依頼に対する断りのやり取りの研究 ‑ 日本語母語 話者とインドネシア人スンダ語母語話者の比較 ‑
著者 ノフィア ハヤティ
著者別表示 NOVIA HAYATI
雑誌名 博士論文本文Full
学位授与番号 13301甲第103号
学位名 博士(文学)
学位授与年月日 2020‑09‑28
URL http://hdl.handle.net/2297/00061497
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
博士学位論文
依頼に対する断りのやり取りの研究
―日本語母語話者とインドネシア人 スンダ語母語話者の比較―
金沢大学大学院人間社会環境研究科 人間社会環境学専攻
学籍番号 1621082009
氏名 NOVIA
ノ フ ィ ア
HAYATI
ハ ヤ テ ィ
主任指導教員名 西嶋 義憲
i
依頼に対する断りのやり取りの研究
―
日本語母語話者とインドネシア人スンダ語母語話者の比較―
目次
第
1
章 序論 ...1
1.0 はじめに ...
1
1.1
研究の背景 ...1
1.2
公用語としてのインドネシア語と地方語としてのスンダ語の位置づけ ...6
1.3
研究の経緯と研究の意義 ... 101.4
研究の目的 ... 131.5
断りの定義 ... 131.6
論文の構成 ... 15第
2
章 先行研究 ... 162.0
はじめ ... 162.1
異文化間語用論・中間言語語用論における断りの研究 ... 162.2
インドネシア人を対象とした断りの研究 ... 202.3
断りのやりとりを対象とした研究 ... 232.4
まとめ・先行研究の問題点 ... 29第
3
章 調査方 ... 353.0
はじめに ... 353.1
調査方法 ... 353.2
分析項目の定義 ... 433.3
分析の観点 ... 463.4
分析の枠組み ... 46第
4
章 断り発話に至るまでの言語行動について([課題1]) ... 52
4.0
はじめに ... 52ii
4.1
研究背景 ... 524.2
調査 ... 534.3
分析手順 ... 534.4
結果と考察 ... 564.4.1
断り発話に至るまでの言語行動の有無について ... 564.4.2
言語行動に見られる個別意味公式 ... 614.5
まとめ ... 68第
5
章1
回目の断り発話に着目した分析([課題2]) ... 70
5.0
はじめに ... 705.1
調査 ... 705.2
分析手順 ... 705.3
結果と考察 ... 715.3.1
意味公式使用数 ... 715.3.2
断り発話冒頭部に出現する意味公式 ... 755.3.2.1
断り発話冒頭部に出現する意味公式カテゴリー ... 755.3.2.2
断り発話冒頭部に出現する個別意味公式 ... 775.3.3
意味公式の出現パターン ... 855.3.3.1
意味公式カテゴリーの出現パターン ... 855.3.3.2
意味公式カテゴリーの使用 ... 915.3.3.3
出現する個別意味公式の種類 ... 935.4
全体的な考察・まとめ ... 95第
6
章2
回目およびそれ以降の断り発話に着目した分析1―意味公式使用数・
断り発話冒頭部に出現する意味公式を中心に―([課題3]) ... 98
6.0
はじめに ... 986.1
研究背景 ... 986.2
調査 ... 1016.3
分析手順 ... 1026.4
結果と考察 ... 104iii
6.4.1 2
回目およびそれ以降の断り発話の出現状況 ... 1046.4.2 2
回目の断り発話ついて ... 107
6.4.2.1
意味公式使用数 ... 1076.4.2.2
断り発話冒頭部に出現する意味公式 ... 1106.4.3 3
回目以降の断り発話について ... 1166.4.3.1
意味公式使用数 ... 116
6.4.3.2
断り発話冒頭部に出現する意味公式カテゴリー ... 1186.4.3.3
断り発話冒頭部に出現する個別意味公式 ... 1216.5
まとめ ... 123第
7
章2
回目およびそれ以降の断り発話に着目した分析2
―意味公式の出現パターンを中心に―([課題4]) ... 126
7.0
はじめに ... 1267.1 調査 ... 126
7.3 結果 ... 126
7.3.1
意味公式カテゴリーの出現パターン ... 1267.3.2
意味公式カテゴリーを含む組み合わせパターン ... 1337.3.3
個別意味公式の出現について ... 1377.4 まとめとしての全体的な考察 ... 143
第
8
章 断り成立後の言語行動に着目した分析([課題5]) ... 149
8.0 はじめに ... 149
8.1 研究背景 ... 149
8.2 調査 ... 150
8.3 分析手順 ... 150
8.4 結果と考察 ... 152
8.4.1 断り成立後の言語行動の有無について ... 152
8.4.2 断り成立後の言語行動に見られる意味公式 ... 153
8.4.3 断りのやり取り段階と断り成立後の段階における【謝罪】
と【代案提示】の使用について ... 155
iv
8.4.3.1
【謝罪】について ... 1558.4.3.2
【代案提示】について ... 1608.5.
