九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
琉球王国史の基礎的研究
高良, 倉吉
https://doi.org/10.11501/3065585
出版情報:Kyushu University, 1992, 博士(文学), 論文博士 バージョン:
権利関係:
176
五
神女職と上級官人職
辞令書に見る王国制度(その二)
ノロ制度の状況
オエカ地を給せられ、間切・シマの行政を担当したところのオエカ人に対し、
ノロクモイ
地を給せ られ間切・
シマの祭配を担当したものがノロ(あるいはノロクモイ)であった。
ノロは完全に女性の
み
が就任する神職であり、
完全
に男性をもって任職されるオエカ人とは明確に区別される存在であった。
辞令書中に登場するノロは次の一四例である。
ひが
①喜界の東間切の阿伝ノロ職に元のノロの妹エクカタルを叙任(一五六九年)
。
②屋嘉内間切の名柄ノロ職に元の
ノロの姪ツルを叙任(一五八三年)。
③金武間切の恩納ノロ職に元のノロの娘マカトウを叙任(一五八四年)。
第四
④名瀬間切の大熊ノロ職に元のノロの姪マクモを叙任(一五八七年)。
⑤徳の西銘間切の手々ノロ職に元のノロの娘マナペダルを叙任三六OO年)
。
⑤瀬戸内西間切の古志ノロ職に元のノロの妹マカルモイを叙任ご六O二年)。
⑦今帰仁間切の中城ノロ職に元のノロの娘マウシを叙任C六O五年〉。
↓辞令書同
③今帰仁間切の具志川ノロ職に元のノロの娘マカトウを叙任こ六O七年
)O↓辞令舎ω
①羽地問切の大ノロクモイ職に元のノロの孫ヒヤカナを叙任(一六二二年)O
⑬羽地問切の屋我ノロ職に元のノロの孫オトウを叙任(一六二五年)O
⑫金武間恩納ロ切のノロ職に本のノの娘マゼニを叙任(一。五八)年六 ロノ城ノロ切の間今帰仁⑪職にの中()。二年前の娘(人名なし)を叙任一六五 辞ω書令↓
⑬中城間切のヨキヤ(同間切新垣村の旧称)ノロ職に本のノロの姪マフシを叙任(一ムハ六一年)。⑪読谷山間切の城ノロ職に元のノロの子オトウを叙任(一六六三年)O
右一四例の中から興味ぷかい事実を検出することができる。第一に、用例が奄美・沖縄両地域にの
村1女職と上級官人職
み限られており先島地域は一例も登場していないことである。これは単なる偶然ではなく、ノロ制度
が奄美・沖縄にのみ設置され先島には全く置かれなかったという周知の事実を反映しているのである。
第二に、ノロがほぼ例外なしにシマ名を名乗っていることである。シマ名の大屋子、シマ名の提、シ
マ名の日差同様に、ノロもまた間切・シマ制度に対応する神職である点がうかがえる。第三に、ノロ
五
職が娘、妹、姪、孫の範囲、すなわち三親等の範囲内で女性から女性(と継承されている
こと
であろ
う。
この継承の事実を見れば、安良城接昭がすでに指摘しているように、ノロは生涯独身だったとい
177
う広く信じられている説が何ら根拠のない俗説であることは明白といえよう。
周知のように、古琉球に確立したノロ職もまた近世琉球にそのまま継承された
。沖
縄地域に限って
178
見ると、『琉球悶由来記』の各処祭耐のノロの項に、恩納間切(間切分剖以前は金武間切の一部)に「真
栄田盛」「山川亙」「安富祖亙」「名お真亙」とともに「恩納亙」がお
り、今帰仁間切に「玉城亙」「岸
辞令)Ij-にJよる王IJ4制度(その二) 本疋」「郡亙」「今川仁亙」「トモノカネ亙」「島セソク亙」ととも
「中城亙(H中尾次坐)」が
おり
、本Jm川切
(間切分別以前は今帰仁間切の一部)
に「天底十相亡「具志昭亙」「謝花亙」「浦崎亙」「瀬底盛」「本
市主」「伊野波亙」とともに「具志川亙」がおり、羽地問切に「中日出盛」「真喜屋忍」「我部亙」「トモノカネノロ」「伊指川亙」「、源河盛」とともに「屋我亙」がおり、中城間切に「大城亙」「足宜亙」「伊先延」「島袋亙」「安作民亙」「瑞慶覧亙」「比υ対亙」とともに「ヨキヤ忍」がいる
。つ
まり、辞令書に合引するノロのすべてがそのまま近世に至つでもなお存続しており、公事祭紀に強いかかわりをもち
m阿
つ会つけているのである。
近世のノロはその神峨に付帯してノログモイ地を給
れていたことは川知の事実であるが、この給地制もすでに古琉球において存在した制度であったことは、
今川仁間切の具志川ノロ職に叙任された マカトウが五Oヌキの畑地を与えられていた点を想起すれば、
おのずから明らかといえよう。ょうするにノロ制皮もまた、オエカ人制度とともに、間切・シマ制度の一環として古琉球において確立し、近世琉球に
そのまま引継がれた制度だったのである。
2
大阿母職の内容
公事祭配を司るところのシマ名を名乗るノロの上に代目した村女峨が、(ω) 大阿時クラスの神女としては、門川口城栄けいが『沖縄のノロの研究』で挙げているように いわゆる大附ほ峨である。
伊平屋の阿母
加那志、π南風、宮古の大阿母、八重山の大削吋、楚辺の大阿付、門店崎の大阿母、二カヤ町の阿付、
泊の大阿川りそして那.制の大阿川りなどがいた。
また
奄美地域にも三人の大阿母クラスの村女職のあ
ったことが知られている。(またはアモ)(只体的は見性の長老アスに対して女性の長老大阿母のアム
には円以教上の地枕)をな味することはすでに述べたところで
あ
るが
」の訴に扱顕美称オオ(またはオ ホ のついた形が大阿付である。・ウフ) てさ
」の大阿母に閃する辞令刊が今のところ四件ほど知られている。そのうちの件は六三・六
四ページに初介した同例の辞令市であり、枚は那制の大阿母万肘十年(一五八二)八月=日付で、
科女職と上級官人職
今一枚は同職に付帯するこカリヤ職に元の大阿母の矩オトマスモイを任じたもの二マシの田地と
五Oヌキ、一オホソの畑地をオトマスモイに給したものであった。大阿母職が、ノロ一服同様に三親等
内で女性から女性へ継承される料職であることを物語ると同時に、ノロ
れていたことを明白に示してくれる辞令書である。右の那剥の大阿母の二枚を除く今二件の辞令設は クモイ地川様の給地を授けら 五
いずれも久米島の宥南風にあてられたものである。
的君市風宛辞令主(一五六六年)
179
しよりの御ミ事
〔印〕
くめのぐしかわまずきりの
180
にしめのうちま人ぢもとハ E平令?干に比る王国制度(そのこ)
又 二かわやミおつかたに六十九まし
(り)(三)
あまがちの内より( 欠 )
ひらちしやはる又円U
はるとも〔一一〕(欠)
七十ぬき〔ちはた〕け円U25そ はゑはる又はなう円Uおち円U このちのわくそ円Uこの大あむかめはたまてハ 第ド司
御ゆるしめされ候
一人きミはいの大あむに
〔印〕たまわり申〔候〕
しよりよりきミはいの大あむが方へまいる
嘉靖四十五年十月八日仏門君南風宛辞令書(一五九五年)しよりの御ミ事〔印〕
