九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
琉球王国史の基礎的研究
高良, 倉吉
https://doi.org/10.11501/3065585
出版情報:Kyushu University, 1992, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
『ームー・
ノ
結
主ロエコロ
以上、仲松が立
論の前提におき
、吉岡城が具体的
検討ぬきに思いつきを述べた玉
御殿の石厨子銘
をめぐる問題につ いて私なりの検討結果を述べてみた。
論ずるに当たりつとめて石厨子銘書そのものに焦点をしぼり、
連動する他の論 点H争点については意図的に触れないようにし
た。
それらの論点H争点についても、
今後具体的に論究することを予 定しているからにほかならない。
そして各論点H争点を逐
吟味したうえで、
将来、「琉球王国論争」に関する私の 総括的な所見を展開したいと考えている。
沖縄の葬墓制の変遷を歴史的に把握する研究は大はばに遅れている。
しかし、
その中にあって、
葬墓制とも関連す る門中制度の研究や社会史的な研究、
ある
いは中国的習俗の受容形態の研究などが着実に進展しつつあり、
展望はし
だいに拓けはじめているように思う。
そのような気運を示す代表的な仕事の一つが上江洲均の論文「沖縄の厨子斐」
二九八O年)
であろう。
上江洲の論文は、
石厨子や厨,+J斐の豊富な観察にもとづき、
その体系的な整理
・考察を目指した力作である。 の趣旨との関連でいうと、
輝緑岩製石棺については「尚真王時代に集中し
その後はほとんど見られない」と指摘、
石灰岩製石厨子については 石灰岩製も首里
・那覇 を中心に現存するが
、銘書きがあまりなく、時代推
定の決め手が得られ
にくい。地方での記訪のJ廿ので、筆者が見た-番古いJUのよ、天引書五年(一六二五)のものてある。形式よ入母ロ笠造りである。
向真王の骨を安置した石厨子が、この石質である。したがって一五00年代の前期である。入母屋の屋根で、形が整っている。同じ玉陵内の尚元・尚永・尚豊・尚賢
王などの厨子もこの石質である。
玉陵内こは、尚真王以後の約二00年間、
かなりたくさんの石灰岩製の石厨子が安置されている。
と述べている。
別のところでは「地元の石灰岩やサンゴ石も尚真王のころから支配層では用いられ、
のち般化していく」とも指摘している。
残念ながら一読して明らかなように、
玉御殿内の尚真王以下古琉球期の王たちの石厨子とその銘書の成立年代に ついて上江洲もまた基本的に仲松と同様の認識をもっていることがわか
る。
石灰岩製石厨子がどの程度の古さをもっ のかについては今後大いに検討する余地が残されているものの、
で記された各王たちの銘をもって
その石厨子
が各王たちの死後のある近い時期に製作されたと考えるのは早計である。
銘文が刻文か墨書なのか、
といった記載形
式の問題などを上江洲がとりあげ論じなかったためであろう。
しかし、
右の批判点を含みはしても、
上江洲の論文は今後の葬墓制の研究に新境地を拓くすぐれた仕事であること
王御殿のお厨子銘惑につレて
にかわりはない。
死者の葬られかたは
者の歴史を映す一つの鏡である、
と私は思うが、
その意味で葬墓制の研究は上江洲こならっ て今後さらに多角的分析が加えられる必要があるといえよう。
最後に、
私が示した論点をハードルとして飛び越えないかきり、
仲松や高城の主張は学問的な論議として市民権
を得ない
との苦言をあらためて指摘しておきたい。
第3章
章
-170- -171ー
E御殿の7ï回f銘t!fについて 第3 1";'
〔註〕王御殿は模文表記ては「E陵」て
a般にも王陵と書いて「たまおとん」
「たまうとうん」と無理に読ませてレる
か、工府レ
ベルの行政文書では「E御殿」と表記されるのが常である。
したがって、
章では王御殿の表記を用レた。
2 この史料について私は『沖縄史料編集所紀要』第五号
九八O年)にその存在を報告し、
拙著『琉球の時代』(a
九八O年、
筑摩書房)
/一,一頁にも触れておいた。
3 「あるの種変化」と表現しながら明一一一一口を避け
たのは理由があ
ってのことである
。これを説明するためには
、十七世紀後半か
ら
十/世紀初期にかけての近世琉球社会の構造的変容とそれにともなうイテオロキ|状況を解説する必要があり
らにこのイ
デオロキl状況に関連して葬制の変化があるのて、
ここでは紙数の関係で立ち入らないことにした。
注(3)の理由同様で、
ここでは明言しなレ。
5 私は『青レ海』a一戸一号(一九八--年六月)に発表した「
知られざる沖
縄歴史O||尚寧王の『遺言』」の中で、『尚敬様御 安骨井御移骨日記UHFJ
』を誤読して、
同文書が作成された乾隆
十四年二七五九)段階で尚寧王は玉御殿に安葬されていると
いう「意外な事実」を強調したことがある。そして、その前提に立って、「尚寧王の遺骨はある時点(年代
は今のところ不明
)
で浦添ょうどれから王と王族のねむるべき玉御殿に移され」
、そ
の後「浦添ょうどれにねむるFべきだとされ、
再びょうどれに帰 った」とレう全くの誤説を展開した。
誤説を主唱した理由は、
尚寧王の登場する『日記写』の中の「口口御安葬御人数」の虫 喰い部分を、前段の「
王御殿西之御墓
御安葬御人数」につづく「玉御殿東之御墓」
のことだと誤読したためで
ある。『沖縄史料
編集所紀要』第五号て九八O年)に発表した「
嘉味旧家文書の調査
」に
おレても同様の誤読を述べ
てレる。「東之御墓」は「西 之御墓」H西室に対する東室のことてあり、歴代国王の安葬される場所なので、誤読の段階て被葬者の異様に気づくべきであ
った。しかし、つ
いιそのこ2正気づくこ・こなく誤説を展開するとし・3だらしなし桔票となった。
虫喰レの部分よ「極楽御華」
と読むべきてあり、したがって、
尚寧王が玉御殿に安葬されていたとするのは全くの誤断である。
ここに自己批判の意を述ベ、
過去に犯した誤読・誤説を自らの手で-訂正しておきたい。
6 この名称はかならずしも厳密ではない。というのは、浦添ょうどれの「尚寧王陵」ぽあくまでも尚寧主プ府か訟であって、尚寧王の個人墓ではないからだ。
7
念のために付説すると、万暦四十八年(一六