その他の言語行動 ... 1658.6
まとめ ... 168第
9
章 断りに伴う視線行動のタイプの分析([課題6]) ... 170
9.1 研究背景 ... 170
9.2 調査 ... 173
9.3 分析の手順 ... 173
9.4 結果と考察 ... 175
9.4.1
断り発話に伴う視線行動のタイプ ... 175
9.4.2 断り発話末で見られる視線行動 ... 177
9.4.3 断り発話と視線行動の関係 ... 186
9.5
まとめ ... 191第
10
章 結論と今後の課題 ... 19310.0
はじめに ... 19310.1
本研究のまとめ ... 19310.2
本研究の意義 ... 20510.3
今後の課題 ... 207謝辞 ... 210
参考文献 ... 212
付録 ... 222
〈付録①〉スンダ語の分布・マナドマナド語の母語話者が在住している
北スラウェシ位置 ... 222
〈付録②〉被験者のデータ ... 223
〈付録③〉調査の説明・同意書 & 調査のフェイスシート ... 228
〈付録④〉会話資料 ... 232
v
図表一覧
【図】
図
1-1 スンダ語母語話者が在住している西ジャワ位置 ... 10
図
2-1 断り行為遂行の相互交渉プロセス ... 25
図
3-1 会話参与者を示す位置 ... 39
図
3-2 被験者の会話中の様子 ... 40
図
4-1 断り発話に至るまでの言語行動の有無の結果 ... 56
図
4-2 JNS
の断り発話に至るまでの言語行動 意味公式比較... 61図
4-3 SNS
の断り発話に至るまでの言語行動 意味公式比較 ... 62図
5-1 1
回目の断りにおける意味公式使数 ... 72図
5-2 1
回目の断り発話の冒頭の意味公式カテゴリー ... 76図
5-3 1
回目の断りにおける個別意味公式の使用 ... 93図
6-1 1
回目と2
回目の断り発話におけるJNS
の意味公式使用数の比較 ... 107図
6-2 1
回目と2
回目の断り発話におけるSNS
の意味公式使用数の比較 ... 108図
6-3 1
回目と2
回目の断り発話におけるJNS
の冒頭部の意味公式カテゴリーの比較 ... 111
図
6-4 1
回目と2
回目の断り発話におけるSNS
の冒頭部の意味公式カテゴリーの比較 ... 112
図
7-1 JNS-F
の個別意味公式の使用 ... 138図
7-2 JNS-M
の個別意味公式の使用 ... 139図
7-3 SNS-F
の個別意味公式の使用 ... 142図
7-4 SNS-M
の個別意味公式の使用 ... 143図
8-1 断り成立後における言語行動の有無 ... 152
図
8-2 断り成立後に見られる言語行動の比較 ... 153
図 9-1 断り発話に伴う視線行動のタイプと頻度 ... 176
図
10-1 JNS
の断り談話の全体像 ... 203図
10-1 SNS
の断り談話の全体像 ... 204vi
【表】
表
1-1 スピーチレベルの比較 ... 9
表
2-1 断りのやりとりに関する先行研究方法・概要 ... 24
表
3-1 断り発話の分析における枠組み ... 48
表
3-2 依頼側の再依頼発話の分析枠組み ... 51
表
5-1 1
回目の断りにおける断り発話冒頭部に出現する個別意味公式 ... 77表
5-2 1
回目の断りにおける意味公式カテゴリーの出現パターン ... 86表
5-3 1
回目の断りにおける意味公式カテゴリーの使用 ... 92表
6-1 JNS
とSNS
における断り発話の出現数 ... 104表
6-2 2
回目の断りにおけるJNS
の冒頭部の意味公式の内訳 ... 113表
6-3 2
回目の断りにおけるSNS
の冒頭部の意味公式の内訳 ... 115表
6-4 JNS
の意味公式使用数の比較 ... 117表
6-5 SNS
の意味公式使用数の比較 ... 117表
6-6 JNS
における断り発話冒頭部の意味公式 ... 119表
6-7 SNS
における断り発話冒頭部の意味公式 ... 120表
7-1 JNS
の意味公式カテゴリーの出現パターン ... 128表
7-2 SNS
の意味公式カテゴリーの出現パターン ... 129表
7-3 JNS
の1
回目・2回目の断りにおける意味公式カテゴリー 出現パターンの変化 ... 133表
7-4 SNS
の1
回目・2回目の断りにおける意味公式カテゴリー 出現パターンの変化 ... 133表
7-5 JNS
における意味公式カテゴリーの使用 ... 134表
7-6 SNS
における意味公式カテゴリーの使用 ... 135表
7-7 JNS
の全体的な断りに出現する個別的意味公式 ... 137表
7-8 SNS
の全体的な断りに出現する個別的意味公式 ... 137表
8-1 JNS
の断りのやり取りの各段階における【謝罪】の使用 ... 155表
8-2 SNS
の断りのやり取りの各段階における【謝罪】の使用 ... 156表
8-3「断りのやり取りの段階」と「断り成立後の段階」の【謝罪】の使用変化 ... 157
表
8-4 JNS
の断りのやり取りの各段階における【代案提示】の使用 ... 161表
8-5 SNS
の断りのやり取りの各段階における【代案提示】の使用 ... 161vii
表
8-6「断りのやり取りの段階」と「断り成立後の段階」の【代案提示】の使用変化 . 162
表
9-1 視線行動タイプの分類 ... 174
表
9-2 JNS
の視線行動OFF→OFF
に伴う発話 ... 181表
9-3 SNS
の視線の揺らぎに伴う断り発話の内訳 ... 182表
9-4 JNS
の断り発話の使用 ... 187表
9-5 SNS
の断り発話の使用 ... 187表
9-6 JNS
の断り発話内容と視線行動との関係 ... 188表
9-7 SNS
の断り発話内容と視線行動との関係 ... 1881
第 1 章 序論
1.0 はじめに
本研究の目的は、依頼に対する断りの過程とその様相・変化を包括的に捉え、それ ぞれの特徴を探り、日本語話母語話者とインドネシア人スンダ語話者間の同異を明らか にする。本章ではまず、研究の背景、研究の経緯と意義を述べる。研究の背景では、こ れまでの一般的な断りに関する研究と異なり、相互行為というやり取りの過程から断 りを分析する研究であること、そして、そこから得られる研究の意義について論述す る。次に、研究の目的を設定し、最後に論文の構成を記す。
1.1 研究の背景
断りという言語行為は、日常的なコミュニケーションにおいて時折出現する、基本 的な言語行為である。
他人から依頼されたり、誘われたり、提案されるなどの場面に遭遇した場合、受諾 するか、あるいは断るかの返答をすることになる。受諾する場合は特に問題なく、ほ とんどその場で即座に返答ができるはずである。それに対して、断りの場合は、単に 自分の意図を伝えるだけでなく、どのように断るべきなのか、相手との関係を考慮し ながら色々なストラテジー1を使用することが重要になる。なぜなら、相手の意向に沿 えない断り行為を行うことで、不愉快が生じ対人関係に不均衡が生じるからである(藤 森 1994)。断り行為は相手のフェイスを脅かす典型的な行為である(ブラウン&レヴ ィンソン 2011, 藤森 1994,山岡など 2010)。ブラウン&レヴィンソン(2011)によ ると、人は、他者に認められたいというポジティブ・フェイス(positive face)と、自分の 行動を他者に妨げられたくないというネガティブ・フェイス(negative face)の
