四四五
)に生まれ、弘治十八年(五
O五年)
三月一日寿六一で死去し、
首里の玉御殿に葬られたことになっている。
にもかかわらず、
彼女の名を明白に 刻む石棺が伊是名玉御殿に蔵されているこの事実を、
どのように解したらよいのだろうか。
しかも、『重要文化財玉 陵復原修理工事報告書』によると、現在の首里玉御殿にはオギヤカのものと断定しうる厨子は確認されていない。首 里玉御殿から伊是名玉御殿へ何らかの理由で移葬されたのではないか、
との想定も立てられると思うが、
しかしオギ
ヤカの石棺には今一人マゼ一一ガネも入っているので、
この想定は不都合である。
ここで注意を要するのは、
オギヤカ以外のもう一人の尚円夫人の問題であろう。
正史の伝える伝承によると、伊是
名を逐われた金丸には妻と弟が従っていた。
弟は後の尚宣威だといわれるが、
しかし、
その妻に関してはなぜか記述
が見当らない。尚円との聞に子をもうけることなく首里においてひっそり死去したということなのか、それとも、伊
是名に一戻って余生をおえたということなのか、全く不明なのである。はっきりしてレる点は、彼女の係累に対-}J】、手lJlしては阿母加那志、二カヤ田の阿母、
銘苅大屋子のような優遇措置が全くとられなかったとレうことだろう。
オ
キJ
ヤカの出自もたしかに不明であるが
、彼
女の経歴・年齢から推して、オギヤカと伊是名時代に尚円がめとった夫人と
が同一人物である可能性はない。となると、何故にオギヤカが伊是名玉御殿に安葬されたのか、また、何故に王府の
記録はそのことを一切無視し、彼女が首里玉御殿に安葬されたことを述べるのか。どうやらここには大変にミステリ(5) アスな問題がひそんでいそうである。
オギヤカ・マゼニガネの収まる有銘石棺のほかにも、東室には同規格の今一基の無銘「唐石厨子」が存在する。『伊
平屋島旧記集』はこの無銘石棺について、「尚円様御先祖御遺骨被蔵置御用として唐へ御訣」たるものだと説明し、
王臼男宜寿次乗船の帰唐船が伊是名の浦で卸したもの、という伝承を掲げている。『伊是名村誌』も島に伝わる同内容
の伝承を紹介しているが三二二頁)、東恩納寛惇『南島風土記』(一九五O年)は宜寿次を、尚清代の三司官の一人
「ぎすすの大やくもいいぬたるかね」のことであろうと述べている(三三九頁)。
基と位牌をめくる若干の問題
無銘石持が尚円関係者のものである点はまちがいないと思うが、具体的に誰がその棺に被葬されているのかを特定
することは今となっては不可能に近い。その点を認めたうえで三つの問題を指摘しておこう。
その一つは、「玉御殿之儀、往古ハ阿むかなし・銘苅里主・ニカヤ田の阿む始、其親類之者百姓迄、死去之時相葬
候処、康照廿七辰年ヨリ阿むかなし・銘苅里主・弐かや田のあむ計御免-一て、余ハ被召留候」、と『旧記集』の述、べ
る部分に関連する。の重修までは阿母加那志、一一カヤ田の阿母、銘苅里主の三家つまり、康照二十七年二六ノノ)
第6章者、たっされるようにな被葬のみがにある職家の当三は修後重、関係者がすべて葬られていたがというのである。重 修以前というと、瓦・板ぶき木造二重構造の玉御殿で、その中に二基の「唐石厨子」が収まっていた時代であ
る。
そ 円ノ“phu 円L円ペuphu qノ臼
のような形式の墓にはたして
一家関係者の収まる余地があったかどうか気になる点もあるが、
」こではひとまず右の
記述を認めておこう。となると、玉御殿は国家的聖墓として整備されたと同時に被葬者もまた著しく限定された、
いうことになる。つHは、その後三家の当職者も玉御殿に被葬されなくなり、自家の別墓をしつらえて安葬
れる ようになったため、玉御殿はついに被葬者をその中に迎え入れることがなくなった(いわゆる神御墓になった
いう問題である。
そこで三つ日の点だが、右の
、 二点目の問題を解く重要なカギは伊是名玉御殿の西室が握っている、という点で
ある。
西室はこれまで学術調査がなされたことはなく、
その内容は不明である。私が銘苅家の関係者や伊礼幸正村長
など西室に実際入ったことのある人々に聞いたところでは、
西室には墓室いっぱいに厨子や斐がつまっており、その
中には銘書をもつものもかなり含まれているとのことである。東室が尚円の姉・叔母・叔父の被葬場所であるとすれ ば、西室はその後の阿母加那志、ニカヤ田の阿母、銘苅大屋子を安葬した場所と思われる。今後、西室の調査は不可 欠であり、」の調査をぬきに伊是名玉御殿の解明は進まないと思う。
重修後、伊是名玉御殿に対する公事祭杷はしだいに整備されていくことになるが、しかし、その実施過程には府余
曲折が多々含まれている。王府の意向と地元伊是名側における挙行とのギャップがあり、儀礼上の諸手続きの面でも
多様な事態が発生しているのである。しかしながら、幾多の符余曲折が存在したとはいえ、伊是名玉御殿は開祖ゆか
りの聖墓として王府主導型の祭杷が着実に実施され、一般の地域祭杷とは区別される公事祭柁的性格を強めてレった。
