九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
琉球王国史の基礎的研究
高良, 倉吉
https://doi.org/10.11501/3065585
出版情報:Kyushu University, 1992, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
106
2 編成組織としてのヒキ
辞令書に見る王国制度(その一)
表皿12によると、第一に、
「中頃」より存在した
九ヒ
キの名称および除かれた
三ヒキの名
が わ か
り、しかも九ヒキのうち六ヒキは表Ellに掲げた辞令書中のヒ
キ名と完全に一致している。第二に
、うしのひばんヒキがしら勢泣富ヒキが丑日帯の引頭、
謝間宮ヒキが己田容の引頭
、勢治荒富ヒキが酉日番の引頭と注記され
て
ヒキの中には筆頭格ともいうべき三つのヒキがあり、
それを中心に三グループに編成さ
れ、
その三グループが丑日番以下の三番に対応していることであ
る。第三に、
おそらく「中頃」に削 減された雲子宮ヒキ以下の三ヒキも元は右の三グループに属しており、
古い形のヒキは一一一ヒキ三グ
ループ制、一
グループ四ヒキをもって三番に対応していたと推定されることである。
第四に、ヒキの船頭H勢頭九員、その属官であるヒキの筑殿H筑登之九員が存在すると「由来記』は述べるの (句
、ヒ
いるように、
船頭リ勢頭を長官、キとは、 第三
筑殿H筑登之を副官とし、
その下にアザナ、中門セド(勢頭)、中門など
の下官を要員としてもつ組織であったと思われることである。
以上の点から、ヒキとは、一定の職制
を備えた編成組織であり
、辞令書の受給者となるのはこの組織内ですでに特定の位置
・ポストを得て
通しを得ることができよう。 いるもの、また、
辞令書によって任職されるのはこの組織内の特定の位置・
ポストである、という見
表E11に基づいて説明す
ると、
勢遺富ヒキに所属して
いんお
の肩書をもっシホタルモイが渡唐船タ
ヒキをめぐる諸相
表ill-2 12ヒキの名称と人員内訳
-勢泊富山ヤリトミ
)l
丑白書引煩。 アザナ 2員,中門セド1員,中門1員,家来亦副11員, 常住者1員。
アザナ3員,中門1員, 家来赤頭10員, 常住者1員。
アザナ3貝, 中門1貝, 家来赤頭10貝, 時3貝, 常 住宅n員。
二品百五三7二';"�')--- -ì--E'�-:mB-ii}i-子長刀瓦副長記長 ;h;ii瓦-
家来亦頭10員。
アザナ3貝, 中門1員, 家来赤頭10員。
アザナ3員,中門1貝, 家来赤頭9員, 常住者3貝,
時l員。
・勢治荒官(セヂアラトミ)
I
閉口番引頭。 アザナ4員,中門セドl貝,中門2員,家来赤頭14員。
アザナ4員,中門2員,家来赤碩12貝,常住者3貝,
作事2員。
アザナ10民, 中門 8 f-1.御橋夫38貝。
内 訳 人 員
島内宮(シマウチトミ〉
・押明百(オシアケトミ〉
-相応宮(フサイトミ) 名
-世高富(セダカトミ) 浮��兄(ウキトヨミ)
占ユ 107
ヒ
世持官(ヨモチトミ)
宝子宮(クモコトミ). 世次官(ヨツギトミ). 安舞宮(アマエトミ)
注) w琉球由来記』巻2より作成。 ヒキ名中の・印は表面-1に登場するもの。
カラ丸の官舎職に、謝国富ヒキに所属して
いる沢の誌が大城の大屋子職に、大嶺の大
屋子もいが相応宮ヒキの家来赤頭の船頭H
勢一四職のポストに、同大屋子もいが勢治荒
富ヒキの旦主部家来赤頭の船頭H勢頭職のポストに、押明白品ヒキの船頭H勢頭大屋子
もいが謝国宮ヒキの旦主部家来赤頭の船頭
H勢頭職のポストに、儀間子が勢遺富ヒキ
の旦主部家来赤頭の筑殿H筑登之職のポス
トに、同子が勢高宮ヒキの旦主部家来赤頭
の筑殿H筑登之職のポストに、それぞれ任
職されたのである。あるヒキから別のヒキ
への人事異動がおこなわれ、あるヒキのポ
ストに任職された人物が一年ほどで別のヒ
キのぷストへ転任しているのであるから、
ヒキと呼ばれるものは地位・
ポストをもっ
108
ところの組織体であることはもはや疑う余地がない。
だが、表皿|2で見るかぎり、向象賢路線の影響をこうむった紡果なので
あろ
うか、『巾来記』の
伝えるヒキの機能は著しく限定されており人員もはなはだ軽職である。
たとえば、アザナは行里城の
東間二カ所に設置されていた物見台(日アザナ、
品添アザナ)の帯役のことである。表皿|2のヒキの
辞令:容に見る王同制問(そのー) 人口は、すべてこのような王符の特例制・門帯を担当する御者役の軽卒で占められているところに特徴がある。したがって、科峨で市められる『尚来記」尺桝のヒキのイメージと、表Eーーに掲げた十六
冊一紀j十七刊紀巾期のヒキのイメージとの問には大きなギャ
ップが横たわっているといわなければならないのである。
巾一キ所を行する大原子もいクラスの行人が船頭H勢頭職に任職
され、奄美地域の錠
クラスの地方役人までが所属していたかつてのヒキに比べると、『巾来記
』の記すヒキはそのお誌を
第三
著しく低下させたところのものに思えてならない。逆にいえば、肯琉球におけるヒキは、近刊のそれ
よりも山皮の役刑を市びたところの編成机純だったのではなかろうか。
しかし、近世に入って低下・形骸化を前一ねたものとはいえ、「出米記の伝える記述にはヒキ本来の性格を考えるうえで興味ぷかいヒントがかく今とみで呼ばれ、その末尼に「竹川」の按出美称をもつことであろう。ロは「とよみ」(山一日凡と宛る場合が多い。例、取引開など)のつづまった形で、「鳴り利く」「名目くなる」の怠から転じた敬称辞で
札口
、+円琉球 れている。それは、一二のヒキが例外なしに夫称辞
において大引の船舶につく美称辞として用いられた。
しかも、興味ぷかいことには、ヒキ名は海船を
指す美称辞とすべて一致する。
3
美称辞をもっ船舶名
ヒキをめぐる諸相
次の二件の辞令拝をまずは御覧いただきたい。
(7) 的渡同船世次官船頭職叙任辞令許(一五三七年)
(収)しよりの御ミ口(る)
たうへまい口
(どうハ)
よつぎとミがせん円U
(の)
はゑのこおり口
(くもいに)
一人あめくの大や
円llu(候)
たまわり申口 回
回(方へまいる)
しよりよりあめくの大やくもいが
円llu(廿日)嘉靖十六年八月hu
(8) 的渡南蛮船勢治荒富筑殿職叙任辞令舎(一五四一年)
10.9
しよりの御ミ事