くめのぐしかわまぎりの あらかきちもとのきミはいの大あむがのろち
せちよくたに十四まし
」ミなとはる〔中略か〕
又十ぬきちはたけ円U〔おほそ〕
きし〔
\_}
欠
欠〕
(にて)
〔て〕まっかいハ御きんせい有之候 このちの(
〕かり〔 欠 一人きミはいの大あむに
〔印〕
たまわり申〔候〕
神女職と上級官人職 しよりよりきミはいの大あむが方へまいる 万世二十三年正月十二日 研究者のノlト
に筆写されたためにかろうじて散
逸をまぬが
れたものだ
が、しかし、
写しとして
は
不完全である。
が、
君南風と称される久米島の大阿母職の性格を考えるうえで貴重な手がかりを与え 五
てくれるものである。
例は久米島具志川間切の西銘のシマの真人地(元はアマが保有していた耕地
)の中
から二カリヤ三オツカ、六九マシの
田地と七 Oヌキ(オホソの数
字不明)の畑
地を君南風の大阿母
に与 えたものである。
ωは久米品具志川間切のアラカキ地(元の行間風の大阿母のノロ地)である「せちよく」
181
182
田(阿引を表わすものか?)、
一四マシの田地と一Oヌキ(オホソの数字不明)の畑地をお南風の大阿母に
給したものである。二枚ともに、
君南風が職に付帯する田畑を授けられていた点を明白に物荒川ってく
れる。
伊平ほ砧の二カヤ凹の阿母が、
二カリヤの田地を給される大阿母職の意味であることを恕起す 辞令1fに見る王国制度(その二)
ると、
右の辞令古を含めて大阿叫クラスの神女峨の得分の枚織をうかがい知ることができよう。
的の文中に「きミはいの大あむがのろち」
なる文句が登場する点に訴はしたい。
この文句はπ南
風に与えられる給地が
「のろち」(ノロ地)と称されていたことを示しており、宮城栄呂が「地方の公的神Kには大あむ・ノ
ロなどの名称的先別はあっても
、ともに公義ノロであり、その役地はノロ(日)
クモイ地に印刷するものであった」、
と指摘したことの妥wJ性を示すものである。
ただ、念のため
に付
よゴ、千Jふ4 第四
言しておくと、
大阿母とノロは本質的には同じ性格の地方神女峨である
とはいっても、ノロがほぼ例外なしにシマ名を返して呼ばれたのに対し、
大阿母の呼称はこれとは
一の論児にぷづいていない。ノロ
と発恨の系譜を具にすると
いう問題の他に、ノロに比べてより広域の、間切やシマの枠を越える司
祭おの傾向を大阿母が帯びていたこと、
などの面から検汁される必要があろう。
その託拠に、近世琉
球辞令舟段階に至って、
ノロは辞令汗発給対象から除外されるのである
が、
にもかかjらず大阿母の みは発給範凶に依然として含まれている
。たとえば、(は)的八重山口同大阿母職叙任辞令苫(一八四三年)
行m-之御詔
〔印〕八重山島大阿母者
大阿母嫁まひな遍
〔印〕〔給之〕
道光二十三年美卯閏七日刀二十九日 のように、頭職(大首盟大口尼子)同様、近世八重山
島では大阿母もまた数少ない辞令刊による任
問ポス
トだったのである。
以上によって、古琉球碑文にいう「のろべ」(ノロ部)とは
、ノロおよび大阿舟の両方を指している
」とが推定される。
村1女職と上級官人職
3
大屋子もいの用例
さて、辞令書によって観祭できる地方統治上のオエカ人制皮やノロ制度(大阿ほを合む)は、以上に 述べた点にほぼ尽きると岡山うのであるが
、
」こで検討の対象を再び中央古人肝の問題に移してみよう。
その際われわれの注意を喚起するのは
、「大やこもい」、
つまり、
大屋子に接尾美称「もい」
のついた 五
行人の性格をどう考えるかという問題であろう。
183
大尽子もいが「世あすたベ」H三
司官や奉行職を勤めるほどの上級行
人の称号であったこと、時理 に所属する官人の中にこの称号をもっ人物が多いこと司間
切名を討する大原子も
いとシマ名を泌
する
184
大屋子もいのほ別があったこと、しかし、両者には政治的地位へのれ札口に際してい允別がなかったらし
いこと、などの点については先に指摘しておいた。また、碑文の中に「大やくもいた」「みばんの大
ゃくもいか
り」 「「ゃ大「、語で尾」が複数を表わす接た、うら」とあわいやくもりの大まぎそひおく
辞令�Hこ見る王国制度(その二)
もいた」は大尽子もい達の意味であること、「大やくもい」は口荒立口化によって「おや
く
もい」とな
り、近世琉球においては「親雲上」と宛字され「。へlチソ」、「ベlクミ」と唱えられるようになった
こと、などの点についても先に触れておいた。以上のことをふまえたうえで、改めて辞令舎によって
この大以子もいの性格を検討してみたい。まず、大尽子もいの用例を列記してみる。
①北のmmの東風平の大いm子もいに一ニヌキ五ヨイの反敷地などを給与(一五二四年)。
②南風の昨理の天久の大尽子もいに其和志間切の俄川の金城の里主所を給与(一五四五年)。↓辞令
第四
許作)
③南風の昨仲間の儀川金城の大医子もいに真和志間切の儀川の虫主所を給与(一五五一年)。
④北の山理の瀬底の大屋子もいに辺見城間切の大嶺の旦主所を給与(一五六O年)。
⑤南風の斥理の大嶺の大屋子もいを相応宮ヒキの家来赤頭の船頭職に叙任(一五六二年)。
⑤南風の庫理の大嶺の大屋子もいを勢治荒宮ヒキの旦主部家来赤頭の船頭職に叙任(一五六三年)。
⑦北のは瑚の儀問の旦主大屋子もいに真和志間切の儀問の旦主所を給与(一五九三年)。
③北の昨理の押明日の船頭大伝子もいを謝国広ヒキの盟主部家来赤顕の船頭職に叙任三六O六
年)。
①市風の時理の儀問の大尼子もいに真和志間切儀川村より知行古川三O石の得分を給与(一六二七
年)。⑬北の昨児の屯之子大以子もいを仕上山卒行峨に叙任
(一六二八年)。
。南風の向仲間はの儀問の虫之子親誌上に瓦和志川切儀川村より知行自三O石のね分を給与(一六三
一年)。右の一一例中、①l③は古琉球昨令官川、①iOは過渡期砕令hぃ一円であり、また、①を除く一O点はす
べて麻性旧名家に伝わるいわゆる旧名家文Aである。そこで、表El2を参考にしながら考えると、
神女職と上級官人職
次のような特徴が浮び上ってくる。第一に、大凶子もいとは上級行人の称号であって決して職制上の
名称ではない。そのことは「世あすたべ」H三司行という王府行政の職制上の頂点が大尼子もいと称 されていたことに治目すれば円切なのであるが、辞令市川の川例に照らすと、大嶺の大屋子もいがヒキ
の船頭職に就いてもそのまま大出の大民子もいを称していること、真和志間切の儀間の旦主所を給せ
られて儀悶の大屋チもいと称したはずの六世真市が、押明富ヒキの船頭臓に就任した後、謝国富ヒキ の船頭職に井任した際、「押明百の船頭大尼子もい」を名乗っていること、などを見れば界易に了解
つまり、大尼子もいは近山の親主上同様に上級行人の称号なのである。第二は、大屋子も