この間の経緯については、銘苅家が所有するぼう大な祭紀文が雄弁に事態を物語っており、今後本格的な究明が
必要となろう。なお、銘苅家文書は『伊是名村史』中巻に収録され刊行されているので、研究条件は大幅こ前進して
レヲハv。
〔社叫〕」こでいう「伊平屋島」は伊是名・伊平屋両島
をあわせた行政区画名であり
、通常の島唄名と区別される。しかしながら、まぎらわしいので、
本節では伊是名玉御殿と称する。
2
重修の件につき『球陽』巻八、尚貞王十九年(一ハ八七)
は「葉壁山の玉陵を改修す」の見出しで次のように記してい
る。「尚真玉、始めて
瓦屋を伊平屋島に造り
、其の屋内に亦一屋を結び、
板を以て之れを蓋き
、
石高(俗に厨子
と呼ぶ)を以て其の中に放在し、以て宗祖の屍骨を奉ず。是の年に至り
、 歴 年久速にして既に
壊敗を致す。彼の島の設理、玉陵を重修するを題請す
。是
に由りて、玉、楊自国(伊是名親雲上昌武)
に命じて玉陵を重
修せしめ、
石を築きて屋を作
り、亦
石灰を以て其の屋を塗り、
以て堅固偉観に供ふ」(
球陽研究会編『球陽』読み下し
編、二二二頁)。
3
『伊平屋島旧記』
あるいは『伊平屋島旧記集』にはい
くつか
の写本が知られている。
本節では最も
記事量の多い「明治 ト八年公文録』大蔵省十一月第
所収のものを用いた。この写
は『沖縄県史料』近代5
九八O年)に収められてい
る 墓と位牌をめくる若干の問題
島尻勝太郎・高良倉吉「内間御搬の由来および整備について」、平敷令治「内間御殿
の祭杷について
」(『内問御殿』、九七八年)参照。なお、
内問御般の祭杷については『西原町史』第二巻資料編一
ご九八四年)に関係史料が収められて レマ令。 5
東思納寛惇もこの問題に気づき、『南島風土記』の中で尚宣威退位事件の確執に触れつつ、「伊平屋島
玉陵厨子の銘文は
説文者として注書であろう」と述べる。
文意ははなはだ不
鮮明であるが、説文者Hオギヤカと解すると、オギヤカは有銘
第6�
石棺の被葬者ではなく寄贈者ではないか、というのが東思納説らしレ。また、小島理檀「
尚円王妃の厨子の意
味」(『地域と文化』第,一九・一ニO合併号、-九八五年)もこの問題を吟味し、首里玉御
殿中の有銘石棺の表記形式からい
って、「よそ
と と
-264-
phd phu 円L
ひをどんの大あんじおぎやか」「おもひまぜにがね」は同一人物であり、「おもひまぜにがね」は「よそひをどんの大あん じおぎやか」の童名であるとしてレる。
そして、
この人物は尚円妃オギヤカのことであり、
なんらかの事情で尚円妃が伊 是名玉御殿に葬られたのではあるまいか、
とした。
みごとな論法だと思うが、
東思納説ともども今後検討してみたレ。
〔付記〕本節は「伊是名玉御般に関する覚書」と題して『地域と文化』第二八号ご九八四年)に発表した拙論を改 稿したものである。
近世琉球における天孫氏問題
ーー 薙正九年
の天孫氏位牌安置
一件の
詮議から
問題の所在
故宮城栄昌は、「沖縄歴史に対する疑問||舜天王統の成立と尚清王の大島遠征に関して」(『南島史学』第六号、
一九七五年)
と題とする論説の中で舜天王統の存在はきわめて疑わしいと述べ、
また、
」の王統を歴史として登場さ せたのは『中山世鑑』の編述者である向
象賢 (羽地朝秀)
の政治的配慮から出たものであろう、
とする意見を述べて
、 〉
o
lu ブr?
たしかに、
琉球史叙述の歴史において、『中山世鑑』
は少なくとも繋明期の王統問題に関して三つの重要な提 示をおこなっていた。
一つは天帝の末商たる天孫氏の存在、
二つは源為朝の琉球渡来物語、
三つは舜天(尊敦)と彼
を開祖とする王統三代の物語である。
宮城は、
為朝の渡来物語は「物語を成立させるいくつかの要素が存在していた
ことは事実であっても、やはり伝説に過ぎないのはもはや定説である」と
蹴したうえで
いくつもの根拠を挙げ舜
天王統の存在に疑問を投げかけたのであった。むろん、天孫氏については神話的な歴史叙述にすぎないと氏は考えて
いただろうから一口及する必要もあえてなかったのであろう。念のために明記しておくが、私は宮城の見解に基本的
に賛成である。天孫氏、為朝の渡来、舜天王統の件は神話・伝説研究上のテlマであり、同時にまた、これを歴史と
した『中山世鑑』や向象賢についてのイテオロギl分析上のテ|マではあっても、古琉球をめぐる史的事実レベルの
論議対象にはならないと理解している。
そこで、宮城の舜天王統に関する問題提起を念頭に置きながら天
孫氏の問題
は古琉
球の問題 でまなく
岳骨骨め
か
問題であるという一例を示す史料を紹介してみたい。歴史叙述をめぐるイデオロギー性を考える事例として興味、ふ
かいものがあると思う。
先述したように、天孫氏を歴史として扱ったのは『中山世鑑』(一六五O年)が最初であった。以後の首里王府の
墓と位牌をめぐる若干の問題