固まなばんゑまいる
110
一 せ、
人 ぢ、
ま 円高あ、
さ Uðら、
ぶ か と、
ろ ね ミ、
て こ が こ ほ ち ぐ(り く 口εの ど の(
口c 辞令書に見る王国制度(その一)
(る) 回たまわり申候 しよりよりまさぶろてこぐの方へまい口
お靖廿年八月十日
右の辞令書に登場する「よつぎとミ」(世次宮)、「せぢあらとミ」(勢治荒宮)
ともに船名であり、前者は東シナ海を越えて中国へ、
後者は南シナ海を越え
て「まなばん」(真南蛮、又は接頭美称。東南アジアのこと)
第三
へ派泣された大型船舶である。
この二般の海船の船頭職に天久の大足子もい
を、筑殿職に
マサプロ文子を任じたものがおの辞令書である。
凸口問を末尾にもつ美称辞によって表現される船舶名はオモロの中にもしばしば登場す
る。
た と え ば
(9) 『おもろさうし』巻三、「かくらとよてがふし」の一行に、
きこゑ大ぎみきや、
とよむせたかこが、
みしま、
いのられL
又
しよりもり、ちよわる、
またまもり、
ちよわる 又
なさいきよもい
、あんしおそい、
あが、かなで、
あんしおそい 又
大きみよいきよて、
せたかこよ、いきよて 又
ゑそこ、
なこよわちへ
、
みおね、
なこよわちへ 又
あまの、
そこらしゃに
、
ヒキをめぐる諸相
又
あまの、
まうれしゃに、
小}
小 ト ハ」
お、て、しうけか
、
、
、
、
、 せちあらとみ、
おしうけて
、
、
、
、
世っきとみ、おしうけて
、
、
、
、
、
くもことみ、おしうけて
、
、
、
、
、
・あまへとみ、おしうけて、
、
、
、
、 おしあけとみ、おしうけて
又 又
111
いのて、
文
たけ/\に、
もりもりよ、いのて 112
〔以下略〕
とある。右のオモロ
に登場する「世ひきとみ」(
世引宿)、「せぢあらとみ」(勢治荒富)、「世つぎとみ」(世次富)、「くも
ことみ」(雲子富)、「あまへとみ」(安舞宿)、「おしあけとみ」(押明富)はすべて船舶名
であり、
右のオモロはそれらの船舶の航海安全を神々に祈った神謡で
あ る
。「おもろさうし
には、「正徳十二年(一五一七〕十一月廿五日ひのとのとりのへに、
れ」
が か か ハ」
恥、 ま
なぱんに御っか
l(侠)(叩)いめされし時に、おぎやかもい
天の御みてづからめされ伎
、ゑと」と注記されたオモロ
が あ
る。「まなばん」(真南蛮)
に向けて勢治荒富が出帆する際に時の王尚其(「おぎやかもい」)
がみずから一諭したオモロの意であり、ここで
も勢治荒宮は疑いなく船舶の名称である。「おもろさうし』の中か
ら、接尾
(日)
に富名をもっ船舶の用例を拾い出したのが表皿|3であ
る。見られるように、実に二四タイプの船名
が登場している。
辞令書に見る王国制度(その一) 第三
巻十三
琉球の船舶、
とくに諸外国との往還に用いられた海船には三つの異なる名称が付せられてい
た。たとえば、『歴代宝案』第一集巻四十一所収の天順七年(一四さ一一)八月四日付の
前 和
印刷あての杏文によると、正使呉実堅、
副使那説明泰らの乗った船舶は千文字を冠した勘合名を恭字号、
船名を控之羅麻
(ロ)魯(コシラマル)と称した。この控之羅麻魯の呼称は的の
辞令書に登場する渡店船タカラ丸と同工であ
るが、
外交文書に明記される右二様の名称のほかに使用された今一つの船名が、
実は勢治荒富などの
ように、
按足に沼をもっ美称辞で呼ばれたものだったのである。
この美称辞は、
おそらく宗教儀礼
の
際に予
祝をこめて問得大むな
どの日級料女によって命名されたと忠われるのであるが、その託拠に、 航海安全を願う神話で船舶は例外なしにこの美称辞で呼ばれている。「おもろさうし』の中に
は 航 海
れる必要があった。 の安全を祈る
エトオモロが数多く収められている
が、
村々に示される船舶名
は、
常に美称辞で唱えら ヒキをめぐる諸相
接尼美称「官」をもっ船舶名 )
宮
)
日)荒)))
官
宮 明訂治宮古宮
内
近 押舞勢報子金
品
勢 (安(果雲貨
(
( み一(み一(((み一み
一み
と
一み
一と
一みみ 一みみと一と
一と
け
一と 一ら一とと一ととち一みみり一うあ一へ一生うこ一ねいう一ととや一きし一ま一ぢ一はも一がなま一づへい
一り
お一あ
一せ
一かく一
こ し
し一すすせ
一せ
ぢゃくにとみ(謝同日) てよりとみ
はねうちとみ はやとみ
ふさいとみ(相応宮) まさりとみ まやいとみ やらいとみ せつぎとみ(世次官) よひきとみ 世もちとみ(世持宮) よLせとみ 表皿-3
113
注) li校本おもろさうし』による。 アンダーラインを 付したものは表面ー2のヒキ名と一致するもの。
4
HH地上の海船μとしてのヒキ
そこで、当然の
ことながら次の疑問がわれわれの眼前 に浮上してくる。一定の職制を備えた編成組織であると
」ろのヒキと、
外洋を航海する海船の名称とがともに接 尾に冨をもっ美称辞によって呼ばれるのはなぜ
か。偶然
にすぎないのか、それとも、
しかるべき芯味があっての
ことなのか。それに、
前掲的や的の辞令書に明らかなよ
うに、
純然たる渡海役である船頭や筑殿の職と全く同名 の役職がヒキの長官・副官クラスの役職として存在する のはなぜか。
古琉球におけるヒキをめぐる故大の論点が
右の疑問の中に含まれている。
114
念のために補足しておくと、表皿12の一一一ヒキに見る世高宮、浮豊見が表面13に示した『おも
辞令書に見る王i付制度(その一) ろさうし』の中には見当らず、逆に表E13に見る「かほうとみ」(果報宮)以下一四宮の名が表皿|
2のヒキには見当らない。「琉球国由来記』は先の一一一ヒキを記した後、「外に、世引富・世寄富これ(日)有りたる由、持家諮に見ゆ。あるいは往昔、此の引有りたるか」(原漢文)と述べ、一二ヒキ以前には
なお多くのヒキが存在したかもしれないと追記している。たしかに、世引富(よひきとみて世寄富(よ
〉せとみ)ともに表E13のオモロの用例に登場するので、『由来記』が述べるよう
に、さらに古い時代には一一一ヒキを越えるなお多くのヒキが存在した可能性が強い。その可能性も念頭に零れたうえで、
先の疑問について考えるべきであろう。一一一第伊波持猷は「古琉球の『ひき制度』について」の中で右の疑問を折摘した後、彼らしい言いまわしながら、「古琉球人の所動の中心が航海貿易にあった為に、円然政道も船頭が船を操縦するやう
な も