五 185
されよう。
いがシマ名をもって指示される旦主所を給せられる身分であり、
大出子もいの冠頭に置くシマ名が宍
は里主所の所在するシマ名と一致することであろう。
186
右の②の用例で、
嘉靖二十四年に真和志間切の儀問の金城の里主所を給与された南風の庫理の天久 の大屋子もい(四世真孟)は、それ以前の同十五年に西原間切の天久の里主所を給されていたがゆえに、
辞令書に見る王国制度(その二)
②の給与の時点では天久の大犀子もいを名乗っているのであ
る。
同じ四世真孟が①の用例で真和志間 切の儀聞の旦主所を給された時は、
彼は②の給与を前提に儀間金城の大屋子もいを名乗っている。
五
世真命は嘉靖二十九年に今帰仁間切の瀬底の里主所を給されていたから、
④の同三十九年には瀬底の 大屋子もいを名乗って豊見城間切の大嶺の里主所を給されたのであり、大
嶺の里主所をもっ大嶺の大 屋子もいとして同四十一年の⑤、
翌四十二年の⑤に大嶺の大屋子もいの名で登場するのである。
五世
第四
真命は⑤の用例の年に真和志間切の儀問の里主所を給され儀聞の大屋子もいと名乗ったはずであるが、
その息子六世真常は、
父が儀問の大屋子もいである問は「儀聞の里主大屋子もい」を称していたらし
のである。 く、
それゆえに⑦で父の跡を受けて儀問の旦主所を給与された時に、
儀問の里主大屋子もいを称した
4
地頭制の前身としての大原子もい
うに、 以上の麻姓田名家に関する検討結果を改めて整理したもの
が表Nーーである。一覧して明らかなよ シマ名の里主所を給されると自動的にそのシマ名を冠して「OOの大屋子もい」と称する原則 が存在したことを看取できる。
六世真常が儀聞の里主所を得て儀問の大屋子もいを称していながら、
ヒキの船頭職に任職された時「船頭大屋子もい」を称しているのは右の原則に反するのではないか、
との疑問があるいは生ずるかもしれないが、
しかし、
船頭大原子もいの呼称は大屋子もいクラスの船
村1女職と上級官人i間
任職と大屋子もいの呼称の関係
四 -渡廃船官舎臓
l世 -天久の里主所 →天久の大屋子もい 真 -政府高(}月店頭職
.{草間の金減のlll.主ffr① →儀問の金械の大屋子もい 孟 -儀問の里主Nf② →儀間の大屋子もい 五 -渡南蛮船筑殿職
-瀬底の里主所 →瀬底の大屋子もい
世 -大嶺の里主所① →大嶺の大屋子もい 真 -相応富ヒキ船頭職④
命 -勢治荒富ヒキ船頭職⑤
-儀間の里主所 →(借問の大屋子もし、〉
/, -儀聞の型主所⑤ →俗間の大屋子もい
世 真tn
-押明富ヒキ船頭職 →押明日の船頭大屋子もい -謝国富ヒキ船頭職⑦ →(謝国富の船聞大屋子もい〕
-儀間村知行高30石⑨
T 1 ・仕上世孝行⑬ |
世 ・借間村知行高30石⑪ 五
表町一I 187
顕で
あることを示す峨制上の呼称
であって、
『麻姓家譜』国名家により作成。 カッ コ内は推定。
彼の基木的呼称は儀問の大屋子もいであっ た。その証拠に、
⑤の用例に見るように
、
六世真常は知行高三O石を給せられた際に
「十間風の昨聞の儀問の大屋子
もい」の
称 を 保持しているこ
とがわかる。今一つ、里主 (旦之子)大屋子もい(耕雲上)の称は、里主 所の所有者であるその父(大屋子もい)
の継 承者として認知されている息子のことを指 すと見られ
、六世真常が儀悶
の屯一主所を給
与された時「儀間の里主大屋子もい」を、
七世真之が仕上世奉行職に叙任さ
れた
時
注)
「甲一之子大臣子もい」を、
同人が儀間村の
知行日三O行を与えられた時「儀問の良之子親雲上」を、それぞれ称するのも右の事情によると思わ
188
れる。辞令占に!J_る王国制度(その二)
以上の検討により、シマ名の大民子もいの称号がシマ名の旦主所を得ることに由来する点をほぼ確
認できたと思う。となると、現存する最古の仮名表記である小禄基の僻緑岩製石棺に陽刻された銘文
小禄の里主所を与えら
れ
、官たち三司H表国l5のシマ名の大屋子もいを称する「世あすたぺ」であったことになる。 (凶) た上級官人は、に登場する「おろく大やくもい」(小禄大尼子もい)なる人物 また
つまり幸地の大伝子もい、沢紙の大屋子もい、{且寿次の大原子もい、宮平の大店子もい、我那瑚の大
尼子もい、存1地の大屋子もい、城間の大尽子もい、内問の大尽子もい、池城の大足子もいなども、そ
れぞれの冠頭のシマに里主所を与えられた上級宵人であり、表皿|6のシマ名の奉行、花城大屋子も
第四
い、城山の大伝子もい、
カワカミの大原子もい
阿波棋の大尼子もいなども同様であったろう。
日同意されるのは、近世琉球辞令引においては旦主所を給れるのは地頭身分への叙任を芯味した
」とである。
表E ーー に掲げ たように、」のタイプのものは三二件の現存が確認されているが、その
一つ、
的小禄川切儀山盟主所給似辞令許(一七O九年)
竹旦之御訊
固小椋間切儀悶
里主所者前田頭
回
籾雪上給之
康郎四十八年己丑十一月四日
のように、
小林間切儀問村の脇地頭に叙せられる
ことと、儀問川主主所を賜うこととは同花なのである。
右の辞令内の受給将である十世瓦町は、間以照三十
七年(一六九八)に古見城間切のmm地頭職となった
が、
同三
十九
年非を得て八
重山山
へ流
川となった。
同四
十
四年 御赦
免となり、四年後に
儀問
地頭職に(口)叙せられる。打辞令書中に彼の一円拝を「前田頭親雲上」
と称するのは、右の事的によるのである(勺麻
性家譜』出名山本)。
さらにまた
、「麻性家山市川」田名家が表W11の旦主所の給閥、つまり大医子もいへの 神次i時と上級官人!間
作職を例外なしに地頭職への叙任と記故している点も、近世においては士門琉球の皿主所の給MH大屋 子もいへの作臓を地頭職叙任と同列に理解していたことを示している。
つまり、
大ぷ子もいは近世において地頭と称された地位の前身なのである。
そのうち、シマ名の旦
主所を給され、
シマ名で呼ばれた大屋子もいは、
近世において村名の里主所を給され、
村名で呼ばれ
了I
た地頭、
すなわち脇地頭の前身である。
そして、
間切名で呼ばれた大屋子も
い、
たとえば表E|5お よび表皿l6の国頭の大屋子もい、品川以見城の大尽子もい、勝述の大屋子もいなどが、近世では間切唆
189
の地顕であったところの惣地図(総地頭)の前身だと考えてよい。
190
大屋子もい制の地方差
5 辞令書に見る王国制度(その二)
だが、古琉
球において里主所を給された官人のすべてが即大屋子もいを称したということではない。
なぜなら、すでに指摘しておいたように、
シマ名の大屋子である玉城の大屋子や安田の大屋子がそれ
ぞれ与那嶺の厄主所、安田の里主所を給されており、また、伊平屋の首里大屋子も仲田の里主所を給