2
つの フェイスを持っているという。行為によってはフェイスを脅かすものがあり、そうい ったフェイスを脅かす行為をブラウン&レヴィンソンはFace Threatening Acts: FTA
(フ ェイスを脅かす行為)と呼ぶ。1 ストラテジー方 略を「暫定的に、話し手が当該言語行動の最終目的を達成するための、言語行動の方向
づけ」と森山(1990, p. 60)が定義している。ストラテジーと方略は同じことを指しているが、
本研究では基本的に「ストラテジー」を用いる。しかし、先行研究においてその著者が「方略」
を用いている場合は、そのままの用語を使うことにする。
2
したがって、断り場面は受諾場面に比べ、ある程度長い交渉が必要となる。受諾は、
「好まれる応答形式(preferred response)」と呼ばれる(レヴィンソン 1990,
Sacks 1987,
メイナード 1993など)。好まれる返答の場合とそうでない場合とで答え方に差があり、この概念を働かせることによって、会話表現や会話行動の型をよりよく理解すること ができる。
一方、聞き手の期待に沿わない断り行為は「好まれない返答形式」/非優先的返答
(dispreferred response)」と呼ばれる(レヴィンソン
1990, Sacks 1987, メイナード 1993
など)。次の会話例(1)と(2)を見ると、依頼に対する受諾と断りの答え方の違 いが分かる。会話例 1-1
子供:Could you .hh could you put on the light for my.hh room (私の部屋の電気、
つけてくれない?) 父 :Yep (いいよ。) 会話例 1-2
C:Um I wondered if there’s any chance of seeing you tomorrow sometime (0.5) morning or before the seminar (あのう、明日、いつか (0.5) 朝かゼミの前
にでも会えないかと思って。)R:Ah um (.) I doubt it (うーん(.)どうかな。) C:Umh huh (ええっ。)
R
:The reason is I’m seeing Elizabeth(エリサベスに会うことになっているんだ。)
レヴィンソン (1990, pp. 307-308)
会話例 1-1 では、依頼する子に対して被依頼者の父は依頼を受諾をするため、遅れ
(delay)を見せずに、直ぐに「いいよ」と返答をし、他の発話を挿入せずに受諾した。
しかしながら、会話例 1-2 では被依頼者(R)が断るため、その前に(.)の記号でポ ーズを挿入したり、「うーん」とためらった後に、またポーズを挿入し、「どうかな」と 言っている。その後、最後の発話では、依頼側(C)に断りの理由を述べることによっ て受諾できないことを示している。これらの会話例から、会話 1-1 のように受諾の場 合は、即座に返答をするため、「優先的応答」と呼ばれる。他方、会話例 1-2 のように 断る場合はより複雑なため、「非優先的応答」と呼ばれる。このことから、受諾の場面 に比べ、断る場面のやり取りの複雑さが分かる。
従来の断りに関する研究では、談話完成テスト(Discourse Completion Test/ DCT)を
3
用いて、もっぱら断り表現そのものに注目し、断る側の発話を断片的に分析する研究 が多かった。つまり、相互行為の中に断りを位置づけ、相手の発話の影響を受けなが ら作り上げているというやり取りのプロセスの分析までは足を踏み入れていないのが 一般的であった。しかしながら、断りはそれが受け入れられて初めて、その行為が完 了すると考えられる。実際の断りの流れのやり取りの中で行われる断りまでの過程や その流れをよく観察すると、
1
回目に断られた場合、相手がそのまま受諾せず、まだ納 得できていない場合も我々の日常でよく遭遇する。したがって、2
回目の断り、また、それ以上の断りが続く可能性もあり得る。そのようなやりとりは、例えば、次の会話 例 1-3 に見ることができる。
会話例 1-3 JNS-F252(本研究で得た資料から抜粋)
(省略)
A: けど急用できちゃって(うん)3どうしても行けなくなっちゃったから(う ん)申し訳ないだけど(うん)代わりに出てほしいのね(うん) 〈笑〉 い いですかね?申し訳ないんですけど。← [依頼発話]
B: 明日はちょっと部活の用事あるから(うん)手伝える時があったら手伝い たいんやけど(おー)ちょっと明日は無理っぽい。← [1回目の断り]
A: あー、そうなの、どうしても無理?
B: 〈笑〉そうやね、明日だけはちょっと、明後日とかは大丈夫かもしれない。
← [2回目の断り]
A:あー明日なんだよね。
B:そう、ごめんね。← [3回目の断り]
A: そっか、じゃ、また違う人探すわ、ありがとう。← [断りの受諾]
上記の会話例 1-3 に見られるように、断りは話者間の 1 回のみのやり取りで完了す るとは限らない。すなわち、会話の中で見る断りは 1 回で終わるのではなく、むしろ 依頼側の発話の影響を受けながら、複数の断りが出現することの方が多いと考えられ る。このように断りは、談話の流れにおいて話者双方のやり取りの中で一連の相互行 為として成り立っていくことが分かる。このことから、現実には断りの研究は、単に 断りの言語表現やストラテジーなどを対象とするだけでなく、働きかける相手の発話 が断ろうとする話者の影響を受けながら、話者それぞれの意図を表明しようとする「プ ロセス」を対象とすることが、断り研究の全容の解明のためには重要になってくる。
したがって、断り行為の過程を会話のやり取りの中で分析することは、十分な価値が あると考える。
2 付録④の会話資料のインデックス番号を示している。
3 会話に見られる記号は第
3
章(調査方法)35ページを参照のこと。4
一般に、依頼場面において、相手に依頼をして断わられた場合、直ちに依頼者が相 手の断り意図を受け入れることもあれば、そうではないこともある。つまり、断られ る場合、再依頼などが生じるため、複数の断りが出現する可能性が有り得る。
ところで、断りの流れを分析する際、断りが成立する過程において断りの前後の各 段階での会話の流れを明確にすることも重要である。なぜなら、断り行為は、依頼の 後の最初の断りで終了することもあるが、最初の断りがなされたとしても再依頼によ って、さらにやり取り・交渉が続くことがあるからである。さらに、断りが成立した 後においても、継続してやり取りがなされることもある。これは、藤原(2003)は、
Gass & Houck (1999) の言及に従い、断りを相互交渉のプロセスの行為とし、プロセス
の中では断りの成立するまでに話者間のやり取りが行われる可能性があると述べてい る。このように、断りの流れは複数の過程から成り立っていると言える。断り行動に関する従来の研究では、主に断りの様相について様々な観点から分析さ れてきた(Beebe et al. 1990,熊井
1992,生駒・志村 1993,志村 1995,伊藤 2001,
2004a, 2010,任 2004,ハヤティ 2010,Hayati 2017