んしおそいすへま てO)
に建立された浦添ょうどれの碑文の表文には「りうきう国てたかすゑあ
る王にせかなし」、裏文には「尚寧賢王」とあり、いずれも王号を用いている。このことと王号の.つである「あんしおそへかなし」を尚寧
玉石厨子が用いていることとは何ら
矛盾しない。碑文・石厨子ともに同時代の作である点に注意せられたい。
8
万暦は同十七年までしかなく、万麿帝の死去により翌年泰昌一充年と改元された。尚寧玉石厨子が方暦四十八年と刻むの沈、
右の事情からして同石厨子の同時代性を逆にものがたつているといえるのではなかろうか。
9
正御殿行厨fに記される墨書は、主体のうえでもい人づかみの年代を論議できると考えるが、私の得意とするところでまない
のてしかるべき研究者の検討をまちたい。
nHU 'BEE-有銘・無銘の区別について私は次のような見通しをもってレる。輝緑岩製石桔はおそらく中国で製作れたものでありの前提に立って、注文の際に被葬者が明らかな場合は銘文の原稿も添えて発注できるが、被葬者が当時特定されなレ場合は銘を必要としない、そのことが有銘と無銘の区別を生んたのでまないか、と。今後、この見通しを実証的に検討してみたいと考えている。
11 この比定をただちに認めるわけにはいかな
い。なぜなら伊是名玉御殿中の輝緑岩製石棺(表日のIに「よそひをとんの
し人あんしおきやか」と刻まれてお
り、この事実の検討が無視れてレるからだ。つまりオギヤカの被葬場所の吟味がおこf,
-173- -172ー
われることなく単なる思レっきか述へられている。
12 たとえは浦
添ょうどれの
「尚寧王陵
」につレてみても
、同陵
内には 輝緑岩製石棺基(表口のH)
があり
、同じくまた尚寧 の眠る石灰岩製石厨F
-基
がある(たたし完形てはなレ
が)。
両者を比較した時、
①「尚寧王陵」の整備が,hハてO年にお二 なわれた時にはすでに輝緑岩製
石棺
は存在したのであり、
これに対して②尚寧が同年に死去した直後あたりに石灰岩製行厨子 は製作されたわけてあるから、
輝緑岩製石棺のほうが石灰岩製石厨子より古
い、
ということになる。
13 梅本哲人「近世一における薩藩
琉球
支配の形成」(『史潮』
-
九七三 年
)、
上 原 兼善
『
鎖
国と 藩
貿易
』(
八
重岳書房
、-t口ぢ、
a 九 八a年)、
紙屋敦之「琉球支配と幕藩制」(歴史学研究会編『世界史の新局面と歴史像の再検討』、
九七六年)、
同「幕藩
制下に
おける琉球
の位置」(
北島正元編
『幕藩
制国
家成立過程の研究
』、-
九七八年
)、同「
島津氏の琉球出兵
と権力編成」(『沖 縄史料編集
所紀要』第五号、
九八O年)、
同「琉球 国司考」(北島正元編『近世の支配体制と社会構造』、
九八一-一年)などを 参照。 14
『国分直,
博上上円稀記念論集
』歴史・
民族篇所収
。
付論 l ・ 「琉球王国」
仲松
吋川、
表 。〉 2 評 議 価
を ど 見 る ち、
主張と根拠
九八一年十月三十日、東町会館で開催されたシンポジウム「沖縄古代文化をめぐって」における仲訟弥秀の「問
題提起」は、そのがt思外性Hにおいて、また、そのH大胆さHにおいて、当日これを聞いた聴衆の方々はもとより、
骨子が新聞で報道されるやセンセーショナルな話題として多くの人々の間で取りざたされているようである。シン
ンポジウムで司会者として、また、パネラ!として、私は仲松の「問題提起」に批判的なコメントを若干加えさせて
いただいたのであるがその場では意を尽くせなかったので、この場をかりであらためて基本的な評価を述べ、読者
の皆さんとともに仲松の「問題提起」の真偽を考えてみたいと思う。あらかじめお断りしておかねまならないのは、
E御殿の石厨子銘�}について 紙数もかぎられており、また、新聞紙の性格上、史料の原文や複雑な分析図表をかかげて議論を展開できない点をご
賢察いただきたい。
さて、学問の名で一般に問題を提起する場合には、その中に主張(結論)とこれを支える根拠(論拠)がなけれま
ならないことは説明するまでもない。研究者は、さまさまなデータ(資料)や現象を分析・検討してそれを把握し
たうえで論拠にまで整理し、さらにそれを前提にしてみずからの主張、結論を問題提起として組み立て公表する。
第3 .. 言 うまでもなくその上に乗っかっこの場合問題提起の核心をなすのは論拠にあり
論拠がいい加減であるならま
ている主張などはあたかも柱に支えられない屋恨のようにたちまちにして崩壊する運命となる。したがって、私が仲
-174- -175-
松の「問題提起」をどう見るかという問題は、
仲松における論拠をどう見るかという問題に行きつくことになるの
で
ある。話をわかりやすくするために、
仲松の「問題提起」に対する私なりの結論的な評価をあらかじめ述べておくことに しよう。仲松の「問題提起」は、残念ながら、論拠ならざる論拠によって成り立ったものであり、学問上の真の問題 提起の名に値しないばかりか、
その議論の運びかたは共に学を談ずるに足らないもの、
としかレいようがない。この
程度の「問題提起」が、
あの
『神と村』(一九六八年)、『古層の村』(一九七七年)
というすぐれた民俗研究の成果を
もつ仲松弥秀その人の議論と
はとても信じがたいほどだ
。私がそう考える理由を、仲松の「問題提起」の論拠を二、 検討しながら具体的に説明してみよう。
仲松は、
王家の陵墓である玉御殿(たまうどうん)
におさめられている石厨子の銘文をとりあげ
、要旨次のように
主張する。
第二尚氏王朝の開祖尚円(在位一四七01七六年)
から八代の尚豊(在位ハ二71四O年)
までの七人 の国 王はすべて「公」としか書かれてなく、「王」とは書かれていない。
たとえば、有名な三代尚真(在位一四七七 ()一五二ハ年)の場合を例にとると、「
尚円公のおもいぐわ
、おぎやかもいがなし、
法名尚真公」とあり、「王」では なく「公」という用語が用いられている。
ところが、
尚豊の次の尚賢(在位二ハ四一lJ四七
年)
以後の国王の銘文で は逆に「八ム」ではなく、「王」と表記されるようになってレる、と。たしかに、
仲松のいうように、
銘文についてこ こまでは事実である。
ご覧になりたい方は、
石厨子の一覧と写真をおさめている『重要文化財玉陵復原修理工事報告 書』(一九七七年