されていたからである。このことから、
里主所の給賜はかならずしも大屋子もいクラスにのみ限定さ
れたものではなく、
シマ名の大展子および首里大屋子クラスもその対象に含まれていたと理解しなけ
第四
ればならない。いいかえると、
里主所を給せられても大犀子もいと名乗ることはなく、
シマ名の大屋(凶)子、首旦大屋子のままでありつづける地方官人が実際にはいたことになる。同じく里主所の給賜にあ
ずかりながら、一方は上級の中央打人たる大屋子もいに、他方はシマ名の大足子や汁里大屋子など地
方{円人のままでありつづける、といった差別は何故に生じたのであろうか。氷山の一角にすぎない現存の辞令書とはいえ、それがかつての古琉球の任職状況を反映していると仮定して考えるならば
大、 厚子もいを称する上級行人の所領シマ名および間切名に奄美地域や先島地域の名が全く登場しない点
(川口)が気になる。また、古琉球時代に、越来間切の一角に造常された誌の前庭に建つ津市山森慕碑(一五(却)七三年〉に「ちへんの大やくもい」、
今帰仁間切の池城墓の前面に建つ池城県砕(一六七O年)に「
さき山大やくもひ」の名が登場するので、沖縄地域の中頭や同頭方面に閃わりをもっ大原子もいのいたこ とはたしかにわかるのである
が、
しかしながら、
大良子もいクラスの上級官人が首里・那覇の拠点中 枢地区およびその周辺地域に一偏重して府住していたらしい点も気になる
ところである。奄美・先島は
大口問子もいク
ラスに与えられる旦
主所が設
定されていない地域だったのか。
また、
この両地域は大
屋
子もいを名乗る上級官人が存在しない地域だったのか。
さらにいえば、
沖縄地域にしてもこれら上級 行人は拠点中枢地区とその周辺にのみ居住する偏りをもっていたの
だろうか。
残念ながら右の点を確 めうる明確な史料はな
いが、現段階の史料では奄美・
先島に大尽子もいを名乗る上級官
人の設置され た形跡はない。
その根拠は、
たとえば先品において与人を「地頭」と称する時期があったとはいえ、
近世琉球に明
確な地頭制が存在していないことが明らか
であ る こ
と、『
琉球国由来記
」巻六に記され
神女職と上級官人職
るように、
十六世紀に「八市一山川切大挺」「宮古間切大提」と
称され
る先島地域統治の専任官が王府 一種の間接統治方式がとられて
いたと見られるこ
と、
などの点が
挙げられよう。
内に置かれており、
奄美は、
島津侵入事件後の薩落直轄支町下において古琉球的制度の強力な改変がおこなわれた事情を 考慮に容れたとしても、
先島の「八重山間切大提」
「守口古問切大錠」の例と同様の論法でいけば
、「由
来記』に「奥渡ヨリ上ノ
航船
」なる奄美統治専任行の存在が記されるの
で、
やはり大屋子もい制の適
五
用除
外地域だったのだろう
。この「奥波ヨリ上ノ
捌理」は、
先島管轄の両「大錠」と同じように
、首
191
れるので、
属品統治方式に基づくいわば間接的支 配が奄美に対してもおこなわれていた状況を推測させる。
このように考えると、
沖縄地域におけるよ
車一
の王府にほながら奄美を管
。一一喝していた職と推定
192
うな大民子もい制を必要としない特別制度が、奄美・先応に対して設定されていたのではないカと考えざるをえないのである。
沖縄地域についても、とくに国頭方而については大民子もい制が設定されなかった可能性が強い。
先島の両「大淀」
奄、
美の「央波ヨリ上ノ捌理」と同様の特別制度、
す な
わち「山北院守」H今帰仁
(れ)
按司の制がこの地区に設定されていた点を重視するからである。辞令書に見るヱ11:]制度(その二) 第四
ノ\
ームー
耕地区分をめぐる特質
1
山北欧守とその変造
山北滅亡の六年後、永楽二十年三四二二)、該地の治安護持のため尚巴志は次子尚忠をして山北監
守に任じた、
相は詳びらかではないが と一祭出本『中山世諮」は伝える。第一尚氏王朝矧のこの制については不明の点が多く真
おそらく第一尚氏王朝の滅亡と述命をともにしたと見られる。その後、
第二尚氏王朝の開祖尚円は、旧制に習い即位後に「大臣」を山北の地に派泣したといわれるが、この
「大臣」の正体も今のところ不明である。山北殴守の制が木格的に復活し軌道に乗るのは尚真治世下
においてであり、『球陽』巻三に「山北の地、険岨に係り、人亦駿健なり。城の誼固なるを侍みて復
六 耕地区分をめぐる特質 193
表IV-2 山Jヒ監守(今帰仁械司)一覧(�向性家主u具志川家による)
iit
1
m 名|
藍 名1
i',ïf�l
'七 没年|就任年|続
柄1 尚市日実 n武{本金 ':9J9民 ワ~必;r,'i�r=-Im 弘治年110 尚点第3王子
2 向介I沼 忠二郎金 中IJì* ワ����鹿年間 };(;;r,'i"fl1U 油成長男
3 向和'i.\1 点武{本 何故 Z目的36�万麿19 隆l賢年|出 介昭長男
4 向克}I国 ょ日I�j刈 似!効: 万}H8�同24 万j庁19 和賢長男 5 向克社 立r行金 朝符 万府10�同37 万暦2<'1 和賢次克 6 |向者日村l 鶴松金 �ÿH& 万!日29�}1国治19 万倍37 克祉長男
7 向従芯 忠、五良 ��rJ�:さ 天啓7�康照26 }I国治11 制組長男
た変化
を生
ずる
こと有るを恐れ
、のりて第
三子尚詔威を遣
し、旧制に 道依して
山北
を監守せしめ、
今帰仁王子と称す
。而して其の子孫継ぎ て山北
を守り、
世々前八爵を受けて按司と
おい
」とあるように、
第三王 子を今帰仁城に常駐させ、
その子孫をもって監守の任に当らせる制度
(幻)
が確立を見たのであった
。「向性家譜』只志川家に
よれば、
尚瓦は派 泣の除
、尚詔成に対して脇指
二振(備州長光、
相州秋広)
、鎧通一本
(行
平)、
黄金盃・
盃台一箇ずつ、
金織鍛紳一条を与えたほか、
とくに「唄 双紙一附」を賜っている。
この唄双紙は山北の神々に対する儀礼の際 に必要な
ものであり、
儀礼の時には
「王都」 から「唄勢頭」三
、四人
が今帰
仁の 地に派
泣され、「
土唄勢頭
」とともに神唄を諭す
るととも
』
、ザ」阿応mMm忠按司、
世寄行按司、
呉我阿武加那志らの神女が礼式 を掌ったという。
赴任に際して武具と神謡集をそれぞれ賜ったという 右の記述は、
山北院守の任
が同地に対する政治・軍
事お
よび宗教の両 面にわたる掌握を目的とする
ものであった点をみごとに象徴している
と い えよう 。 内部威(
玉 御殿の碑文に登場す
る 「 ミ
やきぜんのあんじまも
た
いかね」)
の派泣は一四九0年代のことと推定されるが、
以後、表Nl
194