など)。これらの研究は断り行為における相互行為の過程というよりも、断りに使用される言語表現そのものに焦点を 当てている。つまり、断りのプロセスというよりも、あくまで断片的であり、会話の やり取りの流れの中で、どの段階にどのような様相およびその変化が見られるのかと いう研究はまだ少ない。その結果、言語行動としての全体像がとらえられていない。
そのため、会話のやり取りの中で断りがどの段階で出現し、各段階において断りがど のように変化して成立していくのかという過程まで分析した研究が重要になってくる。
さて、実際の断りでは、断り行動において断りが成立するまでいくつかの段階を経 ており、各段階において特徴的な言語行動が認められる。断りが成立する前の段階に ついて言えば、断りの意図を伝える際、相手のフェイスを脅かすリスクをなるべく緩 和するため、断りの意図を表出する前に特定の言語行動を行うことがある。例えば、
依頼に対して断る際、「駄目」や「できない」、「無理」といった直接的な断りを表出す るまでに付随的な様々な表現が観察できる。「それはいつ?」と依頼内容について情報 要求をしたり、「明日か」と相手のことばを繰り返したり、「どうしようかな」という 困惑を表したりするなど、何らかの言語行動が観察されることがある。したがって、
断り場面は受諾場面に比べ、ある程度長い交渉を要すると言える。このように、断り に至るまでに何らかの言語表現が緩衝材として使用されると、依頼する側から見ても
5
即座に断られるよりも、受ける印象が多少異なると考えられる。このようなクッショ ンは、断りに伴う心理的な負担を軽減すると分析されるが(伊藤
2001,任 2002,吉
田
2015)、こういった緩衝材として、どのような言語表現が出現するのか、また、ど
の段階で出現するのかは、言語や文化、習慣によって異なると考えられる。また、相 手が断る側の断り意図を受け入れて断りが成立した後に、それでやり取りが終わるの ではなく、断りによって生じた心理的な不均衡や不愉感を緩和するために、さらに様々 な言語行動が見られる場合もある。そのため、断りを複数の過程に分け、その一つ一 つの過程における言語行動に着目した研究が断り行動の解明には重要であると考えら れる。
断りのプロセスを複数の段階に分けた研究として代表的なものは、施(2007)と吉 田(2015)である。施(2007)は、日本語と台湾語の会話での依頼に対する断りを談話 レベルで考察した。この研究では、断り成立までの流れと、断りが成立した後の流れ の 2 つの段階に分けて分析している。各段階においてそれぞれ異なる課題が設定され ており、最初の段階は断る側が断りたいという意思を依頼側にどのように伝えるかが 主なポイントであると述べられている。それに対し、断り成立後の段階では人間関係 をどのように修復、維持するのか、またその際に、どのような配慮行動が現れるのか が課題になるという(p. 92)。一方、吉田(2015)は日本語母語話者とマナド語母語話 者4の勧誘に対する断りを比較して分析している。断りに至るまでの段階、そして 1 回 目の断り発話とそれ以降の断り発話を各段階に分けて断りのプロセスを分析している。
しかしながら、断りプロセスに着目した研究はまだ少ない。
以上のことから分かるように、断り行為の研究において、個別の研究においても、
対照研究においても、断る側の一発話ずつのやり取りを分析した研究は多い。また、
そこで注目されたのは断りの表現言語そのものや断りのストラテジーである。しかし ながら、断りが実際の会話の中でどの段階に出現し、断りまでどのように変化するか、
かつ複数の断りがなされた場合にどのように変化するかといった、過程に注目した研 究はまだ少ない。さらに、コミュニケーションにおける断り行動に関するインドネシ ア人スンダ語母語話者と別の言語間の対照研究は筆者の知る限り皆無である。インド
4 インドネシアの地方語の
1
つである。スラウェシ島北スラウェシ州マナド市・その周辺ミナ ハサ県の住民が使っている地方語である(吉田 2015)。この先行研究を取り上げたのは、イン ドネシアにある1
つの地方語であるためである。本研究もスンダ語というインドネシアにある 地方語を対象としているからである。インドネシアにある地方語どうしであれば、類似点など が見られると推測でき、それを分析の枠組みに利用できるからでもある。6
ネシア人の断り表現に関する研究としては、断り表現をポライトネスの観点から分析 したものが少数あるのみで、例えば、Aziz (1996) は職場におけるスンダ語母語話者の 断り行動について研究し、Aziz (2000) ではインドネシア人の断り行動におけるストラ テジーおよびポライトネスについて考察している。これらの先行研究は断り表現に対 象が限られ、スンダ語母語話者、インドネシア母語話者を主な対象としたものであり、
他言語との対照はなされていない。なお、これらの研究の詳しい内容については第 2 章で取り上げる。
1.2 公用語としてのインドネシア語と地方語としてのスンダ語の位置づけ 1.2.1 インドネシア語について
インドネシアは、2015年時点で、総人口が約 2 億 5518 万人の5、複数の民族からな る多民族国家である。それぞれの民族にはそれぞれの地方語6がある。公用語としては インドネシア語があり、それはインドネシア共和国の国語となっている。
インドネシア語の系統は、オーストロネシア語族・西部オーストロネシア語派・西 部インドネシア諸語に含まれる(亀井など
1988)。インドネシア語は、日常使用言語
としては、地方語に比べると、それほど多く使用されない(インドネシア語:19.94%、地方語:79.45%7)。また、総人口におけるインドネシア語を母語とする話者数は約
4
千 2 百万人である(Badan Pusat Statistik/インドネシア統計局 国勢調査 2012)。歴史的に見ると、インドネシア語はムラユ語(Bahasa Melayu) に由来する。ムラユ語 とは、マラッカ海峡周辺(スマトラ島・マレー半島)における、古来からのリンガフラ ンカ(交易用語)である(藤田
1987, 降幡 2011, 吉田 2015)。多民族を統一する
ために、1928
年10
月28
日に「青年の誓い(Sumpah Pemuda)」という若者の運動が起5
Badan Pusat Statistik (2016). Profil Penduduk Indonesia Hasil Supas 2015(インドネシア統計局)
「 国 勢 調 査 」
https://www.bps.go.id/publication/2016/11/30/63daa471092bb2cb7c1fada6/profil- penduduk-indonesia-hasil-supas-2015.html(最終閲覧日 2020
年3
月30
日)。6 言語の呼び方については、「民族語」と「地方語」の
2
種類があるが、日本語の「民族」とい う用語は、それに対応するインドネシア語の“bangsa”
に比べ、指し示す範囲が広くあいまいだ という側面がある。特に言語については、インドネシア語の“bahasa daerah”
に対応させ、「地方 語」を使うのが望ましいと考える。7
Badan Pusat Statistik (2012). (インドネシア統計局)Kewarganegaraan, Suku Bangsa, Agama, dan Bahasa Sehari-hari Penduduk Indonesia: Hasil Sensus Penduduk 2010.