(M) のだと悟って、それに因んで転用したものと忠はれる」と一つの見通しを述べている。たしかに、伊波のいうように、海船名・渡海役名がヒキ名とその役職名に一致しているという事実は、海船の航海体制がヒキ同様に一定の職制を備えた編成組織にもとづいて設定されており、地上の編成組織であるヒキも海船の航海をモデルに設定されていた、という二-古一の状況を暗示している。おそらく、ヒキはH地上の出船μであり、海船は川川海に浮んだヒキHHではなかったのか。海船が数隻で船団を組んで航
海するのと同じように、
ヒキ組織もまた数ヒキ(四ヒキもしくはそれ以上)をまとめて一つのグループ
とし、
船団に旗艦(疋使の乗る船)があるのと吋岐に、
ヒキにもグループの話頭(『巾米記』のいう三番
の引一矧)があったのではないか。
海船名とヒキ名が一致するのはそのためであり
、同時にまた、海船の役職名とヒキの
役臓名が一致 するのもそのためである。
右の想定が正しければ、
ヒキとは、
H地上の海船μ
として、航海体制をモ ということになる。
東アジアから デルに設定されたところの一定の職制を
備えた編成組織であった、
東南アジアに及ぶ壮大
な辺向図を形成した貿
易耳家琉球王国の作一日
をあざやかに象徴する制皮が
、
キの制,皮だったのであろう。
右の想定に立って、
筆者は伊波普献の見通しを支持するものである。
このような制度が出現したのは、
琉球王国における対外貿易が国王を頂点とする王府の経営する公 ヒキをめぐる諸相
貿易であり、
したがって、
使船は行船、
渡航者もまた臼人であるという王国の貿易制度に出来する。
的や的、
例の辞令書が明白に物語るように
、渡海役
は国王の名
において任ぜられるも
のであり、また、 および渡航地での活動もまた公的な任務であった。
このように、
航海もしくは地上勤
渡海そのもの、
務を問わず、
一切の活動が公的な業務である、
という事態が、
ヒキ制度を生む背景にあったと思われ る
l1S
ヒキが三番に編成されている点に着目し、
三番の良行が三人制の
「世あすたべ
」(三司官)であるとの説を
提示したうえで
、ヒ
キとはそ
の「世あすたベ
」の配下
にあ
る
伊波普猷はまた前掲論文の中で、
ヒ
116
「政治宗教経済軍事等のあらゆる社会制度を述結した、そこから、一大統制」ではなかった
か と
し、
ヒキは厳密には「三番のひき制度」と捉えるべきであるとした。
の「三番のひき制度」はそして、
辞令占に見る王同制度(そのー)
問符大君を頂点とする村女組織と同様の経緯で形成されたものであり、「尚文王時代の充実した国力」
とも述べている。を表現する制度のヒキの制度がいつから始まるものなのか、徴すべつであった、
き史料がないため今のところ断定的なことはいえないが、伊波のいうように「充実した国力」を発揮
した尚真王期(在位一四七七i一五二六)をその確立時点と見て大過ないと思う。
問題はヒキの機能にからむ論点、すなわち、「世あすたぺ」配下の「一二番のひき制度」、「政治宗教
経済軍事等のあらゆる社会制度を述結した、一大統制
」 、という伊波のヒキ規定をどう評価すべきか
である。
第三
5
ヒキの市事的性格
れて 三 い 諮 る 制 も と の はだ(ヨt が15日
=司 恭、 琉 球P']
r[J 来 記
b,
巳日者同日訴の総称で、ニ交代の附円勤務を耕一刻とする出仕制度として知ら
の記すように、たしかにヒキもこの制に編成
れていたと比ら
れる。『琉球国中山王山川口制』(一七O六年)
によ
ると、近世の法寸H三司官には天十円法(御礼儀方)、地
柑日法(御検地方)
、人背法(御物応方〉
それぞれ任務職掌を具にしていた。十七世紀中期の区別があり、
の成立とけんられる琉球同日究帳』の表題に「御評定所西日恭」と記されている。叫んじの詰める中 杷機関H評定
所
において
、検地・
石日関係は
西日悉の職主であり、
ここから地作法ハ御検
地方ゾ
を担当 する法 司H三司
行は同日容に位置づけられていたこと
、さらに、
天作法(御礼儀方)は丑
日番、人百法 (御物店法)
は巳 口容に編成されていたと推定される。
したがって、
三訴の長官が三人
制
の三司官であ ったとする伊波品川献説
は、
何故に三司むは三人
制
なのか、
という疑川に対する一つの仮説を提示した という点も含めて、
妥当なものといえるのではないか。
ヒキが三司行の配下にあって、
三番に編成されていたらしいことは右の想定によってひとまずうな ヒキの機能を「政治宗教経済軍事等のあらゆる社会制度を述結した二大統
制」
と規定する伊波説はどうだろ
うか。
残念ながら、
この点を解明するに足る史料は今のところ見当らな ずけるとして、
では、
ヒキをめぐる諸相
ぃ。
伊波も明確な根拠を挙げて規定したわけでもないのだが
、しかし
、ヒ
キの「市事」的性格につ
い
ては同文に散ハ比されるけ旦城
・那制港||つまり拠点中枢機
能||の防禦体制に触れ
、三者の長官た る三司 口に統率される同軍があり
、その市下的制成はヒキを
主体におこなわれたと述べている
。仲原 菩忠も打里城の「特備士」としてヒキを川飢えており、
伊波同様に碑文の伝える防御山休
制
の主体はヒキ
(日)
であったはずだ、
との見解を述べている。
117
たしかに
、古琉
球碑文中には悉に編成されたところ
の防禦
体制が授場しており
、それが
王匡におけ
まだまみなと
(げ) る同市的な性格を川市びるものだったことが確認できる。
たとえば、
真珠湊の碑文
(一五二二年)に
は、
「とよみぐ
すく」(世見グスグ)
および「ねたてひがわ」
(棋立樋川)の格設のため
に、
事ある時は、
番
118
はえ ばる
しまそえ担却ざと
ちねん 下山民の手勢とともに町花の地にAH流し、渡り、 かきのはな の氾宅部家来赤須の部隊と、南風原・品添大里・知念・佐敷、 さしき もりぐすく
(川)社以の俳文(一五五四年)においては、
主だん
といった南部訪問切の手勢は真玉橋を
平ら ぎ
防御討に当るべし、と規定されている。また、屋・民出
却まへ 一日一緩急ある時には、三番の御前(伊波普献のいうように三司官配
辞令舎に見る王国制度(そのー)
下を指すと忠われる)一番の勢はげ虫城の防備、
be平 ん 原・品添大旦・知念・佐敷・下品民・喜屋武の南部諮問切の平は折一花・屋此座杜城の守備に当るベし、 一番の勢は那覇の湾設のうち、一番の勢および南凪