をご参照レただきたい。
さて、
仲松は右の銘文における事実をもとにして、
次のような二つの論拠をこしらえた。
①尚円から尚豊あたりまでの国王は当時「王」ではなく、「公-t称したこと、②向賢以後あたりからはじめて「王一と称するようになった
加」v六」、
という論拠である(石厨子の銘文による事実を一般化している点に注意
)。そしてこの二点の論拠を一つの支えにして、
次のような主張を「問題提起」として力説したのである。「公」から「王」への変化には薩摩の意向が働
いており、
その意向によって「琉球王国」がデーチあげられたことに対応した変化であり、
したがって、「公」と称したそれ以前の時代(古琉球)
までは「琉球王国」なるものは存在しなかった、
のだと。一見もっともらしく聞こえるこの議論も、
その論拠をっきくずす事実を指摘するとたちまちにして崩壊する運命となる。
そのような決定的な事実を、仲松は怠慢ゆえに見失っているのである。では、その事実とは一体何か。
単純な誤断
仲松の決定的な誤りは、
玉御殿の石厨子の銘文がレつの時点で書かれたものであるのか、
という基本的な分析作業を欠落させたことから生じている。「尚円八ム」から「尚豊八ム」までは「公」、「尚賢王」からは「王」と銘文に記述されていることは、先述したようにたしかに事実である。では、
石厨子に「尚円公」から「尚豊八ム」と表記がなされた E御殿の石厨子銘Sにつし、て
のはいつの時代なのか、研究者なら当然検討してしかるべきであった。詳しい分析図表の掲載は割愛して結論だけを述べると、「公」と表記された銘文は、
仲松の勝手な思いこみに反して近世初頭にあらたに書きこまれたものであり、
それ以前の古琉球、すなわちそれぞれの「公」が生き、
死去した時代に代々記述されたものでは全くない。
このように、
実に単純きわまりない事実を検証せずして、
「問題提起」を主張する論拠さがしをいくら
おこなっても、逆に、
みずからが論拠としたものによって裏切られる運命とならざるをえない。
玉御殿のすべての石厨子銘文に
第3号t
ついての比較、表記形式、仏教の影響、中国の明清交代期にともなう年号表記問題、玉御殿の被葬者の移動などを考慮にいれて、
仲怯は銘文の記述年代の分析作業をおこなう義務がある、
と私は考える。
トわに示した事によって、尚円から尚豊までの国王は当時、「王」ではなく「八ム」と称した、という仲松の論拠は いっきょこくつがえったと私は考えるが、
あるいはそう思わない方もいらっしゃるかもしれないので、
念のためこ今つの事を指摘しておこう。古琉球(基本的には、薩摩支配以前の時代のこと)
にはたくさんの碑文が建てられて いる。
仲松が
、国王は「王」ではなく「公」と称したと主張する時代のことであるが、
それらの碑文には、「王」や
「国王」という言葉は実に枚挙にいとまのないほど出てく
るが、
仲松の期待する「公」という用語はまとんど見あた らない(具体例を列記しないので、
仲松ご自身で確認されたい)。今一つ、
__.__
/'\
ハ年(尚豊代)から七一二年(尚捺代)までの七O余年にわたって、
薩摩は琉球国王に対して王号をやめ、「国司」と称するよう強制していたという
事実である(国司号問題)。たとえば、有名な『羽地仕置』(一六六六i七三年)をご覧いただきたい。その中で「王」という用語は度も使われてはおらず一貫して「国司」と称されている。仲松流にいえば、尚豊から尚益の手前、
尚貞あたりまでは当然玉御殿の石厨子銘文で「国司」と記述されていなければならないか、
あるいは『羽地仕置』の
中で「
」となっていなければならないはずである。
以上の一点の事実は、
琉球歴史のいわば常識である。
この常識について無知であり、
しかも先述したように、銘文
の記述年代の検討という研究者として当然なさねばならない分析を欠落させて、
その結果として、論拠ならざる論拠を用いて古琉球の「琉球王国」を否定しようと仲松はするのであるから、
」れを評して私が「論拠ならざる論拠によ
って成り立ったものであり、
学問上の真の問題提起の名に値しないばかりか、
その議論の運びかたは共に学を談ずる に足らなレもの」といわざるをえなかった理由がおわかりいただけたものと思う。
また、仲松は、
オモロにうたわれた「大和旅のぼて、
山城旅のぼて」を引用して、
①当時の沖縄の人々が大和を外 固とよ考えなかったこと、
したがって、
@大和と区別される独自の国家「環球王国一があるとよ考えてトなかったこ
Irス
そのことを「のほて」という用語は教えているなどと主張する。
親近感をレだレたことと国家的存在の当否は関 という論理的飛躍の問題はここではひとまず問わないことにする。
だが、ぜひ指摘しておかねまならないの
; : :
ρU
,ナん
lw
fi
体仲松は『おもろさうし』をキチンと分析したうえで、
「のぼて」がやがて「琉球王国」の存在を否定する論 拠の
つになる、
と確信したのかという問題である。「のぼて」という用語は、『おもろさうし』の中で四Oカ所以上
にわたって登場する。それらの用例を分析して、
その結果として、「のぼて」が仲松のいうような特定された意味を つも
ということなら話はそれなりにわかる。
「のぼ
て」しかし仲松に
の用法を検討していただかねばならないの
は当然として
詳細な事例をあげての論証はここではさしひかえて私の結論だけを述べておくと
「の.ほ
て」
』ま 仲松のいうような大和との親近感を示すなどという特定された意味はない。
レうまでもなく、それが「琉球王国」の
存在を一台定する論拠の一つになろうはずもない。
無知ゆえの立論
F御殿の11師f銘lqについて
仲松説のかかげる「論拠」は、
以上に例示したように論拠ならざる内容のものであり
したがっ
て仲松の「琉球
国」仔在京門定論の論拠に全くなりえていない。
論拠ならざる論拠によって主張される問題提起などあろうはずもな
いから
仲訟説は立論の当初からすでに成り立ってはいないのであり
」れをH大胆な問題提起Hなどと称して真剣
な論議を求めるというのも、
私にいわせれば不当であり時間のムダ使い以外の何ものでもない。しかし私がそう
決めつけただけでは多くの人々にまだ納得してはもらえないと思
うので、今一つだけ
「論拠」
仲松ののズサンさを
第3 �"i
指摘しておきたい。
仲松は、