「インドネシア国民の国籍・民族・宗教および日常の使用言語:国勢調査人口調査結果」
https://www.bps.go.id/publication/2012/05/23/55eca38b7fe0830834605b35/kewarganegaraan-suku-
bangsa-agama-dan-bahasa-sehari-hari-penduduk-indonesia.html(最終閲覧日 2020
年3
月4
日)7
こり、そこでインドネシア語が公用語として初めて使用された(藤田
1987, 降幡
2001)。そして、1945
年8
月17
日にインドネシアが独立を宣言し、その翌日、インドネシア語が憲法で正式に公用語に制定された。
インドネシア語は、それを母語としている人もいるが、基本的に小学校入学後、第 2 言語として学習するのが一般的である。
藤田(1987, pp. 50-51) は、Halim & Latief (1973)8 の言及に従い、インドネシア語に は以下の
2
つの機能があると述べている。
1)インドネシア民族語
9としてインドネシア語は次の機能を持っている。
1.民族の誇りの象徴
2.民族の同一性(アイデンティティ)の象徴
3.異なる文化・言語をもつ多様な種族集団を統合して一つのインドネシア民
族とする媒体
4.各地域間,文化間の意志伝達用具
2)国語としてインドネシア語は次の機能をもっている。
1.国家の公用語
2.教育用語
3.国家開発の企画・実行及び行政官庁による国家レベルの意思伝達用具
4.文化・科学・技術の発展,開発の用具
藤田(1987, pp. 50-51)
以上のように、インドネシア語は民族をまとめるための統一言語でもあると同時に、
国語としての機能も有していることが分かる。
1.2.2 スンダ語について
インドネシア人は地方語とインドネシア語のバイリンガルであるのが一般的である。
インドネシアは多民族国家であり、日常的なコミュニケーションでは各民族はそれぞ れの地方語を使用する。言語マッピング調査によると、インドネシアでは 718 の地方
8 直接引用ではなく、藤田(1987)の論文から引用した。
9 これは藤田(1987)の用語である。筆者は「地方語」を用いる。
8
語が存在していると言われている10。各民族では言語だけでなく、文化・習慣、性格な ども異なっているという特徴がある。
Sudaryat (2014)によると、Halim (1980)
11は、地方語は、インドネシア語および他の教科の教授を容易にするための初級レベルでの特定分野における小学校の教授言語であ ると述べている。このような使用状況で、教育機関や仕事場などの公的な場において、
インドネシア人はインドネシア語を使用するが、家族や友人などの私的な場において は地方語を使用することが多い。このことから、インドネシアでは民族の地方語は生 活言語として使用され、インドネシア語は公用語として使用されるという 2 言語併用 状況にある(藤田 1987,吉田 2015)。
一方、スンダ語はインドネシア語と同じく、オーストロネシア語族に属し、インド ネシア語派に分類される言語で、インドネシア共和国の西ジャワ州とバンテン州に主 に分布する(以下の図 1-1 を参照のこと)。スンダ語は、インドネシアのジャワ島の西 側約3分の1で話されている(スンダ語の分布は付録①を参照のこと)。話者数の順位 としては、インドネシア語、ジャワ語、そしてスンダ語の順になっており、話者数は インドネシアの人口の 15%を占めている(Aziz 1996, Badan Pusat Statistik/インドネシア 統計局 国勢調査
2012,
降幡 2019)。スンダ語は西ジャワ州・バンテン州の多くの人に 使用されており、話者の総数は 3 千 2 百万人となっている(Badan Pusat Statistik/イン ドネシア統計局 国勢調査2012)。
スンダ語には、インドネシア語と異なり、日本語のような敬語体系が存在し、相手 や場面に応じて使い分けが必要である(降幡
2016, p. 15)。このような待遇体系を
“Undak Usuk Basa(スピーチレベル)”といい、スンダ語でポライトネスを示す方法の
1 つは、適切なスピーチレベルを使用することだとAziz (1996)は述べている。次の表
1-1 はその違いを示している。10
Pusat Pengembangan Bahasa dan Perbukuan
(インドネシア教育文化省言語育成・書籍局 )〈https://petabahasa.kemdikbud.go.id/〉参照(最終閲覧日
2020
年2
月1
日)。言語教育成振興局が実施した言語マッピングの調査は半年に
1
回更新される。今回のデータは1991
年~2019年にかけて実施されたもので、インドネシアの地方語(方言を除く)は2,560
の 観測地域から718
言語が特定・検証されている。11 直接引用ではなく、Sudaryat (2014
)
から引用した。9
表 1-1 スピーチレベルの比較 日本語 インドネシア語 スンダ語 行く
いらっしゃる 参る
Pergi Pergi Pergi
Indit Angkat Mios
来るいらっしゃる 参る
Datang Datang Datang
Datang Sumping Dongkap
いるいらっしゃる おる
Ada (berada) Ada (berada) Ada (berada)
Aya Linggih Nyondong
食べる召し上がる 頂く 食う
Makan Makan Makan Makan
Dahar Tuang Neda Nyatu
聞くお聞きになる お聞きする
Mendengar Mendengar Mendengar
Ngadenge Ngadangu Nguping
Sutedi (2003, p. 214)より
表 1-1 を見ると、日本語とスンダ語には待遇度の違いによって表現が異なることが 分かる。つまり、インドネシア語と異なり、スンダ語には日本語の待遇表現に似た体 系があるということである。スンダ語で適切なコミュニケーションをするためには、
このような表現を的確に用いることが重要となっている。
以下はスンダ語母語話者が在住している西ジャワ州・バンテンの位置を示している 地図である。
10
(降幡 2002, p. 94)
図 1-1 スンダ語母語話者が在住している西ジャワ州・バンテン州位置
1.3 研究の経緯と研究の意義
筆者は修士論文(ハヤティ
2010)においてインドネシア人日本語学習者による待遇
表現としての断り表現を日本語母語話者と比較した。ハヤティ(2010)はインドネシ ア人日本語学習者における待遇表現としての断り表現を日本語母語話者と比較する研 究である。談話完成テストを用い、学習者の母語によってスンダ語話者とインドネシ11
ア語話者12に分けて分析した。日本語学習者の母語を分けて分析した理由としては、ス ンダ語と日本語は比較的近い待遇表現体系が存在するため、スンダ語話者とインドネ シア語話者の学習者の間では相手を待遇する表現の仕方に違いがあるのではないかと 考え、両者の学習言語としての日本語の待遇表現の使用にも影響であろうと予想した (p. 3)。分析の結果、日本語母語話者とインドネシア人日本語学習者それぞれとの間に は、類似点と相違点があり、また、学習者には日本語母語話者にほとんど見られない 断りのストラテジーも見られた13。それを、学習者の断りの問題点として指摘した。さ らに、【詫び】の意味公式に含まれる表現の内訳ではスンダ語話者の日本語学習者は親 疎関係によって、丁寧さが異なる「ごめん」、「ごめんなさい」、「すみません」という使 い分けに有意差が見られた(p. 76)。さらに、提案場面で、相手が先生の場合の、【詫び】