正史、すなわち察鐸本『中山世鑑』(一七O一年)、察温本『中山世譜』(一七二四年)、『球陽』(一七四五年)の諸室田は例外なしに天孫氏に関する叙述を掲げており、これら正史の天孫氏の項を通読するかぎり、正史の編纂官たちは何の疑念もいだかずに天孫氏を歴史とし書き綴ってきたかのごとく見受けられるのであるが、しかし、実際には以下に
紹介するように尚敬王代の薙正九年に久米村の碩学たちによって天孫氏の問題が検討されていたのである。
検討の模様を伝える史料は、笹森儀助『南島探験』(八九四年、『日本庶民生活史料集成』第巻所収による)に
第も竜
津川某その中で津川某が入手したという「薙正九年ノ記録」として沖縄誌料取調専任)との歴史談議部分があり
全文紹介されている。笹森はこの史料の表題を「琉球史料十首集巻之五久米村」としているがおそらくここで
ウipnu 円乙
-266-いう「 琉球史料
」は沖縄
県庁 で収集
・編集されていた史
料集 のことであろう。
というのは、
たとえば、
明治二十
七年 二八九円)十二月から翌年
一月にかけて史料調査のため沖縄を訪問した幣原担は、
「南遊史話
」(同『南島沿革史論
』
一八
九九年 所収)
の中で「従
来県庁に於て旧記録類を蒐集せしが故に史料に供すべきものも、
多く県庁に在るは明か なり。殊に『
琉球史料
』の如き
、己に六十九冊の大部に達し
、最多
くの文書を包括して
、余に至大の
牌益を与
へたり
」
と述べている。
幣原のいうこの「琉球史料」と笹森が県の誌料取調専任津川某から一ホされた「琉球史料
」とは同一の 集成を指していると思われるのである。
なお、
同文の史料は明治
三十四年 二九Oこに出
版された田山録蒲(花袋) 編著『日本名勝地誌
』第十一
編(琉球の部)
の中にも紹介されているが、
出 所 は不明である。
しかし、
田山の紹介し たものも
「琉球史料
」所収のものか、
さもなくば
「琉球史料
」編纂に際して収集された原本
と同一 系統の写本であろ うと思う。
さて、
何はともあれ、
問題の史料を『南島探験
』
を基に紹介してみることにしよう(引用に当り旧漢字は新漢字に 改めた)。
史料の紹介
琉球史料十二首集巻之五
久米村
④ 覚 盤古氏天皇氏地皇氏人皇氏之代ハ、
火モ無之衣服舟車筆算之類モ無之時節候へハ
於当地ハ阿摩晴久志仁理居之様成
人ニ候。
天孫氏御事ハ衣服舟車筆算之類モ相備、
其上諸国往還モ有之、
諸問切諸按司被立置諸事為相備儀候得ハ於唐
ハ軒鞍黄帝之様成主君ニテ候。然ハ於当地天孫氏ハ開基之主君ニテ候、其神主エ座祭無之儀如何一一候事。
薙正九年辛亥三月十六日日記ニアリ
ハニ開、書面ニハ之初闘、。右詮議被仰付奉得其意候被仰置子江戸エ様天孫氏之御々詮議之趣申上候。我 ⑤
{氏)三男二女ヲ生ミ、其一男ハ君王之初、是ヲ天孫民ト申、次男ハ按司之始、三男ハ蒼生之始ト相見
A呼μ〔}天孫民ハ天皇氏地皇氏之類ニ相当申候。又御世譜ニテ、開関之初男志仁礼久女阿摩嫡姑出
一男
一女出
来自夫婦ト成リ、
得、是ヲ以相考候得ハ、
生、而土石ヲ運草木ヲ植付、山獄々森々仕立人物繁生年数久敷相歴候一ア、又一人致出生是ヲ天帝之子卜称メ、世ヲ被治 其人三男二女ヲ生シ、長男ハ国君之初、一一男ハ按司之始、三男ハ百姓之始卜成候由。又御世譜内天孫氏記録者、天孫
氏継治問中頭島尻国頭三区ニ分民て熟食料理耕作衣冠之制、衣法家作等ヲ御教始一ア、首里城ヲ立諸問切組分諸方ニ
按司ヲ封国中之支配申付、如斯極太之御黙労御座候得共、但世代之初メニ而、書契未興故治乱盛衰姓名事功之様子、
墓と位牌をめぐる若干の問題
詳-一難相考由相見得申候、依之相考へ候得者、天孫氏御代者筆算無之処、其政治何様之訳有之、後世ニ相伝申候哉不
(園調)思儀-一奉存候。又天孫氏御子孫、壱万七千八百二
年相 伝南宋淳照年間ニ至而、徳政致衰徴候段、尤難信奉存候。中国 大聖人之御子孫サへ、治国之運数相考申候得者、黄帝尭舜属湯分武之御子孫モ皆、三四百年或五六百年、周之御代斗ハ八百年余相伝。又漢唐宋モ、三四百年者相過不申候処、琉球天孫氏之後葡者、南宋之時代迄壱万七千八百年余為相続由有之候者、又難信奉存候。羽地按司向象賢順治七年庚寅十二月二、中山世鑑御編集被成候序文ニ、某奉王命博古
第6章
ノ旧僚ト相会シ
、其
議論格言ヲ取テ自古無之、系図御組立為被成由有之候得者、前代-一ハ記載無之証拠ト存当申候、
且ツ又天孫氏ヨリ舜天様迄
一 万
七千八百年相歴、舜天様ヨリ今迄五百年余一一而候得者、其積-一而者都合一万八千三
-268-
ハ同J戸huqノ臼
百年程ニ被成申候。其時中国之儀ハ、伏義神農之御時代ニ相当、衣冠之制衣法未無御座処、於琉球天孫氏者、衣冠之
御制法被為治定段者、誠以難信奉存候。
軒鞍黄帝伏義氏ヨリ遥後ニ降誕有之、
衣冠器用舟車算用之法御定為被成段和 漢歴代記等一一相見得申候。{五永庚寅七年従江戸御尋ニ、琉球者鎮西八郎為朝之子孫之由、其由緒如何様成事候哉卜
被仰出ニ付、御返答-一
、舜
天王者日本鎮西八郎為朝之御男子、姓ハ源氏母ハ大里按司之妹、永万年間二、為朝舟-一乗 リ、流一一順テ琉球一一至而、舜天王御誕生為有之段、委細之訳被仰上置候。尤舜天様御事者、四五百年以前之事ニテ候