2に示したように康限四年(一六六五)に山北監守H今帰仁按司が首里に引き揚げるまで七代、年間にわたってこの制度は存続した。 一七O
辞令書に見る王国制度(そのこ)
山北監守は今帰仁域内に居館を構えていたが、六代向縄祖の時に居館を域内から今帰仁村に移している。その理由は、城付近にあった今帰仁村と志慶真村が立地の不都合により低地へ移動したために、城内の居館生活が不便となり、今帰仁村の後を追うように同村に移転せざるをえなかったからである。
第四
前立で「琉球国一日川究帳』「絵図郷村帳』を用いて今帰仁間切の村Hシマを解説した際に登場し
た「今
帰仁村」「しげま村」は、
右の文脈でいけば、
集落移動の直前もしくはその直後の段階を伝えている
ことになる
。 そ
れに今一つ、前章一四七ページに紹介した辞令香川仰に改めて注目すると、今帰仁間切の辺名地の目差職に叙任されたサ
チは「ミやきぜん
のあんじの御仁印」であった。御前は仕える、出仕するの 義であるから、
サチは当時今帰仁城内に置かれていた今帰仁按司H山北監守(五代向克祉に相
当)
そのに出仕し、の府館
御川を弁ず
る人物であったことがわかる。
このように尚真期以後、
山北H国頭の地に、
山北監守H今帰仁按司という政治・軍事および宗教を 管掌する目的で設置された特別制度が存在したわけで
ある。
この特別制度の存在が山北H国頭の官人
編成、とくに大尽子もい制をめぐって中南部地区と
異なる状況
を結果せしめたのではなかろうか
。 だ
とすれば、
有美・先日同岐に、
山北H国頭の地に大屋子もいクラスの上級官人が存在した可能性は少
なく、
仮に存在したにしても、
山北監守H今帰仁按司の一族程度のごく一握りの人員にすぎなかった
と想像されるのである。ただし
、 山のはるをい子も屋大北、るな異と先島・国頭が奄美H名乗上級官
つまり間切名・シマ名にこの地区が含まれており、したがって、大屋子もいに給せられ
る旦主所がこの地に広汎に設定されていたことだろう。
その点を椛認したうえでなお、山北H国頭の 人の名乗り、
間切名・
シマ名を名乗る大屋子もいの大半は、
実は同地の川住者ではなく、枢点中枢地区およびその
周辺に同住する上級官人だったのではないかといいたい。
同じく虫主所を有しながらも
、一方は中央の上級官人、他方は地方
の上
級官人であるという制度上
の差別を解く途は、
大屋子もいクラスの帯びていた中央官人としての性格に求められるように思う。
2
旦主所をめぐる「論争」
六 耕地区分をめぐる特質
ところで、これまでの叙述にしばしば登場してきたところの盟主所とは、一体いかなる性格のもの るすしたのは提示に最初を意見独自研関に評価の所主里、上史究渡口真清渡口の代表。であったの なのか。
作である「近世の琉球』所収の論文を見ると、たとえば、「『さとぬしどころ』が『シこ全体位)さす のであって、シマの中の一部の耕地(後世の地頭地または里主所と呼ばれる団地)をさすのでないこと」、
195
「『さとぬしどころ』は、もとはシマ全体をさしていた」が、『旧琉球藩評定所書類目録』中に掲げら れている天啓三年三六二三)の「間切間切の中のさとぬしどころの石高調べ」(正確な標題は『間切々々
の旦主所のかりや高の御さうし』)の頃から「シマ(村)の中の一定の耕地をいうようになる」こと、
など
196
断片的ながらいくつかの重要な規定を見出すことができる。波口の史論はかならずしも明快でないと
辞令書に見る王同制度(その二)
」ろがあり右の規定がいかなる史料操作によって与えられたものなのか、その論旨をつかむことは
閃難なのだが、渡口がいわんとするところは、古琉球の型主所は「シマ全体」を指すのであって、こ
れ11\ 「
シマの中の一部の耕地」H地頭地を指すようになるのは天啓四年以後の近世琉球においてのこ
とである、ということになろうか。
波口の右の旦主所m解、つまり盟主所Hシマ全作説ともいうべき主張に最初に批判を加えたのは安
良城盛昭であった。安山氏城は「地刑制度の辿椛としての洋昭島の短冊型耕地形態」の中で、渡口説は
一六六ページに紹介した伊平尽の行明大旧民宛辞令市山を掲示し、
そ 安氏械のこのコメントに対し、波口は早辿「さとぬしどころとシマ」を発表し、伊平出メソトした。 (お) が「シマの中の一部の耕地しにほかならない事実をよく示している」とコ (幻) の辞
、、
、、
、
の竹川わい大い店子宛辞令刊に昨日μ場する「なかだのさとぬしどころ」は竹田という旦主所の意味に解すべき 「疑川」であるとしたうえで
第四
ム官民いは「『さとぬしところ
であり、改めて虫主所Hシマ全体説を再説している。」の時点で波口・安良城両者は口頭で論議する
その時安氏城は旦主所の実際を示す他の辞令書の用例にも言及したうえで、再(川口)び沌け説を鋭問としたようである。渡Uはこれを受けて「さとぬしどころとシマ(続)」を発表し、安 機会があったらしく 良蚊説を詐れて日説を一部修正したものの、法木的には盟主所Hシマ全体説に固執した主張をくりか えしている。
そこで安良城は
「十日琉球の (ぬ)
「さとぬしところと
の起源」のと「近世流球の『地一以地』
二つの論文を発表し、
改めて波u説に対する令一而
的な批判を加えることになった
。
」れが一般にη旦 キヒ所論争μあるいはH安此城・波U論争μと呼ばれる議論の終日糾であるが、
しかし、
残念なことに、
「論争」
の一方の当事者である波はが辞令比けを全体として犯似していなかったために、
また、
辞令』
の解釈をめぐって論弁としかいいようのない立冶に終始したために、
ホ両者の議論が「論争」の名に 値するものであったかどうかは大いに疑問としなければならない。
市者の印象では
むしろこの議論 の場を利用して安a以城が臼己の到達した辞令芹研究の成果を挺示し
、そのうえに立って川に主所珂解を 開示する機会を与えた点に、
この「論争」の研究史上の芯誌があったように思う。
安良城は「古琉球の『
さとぬしところ
」」の中で、昨令比けの川例を
示し
て、波円の担トドL
-所Hシマ全
六 耕地円分をめぐる特世
体説の実証的矛町を指摘するとともに
、波口説の謬見を生
む素地に
な っ て いる日公制有資料の一つ
「沖約以川川和税制度』の批判にまで及んでいる。
安人以城の尖訂的批判のポイントは、
閉じ主所の指示 は何伎に琉球独特の計
南市位で表現されるのか
、同時にまた、虫主所の所在が何故に原名により即地 の二点に尽きるといってよく、
この二点の事尖が語るところは、
EE所がシマ
全体であるなどという渋然としたものではなく、
特定の而ねをもち特'記の場所に所花する州地、
つま
的に表示されるのか、
197
という山…にあった。
の起源」の中で安政械は、右の珂仰を一円