と刻ぺ止されている。
まだまみら
尚点王代のお哨元年(一五二二〉、王宮汁氾城とカ見城間切の真玉橋をいい加ぷ道路(真珠道
)の
造営工事
が竣工している。この道路は、当時那制港防仰の拠点であったと見られるか一見グスク(現在の豊見城城
跡)と行虫城を直結し、那覇港南岸地域に軍勢を手早く展開する目的をもって動常備されたもので、軍
用道路的な性格を帯びていた。工事竣工を記念して建立された真珠淡の碑文が、山円以見グスクの格設にウテインダ触れ、船舶の用水源として重要な根立樋川(おそらく落平のこと〉の守備をうたい、そして南洋の安街
みえぐすく である町花の地への諾寧の集結を規定するのもうなずけるのである。さらにまた、湾頭北の三重城とならぶ那制港湾頭南部の防備拠点として、尚清王代の古川靖三十三年(一五五四)に屋良座杜城が造営さ その竣工記念碑れたが、である屋良座社械の碑文が、王宮や那覇市中の防備とともに南岸の要衝であ 第三
る阿花・屋良座杜城の防禦をうたうのもうなずけるのである。これらの碑文から、王国の拠点中枢機州内地Kに対する防禦体制が存在したことは別白であろう。
注目されるのは、動日以される同軍が、
南部諮問切の軍および悉と称
される軍の
二つより構成され
て
いたことであろう。
南部訪問切は拠点中収地区に近い距離にあるため、
動員を迅速におこなうのに容 易であったと思われるが
、もういっ
ぽうの
悉と称される平は
、おそらく悉に編成されている寧の立で
、
この中味は三蒋編成のヒキであったと想定してよいのではなかろう
か。
真珠山の碑文のいう一番の旦 hr一砂来来か一般
は表Ell-の辞令舎にを場するヒキの役職名と同名であ
り、
またわ民良市陀社城の碑文がい うように
、この者編成の軍は
三者の御前(三司官の配下
)に あったようであるから
、帯編成の軍をヒキ 以外に比定する
ことは無四だと忠う
。したがって
、拠点中枢地保防
禦のための軍事体制は
、南部諸問 切の軍とヒキによって担われており
、その 中でヒキの
ほうは拠点中
枢地灰内に常備さ
れた近衛兵的な 性格をもつものであった
、と推定
でき
るのである
。ヒキは、近衛兵的な
性格を帯
びる軍事組織であっ
ヒキをめぐる諸相
たこと
、同時にまた
、川川地上の海船μ
として、航
海体制をモデル
に設定さ
れたところの
一定の職制を
備えた編成組織でもあったが
、ヒキのもつこの二而的性格を統一的に説明する途は論理的には二つし 一つは
、海船の尖際の航海
においても
海賊対策などのため防
御山体制が必要であるか
ら、ヒキ
の性絡を訂く論理はすぐれて叩事
的なものであり
、したが
って、
か考えられない。
ヒキとは市事目的のために 設けられたところの一定の職制を備えた編成組純であるとする考えであ
る。
今一つは、
ヒキのもつ平
119
事的性格はいうなればヒキの合む機能の一面にす
ぎないもの
であり、
災際のヒキは
、より多面的な性 格を帯びたとこ
ろの編成机純であると見る立場である
。研究史上
、前者を仲
原子山忠が、後以引を川V渋品川u
献が代表しているといえよう。
辞令書に見る王国制度(そのー)
できない。ただ一ついえることは、
120
右二説のいずれが妥当であるか、史料が欠けているために現時点では明確な結論を提示することはヒキのもつ軍事的性格を強調するあまり、仲原がヒキを首里械の「警備士」程度にしか捉えないことは、近世琉球については符合するかもしれないが、古琉球に関しては首肯できない。ヒキは、仲原が考えている以上に、士口琉球においては重要な編成組織だったと見るべきであり、大屋子もいクラスの上級官人がその職に就任し、喜界島の地方役人が謝国富ヒキに属していたことをあらためて想起しなければならない。この事実を念頭に置いたうえで、ヒキの性格が今後検討されるeへきだろう。
一一一 第 王府制度の状況
1
庫理とその用例
ヒキとならんで辞令書中に登場する興味ぷかい用語に庫理がある。たとえば次の辞令書、
同真和志間切儀問の里主所給賜辞令書(一五四五年)
しよりの御ミ事
ぎまのかなぐすくの 回まわしまぎりの さと は、 ぬゑ、 し の、 ど お、 ろり、 ハ の 一人あめくの大やくもいに
回たまわり申俣
しよりよりあめくの大やこもいが方へまいる 嘉靖二十四年十一月六日
王府制度の状況
の文中に登場する「はゑのこおり」(南風の庫理)
がそうであり、
また、
前掲同の辞令書(六七ページ〉
に「にしのこおり」(北の庫理)、
例(一O九ページ)
に「はゑのこおり
」(南風の障理)、例
(一O九ページ〉
「円 リHF~ J
に「内 U
かねこほり」の名が出ている。そこで、辞令書に登場する障理のすべて
を見るために表E1
4を作成した。
表E14から次の諸点を指摘できる。
まず第一に、
一五例中に登場する庫理の名称は北の庫理、
南
風の庫理、
それに損欠のけ川〕カ、不庫理の三タイプのみであり、
損欠一例を除くと残りのすべては北の
121
庫理、南風の庫閣はの
いずれかであること。
名称にバリエーションが全く見られ
ない庫理のこの事態は
、
ヒキの場合とは対照的である
。第二に、庫理名を冠する受給者たる官人は、
その庫理に所属すると見
122
発給年|受
給者|
罫靖3年|北の節理の東風平の大屋子もいI (立味不明〉
同15年|北の昨理の'白合 |西原間切の天久の里主所 同16年|南風の庫理の天久の大屋子もい|渡18'船世次富の船顕職 同20年|仁コカネ庫理のマサプロ文子 I i皮膚主船勢治荒富の筑殿職 同24年|南風の庫理の天久の大屋子もい|真和志間切の犠聞の金城の里主所 同30年|南風の庫理の儀間金城の大屋子l真和志間切の犠聞の里主所
もし、
同39年|北のj車理の瀬l底の大屋子もい |盟見城間切の大樹の里主所 同41年|南風の席理の大嶺の大屋子もい|相応富ヒキの家来赤頭の船頭職 同42年|南風の庫理の大嶺の大屋子もい|勢治荒富ヒキの里主部家来赤頭の船頭i俄 万暦7年|南風の庫理の東の首里大屋子 |名瀬間切の首里大屋子職
同21年|北のw-理の儀聞の旦主大尼子も|真和志間切の儀問の里主所
同34年|北の庫理の押明富の船頭大臣子|謝同富ヒキの盟主部家来穿頭の船頭職 もし、
天啓7t;阿南風の庫理の儀問の大屋子もい|真和志間切儀間村より知行高30石 崇禎1年|北のJîl!理の虫之子大屋子もい |仕上世奉行職