得者、
世上一一相伝候由緒相違有御座間敷卜奉存候。
然者実一一為相知中山開基君王舜天様之上ニ実トモ不相
知、
天孫氏
何共心安無御座候。天孫時之由来者、羽地按司向象賢、初而中山世鑑ニ御書載 之御位牌御仕立御安置御座候儀者、
被成候。其琉球開闘之一篇拝見仕候得者、
阿摩美久ハ、
天ニ上リ人種子ヲ申請、五穀種子乞下シ候段有之候得者、康
照十二年美丑二月、
羽地按司ヨリ久高行幸御留被上候御書付之写拝見仕候得者、
此国人生初者日本ヨリ為渡儀疑御座
ナク、末世之今一一成候テモ、天地山川五行五倫鳥獣草木之名ニ至迄、皆通達イタゾ、只言葉之少ク違候儀者、遠国之
上久敷通融為絶故也。五穀モ人同時二日本ヨリ為渡ト有之候得者、天孫氏御様子ハ、後人ヨリ作合候ハン卜奉存候。
然ラハ羽地按司御考之通相違御座有間敷卜奉存候条、
天孫氏御位牌御無用被遊御宗廟之儀ハ、
元ヨリ有来候通リニ、
舜天王中尊一一御取持、旧制不相替様一一有御用度奉願候。此等之首尾為可申上、如斯御座候。以上。
薙疋九年辛亥三月日記ニ有。
三月廿八日。
屋頭
親 雲
上
喜友名筑親雲上伊差川親雲上
親里
親 雲
上安座間親雲上
湖城筑親雲上池宮城親雲上
安次嶺親雲上高嶺筑親雲上
具志堅親雲上外間
親 雲
上
宜寿次親雲上
大山領親
雲 上
宇地原親雲上砂辺
親 雲
上
翠宮城親雲上志多泊親方
湖 城 親 方
嶺
局
親 名 護 方 親
薙正九年辛亥四月日記ニ有。 。
一、去朔日一一、
天孫氏之御様子史記ニ相見得申候問、
今
往可致会議由被仰付候付、
今日名護殿内エ諸大夫相揃、
詮
墓と位牌をめぐる若干の問題
議仕候処、何ソ相替筋無御座、
先日差出置キ候会議之通リニテ候問、
口上ニテ申上可然由相談相究申候事。
附史記並諸大夫会議之趣左ニ記。
天孫氏御事、中国之物モ相見得候半間得ト相考、
首尾可申上旨被仰付奉得
、其意晴氏之史記並南北朝之北史相
考申候処、琉球ハ、
海中之島国福建之東
ニ当、 海路五日ニシテ至ル。
其国山洞多国王姓ハ
歓斯氏、名ハ渇刺兜、其
由来不相知国人王ヲ称ンテ可老羊卜申ス。
王之居所ハ整柵三重囲、
練ヲ植付間垣トス。其普請ハ、大キサ十六間鳥
第6章
獣之儀形ヲ彫付、
又国中ニ如大将者四五人立之、
諸洞之小王ヲ相統、
村々ニ烏了師ト申武士ヲ立置、
諸村之支配授之一一。国中之男女皆苧小縄ヲ以テ髪ヲマトフ。男ハ尉羽ヲ以冠シ
、女
ハ薄綾白布ヲ以テ帽トン、頚一一玉ヲ懸ル。
方
ハUウtっ,,U
-271-
男女皆小貝並スヒ羽毛之類ヲ以テ飾之、武具ハ弓万剣之類有之。国人互ニ能相戦、戦負相究候時ハ使ヲ以テ申分ケ、
和睦仕其時致打死者ハ、人々相集死人之肉ヲ喰、其輯鰻ハ王之所ニ上候得ハ、為褒美冠ヲ賜而、兵頭ニ被召成。田
畠ニ定納無之、
国中エ入目有之時ハ割懸ヲ以相達、
又国俗文字無之、唯月之欠満ヲ見而、朔日卜五日ヲ記シ、又草
木之栄枯ヲ見而、年歳ヲ知。君臣上下之礼ナク、男ハ髭蟹之毛ヲ抜去、女ハ手ニ入墨シテ、虫蛇之文ヲ成シ、嫁妻
酒肴珠長之類ヲ以進物一一仕、又産之時ハ必子衣ヲ喰ヒ
、火
ヲ温、、汗ヲ出す。又潮ヲ干ンテ塩ニ成ゾ
、木 之時ハ、之汁ヲ取テ酢一一作リ、又米麦ヲ以酒ヲ作
、食
物ハ皆手ツカミニテ喰
。珍
味有之時ハ先尊者-一献ス。酒宴之時ハ酌取
ヨリ名指候而酒ヲ上ケ候得ハ、飲之歌舞有之。其音節哀怨也。人死病ニ成最期之涯一一ハ庭ニ持出、親類傍輩見回人 数皆々突γ、相吊其死体ヲ休浴ゾ、布ヲ以巻テあし草-一テ包ミ、土一一埋之。南方之風俗ハ少シ相替、死人有之時ハ、
村中之人々相集喰之。鶏豚多、牛羊騒馬無之。其田ハ、先火ヲ以テ焼キテ後ニ水ヲ込
、米
粟黍豆之類作二且ゾ。木
ハ楓桔松樟竹藤之類有之。風気ハ嶺南ニ相類ス。俗山海之神ヲ崇、祭時ハ酒肴用之。又戦而殺ス時ハ、其被殺人ヲ 以神ヲ祭或茂盛之樹木一一依テ小屋ヲ作、或樹上一一人絹鰻ヲ懸テ矢ヲ以射之、或累石繋旗為神主、又王侯之壁下ニ多 人輯鰻ヲ集メ、又人家門戸之上ニ獣類之頭骨井其角ヲ掛置。惰之場帝初テ朱寛ヲ遣御招被成候得共、
二候故、大将断綾井張鎮州、軍ヲ率テ致征伐、男女数千人虜ニゾテ返ルト云フ。右之通惰 不従及両三度
井北史-一委細相見得、
天孫氏卜申姓名ハ無御座候。然ハ琉球之儀、惰唐之時分迄ハ、イマタ中国日本国之教化不及ニ付、国俗-一文字無之、
年月日不相知、君臣上下之礼ナク、剰死人之肉ヲ喰、其偶棲ヲ王ニ献シ、又産之時子衣ヲ喰候様子ニテハ、天孫氏
後奇之時分迄ハ、いまた人間ニハ不被成候。舜天王以後、唐大和之風化漸々及来、大明初之比唐致通融封王有之、
且又三十六姓、御当国エ被渡候而、学文共被教。御宗廟井朝拝之御礼式等
、御
定御座候而後-一、琉球国ハ守礼国ト
中国ニ名ヲ被揚候。然処実伝無之、天孫氏ヲ開国之主君ト御位牌御仕立、先王様之上ニ御安置御座候ハ、御宗廟御
漬シ可被成哉。E又諸侯ハ元祖之父ヲ不祭ト礼記ニ相見得、又祖廟ハ回以ツ事有之立事無シ卜。春秩二伺之、聖人之此》御法万世之為メニ吃卜被立置候へハ、警天孫氏ハ直御先祖一一テモ、御祭ハ無御座筈候問、右之趣大体口上ヲ以申上可然卜相談仕申候。