室町幕府の将軍から琉球国王にあてられた文書を引用して、
その中で「りゅうきゅう国のよのぬし」(琉
-178- -179-
球国の世の主)
とは
唱えられているが、「琉球国王」とは称されていないと指
摘し、
このことも「琉球王国」はなか ったという氏の「問題提起」の論拠にしておられる。
全くいい加減な「論拠」もあったものである。
世の主と国王と
は異なる概念だという手前勝手な理解をおもちのようである
が、それならば、
その理由をキチンと明示すべきである。
将軍の文書は、
琉球国王がその前に「りゅう
きゅう国のよのぬし」と称して送っ
てきた文書を前提にしてそう呼称し ているだけであって、『琉球薩摩往復文書案』に明らかなごとく、
また、
百浦添之欄干之銘(一五O九年)
などの碑
文にも明らかなごとく、
世の主
は国王の同義語であり、
別称なのである。
このことを知らずして、
自分勝手な理解をホしてもそれ
は論拠などと呼べるものには全くならない。
ついでに付言したいが、「琉球王国」の評価をうんぬんしながら、
そのテーマを考える基本史料の一つである『琉 球薩摩往復文書案』に仲松が全く目を通していないことが、
私には不可解かっ驚きでならない。
この史料は『那覇市
史』資料篇第一巻2
二九七O年)
にもおさめられており、
容易に手にすることのできる常識的な史料である。
仲松
のために若干説明しておくと、
右の史料は古琉球における琉球王国と薩摩の外交文書
を主体とする四五点の文書が収
録されており、その内訳は、
琉球から薩摩へ送られた文書一
五点、
薩摩から琉球への文書一一一一一点、
その他七点である。それらの文書の中で、「琉球国
」と
いう文句は一Oカ所以上、「琉球国王」は七カ所以上、「琉球国中山王」は三カ所以上、「中山王」
は八カ所以上も使われており
、国王の同義語である「世主」
、「世王」はそれぞれ一カ所で使われて
いるが、「公」
という言葉は一回も使われていない。
この史料をちゃんと見ていたならば、
前に指摘したように、
仲松が古琉球では「王」
ではなく「八ム」と称していた
などと主張することもなか
ったであろうし、また、世の主と国王を別物と考える自分勝手な理
屈なども思いつかなか
っただろう。そしてまた、古流球にお庁る流球王Lと咋睦摩の関係、ひいては流球王国の特買をつかむこlf』ができ、
や「琉球王国」
はなかったなどと「問題提起」
をなさる必要もなかったにちがいなレ。
ようするに仲松の「問題提起」は、
無知と史料操作のいい加減さに支えられてはいるものの
かんじんの論拠には全く支えられていなレことが 以上に指摘した例でおわかりいただけたと思う。
仲松の示した論拠ならさる論拠の
すべてについて吟味したいのは山々だが
紙数の関係でこれ以上は例示しない。
当の仲松ご自身による再検討を含めて
読者の皆さんにもきびしくご検討レただきたいと思う。
私もいずれ別の機会に、必要とあらば
「論拠」
仲松ののすべてにつレて
史料と分析図表をかかげて詳細に検討したいと考えている。
さて、仲松の「論拠」の件についてはこれくらいにして、今少し抽象的なレベルの問題、すなわち、仲松における
論理的飛躍の問題について
一件だけ検討してみたい。いうまでもなく、論拠が全く論拠たりえていないのであるから、その上に乗っかってレる仲松の主張の一
々が論理的飛躍をおかしているわけだが
、その個別的な問題の指摘に関して
はここでは触れず
全体的な問題にのみ限定して検討しておきたいのである。
r御殿の石間j二銘8について
琉球王国の独自性
仲松 が
張するように、
中世(古琉球)の日本人が琉球を日本の
部と考えていたとしよう。また、古琉球(中世)の琉球人が琉球
は日本の一部だと考えていたとしよう。
つまり両者に相互を外国とは考えない一体感、親近感の意
識が存在したとして、
また、それを裏づ
ける史料もおびただしく存在すると仮定して
、さて、そういう意識があったからといって
日本社会のワク外で形成さ
れた「琉球王国」
の存在が何故に否定されなければならないのであろうか。
第3京
仲訟の
「問題提起」
まさにこの争点に存する。
における論理的飛躍の終着点が
文化的な一体感、
親近感が両者の間にあっても
それぞれが別個に国家を形成している例は世界史に数かぎりなく
-180- -181-
ある。その事実を、
よもや仲松がご存知でないはずはあるまいと思うが、
いかがなものであろうか。国家が一体感 や親近感という意識によって、
その存在を否定されたり、肯定されたりするものであるならば、世界史は、文字どお り神様が望むような形で展開したはずである。仲松がいかなる前近代国家観をおもちなのか私には知るよしもないが、
少なくとも、
日本の中世国家と「琉球王国」の関係を正確に見きわめる国家論はもっ.べきであり、
日本中世国家の内
実を解き明かす守護大名論や戦国大名論などをめぐる日本史研究の成果を知るべきであ
り、存在しないと主張される
「琉球王国」の国家内容を一度はキチンと吟味すべきである。
そのうえで、一体感や親近感という意識上の問題が
つの国家(ここでは「琉球王国」
)の存在を、論理的飛躍ぬきに、
否定できるものかどうかをぜひ検討していただ きたい。もとより、沖縄の文化が日本文化の一環に属すことは、今日では常識的な通説である。と同時に、中国文化や東南
アジアの文化なども念頭におかなければ解明できないこと、
また、
日本文化圏の中でも沖縄の文化がきわだった特質 を備えていること、などの点も今日では常識的な理解に属する。そして、沖縄の文化は、強い個性はもちながらも、
分類としては、中国文化、東南アシア文化のいずれでもない、日本文化の環なのである。
沖縄の島々に住みついた日本文化を所有する人々は
」の島々で
日本文化をへ|スにしながら独自の歴史過程を
たどるようになった。そして、十五世紀初期には、
日本社会とは別個に独自の国家「琉球王国」を成立させ、
同時代
の本土文化、中国文化、東南アジアなどの文化に学びながら
、独
自の英知でみずからの文化を創造しつずつけたのであ
った。念のために補足すると、前近代の国家とは、基本的に、土地(領域)、人民、
そして統治組織により構成され
るが、古琉球の「琉球王国」の場合の土地とはいうまでもなく、北は奄美地方から南は与那国島にいたる琉球弧の島