同4年|南風の咋理の儀聞の旦之子親宝|真和士、間切儀間村より知行高30石 上
容 辞令官に見る王国制度 (その一)
内
一一一第
辞令書に見る庫理の用例 与 給 表国一4
られること。第三に、時理名は受給者の
欄にのみ登場し、給与内容の欄には一例
も登場していないこと。第四に、庫理所
属の官人がヒキのポストに任職される例
が三件あること。第五に、ヒキの場合同
様に奄美地域の首旦大屋子が南風の庫理
に属す例があり、庫理への所属は拠点中
枢地区に限られたものではないこと。
筆者がここでとくに注目したいのは、
嘉靖四十一年と同四十二年にあいついで
ヒキの船頭職に任ぜられた南風の庫理の
大嶺の大屋子もいのこと
で 家諮』旧名家によると受給者は五世其、 (幻) ある。『麻姓
命(童名真三郎)であり、右二件の任職が
同一人物に対しておこなわれたものであ
ったこと
がわかる(表E12参照)。
つま
り、
真命は説靖四十一年に南風の障理所属のロ人から相応富ヒキの船頭となったにもかかわらず、
の翌年に再び南風の庫理所属の行人として勢治荒宮ヒキの船頭峨に任じられているのである。相応富 ヒキの船頭から勢治荒富ヒキの船頭へと職が移動しているにもかか
わらず、真命が依然として南風の
庫理に属したままになっていることをどう考えるべきなのか。
この疑問に対する解答は一つしか見当 らない。すなわち、相応沼ヒキも勢治荒官ヒキもともに南風の山m竹下の組織であり、管下内の人事 異動であったがゆえに所属を変えずに職の移動が可能だったのだ、
と。
そこで、
表ml2に示した九ヒキの状況を今一度ふりかえってみると、
相応宮ヒキ、勢治荒宮ヒキ
ともに門口帯に編成された同一グループ内のヒキであった。
となると、
この四日番グループのヒキは 南風の庫m管下にあったために、
真命は相応冨ヒキの船頭から引間たる勢治荒京ヒキの船頭へと昇進 したのではなかったか。
この想定を裏づける今一つの根拠は、
表E11に見るように、
万府三十四年
北の庫理の押明富の船頭大屋子もいが謝国富ヒキの船頭職に任じられたケースで
あ
る。「麻性家譜』
王府制度の状況
そ
によると、
受給者は六世真市(主名江市)であり、
彼は万肘二十四年六刀五日付で押明百の勢頭となり、
十年後の同三十四年に謝国宮の勢頭となった。
ということは
、表皿11にいう北の応用の押明富とは 北の庫理に属している押明言ヒキのことであり、
真常は押明富ヒキの船頭から謝国広ヒキの船頭へ、
巳円容に編成され、
北の庫理科目下にあったグループ内における引頭のヒキの船頭職へと昇
123
すなわち、
進したことになるのである。
このように、
庫
つした一見出の集者のがっうといた、であく上部組織おに下とは
管
のキをそヒ、理
124
の仮説である。
辞令fi-に見る王同制度(その一)
2 行街としての昨理 障理名をもつものとして、近世琉球では汁旦城内の打街「双紙庫理」「下用用」「金昨理」があり、
せlふあう たき
また、宗教上の霊域としては斎場御款の「大障理」「三山理」があることは周知の点であ
これらの名称は辞令芥に登場する古琉球の作用名と全く一致しなし、 るが、しか
い。
しかも、双紙作珂は取次職機能をもっ役所、下庫理は新規式を卒る役所であるから、ヒキをその管下にもち、大尽子もいクラスの
宵
人が属
しているところの肯琉球の庫理
と大きな附りが
存
するように見受けられる。 (幻)
伊波比日倣は「沖縄考』(一九阿二年)に収めた論文「作担について」の巾で、時理Hm仰の名称は禅いるして
明
説か、ようとないのではたになっるいられ川
」味で意
の 「竹皿城内の或役所してやがてこの訴は抑宗から口立mとともに日本からもたらされたものであり、 釦三。た
しかに、
禅
似の渡
来、寺
院の建立、抑制の対日外交への関与といった肯琉球の状況から推定すると木、
来は寺院内の的住ぽ・台所
を意味したはずの用語が、王府組織に転川された可能性は十分に予想でき、その点で伊波の第一の恕
定はおおむね汁汁できる。では、伊波の第二の想定、つまり、
庫
理は
「
汁 旦
城内の或
役所の意
味」であるとの見解は妥当であろうか。そこで、
開理とヒキの関係について再度考えてみたい。
ヒキは印理の下部組織と見られること、
ま
た、勢
治
荒宮
を引
頭とする西円容
グループは南風の 障
理管
下、謝国富
ヒキを
引
頭とする
巳 日
者グール プは北の咋児管下と兄られること、については既に述べたが、
では、
勢近古ヒキを引頭とする丑円番 グループを管轄する庫理は何と呼ばれた
のか。
また、「三番
のひき制度
」の頂点に立つ「世あすたべ」
H三司{口と
昨理はいかなる関係にあるの
か。
表E14
に系的十六年
、南風の
障理の天久の大
屋子もい が波府船世次宮の船頭職に任じられている事実を見
ると、
ヒキと海船の航海が同一の論理で編成され ていると
仮定した場合
、ヒ
キとし
ての世次富(
表El2の除かれた三ヒキの中に入っている)は南風の庫 王府制度の状況
つまり、
西日帯グループに所属すると見られる。
これと同じ論法でいえ
ば、
嘉靖二十年の庫 理名を欠く損欠部分は、
海船の名称が勢治荒宮であることから、
酉円番グループの引頭の勢治荒宮ヒ キ、つまり南風の
庫理 管
下でなければならないことに
なる。しかしな
がら、
ω
の静令書
の問題の部分 は「図
かねこほり」と
しか読めず
、そ
の
損欠筒
所に南風の障害
名を比
定することは
困難である
。
理作下、125
丑H務グルー
プを管轄する障理は何と呼ばれたかという問題について推 論を述べるとすれば、
次のようになるであろう。
三者制に対応するならば庫理もまた三つでなけ
れば
ひ ら
ならないので、
「南風」「北」の他に考えうるとし
たら
、村里三平等が
「南風の平等」「西の平等」
(二
こでいう「西」は実際は「北」
仇約)
「真和志の平等」の三平等に灰分されることから、
H真和志の庫理μ とすべきか、
それとも、
間切行政の中の三人の捉、
すなわち「南風錠」「丙捉」(この「西」も「北」の
有の疑問点を残しつつも、
に見る王国制度(そのー) 126
第 三 辞令
図ill-l 即理・ヒキ制度概念国 (ゴチックは引頭)
l門店[�) I
|
南風の問1 1
Jヒの),附1 1 x庫理1
___fí J 口茶 巴!日審 丑|日番 占'- 1 -'
,-ア1-1汁ナ|世相勢宍押日樹 宍浮世勢