一、大夫翠宮城親雲上、 {骨三宜寿次親雲上、長史喜友名筑親雲上、致登城御鎖之側吟味後、野里親雲上御取次申上候ハ、 我々詮議之筋ハ三月廿八日ニ差出置
候。詮議書二巻之通-一テ、別-一存寄無御座由申上候処、又被仰候ハ天孫氏御位
牌ハ此節浦添竜福寺-一御建立被成相済候問、
御硯扉之様子今些配斎可仕旨被仰候処、
先ニ申上候通別ニ存当リ無御
座由申上候処、其段野里親雲上ヨリ御座エ被申上御返事-一、右之段被御聞置候問、御用次第可被登由被仰付候事。
③
台孟-4
見
於禁中奉先殿卜申御位牌所ハ、皇帝様御寝殿乾清宮ニ御近ク、左方ニ御建立御座候。其所ニハ御宗廟同前ニ、先七代
ヨリ之皇帝井御后之御神主様四御前被奉安置。
尤御代久敷相歴候得ハ、其上モ御安置御座候。右御拝之様子相考候得元日十五日、
毎日朔日十五日節供之御焼香御祭等之御規式皆以押入混而被
遊、御拝段大明会典井大清会典相見得
廷と(キ牌をめぐる若Fの問題
申候。
依之崇元寺御祭又ハ円覚寺御照堂御拝モ
、前々ヨリ混而御拝仕来候半卜奉存、諸大夫会議モ右本立ニシテ、御
照堂毎一一混而之御拝一通完有御座可然哉卜申上候。
其委細之訳就御尋如斯ニ御座候。
以上。
薙正三年乙巳十二月日記一一有。
卜二月卜四
日
長史
古波蔵筑親雲上
牧湊筑親雲上古波蔵親方
第6京
円〆山門,,円ノム】
円ぺU『re円ノ』
史料の関連および区分 冒頭の「覚」は、
中国神代史の例を引きながら、
阿摩蒲久・志仁理居二神に触れ、そのうえで天孫氏の事蹟を述べ
た後、琉球
において天孫氏は「開基之主君」たるべき位置を占めるにもかかわらず、
その神主への「座祭」がおこな
われていないことをどう考えるべきか、という。いうまでもなくこの部分は天孫氏に対する祭杷の在り様はどうある べきか、とする詮議案件の指示である。そして、「薙正九年辛亥三十六日」の覚が同日記一一アリ」の書き込みは 年月日の「日記」の中に記されていたことを示
す。史料の全体から推して、」の「日記」はおそらく年月日順に綴ら
れた「久米村例寄帳」の類であろう。
「右詮議仰せ付られ、其の意を得奉り
、我
々詮議の趣、申上候」ではじまる長文が詮議書に相当する。この答申は
三月二十八日付で名を列ねる屋頭親雲上以下名護親方までにおよぶ一件の独立文書である。先の覚同様に、この詮議 書も久米村の「薙正九年辛亥三月日記」に移写されていたものであることがわかる。
以上のことから、諮問案件の指
示たる覚は薙正九年(一七三ご三月十六日付で久米村のほうに出され、これを受けて久米村では名護親方(程順則) を筆頭に二O名の面々が協議して答申を三月二十八日付で提出した、
との経緯を理解することができよう。
詮議書の次に「薙正九年辛亥四月日記一一有」の書き込みがあり、
それにつづく長文の一ツ書は、
三月二十八日付答
申の直後の状況を伝えるもので、同様に久米村例寄帳に載っていた文書である。末尾の「覚」は薙正三年こ七二五)十二月十四日付で古波蔵親方らの名で出された詮議書で、やはり久米村例寄帳(「薙正三年乙巳十月日記-一有」)
り抜き出されたものである。年代順でいえばこの詮議が先になるはずだが、しかしにもかかわらずこれが末尾に置かれている理由は、
直接の関連史料ではないものの参考史料として採るべきもの、
と評価されたためだろう。以上の理解に立って、各文書を④1③の四つに区分した。これにより、この一連の文書がある目的をもって久米村例寄帳より敏粋され編まれたものである、との成立事情を推定することができる。なお、田山の『日本名勝地誌』第十一一編(琉球の部)には、②、
⑥は
あるものの、@、③は掲載されていない。それにまた、久米村例寄帳よりの抜粋を記す書き込みも省略されている。異本の故かとも思料されるが、田山による編集の過程での割愛・省略の結果と見る、べきだと考える。
内容の要点と若干の注記
墓と(立牌をめぐるお千の問題
②の諮問は、「開其之主君」たる天孫氏神主に対する「座祭」はいかにあるべき
か、というものであったが、に応えて程順則(名護親方)を長とする久米村の面々は⑤の詮議室田を提出した。⑥の冒頭に、「天孫氏之御様子江戸エ被仰置候。書面一一ハ」とあって由来が引かれ、
また、「御世譜一一テ」とあってその叙述が引用されている。
天孫氏
のことを含む琉球事略らしきものが江戸へ届けられていたことがわかるが
後述)、「御世譜」とは、引用記述から察すると、この詮議の
七年前に成立していた察温本『中山世譜』のことであろ
う。これら諸書の叙述に言及したうえで、
tf, 6 �-
詮議書は要旨次のような意見を開陳している。
① 天孫氏の代は筆算がおこなわれていなかったはずなのに、その治世のことが何故に後世に伝わることができ
れ よ
Aq 勺tnノム】
戸hJウtつ/臼
たのか不思議である。
② 天孫氏の治世は一万七八O二年も続き、
南宋の淳照年間(一一七四1八九)に至って衰微したとされるが、