守で昂る。ニの土地に対して、日の中世国家が実質的な統治をおよふしたこ1ζはなく、海の向こうで二力的に何者
かに与えられたという空手形が発行されたことはあるが、その者がこの島々を実際に領有して自己の地位を発揮したことはなかった。島々に住む人民は、琉球国王を頂点とする統治組織の統治下にはあったが、日本中世国家の統治下
にくみレれられたことはなく、また、中国の皇帝権力の統治をうけたこともない。統治組織(首里王府、中山王府、
琉球王府などと称する)は、さまさまな機関や役人、その頂点にある国王から構成されるが、その役人(神女を含む)
は国王もしくはその権限代行者から任命はされたが、それ以外の外部勢力によって任命されたことは全くない。国王
は、中国皇帝の冊封をうけるという形式的な従属関係はもったが、琉球王国独自のメカニズムで君臨したのであり、
外部勢力によってその地位を左右されたこともない。
そして、重要な点は、琉球国王は何者の介入もうけぬ琉球王国を代表する最高の権能者であり、たとえま中世日本
の守護大名や戦国大名のように天皇制的なシステムに立ってH琉球の守(かみ)Hなどと称することもなく、日本や
中園、そして東南アジアの諸国に対して、自立的な外交主体としての地位を発揮したのである。古琉球の「琉球王国」
とは、以上のような意味で独自の国家であり、独自の政治的存在であった。これと同じ性格をもっ地域は当時の中世
E御殿の石町-[-銘111につL、て
日本にはなかったのである。
日本社会の見方
日本文化の一環に属する文化をもっ人々ま、古琉球の時代において、当時の日本社会とま別個の国家「琉球王国」
をつくりあげたのである。仲松がその存在をいくら否定しても、氏がかかげるような「論拠」や「論理」をいくらふ
m3 i手
りか,さしても
日 文化の一環に属する文ぃ門琉球の「琉球王国」が微動だにするはずもないではないか。たしか 化をもっJ々のつくりあげた国家であったから
その時代の沖縄の人々が日本に対して一定の
「親近感」
同文同穐
一182- -183-
としての「一体感」をもっていたことは事実であ
る。
その根拠を私は仲松より正確に例示することができるが、
たと
えは、
室町幕府との往復文書が平仮名で言かれただけでなく、「琉球王国」の中
で、
公文書である辞令書も平仮
名で
持者かれ、
祭杷歌謡「おもろさうし」も平仮名をもって表記され、
碑文も漢文とともに平仮名で刻印されている、
など の例をここでは示すにとどめよう。
だからとい
って、「琉球
王国
」の存在を右の
親近感が否定できるかのよ しかし、
うな陳腐な主張をなすべきではない。
やがて、
日本社会のワク外で形成され存在したこの「琉球王国」は、
一六O九年春、
徳川幕府の出兵許可を得た薩 摩島津氏の二一000の兵により征服された。
この事件をキッカケに、
古琉球の「琉球王国」とは性格を異にする近世 の「琉球王国」の歴史がはじまるのである。
そして
一八七九年の琉球処分により「琉球王国」は最終的 七O年後、
に解体され、
琉球は近代日本の一員に編成される。
ついでに注文したいが、
古琉球における「琉球王国」は存在しなかったという仲松の「問題提起」における考えで
は.
一六O九年の島津侵入事件は一体どう評価されるのであろうか。
三OOOの兵が上陸し、
征服した土地にあった ものは何か
いいかえると
、征服されたものはなんであ
ったのか
、最新の研究成果をふまえた
仲松の 議論をぜひお聞 かせ願いたいものである。
「琉球王国」の存在を非科学的に否定したのは、
別に仲松がはじめてではない。
研究史のうえでは、
伊波普猷らが 本格的 な研究を開始する以前ま
での 沖縄研究
、つまり官公調査やアカデミズムの研究(いずれも沖縄出身者以外の研
究)に
おい て再定されていた
。伊波普猷
らの研究は
、否定された古琉球における
「琉球王国
」のアイ
デン ティ
ティを
復権することを一つの課題としたものであるが、
どうやら仲松は「琉球王国」の評価をめぐるこの研究史の事情をご 存知ではないらしい。
「問題提起」を・なさるからには、
当然検討し認識しておくべき案件の一つであったはずである。
それに今一点、古琉球の「琉球王国」や近世の「琉球王国」については、近年多くのすぐれた研究が発表されている。具体的には指摘しないが、
それらの研究成果について仲松がほとんど日を通さないで「問題提起」をした勇気にもお
それいるが、
学を志す者から見ればまことに残念でたまらない。
あえて断言するが、現在の琉球史の研究は、論拠ならさる論拠によって、
論理ならざる論理によって「問題提起」がおこなえるほどレベルの低いものではない。
かつて、
沖縄は日本社会のワク外で独自の国家をもち、
その国家はやがて複雑な過程をへて日本社会の中に編成さ
れた。現在の日本社会の中で、沖縄と同様の歴史的事情で日本社会の一員となった地域はどこにもない。このことが、ある恵味で、
今日におよぶ沖縄の地域的独自性(地域特性)
を形成した有力な一因である。このことは、いかなる主 義主張によっても否定し去れない沖縄を考えるポイントの一つである。
私の意見では、
日本社会の構成はかならずしもハードなものではなく、
たとえば沖縄のような事情をもっ地域をそ の一員とするソフトなものではないだろうか。
これをあくまでもハlトに考えようとすると、沖縄はみずからの特性
1ミ御殿の石厨子銘J;につレて
を捨ててハードなユニホームを身にまとうべきだと要求されることになるが、ソフトに考えると、沖縄も含めた日本
社会におけるそれぞれの地域特性やパリエl
ョン
をますます発揮させる形で将来を論議できるような気がする。
最後に今一つだけ感想を述べさせていただくならば
仲松の
「問題提起」
の波紋の大きかったことである。
υtHこ+仇1
』i
まことに不思議でならなかったが
その状況の中で
琉球史理解の科学的フィルターがどれくらい作用したのかが気
かがりである。私としては
確かな議論や主張にしか動じない知的自立性が
」の島国で支配的であることを期待す
るまれまk、
つごL
。tlvJILOィふj,刀
第3革
-185- -184-
付論2
・
の評価・再論
|合同城隆の「批判」を読んで
「琉球王国」
高一城隆 (沖縄文化協会会員)が、
本紙 に「 古琉球研究
の諸問題
|!