の使用における親疎関係でも差異が見られた。つまり、スンダ語を母語とする日本語 学習者には日本語母語話者と似た傾向が見られ、これは待遇体系が日本語と似ている ことが影響していることが示唆される。しかしながら、日本語学習者ではないスンダ 語母語話者との比較までは至らなかったことが問題点として残されている。また、修 士論文は断りを会話のやり取りの中のプロセスとして扱わず、従来の断り研究に倣っ て談話完成テストを用いてデータを収集したため、あくまで断り表現の使用意識の調 査を考察するに留まっている。
本研究で日本語母語話者と比較するのにインドネシア人スンダ語母語話者を対象に 選んだ理由は、筆者が勤務するインドネシア教育大学が西ジャワ州バンドン市にあり、
そこには多くのスンダ民族が居住しており、そこでの日本語学習者の母語はスンダ語 が一般的であるからである。2016 年における当大学の日本語教育学科内のデータによ ると、同学科所属の学生数は 404 名であり、そのうち 240 名(59.3%)がバンドン出身 で、145 名(35.8%)がマジャレンカ、タシックマラヤ、クニンガン、チレボンなど14の 出身である。これらの地域にはスンダ民族が多く居住していることから、スンダ語の 母語話者が多いことが想定できる。
筆者は日本語教師として、日本語学習者には日本語母語話者と異なった日本語によ る言語行動が生じることをしばしば経験した。日常会話において何らかの目的で様々
12 インドネシア語話者とは、ここでは、民族と関係なく、子供の頃からスンダ語などの地方語 を習得せず、インドネシア語を母語として習得した日本語学習者を示している。
13 例えば、誘いの場面において、学習者は「行かない」、「行きません」と意志表現形式を使用 したが、日本語母語話者は「行けない」、「行けません」という不可能形で表現した。
14 これらの地域は西部ジャワにあり、スンダ民族が居住している。
12
な言語行動が行われる場合、同じ文化背景を有している母語話者間であれば、それほ ど妨げになるようなことは生じないが、異なる文化背景を持つ話者間の場面では、上 手く伝わらないことが少なくないであろう。会話のやり取りにおいて、日本語母語話 者とスンダ語母語話者とでは、言語行動とその意識がおそらく異なるため、学習者の 日本語が自然な日本語会話にならない可能性がある。そこで、筆者は会話の授業で日 本語母語話者と接触する機会を与えるため、ビジターセッション15で日本人のゲストを 招き、学習者と日本人との交流授業を実施した(Widianti & Hayati 2011)。その時の授 業のような初対面の場では、日本人より学習者の方が積極的に質問をすることが多く、
相手に様々な情報を要求する態度が観察された。初対面では答えにくいプライベート な質問まで出るほど、学習者は相手に対して情報を求めていた。他方、日本語母語話 者から見れば、そのような場面で多く質問されたり、情報要求をされたりすることで 不愉快さを感じることもあり得る。このようなことから、学習者の日本語には日本語 母語話者と異なっており、違和感が感じられるものがある。それはおそらく、会話の やり取りの仕方(スタイル)における母語の違いが影響をしている可能性がある。こ のことについて熊井(1992, p. 72)は、通常の不適切な行動は、文法的な誤りとは異な り、間違いであってもそのことが認識されにくいだけに態度やパーソナリティーの問 題と結びつけられる可能性が高く、人間関係に深刻な摩擦を引き起こす危険性も少な くないと述べている。
日本語学習者が日本語母語話者と異なる言語行動をとることによる問題を明らかに し、それを適切に説明するためには、それぞれの母語話者の言語行動の違いを理解す る必要がある。そこで、断りのやり取りを1つの具体例として取り上げ、両母語話者 それぞれによる断りの言語行動の特徴を明らかにしておくことが、日本語学習者に対 して、より効率的な学習指導の基礎を提供できることになろう。すなわち、スンダ語 の断りを日本語のそれと比較することは、それぞれのコミュニケーション行動の特徴 を明らかにするとともに、インドネシア人スンダ語母語話者に対する日本語教育とい う応用言語学分野への貢献が期待でき、円滑な異文化間コミュニケーションにも寄与 できるであろう。
15 赤木(2013)は、ビジターセッションとは「言語教育の現場に母語話者を招いたり、母語話 者のコミュニティーを訪れたりして、母語話者との実際の場面で目標言語を使用させる活動」
のことだと述べている(pp. 87-88)。
13
1.4 研究の目的以上の経緯を踏まえ、本研究は日本語母語話者とスンダ語母語話者の断り行為を、
言語および非言語行動の相互行為からなる談話として総合的に捉え、それぞれの特徴 を探ることを目的とする。また、日本語とスンダ語の断りのやり取りの中で、依頼を 受けてから断り行動が終わるまでの特徴を調べ、両母語話者間の類似点・相違点を明 らかにする。それによって、日本語母語話者およびスンダ語母語話者は、それぞれの 母語場面の会話の流れの中で、断る際にどういう行動をとるのか、その過程でどのよ うな変化が見られるのか、ということを比較すれば、両母語話者の特徴が明らかにな るであろう。そして、そこで得られた成果を、とりわけスンダ語母語話者の日本語学 習者に自然な日本語を習得させるための基礎的な枠組みを提供することが研究の最終 的な目的である。
1.1 節で述べたように談話完成テストを用いた 1 発話ごとの分析や、話者間に様々 な役割を与えて対話場面を作るロールプレイ調査には問題がある16。その問題点と限界 を克服するアプローチとして、一定の役割関係の中でなるべく自然な対話場面を想定 したロールプレイ場面を設定した。さらに、1 回の断りで終わるのではなく、複数の断 りと依頼のやり取りを可能にし、話者どうしでお互い納得するような会話のやり取り ができるようにロールプレイ場面を設定した。つまり、これまでの談話完成テストで は不十分であった会話の流れにおける断りのやり取りを、このようなロールプレイ法 を用いることによって、両母語話者間における相互行為としての断りのやり取りの違 いを明らかにすれば、より自然な日本語の分析ができ、その成果を日本語学習に役立 てることができるのではないかと考えた。
次の第 2 章では、日本語母語話者とスンダ語母語話者の断りの流れに関して、先行 研究の成果および問題点を概観をした上で研究課題を設定する。
1.5 断りの定義
断りについては研究者によって様々な定義がなされているが、どのような行為をど の程度まで断りに含めるかの基準は先行研究によって異なる。
一般的な定義では例えば
Beebe et al. (1990, p. 57)
は依頼(request)、招待(invitation)、16 ロールプレイ法を用いて、話者間に様々な役割を与えるということである。具体的に言えば、
実際には友達どうしなのに、親疎・上下関係を考慮する場面での会話を想定させ、1 回以上の 役割で、会話をさせるということに不自然な部分が見られる。
14
申出(offer)、提案(suggestion)への否定的な(拒否)返答を指している。また、山岡ら
(2010, p. 64)によると、断りは「相手によって提案された行為を拒否する」であり、
「典型的な
FTA