説 すにるととも、近怖いで地一服地もし うちの一部のりのシマ「特定緋地
」が盟主所の内界であることを示すものである
、
「近刊琉球の
地頭 地
198 くは世主所と称されたものは、十日琉球において「『かりや高』で測られた「宅主所
したがって、「「地頭地」日『旦主所』の起源が古琉球に遡ること 「さとぬ
し とこ
ろ」として広く存在していたこと」、
辞令書に見る王国制度(その二)
を暗示している」、とした。
右の安比城・波口の「論争」に一一パ及して筆者は次のように述べたことがある。「渡門氏のい
うよ
う
に盟主所をシマ(近世の村に相当)と解すると、旦主所の所在を何故に原名により指示しなければなら
ないのか、また、何故に里主所の地加をカリヤ・ヌキなどの単位で表示する必要があるのか、そして
また、〔中略〕伊平屋の廿旦大屋子あて辞令持の伝えるように何故に従来の里主所に三オツカ五Oツカ
の田を加えて五カリヤ三オツカ五Oツカの田にすることができるのか、といった疑問に全く答えるこ
護 なも り えて い 渡 な(口L、�の L3 安良 百己城
対す 批る 判は「反論にもなっていないと同時に里主所Hシマ説の弁 第四
と」ができず、
係者の評価が妥当なことを、安良城の成町木に学びながら今少し具体的に説明しておこう。
3
虫主所の川例と性格
古琉球辞令拝中に登場する旦主所の用例には基本的に二つのタイプがある。一つは、シマ名を冠し て「OOの盟主所」と称され、それを給されると同シマ名を冠して「OOの大屋子もい」と唱えるも
のであり、このタイプには旦主所の面積・所在の具体的表示は記述されない。今一つのタイプは、シ
マ名の大屋子および首里大屋子に給されたもので、ここでは里主所の指示がカリヤ
・ヌ
キおよび原名で表示されている。たとえば、玉城の大屋子に与えられた里主所は今帰仁間切の与那嶺の里主所であ
るが、その面積は田地で六カリヤ、四九マシ、畑地で一四Oヌキ、七オホソ、団地の所在場所は「し
よきた」原、「もくろちかわ」原の二所にまたがっており、畑地のほうは「やたう」原、「ひらのね」
原、「はな」原、「さき」原、「なかさこ」原、「おゑ」原の六所にまたがって存在
す る
もの
であった
(本害六六ページ参照)。伊平屋の首甲一大屋子は、伊平屋の仲田の里主所を与えられたが、この時従来の 同里主所(五カリヤ)に三オツカ五Oツカ分を加えて都合五カリヤ三オツカ五Oツカの田地としている。 この田地は「いのゑな」原、「下」原、「こは」原、「あまぐすく」原、「ちゃふけな」原の五カ所にま
たがって所在した(一六六ページ参照)。安田の大屋子は国頭間切の安田の里主所を給さ
れた
が、里主
六 耕地区分をめぐる特質
所の地積・原名の具体的記述はなく、単にこの里主所の四八ツカの田の分については「みかないのく
ち」を免除するとうたわれている。
里主所が回もしくは畑の別で指示されているうえにカリヤ・ヌキの丈量単位で表示され、しかも所
在を特定できるよう当該原名で示される右の用例を直視すれば、里主所がその冠頭に置かれるシマの
全体を指すなどという陳腐な解釈は逆立ちしても得られるものではない
。安
良城盛昭がいうように、
里主所とはまぎれもなく「シマのうちの一部の特定耕地」なのであり、「特定耕地」であるがゆえに
199
他の耕地と区別すべく地目の別、面積、所在場所をいう必要があるのである。すでに紹介しておいた
ように、シマの中には真人地、里主
殿原地、
抗地、
ノログモイ地といった緋地区分も存在しており、
200
所もまたそのような耕地区分の一形態にすぎないのである。旦主所がシマ全体だとすれば、それ以外
辞令書に見る王同制度(その二)
の真人地等は存在することを息めねばならなくなる。里主所Hシマ全体説は、このように、シマ内に
おける耕地区分の多様な状況を無視しそれに背を向けた愚論というほかはないのである。
では、大原子もいとセットになっているところの今一つのタイプの旦主所はどうであろうか。説明
するまでもないと思うが、麻性同名家の阿世其孟から六世真市が受けた天久の盟主所、俄問の金城の
里主所、儀問の閉じ主所、瀬底の旦主所、大嶺の旦主所のすべてもまた辞令書に具体的な記述がないと
それぞれのシマの中に特定された耕地として存在していたものである。はい‘ぇ、それゆえに、島津侵
第四
入事件後の石古川制の導入によって、辞令書は儀問村六世真常や七世真之らが所得していた里主所を、
より知行口三O石云々と石刊で表示することが可能だったのであ
る(
表W|1参照)。さら
に 二三』六一年(三する天啓中に登場琉球藩一評定所科類円録川「良城が (お) た安、ま
)の
「間切々々のmに主所のかりや高の御さうし』(二冊、しかし現存せず)を捉えてするどく指摘しているように、まさしくこの史料は、「『かりや高』で測られるシマのうちの一部耕地としての『型主所』H『さとぬしところ』が、古琉球
の時代に、『間切々々』H各間切毎に一般的に成立していた史災を反映」している
ので
あって、渡口
のように、この史料段階から旦主所が「シマ(村)の中の一定の耕地」を指すようになる、
な
どと
す
る解釈は全く成り立たない。旦主所は「かりや日」で表示できる共体的な耕地であり
、大
医子もいク
中に含
まれていたと
考えるのが自
然なのである。古琉球
辞令書に叙任型と得
分規科型の両タイプがあり、この両者がセットで発給され
ラスに給されていたはずの旦主所
も、
この「かりや布の御さうし てい
た点をここで改めて想起するならば、
mじ主所JV」払相する叙任型辞令佐川は、
その一方で、
該里主所を
地問似・
原名で具体的に指示する
ところの今一つのね
分規制何型辞令
存を作っていた
、と見ることができ るのである。
安氏城のいうように、古琉球の閉じ主所は近世琉球の地以地の前身であり、それは、
古琉球の大屋子 もいが近世における地頭の前身である
という事尖に符合したものであ
る。
各シマの中に特定された耕 地として存在する旦主所を、
古琉球においては中央門人的な性格をもっと見られる大屋子もいクラス
の役地として、
あるいはまた
、シマ名の大屋
子や打豆大店子などの地方官
人の役地として給与する
制
六 耕地区分をめぐる特質
度が存在し
たわけだが、
近世に入ってそ
のうちの大屋子もいクラス
リ地頭の役地のみが地頭地となり、
シマ名の大屋子H夫地一以や背屯大尽子の役地はオエカ地として区別されるようになる。
この区別は向
内メ賢路線以後の古琉球
的伝統の否定H近世休制への転換において尖
施されたと見られるが
、具体的な
究明は今後の課題である
。筆者の目についた問題としては
、たとえば康照二十九
年(一六九
O)
の評定
所余議
に次の事例がある
。木部間切のうち
山日比(健竪か)・具志川悦・真部三