仲松弥秀
・高良倉吉論争
の検討
」(
九月 三十日 ー十月十一日)と題する論文を一O回にわたって連載し、
仲松弥秀と私との間で展開された「論争」こ批評を加えつ
つ、
その中で、
もっぱら私に対する「批判」を試みていることは読者もご承知のことと思
う。
私たちの「論争」をと りあげてくれた高城の労はまず多とされるべきであるが、
しかし残念なこと
に、
その内容
・論旨
の低劣
ぶりに
、期
待
をいだいて高城論文を一読した私は全くがっかりさせられた。
本題に入る前に次の二点をまず確認させていただきたい。
①ちょうどよいきっかけができたので、
琉球王国の評価 をめぐって今後高城と本格的な議論をおこない
たいと考えている。「本格的」という意味は、
必要となるあらゆる論 点に ついて 諸史料を駆使して検討をお
こない
、琉球王国論
・日本中
世国家論のレ
ベルにまで論
議を高め
てみたい
、
いうことである。
②しかし、
そのために新聞紙上を「論争」の場とすることは避けたい。
理由は二つある。
一つは 史料や分析図表をふんだんに用いることは紙上では無理であること、
今一つの理由は、
」むずかしい歴史の論議を貴 重な紙面を使って長々と展開することは読者の迷惑になるからである。
したがって、
私の本格的な議論は今後学術論 文の形式
で、 しかるべき雑誌において発表する。
以上、
高城のご賢察を得たい。
さて、
高城論文に対する私の感想をのベる前に、
事情をご存じでない読者のために仲松と私の間でたたかわされた
「論争』の経過につ
いてかんたんに説明しておくのが道理であろう
。
一九八一年十月三十一日
、東町会館で「沖縄古
代文化をめぐって」と題するシンポシウムが開催された
健一
とともに基調報告をおこない
、その二本の報告を前提に大林太良、高宮康衛、森浩一の三氏、 (主催・沖縄タイムス社、小学館)。その席で、仲松は谷川
それに司会役の私
を含めた六人で討論を展開した。「論争」の発端はその討論の場において仲松報告の内容を私が批判したことには
じまる。さいわい、当日のシンポジウムの全容は『シンポジウム沖縄の古代文化』(小学館)と題してすでに発刊さ
れているので
関心をおもちの読者はその本をご参照いただきたい。シンポ終了後、仲松は沖縄タイムス紙に「『琉
球王国存否』について」(十二月四日1八日、四回連載)と題して自論を再説された。私も「『琉球王国』の評価」(十
二月九日i十三日、五回)を書き、仲松の所見を再び批判した。その後、私はこの「論争」に刺激されて古琉球に関
する論文を五本ほど書き、自論の補強をおこなったのであるが残念なことに高城はそれにほとんと目を通していな
いようだ。
仲松と私が争った点は日本史一般でいう中世琉球史でいう古琉球の時代に
「存 在」
した琉球王国をどのように
認識 し
評価するかという問題であった。」の問題は古琉球中世)の琉球史全体の評価につながっており
時同
王御誕生の石厨チ銘』について
にまた
日本歴史の中で古琉球をどう位置づけるべきかという問題にも連動する大切な争点である。
私なりに要約す
ると、仲松は氏なりの「論拠」を示したうえで、日本社会と区別される独立国のように見られている古琉球の琉球王
固など実は存在せず、当時の沖縄も基本的に日本社会の一員、一地方にすぎない、と主張する。独立国琉球王国のよ
うに見えるものは島津侵入事件二六O九年)後に薩摩の都合によって政治的にテッチあげられたものである、コ
lu 《ノ 4
m3京
これに対して私は古琉球の琉球王国は白木の中世国家と相対的に区別される独自の国家でありその国家が島津
侵入事件を契機に日本の近世国家
(幕藩制国家)の一環に編成されたという認識に立って仲松説を批判した。
批判 と
一187- と
-186-
こ際して私はとくに、
仲怯説の「論拠」を問題にし、
あげられてレる「論拠」のすべては実証的レベルで問題だらけ であり
したがって論理的飛躍も多いため
仲松説は学問的な説として成り立つかどうか全く疑わしい、
と例をあげ て論評した。
以上が私たちの「論争」の経過てあるが、
高城はこの「論争」について氏なりの検討をおこない、
その結果、
仲怯 説に賛同、
私の論を一台定すべきたとの結論に達したものらしい。
」口同域の主張したレ要点は次の言葉に集約
れている。「戦国時代のいわゆる群雄割拠ののち、
信長|秀吉によって 日本が統
」れようとしてレた
時代
、そのころの琉球は
、『海内』
こおける
、
されざる地域でまなかった いまだ統 か」
「おそらく、
人々が『日本』を意識しはじめるのは、
信長|秀吉によって天下が一統されてからであろう。
それ 以前の日本には、
各地に独自の『国家』か存在していた。
古琉球が持ち得たような独自性は、
程度の差こそあれ、
東
国や奥羽の各地にもあったのである。
日本史に対して琉球史があるように、
東国史、
奥羽史もまた存在しているので ある」。 日本人がいつごろから「日本」意識をもつようになったか、
守護 名領国や戦国大名領国が「国家」であったかど うか、「琉球史」と「東国史」
「奥羽史」が同質のものであるかどうか、
なとについてはここでは問わない。
それらの 論点をはずして考えると、
高城は、
古琉球の琉球
国は白木社会と相対的に区別される独自の国家などではなく、
琉
球も日本社会の
員であり
、日本社会の中に含まれる一地方に
すぎなレといいたいよ
うである。「その論拠」として あれこれのべているが、
私なりに整理すると次の四点を示しているだけで
ある。
①古琉球(中世)の琉球人および日 本人の間では相互の土地を外国と見る意識はなかった。
②古琉球の琉球には日本人がかなり入りこんでおり、
同時に まと日'本文化の強い彫響