の 1 つである」と述べている。一方、断りをプロセスとして見る藤原(2003, p. 10)は「断り」を「話者らが動態的 に自らのゴールを達成し、互いの関係を交渉する動的なコミュニケーション・プロセ ス」と見なしている。藤原(2003, p. 13)の説明では、断りをより広く捉え、断り手が ある行為を持ちかけた話者の行為を受諾した場合を「断り」と見なす。その中には断 り手の返答が即座に否定するものだけではなく、受諾していないという意味で、例え ば、延期の提案も、返事を避けるという
1
つの断りの機能を持っているとする。また、藤原(2003)では代案提示のような発話は、受け入れないという効果が伝わる間接発 話行為として捉えられると説明している。さらに、吉田(2015, p. 14)では断りとは「否 定的な断りだけでなく、代案提示や理由、言い訳や謝罪など、勧誘を受諾していない ものすべてを『断り』」と見なし、分析の対象に含める。つまり、否定的な表現を使お うが使うまいが、相手の意向を受け入れないことを相手に伝達する行為であり、そし て、その断りが見られた発話を「断り発話」と定義する(吉田, 2015)。
上記の藤原(2003)と吉田(2015)の説明に基づくと、断りとは様々な形で話者間の 相互交渉が展開される可能性を持った行為であり、断り意図が相手に受諾されるまで の断りのやり取りのプロセスのことであることが分かる。また、断り行為は、このプ ロセスの中で単なる相手の意向を拒否するものではなく、会話のやり取りの流れの中 で、相手からの働きかけを受けて断る側は、直接的か間接的かにかかわらず、相手の 意向を受け入れない意思を示すまで、様々な段階を経ていく。こうしたプロセスに注 目することが重要である。
本研究の目的に照らし合わせ、話者間の相互交渉が展開されるプロセスの中で断り を分析するため、本研究の「断り」の定義では、藤原(2003)と吉田(2015)の定義を 用いる。断り行為をプロセスとして見ていくという点では、これらの定義が本研究に 最も適していると考えるからである。つまり、断りのやり取りの流れ中で、断り発話 を最終的な結果として見るのではなく、その断り発話前後も含めての一連のまとまり といった過程を「断り」と定義する。その中には、明確に断り意図を表現する直接的 な断り、そして直接的に断り意図を表現しないが、何らかの形で相手の意向を受け入 れない間接的な断りおよび付随的な表現も含める。
15
1.6 論文の構成第
2
章以降の本論文の構成は次のとおりである。第
2
章では、先行研究の概観をすることにより、これまでの研究の成果および問題 点を取り上げ、本研究の位置づけを明らかにする。第 3章では、調査方法、分析方法、分析の枠組みについて記述する。
第
4
章では、断り発話に至るまでの段階(pre-refusal stage)の言語行動の特徴を明ら かにする(課題1)。
第
5
章では、1 回目の断りに着目した分析を行う(課題2)。
第
6
章では、2 回目以降の断りに着目した分析①(negotiation stage①)を行う。この 章では特に意味公式使用数・冒頭部の意味公式の分析をする(課題3)。
第
7
章では、2 回目以降の断りに着目した分析②(negotiation stage②)を行う。この 章では特に意味公式の出現パターン・個別意味公式の種類の分析をする(課題4)。
第
8
章では、断り成立後の段階(post-refusal stage)で見られる様相を分析する(課 題5)。
第
9
章では、断りに伴う視線行動の分析をする(課題6)。
第
10
章では、結論と今後の課題を述べる。16
第 2 章 先行研究
2.0 はじめに
本章ではこれまでなされてきた断りに関する研究を概観し、研究成果およびその問 題点をまとめる。
断りに関する研究は異文化間語用論や中間言語語用論などの様々な分野で行われて きた。断りの言語表現に注目して断りを文レベルから分析した研究もあれば、談話レ ベルから分析した研究もある。本章ではまず、一般的な断り研究を全体的に概観する。
とりわけ文レベルおよび談話レベルの先行研究を検討する。次に、インドネシア人を 対象とした断り研究も含め、これらの研究を網羅的にまとめる。その上で、先行研究 の成果および残されている問題点を指摘することによって、本論文の意義を確認する。
2.1 異文化間語用論・中間言語語用論における断り研究
断りを対象とした研究は様々な観点からなされている。まずは第二言語習得におけ る学習者による断り、そして対照研究の断りについて考察する。
第二言語習得研究における断りの研究で最も大きな影響を与えた代表的な研究は
Beebe et al. (1990)である。これは、日本語母語話者、英語母語話者、そして、日本人英
語学習者を対象とし、英語使用の場面で依頼・招待・申し出・提案に対する断りを分 析した。談話完成テストを用いてデータを収集し、意味公式(semantic formula)という枠 組みを用いて分析を行った研究である。志村(1995, p. 46)は、意味公式とは「人がも のを断るときに使う言葉を、その意味内容によって分類したものである」と説明して いる。現在では、断り行動以外の言語行動でも意味公式は利用されている。Beebe et al. (1990)の研究では、語用論的転移を調べるために、日本語母語話者(JJs)、
日本人英語学習者(JEs)およびアメリカ人英語母語話者(AEs)それぞれ 20 名を調査対 象とした。分析の結果、JEs に語用論的転移が見られたという。すなわち、使用される 意味公式の内容が、JEs は AEs に比べ、曖昧だと指摘されている。例えば、誘いを断る 理由や言い訳を述べる際、JEs は“I have a previous engagement(先約がある)”のような 明確ではない理由や言い訳を述べている。似たような曖昧な表現としては、JJs の“I
have important appointment
( 重 要 な 約 束 が あ る )”
と か“since this Sunday will be
17
inconvenience(今週の日曜日は都合が悪いので)”が挙げられる。他方、AEs は自分の
予定や計画について、より具体的に言ったり、行かなければならない場所まで言及す る傾向がある。このようなことから、JEs に見られる、はっきりしていない理由や言い 訳は、日本語の語用論的な特徴と見なされるため、母語からの語用論的転移があった と主張している。Beebe et al. (1990)の意味公式の枠組みは、本研究においても採用する(第 3 章参照)。
以下は、その断りを構成する意味公式の分類である17(pp. 72-73)。
I. Direct(直接的断り)
A. Performative(遂行表現) (“I refuse”)「断る」
B. No performative statement(非遂行表現)
1.“No”「いいえ」
2.Negative willingness/ability(する気なし/不可能)(“I can’t.” “I won’t”. “I don’t think so.”)「できない」、「するつもりがない」、「そう思わない」
II. Indirect(間接的断り)
A. Statement of regret
(謝罪・残念な気持ち)(“I’m sorry…”: “I feel terrible…”)「ごめ んなさい」、「悪いと思っている」B. Wish
(願望)(“I wish I could help you…”)「手伝えればいいんだけど」C. Excuse, reason, explanation
(言い訳、理由・説明) (“My children will be home thatnight.”; “I have a headache.”「私の子供達はその夜、家にいる」、「頭が痛い」