村がそれぞれ
三人の地頭暖
となってい
たところへ
、これを一泊して一地問ム唆
にすること
、謝花村が「夫地頭所」
のところを「首
201
用地一矧」暖にすること、辺名地村を
「夫地頭所」
とし
百抗頭数の一部を惣地頭唆にすること
、天底村
202
を「汁旦地頭」唆にすること、今帰仁間切のうち玉城・岸本・勢理客三村を岸木親雲上唆とし勢理客大屋子を削減すること、羽地間切のうち我部・松田・振庭名三村を我部親雲上唆とし松田大屋子を削
きじよか
てんな は ねろ め
滅すること、国頭間切奥村を「夫地頭所」とすること、大宜味間切の喜如お・一名代・根路銘三村を一括して「首里地一切」唆にすること、などの点が王
府で検討されている例に見るように
、近世に入って明らかに「夫地頭所」および「背岡山地頭」唆の再編がおこな
わ
れて
、『法式』三六九七いる。また
辞令書に見る王国制度(そのこ)
年)に「夫地頭之儀、地所可レ為二手作一右、首里へ肩付之地頭は、公義披露之上、百姓へ可ニ相掛一事、(お)附、供夫禁止之
事」
と規定されるように、地
一以H
「計良地頭」と夫地頭との間に得分
上の
明確な差別を設定している点も注目される。
これ
らの
事例を見ると、古琉球においてはたしかに中央古人
、地
方官人という差はあったかもしれないが、ともに里主所
の受給者であったはずの大度子もいと
シマ名の大屋子が、近世においては身分
・得分の而で明確に差別されるようになり、
大屋子もいの地頭への転化、大屋子の夫地頭への転化が
第四
生じ、
これ に関連して里主所の地頭地への転化・限定がおこなわれるようになったので
は 地頭地H所主里を地役の頭地が、結果のそ。か いだろうな
、
夫地頭の役地を
オエ
。う思よにう あるで形態な的る近世すと地カ
4
近世の耕地区分状況
ここで角度を変えて
、近
世琉球
にお
ける耕地区分状況の中にいかに古琉球的な枠組が貫徹している(幻)かについて考えてみたい。重出米の元高を把握するために作成
され た『島尻方取納座定手形』(一七二九年)には、pyr・ずFrの両間切と川八献島の耕地区分およびその石布が記されている
の
であ
る
が、そのうちの喜犀武間
切の
島方の分を表
NI 3に整理し、それに基づいて耕地区分状況を概念化し
て示したものが図Wlーである。
『琉球国由来記』(一七二ニ年)によると、喜屋武間切には存店武・福地・山城・上里・賦むがの五
村があったが、表WI3の『島尻方取納庫定手形』では束辺名村を上里村に併わせているので
、行
政
村としての再毘武間切は四村で
あったこと
がわかる。『由来記』によると同間切には束辺名大屋子、
六 耕地区分をめぐる特質
表Wー3 喜屋武間切の耕地区分と石高 (畠方)
A 喜屋武j安司掛 24・69824石 B 喜屋武按司掛 8・87192 C 喜屋武按司掛 3・30899 D 喜屋武里主所 31・48909 E 喜屋武里主所 4・58876 F 山城里主j買 20・21217 G 栢地虫主所 36・08539 H 上里旦主所 16・36746 I 仲村渠大屋子 9・16718 J 束辺名大足子 8・76563 山K 東江大屋子 9・67789 L 首里大屋子 7・98079
M 両おきて 4・63173
N 南風提 4・24111\9
0 大おきて 8・52191
P 喜屋武提 3・90164
Q 山城提 4・38192
R 桐地おきて 4・26167 S 上里おきて 4・26811 T 菩毘武のろくもい 8・44173 U 山城のろくもい 3・47648 V 福地のろくもい 3・54091 W 上里のろくもい 7 • 43181
X 来辺名のろくもい 3・36732
@ 百姓地(喜屋武村) 92・45918
@ 百姓地(山城村) 56・54524
。 百姓地(福地村) 31・83730
@ 百姓地(上里村) 32・50164 203
辞令書?に見る王同制度(その二) 201 耕地区分の概念 図IV-l
第四
なかんだかりあがりえ中村栄大屋子、東江大尼子という
員の夫地頭がおり、その中の束辺名
大屋子が地頭代の職に就くならわし
であった。地頭代の下に汁旦大凶子、
大旋、南風旋、丙従そして招地・上
里・山城・在日屋武の四只の村民がい
た。また、再起武・山城・祈地・上里・束辺名の村名を名乗る五人のノ
ロがおり、公事祭把を司祭していた
状況を『巾来記』により確認するこ
とができる。
以上の予備的知識を念頭に白いて(お)表N13および関Nーーを見ると、まず阿員の村捉の役地についてであるが、そのいずれも名村提が所令する行政村に存在し、行日にし
て同行特皮である。三只の間切錠の場合は大蛇と南風錠の役地が沼地村、丙捉のものは
すHR
武村にあ
り、一二円以の中の筆頭格である大蛇の役地の石口は他二只に比べて大きい。打皿大照子の役地は詳犀武
村に、八、九行担何度の夫地頭の役地は喜屋武村に一所、上川中村に二所あって他二村には存在して
いな
い。
以上の役地が近怖い琉球でいうオエカ地であり、
十れ職のすべては間切内の住民で百姓身分の者の任
職ポストであった。
五只のノロのノロクモイ地は各村に一所ずつ存在するが、
しかし、京辺名ノロの
ノロクモイ地のみは同村が上虫村に併わされているために上虫村に上出ノロのノログモイ地ともども 二所仔庄する形となっている。地制の対象となるπ性地は存行政村すべてに
あり
、 な
かでも引い民武村
三村にかかっており、 の宵性地刈は他
三 村
にぬきんでている
。い
わゆる按司地問の得分である喜屋武按可掛は山城村を除く
その合計
は 三六 石八斗七升九合一勺五才で
あ る。里主所のうち山城・福地・ 上引の所の旦主所は脇地頭地、書店武旦主所の名で呼ばれる耕地が存民武・上出の二所に存在する が、おそらくこの二所は惣地頭の作得地であり、その人門計三六石七升七人口j勺五才が惣地頭給地の表 尚であろう。近世琉球においては、間切唆の地頭として両惣地一切(照司地頭・惣地到の総称)がおり、
六 耕地ほ分をめぐる特質 点け尽式間切の場合は按4掛を有する立門口出武按司が按司地頭、
二所の評伝武史主所を行する者が惣
地頭
に当る。
近世一琉球においても、地頭クラスやオエカ人
、 ノ
ロ、そして一般百姓がそれぞれの地位・身分に応
じて民分された耕地を保有していたことは右の事尖により明らかであろう。
このうち、五人のノロの
役地であるノロクモイ地が古琉球においてすでに成立していたことは先に述べた。宣日目店武提以下内口氏
205
の村錠の有する役地、
すなわち捉地も同様に古琉球においてすでに存在していたものである。
三只の
206
間切錠も古琉球に設置されていたと見られるので、大捉以下の役地もまた古琉球に遡るものであろう。