」れなどはまことに信じがたい話だ。
③
四OO年、
あるいは長くても八OO年しか続いていないのに、
天孫氏が一万七八
中国の歴代王朝でさえ三、
O二年も続いたなどとは信じられない。
④ 『中山世鑑』の序文によれば前代には記録らしきものはなく、
また、当該時代の中国史の実情と対照しても
天孫氏の話は荒唐無稽といえる。
⑤
に江戸より、
琉球と源為朝との関係について照会があった際、
その返答書に大里按司
宝永七年こ七一O) の妹との聞に一子舜天をもうけたことなどが詳しく記述された。
⑥
五OO年前のことなので、
伝承で語られているとおりに相違ないと思われるが、
天孫氏をこ舜天王代は四、
れと同列に扱うことはできない。
⑦ 中山開基の君主として実在の明らかな舜天の「上」に、
実在したとも思えない天孫氏の位牌を安置すること
などいかがなものであろうか。
③ 天孫氏の由来に関しては羽地按司向象賢の『中山
世鑑』にはじめて登場し、
その中で阿摩美久が天に上り「人 種子」をもらいうけたこと、また「五殻種子」を下したこと、が-記されている。さらに、向象賢の康熊十二年 (一六七三)二月の久高参詣停止一件の書付には、琉球の人生の初めは云々とあり、これらを参照すると天孫
氏は後人の作為であり、向象賢の述べるところが真相であろうと思われる。
⑨ 天孫氏の位牌は無用であり、宗廟は舜天王を中尊とするこれまでのありかたでよいと考える。
以上が@の詮議書の要点であるが、見られるように、程順則以下の久米村の碩学たちは①i④で天孫氏の存在を歴史として位置づけることを再定し、舜天を開基の君とすべきことを述。へ、結論として天孫氏を宗廟の中尊に安置する必要は全くないとした。孫氏に代わる歴史としては、向象賢が『羽地仕置』の一節で述、べるいわゆる「日琉同
祖論」(この解釈については本書の第五章節を参照)を引いてこれに賛同し、また、為朝渡来伝説に従っている。ところが、⑤の詮議書が出されて三日後の四月目、天孫氏のことは中国の史記にも出ているようなので今一度会議を開レて検討せよ、との諮問が下された。久米村の面々は程順則の家(名護殿内)に集まり再度詮議したが、結論は⑥に同じであり口上にて結論を答申してよレことにした。ただし、会議で話し合われた要点を摘記している。以上の経過を示すものが⑤の史料である。
諮問にいう史記とは、『惰書』および『北史』のことである、と碩学たちは指摘したうえで、流求伝の内容を長々と引用しこれらの史書には天孫氏の名は登場しないと述べる。そして、惰・唐の時代までのわが琉球は中国・日本国の教化のおよばない未開の時代であり、人間にさえ達しえていない野蛮な頃である、とする。舜天王以降に唐・大
主主とf占牌z..めくる.fïrの問題
和の風化をこうむるようになったこと、それに中国との冊封・進貢関係の開始、間人三十六姓の渡来などによって文明の地になった、という。従って、
天孫氏を開国の主君として先王の位牌の上に位置づけるなどは宗廟を漬す行為で
あり、
仮に天係氏を先祖と見るにしても祭杷は無用ではないか、
と述べている。右の趣旨を大夫らが登城して三司官周知のようにその一人は祭温)らに伝えたのであった。
③は先に指摘したように、関連史料として技粋されたもので、中国における例式を述べて、崇元寺および円覚寺御
第6号E照堂の拝礼につき答申した内容であることがわかる。
nhU ヴinノム】
司,a司inJ』
史料の背景と意義 右の史料により、
天孫氏の位牌安置をめぐって王府内で一定の論議が交わされた事情の一端が明らかとなっ
た。そ
の渦中において、久米村の
碩学たちの見
解が詮議の形で求められたのである
。すでに解
説したように
、久米村の意見
は、
天孫氏を歴代国王と同列に扱うべきではなく、
宗廟の中尊はこれまでどおり舜天王であるべきだとして、
天孫氏
の宗廟への安置に否定的な立場をとった。
その理由として力説されたのが、
天孫氏は歴史などではなく後代の作為に すぎない
とする歴史認識であったわけである。
康照二十一年二六八二)
に来流した冊封使在揖は『中山沿革
士心』
の中で、「琉球国
先王廟神主序次図」(『那覇市
史』資料篇第一巻3、
冊封使録関係資料読み下し編六八頁
)を紹介してレるが、
それによると中尊に舜天を置き、
左
右に察度、
英祖を配する序次にな
っている。徐十保光『中山伝信録』(一七一九年)中の「
先王廟神主昭穆ノ図
」(同右
一七四1一七五頁)
も舜天を中尊
とするが、
ただし左右に義本、
舜馬順照
といった舜天王統を配する点など『中山沿
革志』
と相違する点も若干見受けられる。
崇元寺の先王廟リ宗廟におけるこうした先王神主位牌の中に天孫氏をいか
に位置づけるべきか
いいかえると、
天孫氏を王統譜の中でどう評価すべきか、
が薙正九年頃に王府内で論議された
ことになる。
久米村側の見解をふまえて、
けっきょく、
王府が天孫氏の位牌を崇元寺にではなく浦添の竜福寺に安置 することにしたのは、
先の⑤の末尾に明らかであろう。