D. Statement of alternative(代案の提示)
1. I can do X instead of Y (Y の代わりに X ができる) (“I’d rather…” “I’d prefer.”)
「今晩私はむしろ~する」、「私は~の方が好む」
2. Why don’t you do X instead of Y(Y の代わりに X をしたらどう?)(“Why don’t you ask someone else?”)「他人の人に聞いてみたらどう?」
E. Set condition for future or past acceptance(将来や過去なら承知したという条件提示)
(“If you had asked me earlier, I would have…”)「もし、私に早く聞いてくれていたら、
~したのに」
F. Promise of future acceptance (将来承知するという約束)(“I’ll do it next time”, “I promise I’ll …or “Next time I’ll…”―using “will” of promise or “promise”)「今度私はす
る」「~すると約束する」、「今度私は~する」(“will”または“promise”を使用する)G. Statement of principle (原則の表明) (“I never do business with friends.”)「私は友人
と絶対取引しない」
H. Statement of philosophy (信念の表明) (“One can’t be too careful.”)「注意しすぎる
ということはない」I. Attempt to dissuade interlocutor(相手を思いとどまらせようとする試み)
1. Threat or statement of negative consequences to the requester
(依頼者に対する脅 しあるいは否定的な結果の表明)(“I won’t be any fun tonight” to refuse invitation)「私が行っても楽しくないだろうと招待を断る」
2. Guilt trip(罪悪感を持たせる) (waitress to customers who want to sit a while: “I can’t make a living off people who just order coffee.”)(ゆっくりと座りたい客に対
してウェイトレスが「コーヒーだけ注文するお客様だけでは、私は生活できま せん」3. Criticize the request/requester (statement of negative opinion)
(依頼や依頼者を批 判する(否定的な感情や意見の表明)): insult/attack(侮辱/攻撃) (“Who do17 日本語訳は藤原(2003, p. 28)と吉田(2015, pp. 18-21)を参考にした。具体的には、藤原(2003)
の訳に補助的に吉田(2015)の訳を加えた。
18
you think you are?”: “That’s terrible idea!”)「あなたは何様のつもり?なんてひど
い考えなんだ!」4. Request for help, empathy and assistance by dropping or holding the request.(依頼を
取りやめる、もしく中断することで、助け、共感、援助を要求する)5. Let interlocutor off the hook (相手の責任を免除する) (“Don’t worry about it.”
“That’s okay.” “You don’t have to do.”)「心配しないで」、「大丈夫」、「しなく
ていい」6. Self-defense (自己防衛) (“I’m trying the best.” “I’m doing all I can do.” “I no do nutting
ママ
wrong.”)
「最善を尽くしている」、「できるだけのことはやっている」、「間違ったことはやっていない」
J. Acceptance that functions as refusal(断りの働きをする承諾)
1. Unspecific or indefinitive reply(曖昧、もしくは不確定な返事)
2. Lack of enthusiasm(熱意の欠如)
K. Avoidance(回避)
1. Nonverbal(非言語的表現)
a. Silence(沈黙)
b. Hesitation(躊躇)
c. Do nothing(何もしない)
d. Physical departure(退席)
2. Verbal(言語的表現)
a. Topic switch(話題転換)
b. Joke(冗談)
c. Repetition of part request (依頼の一部の繰り返し) (“Monday?”)
「月曜日?」d. Postponement(延期) (“I’ll think about it.”)「考えておく」
e. Hedging
(ヘッジ)(“Gee, I don’t know.” “I’m not sure”)
「うん、分からない」、「よく分からない」
Adjunct to refusals(付随表現)
1.Statement of positive opinion/feeling or agreement(肯定的な意見/感情もしくは
同意の表明)(“That’s good idea…”; “I’d love to…”) 「それはいい考えですね」、
「私もやりたいけど」
2. Statement of empathy (共感の表明) (“I realized that you are in difficult situation.”)
「あなたが困難な状況にいることは分かった」
3. Pause filler(間を持たせる表現) (“uhh”; “well” “oh” “uhm”)
「ええと」、「え え」、「おお」、「あのう」4.Gratitude/appreciation(感謝/謝意)
上記のように、Beebe et al. (1990)の意味公式では、{Direct/直接的断り}と{Indirect /間接的断り}の 2 つに分類し、さらに断りへの付随物、すなわち、それ 1 つでは成り 立たず、断りとして働かない{Adjuncts to refusals /付随表現}を別の分類にしている。
この{付随表現}について、本研究では 1 つの意味公式カテゴリーとして扱う。その 理由の詳細は第 3 章の研究方法で説明する。Beebe et al. (1990)が提唱した意味公式の 枠組みは、断りに関する研究に用いられるだけでなく、他の発話行為の研究にも広く 採用されていることから、応用可能性が高いという点で大きな意義を有している。
生駒・志村(1993)は、日本語母語話者(JJ)、アメリカ人日本語学習者(AJ)、英語 母語話者(AE)の断りを対象とし、英語から日本語への語用論的転移を研究した。そ
19
れぞれ話者
10
名にBeebe et al. (1990)の談話完成テストを実施した。分析の結果、意味
公式の発話頻度および内容において語用論的転移が見られた。例えば、友達から勧め られたお菓子を断る際、AJ が用いる「結構です」というような断りは“No, thanks”とい う英語と同じ意味だが、JJ にとってはぶっきらぼうな印象を与える可能性があるとい う。また、AJ は「できません」、「いいえ」という直接的な断りを多く使用した。相手 が目上の場合、JJ は「日曜はちょっと…」のような中途終了文を使用する傾向がある が、AJ は直接的断りを多用した。JJ の場合、直接的な断りは相手の社会的地位が上で あれば失礼になる可能性があると指摘している。藤森(1994)は第 2 言語学習者の社会文化的能力に関わる語用論的転移を検証した。
日本語母語話者(JJ)98 名、中国人日本語学習者(CJ)49 名、中国語語母語話者(CC)
14 名、そして韓国人日本語学習者(KJ)62 名、韓国語母語話者(KK)28 名を対象とし、
談話完成テストを用いてデータを収集した。勧誘の場面で同等の相手および目上の人 が相手になる場合に親疎関係も含めてどのように断るかを分析した結果、CJ と KJ は 親密度の高い相手に語用論的転移が確認された。また、代案の提示は JJ にはあまり見 られなかったが、CJ と KJ には多く使用されたことから、母語からの転移であると指 摘している。
Liao & Bresnahan (1996)はアメリカ人英語母語話者と台湾人中国語母語話者の断りス
トラテジーを語用論的に分析した。519 名のアメリカ人と 570 名の台湾人を対象に、6 場面の依頼をアンケート調査18を用いてデータ収集した。分析の結果、両母語話者は謝 罪を同様の頻度で使用したが、アメリカ人は友人に、台湾人は家族に対して断るケー スが少なかった。さらに、両母語話者は異なる断りのストラテジーを使用した。台湾 人は言い訳を用いることがより少なく、この点については“dian-dao-wei-zhi marginallytouching the point(わずかにポイントに触れる)” というポライトネスの仮説を提案し
た(p. 703)。他方、アメリカ人は断りの理由の使用に異なる傾向があり、自分が正し いと思った場合、遠慮なく理由を表明するという特徴が見られた。Humeid & Altai (2013)
はイラク人英語学習者の断りストラテジーを分析した。この研究は談話完成テストを用いて、40 名の大学 3 年生を対象とした。3 年生を対象とし
18 回答者は