� t手 応 :台X明内固 とゴ ��高遣
とと 空 言 ヨ ?とF5 5 5 F
キキキヒ とゴキキキ出キキキ キ
義)「大捉」になぞらえて
H大時四μ
とすべきか、そのいずれか
(例)であろうと
の見当をつけることができよ
う。実証しうる史料が
ないため結論は将来の研究に託し、
ここでは慎重を期して、丑円帯グループを併特する庫刊を仮にX庫理とする
。三
つの庫理、
すなわち南風の庫理、
北の庫理、X席理は、三者に編成された
ヒキをその管下に置くところのものであ
り、伊波普猷説に従って三番の長宵を「世あすたべ」H三司官と捉えると、図面11に示すような庫理・
ヒキ制度が古琉球に存在した可能性を想定 表皿|4に見たように、
庫理には大尼子もいクラスの官人が所属しているこ
と、その官人たちは旦
主所を給せられる地位にあること、
なかには奉行職をねる人物も合まれていること、
奄美地域の地方 できる。
役人もその所属に含まれていること、
などの点から考えて、
時理とは中央政庁的な存在、
すなわち統
特機能をもつれ街であ
り、同時にまた、
それに付帯する地方統治上の業務をもあわせもつ性格のもの だったと考えられる。
このように推論を重ねると、
伊波此ハ倣が昨聞を指して「打旦城内の或役所」と 述べたのは妥当な推定だと評価できるように思う。
このように、推論の域を出ないにせよ、
辞令詐は薄明のかなたに凡え隠れする王府制度の一端
を、
開理・
ヒキ制陀として抽出しうる途をわれわれに示唆してくれるのである。
3 「世あすたべ」H三司令の性格
障理・ヒ
キ制度の頂点に立つと兄られる
「判あすたべ」H
三
.刊行は
、
国王の補佐役として王府機構 を実際に統帖す
る地位にあり
、同政のあらゆる事項に対し
て強い椛限をもっポ
ストであった。
だが
、
この河口の名は今のところ辞令川には一切登場しておらず
、 わずかに碑文の中にその姿を見せるのみ である。
ぷ皿|5に碑文巾に判官場する「世あすたべ」H三刊行の名を掲げてみた。
王J町制度の状況
127
表国一5 7;琉球碑文に見る「世あすたベJ=
三司下T
fT�lÎßの大);{子もい 大型の大hI子もい 国頭の大出子もい 東風平の大�子もい 国111{の大屋子もい
�I,�見城の大垣子もい 名護の大kI fもい 読{).Iltの大臣子もい
�'.u.!.城の大昭子もい H附i
幸地の大包凶i子もい 沢tI長の大足子もい 宜々次の大!直子もい 宮'lLの大hl子もい 我那朝の大尼子もい 苧地の大店子もい 城1mの大尼子もい 内'11]の大h{子もい 池城の大尉子もい
表皿|5から、「世あすたべ」
おおやこ H三司打はすべ
て大ほ子 注) ílJÏL.ER同,11碑文記」などをもとに作
成。
もいク
ラス
の行人で
内められていること
、間切名を名釆る 大い陀,fもいと、
川切を梢成する下位の行政単位であるシマ 名を名乗る大山子もいの二つのタイプの
あることがわかる。
右の二
点からいえば
、「大同
子もい」の
一川
芥をもっ口人
は
「世あすたべ」H
三可行の地位に就くほど
の上級行人
の称
号であり、
間切名を名来る行人とシマ名を名乗る行人との 問には政治的地位の任職に先別がなかったことも昨日必でき る。「 世あすたべ
」の「世」は
、国王の川
英初で
あ る「世
128
勝辺!の大展子もい
*風平の大尼子もい 玉城の大屋子もい
凶切名を冠するもの
l
シマ名山するもの花峨の大Itl子もい 謝1',の里セ 1E減の旦主 摩文仁の里主 城聞の大屋子もい カワカミの大屋子もい
阿波恨の大屋子もい 表回一6 古琉球碑文に見る奉行クラス
注)玉城の大屋子もいの「玉城」は玉城 fllJ切と今帰仁1111切のシマ, 玉城の両方 の可能性があるが, ここでは仮に間切 名とした。「琉球国寸I碑文記」などを もとに作成。
辞令古に見る王同制度(そのー)
第三は法J吋{円である。
の主」の例に示
れ し、、、社会同を指に、世間るよう
「あす」は女性の
む」(削吋)「 あ
の対概念で男性の長老を
意味する。たとえば、
万暦二十五年(一五九七)
に建立され
た浦添城の前の碑文に
いう「しまの
かムい たくにのあむた」
(シマの「あす」述、ク
ニの「あむ」遠の立
)が
その良い例で、 本来は間切・
シマ内の見性一段老の立味で用いられたもので ある。「た」は複数を表わす援厄訴で達のな、「ぺ」は桝M を指すι一パ楽であるから
、HH国政を統べる長老クラスの人達H
が「世あすたぺ」の語義であり、
これ
の漢訳が三可行また 碑文にはまた
「ぶぎやう」(奉行)という役職名が登場する。
市中に奉行と出てくる場合が多い
のであるが、なかには「そうぶぎやう」(総奉行)、「いしぶぎやう」(有奉行)の区別をも
って登場する例があ
る。
奉行峨は常設の
役職ではなく、
ある案件(たとえば
土木工事など)を主管する臨時の職で
あ
り、こ
の制度は近世琉球における常設の奉行職(たとえば御物ポ行など)以外
の臨時の奉行
職(たとえば店船作 事奉行など)の制に
そのま
ま承け継が
れている。
竣工記念に建立さ
れた碑
に文
は「世あすたべ」の次 にこの奉行名を列記する例が多いが、
それらか二覧する日的で表団|6を作成してみた。
それを見る
と、
奉行任職者には間切名を名乗る大屋子もい、
シマ名を名乗る大屋子もい、
里主グラスがいるが、
表El5の「世あす
たべ
」と対照す
れば明ら
か
なように
、相対的に「世あすたべ」任職者より地位は 低い。
奉行という名の示す通り、
この職名は日本からの輸入語だと思われる。
庫理・
ヒキ制度の頂点 に 立つ「世あすたべ」は、
これら臨設の奉行職の上位にあり、
奉行の主管する土木事業などの臨時案 件の総理で
もあったこ
とに
なる。
しかし
なが
ら、
王国の国政は庫理・
ヒキ制度、あるい
は奉行
職、
それら の頂点に立つ「世あすた ぺ」の
みで成り
立っていたの
ではない
。さら
に多く の諸制度
、官人が存在して
いたの
であ り
、「世
あ
すたべ
」はそれらをあわせた政治行政上の頂点にあったと見なければなら
ないので
ある。
次に
、そ
れ
らの
多彩な持制度、
日人用の具体像を探ってみたい。
王府制度の状況
4 碑文に見る甘い入居
①千人のさとぬし
べあく
かべ
、
古琉球の仮名刀き碑文には、
行入居に関する興味ぷかい表現が出てくる。