うイていた。
3一琉球を日本から切り離した'一のは近世に入って護摩のおこなったことて あり、これをうけて「歴史の改さん」がおこなわれたため琉球の異国イメ|シが形成されたのではないかoG中世の権力がなく、そのため各地域がそれぞれ「国家」的形態を形成してレたが、琉球王国もその一つ日本にま強力な統
にすぎない。
見られるように、
高城の論旨のHざすところは仲松と同様で、
古琉球における琉球王国の独自性を存定し、
琉球王
国を中世日本社会の枠組みで理解し、琉球王国を中世日本社会のバリエーションに解消してとらえる、というもので
ある。①1④がそのような主張の「論拠」になりうるかどうかは別の論文で検討させていただく。その時のために、
高城には先史時代から現在に至る琉球史のとらえかたについて、
氏の琉球王国評価をそう入して独自のシェーマを準 備していただかなければなl'£、。i吋,,,.ELM-いうまでもなく母国正の言説のみでなく、最新の日中世国家論の到達水準
もふまえていたたかなければならない。そして、田中健夫の仕事の部を引用しておられるようなので同じ田中が
中世の東アジア世界における冊封体制と民族国家の構造を論じている仕事も念頭におかれたい。
それらをふまえた討
論は今後の本格的な論議でおこなうとして、最後に二、三の苦言だけは是非呈させてレただこう。
T�御殿の干il釘f銘乃につして
『琉球の時代』第三章大交易時代で
私が海外交易の拠点であった那覇港の模様を説明するためにのみ引用
(ただ
し翻訳して)
した朝鮮史料の一節をとらえて、
仲怯説的解釈をしていないからダメたと批判するのま全くのいいがか
りとしうものである。氏はこういうのだ。「」局良は仲訟と同じ史料を使いながらただ那覇港のにぎわいぶりを.示
す史料としか、活用することができなかった」、と。
私の史料解釈上の無能ぶりを印象づけようとしておられるよう
だが高城さん
私は「ただ那覇港のにぎわいぶりをポす史料」としてのみ
「活用」する日的で引用したのですよ。
第;1 y:
その史料は「那覇港のにぎわいぶりを示す史料」として
とLうのが-」の場合のあなた「活用」するのは適吋でない
の批判てあるべきだ。ム7つ、倭冠は「琉球に侵入した』とと
た
たようである」とのベそこから「これは倭寵
-189-
が、琉球を異国視していなかっ
たためではないだろうか
」としてレるが、実におそまつな論理である。海賊は自国を 襲わないという原則をおもちのようだが、
それはそれで自由、
しかし、忘れてはレけない、倭定、とくに後期倭冠の
かなりの部分は中国人なんですよ。
田中健夫などの一連の倭冠研究を是非参照せられたレ。
島津侵入事件について仲松の理解を紹介しつつ私を批判しているが、
全くお話にならない。私たちの歴史学はそう
いうレベルで侵入事件を論ずることをすでに過去の思い出としている。
梅木哲人、紙屋敦之、上原兼善ら目下の研究
水準を示す研究者の一連の論文を是非参照せられたい。
あと一つ、玉御殿の石厨子の銘文問題についてだが、私がそ の記述年代の実証的分析の必要を力説しているにもかかわらず、
何の根拠も示さず、「近世になってから銘文を刻ん だと考えたまうが無理がない」などとのべるような神経が私には理解できない。
一体、高城はみずから分析作業をお
こなったのであろうか。論より証拠、
なるべく早い機会に私の分析結果を紹介しながら批判論文として発表する必要 があると痛感させられた。
以上、「仲怯・高良論争」の経過、争点を紹介し、
そのうえで高城論文に対する若干の感想をのベた。
冒頭にのベ
たように、
沖縄タイムス紙の貴重な紙面を独占するわけにはいかないので、
詳細な論議は場所を変えて今後じっくり
おこなうこととする。妄言多謝。
第四章
山北監守をめぐる問題点
-190-
山北監守の起源 古琉球における首里王府の国頭地方統治機関として設置されたとレわれる山北監守
(北
山監守) につレては、
その 名称が広く知られているにもかかわ
らず、
残念なが らこれまで本格的な研究は書かれてこなか
った。したがってまた、
その設置の目的、
制度上の変遷、
歴史的位置づけなどもレまだに不明確であ
り、
未開拓の余地を多く残しているテl マだといえよう。
本章では
、右の研 究状況を念頭におき
、限られた史料を用いながら
、山北監守をめぐる問題状況の一端を開示して
みたいと思う。
山北滅亡
ご四一六年
の六年後、
つまり永楽
二十年
(一四 二二) 尚巴志は第
二子尚忠をして山北監守の任にあた
らせた、
と
『中山世譜
』察温本は伝える
。設置の理由を同書は
、「
夫れ山北城
、首里を 離れること遠
く(城、
今帰仁 に在り)、
地、
険阻に係る。
人亦験健なり。
其れ山北、
復た峨岨を侍み、
而して変を生ずるを恐る也。
尚忠、
監守を 以て変乱を拒ましむ」と述べ、
征服地山北の治安維持のためであったと説明している。
ただし、
右の山北監守設置のことについては
『中山世鑑』『中山世譜』察鐸本ともに触れてはおらず、
『世譜』察温 本およびこれを踏襲する『球陽』のみが記す点に注意する必要がある。今帰仁城跡に立つ山北今帰仁城監守来歴碑こ 七四九)は、
昔は球陽の諸郡四分五裂してついに二一山鼎足の勢を成し、
万民は塗炭の憂いに堪えざる状況となったが、
この時佐敷按
司巴志が大
レに義兵を輿し、
三山を匡合
して一統の泊を致したと述。へた後、
つづけて「然るに山北諸郡 の地峨岨に係り、人亦勇猛なりo中山を離れること遠く、教化敷き難し。復た峨岨を侍み而して変乱を生ずるを恐る。