『球陽』巻十一、
尚敬王十八年ご七三O)
の条によれば、
この年より春秋の仲月初戊の日に紫巾官一員を遣わし
て竜福寺歴代先王の神主に進香する例となした、(球陽研究会編『球陽』読み下し編二九五頁)。とあるまた、同十九年にも右の記事をさらに敷桁した記述があるので(同右三OO頁)、薙正八、九年に竜福寺の先王神主に対する祭
市E
定の改訂が加えられたことがわかる。このことと、天孫氏位牌を崇元寺にではなく竜福寺に安置することにし
た措置とは関連しているのであろう。
『琉球国由来記』巻十ご七二二年)の天徳山竜福寺記は、竜福寺を「先王最初之廟寺」としたうえで、方丈中央大現扉の先王序次を示しているが、これには舜天王統、英祖王統、察度王統の各王と第一尚氏王統思紹・尚巴志二代の名はあるものの、尚忠以後と天孫氏の名はない。第一尚氏王統が尚巴士心で終わっている理由について『由来記』は、竜福寺の大硯扉が尚巴士心代の造作にかかるからであり、その後の王たちについては崇元寺に安置されたからだろう、などと説明している。
しかし、在揖『中山沿革
志』
や徐諜光『中山伝信録』は、崇元寺の先王廟に舜天王統三代、英祖王統五代、察度王統二代、第一尚氏王統七代の名のあることを伝えるので、先王廟H宗廟としての崇元寺と竜福寺の関係は次のように
墓と{弘牌をめぐる宕干の問題
整理できることを示唆している。すなわち、崇元寺は広義には舜天以後の歴代のすへての王の廟所であるが、狭義に見れば第二尚氏王統歴代王の廟所であり、これに対し竜福寺はもっぱら第二尚氏以前の歴代王統の廟所である、
と
明治卜五年
(一
八八二)八月!四日、巡察使尾崎三良が竜福寺を訪ねて「尚徳王前ノ先王ノ牌ヲ鎮列ス」と記したのもうなずけるのである(『浦添市史』第二巻、二六五頁)。
右に紹介した天孫氏位牌安置
件fi
こうした状況を念頭こ置いて考えると、舜天以後の歴代のすべての王の廟所
第6 帯電
であるとレう一面をもっ崇元寺に、また天孫氏の位牌を舜天王を移して中尊にす天孫氏を位置づけるべきか否かえるべきか、どうか、をめぐって検討されたものであったことがわかる。崇元寺先王廟に位置づけられなかったことに nδ ヴi円/心】nuJ ヴi円ノム】
よ り 天孫氏は実在の
統
としては認知されなか
っ
たことになり
、
それが竜福寺に安置されることによって、
また、
第二尚氏王統以前の歴代王統の中にかろうじて占めるべき地位を得たことになる。
この意味で、
程順則を中心とする久米村の硯学たちの詮議書に見られる歴史認識、
およびそれをふまえた名分論の 意味は大きかったといえよう。
しかし、詮議
の歴史認識は、
天孫氏問題に関しては客観的な態度を堅持しながらも、
なぜか為朝渡来伝説や舜天 王統の件に関しては『中山世鑑』にそのまま追随するという結果に終わっている。『羽地仕置』のいわゆる「日琉同 祖論」も吟味なしに祖述するなど、
総じて向象賢の提示する歴史像に対して批判的検討を回避しているとの印象をさ え受けるのである。
検討事項が天孫氏一件に限られていたから、
というものではなく、
ここには歴史叙述のもつイデ オロギ
l性と
その再生産の問題が含まれていると
解
すずへきだろう。
いずれ、
別の機会に論じてみたい重要なテlマだ と考えている。
付論l
・ トポスとしての墓
私の祖父蒲助は一九七四年夏病死した。
祖母カマドも後を追うように翌年の春病死した。
二人とも伊是名の勢理客 に生まれ
、平均的な
貧乏・ 幸福の中で人生を送り
、
子孫を絶やすことなく
、
ひっそりあの世へ旅立って行った。
私は
二人にとって平均的な孫に過ぎなかったのだが、
今振り返って見ると、
祖父母のために何もしてやれなかったことを
悔やんでいる。
祖父母は、浦添の為朝岩の北側斜面に造成された墓地団地の規格墓のつに仲良く眠っているはずである。二人と
も安謝の火葬場で火葬に付され、小さな骨壷に納まったまま葬られている。清明祭などの時に子や孫・曽孫が集って、
にぎやかに馳走を共食しながら死者をちょっぴり回想する時を除けば、その墓はめったに来客を迎えることはない。
祖父さん、祖母さんは毎日北の伊是名の方角を眺めているから、さぞかし故郷を懐かしんでいるのだろう。勢理客の
門中墓あたりには見知った人が多いので付き合いにも苦労はないだろうが、浦添の周りは見知らぬ他人ばかりであ
る。それに人とも本当は火葬などではなく、伝統的な次葬にしてもらいたかったのではないだろうか。子や孫
に「火葬などイヤだ」と我億をいうのをためらっていたのではないかそんな反省が込み上げてくる。
生活の拠点が那覇に移ったため私の父は鳴り物入りの儀式を済ませて伊是名の門中墓から死者の一部を浦添の
規格墓に移葬した。世は人口の那覇集中化都市化の波が吹き荒れていた時代である。当然の決断だったと思う。人
基と位牌をめぐる若干の問題
が郡覇に動くだけでなく、墓も死者も都市へと移動せざるをえなかった。これに呼応して、生者のための住宅産業の