くにのあんじげ
す(
真珠湊の碑文
)
②くに人\のあん
じぺ
あすたべ大やくも
いた旦主べげらへあくかぺ
、おもいぐわぺくにん\のあ んじべあすたべ大やくもいた旦主ベげらへあくかべ、
おひ人わ か人めど もわらべ(カタノハナ
の
129
碑文〉
130
③くにJr\のあんじべみばんの大やくもいた型ぬしべげらへあくかぺこくより上下又おくとより 上ミやこやへまのおゑか人大小の人々、
おもひぐわべくにふ\のあんじべ大やくもいた旦主べ 辞令;!?に見る主因制度(そのー)
げらへあくかべこくより上下おくとより上ミやこやへまのおゑか人しまともに
ち、
ゃうらうそ
うたち(添継御門の南の碑文)
④くに人\のあんじベミばんのさとぬしべげらへあくかべかミしもちはなれ
、 か
ミしものあんじ
げす、ちゃうらうぱうずた(屋良時社城の碑文)
⑤あんじもげすも(崇元寺下馬碑)
⑤くにのあぢげすたミやひやくしゃう、
三ばんの大やくもいたさとぬしぺげらへあくかぺかミし
一一一第 もちはなれ、
くに人\ーのあちぺちゃうらうたあすたべかなぞめはつまきぱうずた三ばんの大や くもいたさとぬしベげらへあくかべ、
うらおそひまぎりの大やくもいたさとぬしベげらへあく かべおゑか人のろべしまのあすたくにのあむた大小のゑくがおなご
ども、おきなハの天が下の
あぢげすおゑ人わか人おなごわらベ
(浦添城の前の刊文)
⑦あんじもげすも(本党山の碑文)
古琉球においては、
王国の版図全域を称して「世」と把射し、
主権者たる国王は「世の主」、
そ の
命令、立向は「世の御さうぜ」と旧えられていた。
同王の補佐役として代人層の頂点に立つ三司官を
「世あすたべ」と称したことは先述した通りであるが、
この「世」は同時にまた、⑤の文例に登場す
るように同主の統べる「おきなハの天が下」であっ
た。
そして、「世」H「おきなハの天が下」という 大宅川は、
山氏際にはいくつかの小宅問に分割されていた。
たとえば、
それ
は い く つ も の「くに」
(間
切)であり
、「こ
くより
民社」
(背坦より北方および南方
、
つまり沖制地
域)、
「お
く
とより上
」(奥渡より上
、
こ れ ら
の
総称た すなわち奄
美地域)、「ミ
やこやへま
」(宵古・八重山、
つまり先山地域)であり
、
また
、
る「かミ
しもちはなれ
」 ( 北・南の地、離
れH離品)であった。
右の空間に住む
一般民衆を指して
、「おひ 人わか人めどもわらべ」
「おゑ人わか人おなごわらべ」(老人・若人・女・重)
、「たミひゃくしゃう」
(民 百姓)、「大小の
ゑくがおなごども」(老若
の男、
女ども)
と呼んだ
。ロ人
層とは
、
この「世
」とそ
こにほ 住する人民を治めるために王によって辞令書を介して任じられたエリートだったの
である。
まず、
「あんじ」、「あんじぺ」H「あち
べ」
がいる。
前に触れたように「べ」
は階層を表わ
す育英 王府a�J1.立の状況 であるから、
右の言葉は按司クラスの上級官人を指す。
按司は玉御殿の碑文中に
(八三ページ)
、世添 御殿の大技司、
問得大君の按司、
佐司笠の按司などのように、
王母、
上級神女を呼ぶ場合の敬称辞と して用いられていると同時に、
中城按司、
今帰仁按司、
越来按司、
金武按司、
州ば見城ほ寸のように問 切名を冠する王子の称号としても用いられていた。
このなかの中城按司マニキヨダルは世子尚清のこ
とで
あり
、碑
文が建立された当時の彼の年齢は四歳である。『中山世譜』に
よ る と
、
尚清は五男、
そ
131
の弟が
金
武按司
、
笠見城按司
であるか
ら、こ れら幼少
の者も含めて
、
按司号は王母
・上級神女
同様に 王子位の尊称という一面をもっていたことがわかる。
これからすると、
おそらく按司は王の子弗とそ
132
の近税者のステイタスを示す称号であり、位階上、最上位の庖として校内づけられたものであろう。碑文中に「おもいぐわべ」(思い子部)と称する育英が登場する。「おもい」は接頭美称、「ぐわ」は子供の意味であるから、王の子女を指すことは間違いない。按司位にある王子を除くと考えるよりは、
王の子女全只を一括する尊称と比たほうがよい。これも一般のは人Mのヒエラルキーと反別される別
辞令古に見る王国制度(その一〉
格のステイタスとして位置づけられたものであろう。
「世の主」を王国の頂点とすれば、国王H」れに準ずる存在は国王の子女および近親者であるとい
うことであり、」の#勺ともに与えられた呼称が按司であり、また、思い子部であった。
」のような論
理を成立せしめるのは、血筋によって妹介される王族立識であり、」の芯識の定滑によってはじめて、カリスマとしての国王とその分身たる王族とを一般の行人肘と区別する差別意識が登場するのである。
そして、市4安な点は、そのような王族立識が制度化されることによって、按司部、思い子部という一
つの特・足された附Mを成立せしめていたことであろう。 第三
5 下司とその内訳
碑文の例文中の①、@、⑤、⑥、⑦に「あんじ」H「あち」とともに並記される「げす」は、漢文
では「下.4」と衣記されるもので、按.4以下の官入居の総称として用い
ら
れる
。具体的には、「あす
たべ」(三刊行)、「大やくもいた」(「た」は被数を表わす持厄語、大日出子もい達)、「さとぬしぺ」(里主部〉、
「げらへあくかべ」(
家来赤頭)、「おゑか
人」がまずこれに当る。
碑文中に登場す
る「ちゃうろう」、
「そうたち」
、「ばうずた」
、「かなぞめはつまき」
、「のろべ」、「しまのあすたくにのあむた」なども目
をひく。「
ちゃうらう
」は長老の立で
、「しまのあすたくにのあむた
」、
すなわち
シマ
のアス迷(
男性)、
グニのアム(H阿母、
女性)達と同類の長老クラスを指すものであり、
通常の王府機構に位向づけられ
つまり、
宅都汁巴を中心に建 立されていた寺院に符をほくところのれ似集団の称である。「かなぞめは
つ ま き」は浮織の一地H仙を
た身分ではないらしい。「そうたち」
「ばうずた」は他H坊主迷のこと、
許された上級官人で、
一般には
「世あす
たべ」U三
司口の別称である
。「
きこゑ大き
ミきミyr\」は、 いうまでもなく間叫大行を頂点とする上級神女のこ
と、
「のろベ
」はノロ部、
すなわち地ぶ
の神女峨
を指している
。右のうち
、「かなぞめはつまき
」を別
とす
れば、 川川侶や村Kは