乃ち次子尚忠を遣して監守となし、永く定規と為す」と述べ、『世譜』察温本同様の説明を加えている。右に紹介した史書・碑記の説明がもし正しいとすれば、山北監守は征服地の治安維持のために尚巴志によって設置され、その任にあたったのは次男尚忠であったということになる。
尚巴士心死去後、「今帰仁王子」尚忠は王位を継ぐのであるがこ四三
九年
)、『球陽』は「尚忠践砕し、仇旧制に遵
ひて子弟を封ず。是れに由りて今帰仁世々監守し、著して定規を為す」と述べ、尚忠以後も山北監守の制はその子弟
により存続したと説明している。しかしながら、尚忠後の山北監守の人名、代数などについて正史は伝えていなレ。
さらにまた、いわゆるクーデター(一四六九年)によって第一尚氏王朝が倒壊した際、山北監守がいかなる顛末を
たどったかについても不明である。山北今帰仁城監守来歴碑は、尚徳が酒色に耽り殺裁を好んだので国政は乱れ、
いに臣民に叛かれて宗祖を覆絶することになり、かわって臣民に推戴されて尚円が王位についたと述べ、クーデター
により山北監守もまた第一尚氏王朝と運命をともにしたかのごとく暗示しようとしている。『球陽』は今帰仁間切下
運天村の百按司墓のことに触れて、その墓が尚徳の「貴族」の墓であること、墓内には枯骨が散乱し、また、美しく
山北監守をめくる問題点
装飾された巴字の金紋をもっ木高数個があって屍骨を収めており、その中の一つの壁板には弘治十三年(五OO)
九月某日の銘があること、あるいはこの地に隠遁せし尚徳の「貴族」は尚真代のこの年に至って老尽せしものならんか、などと解説して、山北監守もまた第一尚氏王朝とともに倒絶したと読みとれるような書きかたをしている。『球陽』のいう百按司墓木高は明治十八年二九O五)に島袋源一郎が収集し、その後旧首里城北殿を利用し
第4 青空 た沖縄郷土博物館しかし、東恩納寛九三六年開館)に蔵されていたようであるが、去る沖縄戦で灰嘘に帰した。惇『琉球の歴史』(『全集』第巻所収)の口絵にその写真が掲げられていてかろうじて形態を確認することができる。
Jコ
-192- -193-
東恩納によれば、木高の壁面に「弘治卜三年九月
えさしきやのあし」と
しう銘文が記されていたという。
以上の点
から考えると、
百按司墓を尚徳の「貴族」の墓とする『球陽』の説明は大いに疑問の余地があることになる。
という
のは、右の木高の銘文は、
たとえは同時期のい
わゆる小禄墓の石樗銘文「
弘治七年六月吉日おろく大やくもい
」と同
え3LきやのあrL形式であり、
木高に伊差川按司の屍骨を収めていることを銘記したものにすぎず、
これを尚徳の「貴族」伝説にむす びつけるには無理があると思えるからである。
百按司墓の被葬者は『球陽』の伝える解釈とは別の説明
したがって、
を今後検討すべきであろう。
しかし、右述の事情を念頭においたうえでもなお、山北監守は第一尚氏王朝
の滅亡と運命をともにしたと考えてよ いのではなかろうか。というのは、
史料的な根拠は欠くものの、
治安維持の目的のために現地今帰仁に監守が常駐し、
山北の動勢に目を光らせ、
第一尚氏王朝の山北経営の要の役割を果したであろうことが推測され、
やがて王朝滅亡と
ともにこの制もまた終止符を打たれたであろうことが想像されるからである。
このことにより、山北の経営は、新た
に登場した第二尚氏王朝の手に委ねられることになったのであろう。
山北監守の復活
『向姓家譜』具志川家(『那覇市史』資料篇第
巻7所収)大宗詔威の項に「尚円王、尚巴志王の制に遵ひ大臣を 遺して山北を監守させ、以て昇平の盛を致す。尚真王に至り、第三子尚詔威を遣して山北を監守」せしむ、と記され
ている。山北今帰仁城監守来歴碑にも、向円が「大臣」を山北に派遣して監守させたとあるので、王位に就いた後、
尚円が尚巴志の旧例に習い山北経営のために「大臣」を現地に派遣したことがわかる。
この経過措置を経て、やがて
尚真代に至り山北監守の制が本格的に復活し展開を見せるのである。
『球陽』巻三、尚真王の項に「山北の地、険岨に係り、人亦競健なり。
城の輩固なるを侍みて復た変乱を生ずるこ
と有るを恐れ、のりて第三子尚詔威を遣し、旧制に遵依して山北を監守せしめ、今帰仁王子と称す。而して其の子孫継ぎて山北を守り、世々襲爵を受けて按司と称す」とあり、治安維持のために尚真が第三子尚詔威をして山北監守の任にあたらせたことがわかる。このことは、
尚巴志がその子尚忠を治安維持の目的で山北監守に任じたことと軌を一 にした施策であったことになる。
『向姓家譜』は尚甜威が山北監守に任じられた年代を弘治年間
(一
四八八1一五O五年)と記すのみであるが、玉御殿の碑文(一五O一年)
には「御一人ミやきせんのあんしまもたいかね」の記述が
あり、尚詔威(童名真武体金)がすでに
五O一年時点で今帰仁按司H山北監守を名乗っているところから、
それ以前、つまり一四/ノ年から一五
00年までのいずれかの年の派遣であったことになる。
尚詔威の生年は伝わらないのでたしかなところは不明とすべ
きだが、
私は十五世紀九0年代の設置ではないかと推定している。
山北監守をめくる問題点 尚館威を山北の地に赴任させるに際して、尚真はとくに脇指二振(備州長光、相州秋広)、鎧通一本(行平)、黄金盃・盃ム門個づっ、金織鍛紳一条を給したほか、「唄双紙一冊」を与えている。「唄双紙一冊」を賜った理由は、節々山北には神が出現するのでそれに対する儀礼を挙行する必要があり、この重要な儀礼に際して尚留威が家族を率いて主催の任にあたるためであった
。「唄双紙」はこの儀礼に必要であったことになり、
このために「王都」(首里)
第4 �そ
「唄勢頭」三、
また阿応理屋恵按司、世寄君按司、内人が今帰仁に派遣されて「士唄勢頭」とともに礼式を行ない、宇士心掛按司 呉我阿武加那と心などの神女がこの礼式を掌ったという
『向姓家譜』による)。」の記述がもし信頼のお
から