みでなく、死者のための住宅産業もまた都市化の中で展開するわけだが、その環に我が家の墓も立地したわけであ
る。また、都市のライフスタイルは、効率良い葬法として火葬を選択する。伝統の二次葬も、都市というメカニック
なフィルターをくぐるといとも簡単に自己を変容させてしまう。だから、祖父母の死は、当人たちの意志を超えて都
市化の規定を被らざるをえなかった。
第6京
」のように死者の眠り方においてもまた遠慮のない時代の変動とは生者のレベルでのみ起こるものではなく
要求をしてくる。祖父母の死を想い返す時、そんな感慨を禁じえないでいる。
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死を歴史学はとのように捉えきれるだろう
か。歴史家
は死に何を学ぶべきなの
か。
数年前から、
私は
このとてつも なく重々しいテーマを考えるようになった。
いうまでもなく、
死という現象そのものは歴史学の
方法において観察す ることはできない。
なぜならば、
死は動物としての人間の最も動物的な現象の一つだからである。
死は自然
つまり、
の一部であり、
純粋に生物的な現象として発現するので
、
人間の社会生活の
推移を観
察対象とする歴史学では
歯が立
たないのである。しかし、
人間における死の連続と集積とが歴史形成の前提となっている以上、
歴史家もまた死に無 関心ではおれない。
ではどうすればよいのか。
私はこう考えた。
死に対する人間の意識と、
死の置かれ方は歴史的な現象として観察できるものなので、
そ の を追求すれはよいのではないか、
と。「
死に対する意識
」は、
一般に特定の他界観に基づレて死をどのように葬り弔
、.、久ノムμ
という葬制のなかに凝縮さ
れる。「死の置かれ方」は人為的に構成される墓処空間の問題として現れるので、
墓制を調べればよいことになる。
死とレう現象を前提として形成される特定の他界観に立
って、生きている
つまり、
人間は、
死を一定の様式に基づいてある場所に置
く。
このことにより、
死を葬ること
葬制)と死を葬る場所を造る と(墓制)という
歴史的な営みが生まれる
。とすれば、
墓こそは死を歴史的に
考
える最も中心的な
論点だという結 論がおのずから得られるのである。
では、
墓とは何だろうか。
まず第一に、
墓は死者の眠る場所、
死の住宅である。第二に、
墓は生きている人間
によ
って造られるものであるが、
生きている人聞は全く利用せず死者のみがこれを利用する施設である。
第三に、墓は死
を「葬る」ための場所として演出されるトポスである。
そして第四に、
墓は死を表現するものであり、
死者と生者の
関係を示唆する資料である。
以上によって、
墓は死を考えるための歴史学のテlマとなる、
と私は位置づけた。
り、
死ば歴史のために墓という死を考える素材を提供しているのである。
歴史学は、死の命ずるままに墓の含むタイ つま
ナ;スムを追えばよいわけである。
以上の認識に立って、私なりに考えてきた墓をめぐる問題状況、論点について概活的な意見を述べてみたい。
沖縄は、まず第一に、世界に冠たる「墓文化」をもっ地域である。全域的に墓が分布し、墓の種類も多種多様であ
る。日常の生活の中に墓が景観として存在するばかりか、墓と隣合わせで人々の生活が営まれている。つまり、墓の
歴史的研究にこれほど最適の土地はなくいたるところ墓のテ1マだらけといってよい。ただ、従来の我々の歴史学
はそのことに気づくことなく怠惰をむさぼってきたにすぎない。第二に、沖縄では個人墓は発達せず
、 集
団墓が車越
し、その状況は今日においても同様である。家族墓、親族墓(門中墓を含む)
、 村
墓なといずれも集団墓であり、
墓と{立牌をめぐる若下の問題
えば玉城朝…のために個人墓を造るというような伝統は生まれなかった。したがって、「集
団墓文化」優位の社会的状況が現出した。第三に一般に墓の規模が大きい。その理由は
集団墓であるということと葬制の特質という両面によって規定されている。死の収容人口
死をめぐるフロー
が多いために大規模化し、死骸を洗骨して厨子やカメに収めるので、一個の死のポリュl
ムが必然的に大きくなり大規模化する。むろん
、 規
模には貧富の差、身分の差とレった社
会的要因がからんでくるが」れは二次的な問題にすぎない。
第四に、墓は原則として構築物化の過程をたどっている。古い時代の墓は天然の洞窟や
図7
岩陰を利用しており、人工的な構築物とはいえない。次の段階になると、洞窟や岩陰の入
口に石垣を積んだり、岩を若干掘り込んだりといったふうに人の手が加わってくる。運天
の百按司墓や浦添のヨウドレがこの代表的な例である。その次の段階にま、岩を掘り込ん
第6京
でみごとな石室を造るとともに、岩の前面に一定の構築物が張り出す。首里の玉御殿、がこ
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