長老クラス
川線通常の
壬府機構の峨制ではなく、
王府機構を儀礼的・祭配的に支払える宗教組織上の存在であるから、
彼らに 王ぱf ;WI'tの状況
ついては後に触れる。
さて、
下司の件であるが
、その主体を
なすのは「
大やくも
いた
」(大尼子もい達)
と称 され る行人M であろう。「大やく」
(または「大やこ」)
に接尾美称「もい
」の つ いたこの行人府は、
表E15に示し たように「世あすたべ」
H三司官の任にあるすべての人民に例外なしにつく一肩書であっ
た。
その特徴
13.1
は、
間切名もしくは
シマ名を冠
頭において「
000 の大やくもい
」と名乗るところにあり
、間切・シ
マに対
し何らかの形でかかわりをもっ行
人であるこ
とを附示している。表E|6
の奉行職
の人只も、
134
肩書として、やはり間切もしくはシマ名を目頭において「000の大やくもい」と称しているから、
この大屋子もいクラスの口人は一二一百円や奉行職を勤めるほどの上級行人であることは容易にうなずけ
よう
。ま
た、表皿|6の奉行職に大尽子もいと並んで盟主の呼称をもっ人物が含まれているが、これ
に対し表皿l5の三司符クラスの人物には旦主と称える人物はいないので、ここから、大尽子もいは
巴主より上格の呼称である、との見通しを得ることができよう。つまり、「大や
くも
いた
」と
「さと
辞令J?にJ�る王国制度(その一)
ぬしべ」はともに上級行人胞の称号であるが、前者は後者より上位の口人集団であることがわかるのである。川知のように、「大やくもい」は琉球語特有の口荒汗化によって「おやくもい」となり、近世
琉球においては「刻雲上」と表記され、「。へiチン」もしくは「べlクミ」と唱えられるようになる。
「げらへあくかぺ」は、一般に家来亦頭と宛字される下卒である。「げらへ」は
法か
の原義から転じ
て、美しい、勝れた、などの芯味をもっ琉球語の代表的な美称辞の一つである。「あくか」はかい野の 三第
立味であるが、おそらくこの者どもが赤冠H赤柏をかぶる身分であったことに由来する名と忠われる。びと「ベ」が附胞を表わす青葉である点は既述した。「おゑか人」は地方役人の総称で、近刊琉球では役地
としてのオエカ地をもっ間切・村行政の担当者として知られており、古琉球においても同綴の存在であったと忠われる。
このように古琉球では、上級官人たる大屋子もい・里主、下卒たる家来赤頭、地方役人たるオエカ一定の組織的な編成のもとで王国の運営にそれぞれ関与していた
。こ
れらの宮人人がすでに存在し
層がいかなる業務を分担していたのか、その具体的状況を知るためには、「世」の現実的・行政
的な 把握方式として持定されたところの間切・シマ制度と、
それを支えるさまざまな内部事情を検討しな
ければならない。
間切およびシマをめぐる状況
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間切・シマ制度の概要
間切およびシマをめぐる状況
古琉
球において確立した地方行政制度の基本は
、間切
・シ マ制度と称すべきものであったと
いえよ
・シマ制度とは、間切・拠点中枢地区である汁旦那覇を除く王国された行政区画の版図全域に設定 う
であり、
役人組織や徴税体系などの王国制度の根幹をなすさまざまな諸制度が、
実はこの間切・シマ 制度を前提として編成されていた。
集落的景観をもっ一個の完結的な村落共同体たるシマがあり、
こ
れをまず行政上の末端単位として把握し、
その次にこれらのシマをいくつかくくってより広域的な行
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政単位である間切として抱促していた。王国の版図である各島艇には、人口規模の而で大小さまざま なシマがあたかも点のように存在し、
これをくくって面として再構成される間切があったことになる。
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この場合注意を要するのは、
シマは即地的に形成された具体的な存在であるのに対し、
間切は行政上
の概念としてのみ存在したことだろ
う。このために、
たとえばあるシマがA間切に属していたとした 辞令?rに見る王国制度(そのー)
場合、
間切区画の改訂によってBm切に所属替えになるという事態が発生する。
あめくの昨令書(六七ページ)で
、天
久と称されるシマは丙原間切に属していることが明らかであるが、
十七 一例をあげると、同
世紀中期の成立にかかる『琉球国高究帳」でも依然として丙原間切、しかし、康照五十二年(一七二ニ〉 編集の『琉球国由来記』では天久は真和志間切の管内となっている。
つまり、おそらく一六七0年代
に天久は西原間切から真和志間切に所管換えになったのである。
こうしたことが起こるのは、間切が
行政区画として概念的に存在するにすぎないものであり、
したがって、その線引きが行政上の都合に
第三 よっていつでも変更できるものだったからにほかならない。
このことから、まずはじめに本源的単位であるシマがあり、それを与件として間切という二次的な区分が発生した、ということが推定できる.ところで、間切・シマ制度は、近世琉球に至ってシマが「村」に改称されたため「間切・村制度」となるのであるが、しかし、その性格は基本的に変わらなかった。琉球処分
後の
いわゆる「旧慣温存」期においてもこの制度はそのまま踏襲され、これが廃止されるのは明治四十一年(一九O八)施行の沖縄県及品跡、町村制によってであり、それ以後、間切は町村に、シマH村は字となったのであった.したがって、古琉球に成立した間切・シマ制度は、その後の近世琉球、近代沖縄を通じて琉球・沖縄
における地方行政区画として形を変えながらも生きつづけ、
今日の市町村区画をその根底において規
間切およびシマをめぐる状況
。
注) r琉球国高究中長』をもとに概 念図として作成した。 なお,
E平文にいう下島尻とは島尻兼 城・島尻大里・品尻其加比3 間切の総称と見られる。
;111糾Jみにおける,'iJ,:U;ドのIilllJJi!(分概念 同I1I-2
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:.i'í和志 南風l京 盟見城 東風平 品JJtJ長城 山J尻大里 品尻兵力日比