百姓地については、古琉球において一般民衆のことを真人と称し、真人地なる語が辞令書に散見され
辞令苫に見る主同制度(その二)
百姓地はこの真人地の系譜をひくものと考えられる。三員の夫地頭および首里大屋子の役地
の件に関しては、先述したように、この職は古琉球では旦主所を給せられていたものであるが、近世 るので、
になって旦主所の給賜対象からは除外され、里主所とほ別れる役地(地頭に限定された里主所よりは少
鮪である)の受給Eに転下してしまっている。だが、このような変化はあった
に しろ
、夫地一政・汁里
大尼子が特定の役地を職に付帯して給せられているという点で古琉球・近世琉球ともに同じである。
按司掛を有するところの按司が古琉球に遡る地位であったことはすでに述べた。二所の喜屋武盟主所
を与えられた惣地頭は、古琉球においては間切名を名来る大店子もいに、山城・福地・上里一の里主所
第四を有する三人の脇地以は古琉球でシマ名を名乗る大尉子もいに、それぞれ比定できよう。
以上のように理解できるとすれば、立い民武間切に兄られる近怖いの緋地ば分とは、実は古琉球がその
基本的な形を近刊琉球に担供したところのものだったのである。近刊の間切・村制度が古琉球におけ
る間切・シマ制度を継承したものであったことをも併せて考える時、制山川市における古琉球から近世琉球への基本的な述続性、いいかえると、古琉球のもつ規定力を改めて痛感せずにはおれないのであ
る
5 ミカナイとカナイ 惣地頭の前身として古琉球の間切名の大原子もいを
捉えると、
間切名の大限子もいも惣地頭同様に 間切内のあるシマに特定されたmt主所を与えられていた
、と
想定することができる。
では、この間切
名の大足子もいをはじめノロに王るまでの行人肝や神女たち
は、
与えられた役地から一体いかなる方 法でその所得を得ていたのだろうか。
着目したいのは「かない」というニr門葉
で、
たとえばこの言葉は、
北谷提宛辞令41h三六0ページ参照〉
に「の
ろかないはくに
のかないの三分一かなうべし」
、那斬の大阿母オトマスモイ宛辞令苔(六回ベl ジ)に「のろさとぬしおきてかない」、浦附円売宛辞令内(一四何ページ)に「
のろさとぬしお
き
てか
六 耕地区分をめぐる特質
ない」、
読谷山抗宛辞令力に「のろさとぬしおきてかない」、
玉城の大尽子宛辞令芹(六六ページ)
に「四
十五ぬきか
ないの大おきて」などの用法で登場していた。
「かない」というZ一円葉は、
古琉球において
は貢物、買租を意味し、
近世琉球あるいは近代沖縄では小作料の芯味で用いられたものであるが
、右
の辞令書の用例では頁租に近い意味で使われている。
辞令詐には他に「みかない」「いろ/\のミか
ない」
「おやみかない」
という用例があり、
敬称辞「み」H御、
あるいは接頭美称「おや」H親の付く
「かない」とこれの付かない「かない」
とに反別されていたようである。「いろ/\のミかない」のう ち、「みかない」H「おやみかない」
はおそらく同王H王府への武租だと見ら
れ、「おきて」カナ
イは
207
208
シマ名の提あるいは三員の問切提への貢租、「のろ」カナイはノロへの百組、「四十五ぬきかないの大 おきて」は四五ヌキの畑地からの貢租を得る大捉職の芯味で
あ
う地位にある者への貢租という意味だと思われる。 ろう。「さとぬし」カナイは里主とい
第四 辞令書に見る王国制度(そのこ)
ただし
、ノロカナイを、単にノロへの貫租という芯味にのみ限定するのは妥当ではないかもしれない9
というのは、大阿母も広義のノロである点は君南風の例をあげて指摘した通りであり、さらにまた北 谷捉宛辞令書三六0ページ)によると、北谷間切は「くにのろくもいがまぎり」、
つま
り
クニH間切
あお
りやえノロクモイ所領の間切であって、この場合のク二日間切ノロクモイが具体的には阿応理
EE
按司加那志を指す可能性があるからである。
同辞令書が、「のろかないはくにのかないの三分一かなうべし」
、
つまり、ク二日間切のカナイの三分の一相当分がノロのカナイである、というのは、クニH間切ノロ
クモイ(おそらく阿応理屋恵按司加那志)の所仰の規定であろう。したがって、ノロカナイが公的な神女
職に対する貢租の総称であった可能性をも念頭におく必要があるように思われるのである。
以上のように考えると、第一に、官人岡山や村女職の所領地にミカナイ(国王への貢租)がかかってい
たことを確認できよう。たと
えば、伊平屋の汁里大屋子は五カリヤ三オツカ五Oツカの田地を里主所
として与えられたかわりに、この田地にかかるミカナイとして酒をはじめとする四件の貫納を命じられていた(一六七ページ)。
しかし、ミカナイの賦課はあくまでも原則的なものであり、実際は
こ れ ら
官入居・村女職所領の役地はミカナイを「御ゆるしめされ候」とされ、免租されるのが通例であった。
右の点は、近世琉
球においても地頭地や
オエカ地、
ノロクモイ地に王府への寅租が賦課されていた事
実に
符合している
のである。おそらく、古琉球においても真人地をはじめ宵人層・神女職所領の役地
すべて
にミカナイがかけられるのが原川であ
ったと思料される。第二は、これらの役地にはミカナイ
の他にノロ
・旦主・誌のカナイと称する多様な貢租がいわば荒川的にかけられていたことであろう。
たとえば、
市崎目差は役地として田畑を給された時
、この役地にかかるはずの「お
やみかない又のろ
さとぬしおきてかないともに御ゆるしめされ」
ているのである。
ここに登場する「のろ」「さとぬし」
「おきて」のカナイを地方神女職・地方官
人層が得るべき
貫租と解す
ると不合理が生ずる
。なぜなら、
彼らはノログモイ地、殿
原地あるいは旦主
所、
提地などのオエカ地を与えられており
、その田畑の収
穫からミカナイ
などを除いて自分の所得とする得分権をすでに保障されており
、このような者たちが
六 耕地区分をめぐる特質
他の神女・行人の役地からカナイ
の形式で別に所得を得る状況は考えに
くいからである。では、ここ
でいうカナイ
は誰が得るべき貢租なのか。
あえて筆者の推測を述べるとすると
、「のろ」「さとぬし」
「おきて」のカナイとは、
おそらく拠点中枢地区に居る上級の神女職や官人層に対するカ
ナイ
で
はな
いだろうか。国王に対するミカナイ同様に、上級の神女や宵人の中に真人地やノロクモイ地、殿原地 あるいは旦主所、民地などからカナイを所得する者がおり、このようなカナイのことを「くにのかな
209
い」(クニH問切のカナイ
)と 称したのではないだろうか。そうすると、役地にはこうしたカナイがミ カナイ同様賦課されるのが通例であったことになる。しかし、尖際
には
、辞令書の用例が示すように、