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真宗研究23号全

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(1)

員宗連合學會研究紀要

一ー第二十三輯一一

昭 和 54 3

虞 索 遥 合 學 貪

(2)
(3)

宗 研 究

真 宗

連 合 学 会

(4)

第二

十︱

︱︱

親鸞教学における云諸仏」の地位•………••田

一闇提往生の本誓:………•吉

易 行 品 の 無 量 寿 経 と そ の 展 開 ⁝

⁝ ⁝

⁝ ⁝

⁝ ⁝

⁝ ⁝

⁝ ⁝

⁝ ⁝ 榎

清沢満之の精神主義••………•……神

—進化論的人間観への批判I

﹁ 正

伯 念

仏 傷

﹂ と

﹁ 念

仏 正

信 傷

﹂ ⁝

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⁝ ⁝

名号論序説•………•………加 八

第 一 部 会

研 究

目 次

茂 仰

谷 慧

昭︵

四九

順︵尭︶

戸和

麿(

‑︱

︱六

原 徹

水 忠

男(

‑︱

‑)

了 ( ︱ ︱

︱ ︱ ︱ )

代 俊 孝

(5)

学 会 彙 報

八 第 二 部 会

> 罪提得忍の医化学的一考察………•……:野

ー肢体障害者の母としてのー│

帰 命

と 無

我 の

定 義

に つ

い て

⁝ ⁝

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⁝ ⁝

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⁝ ⁝

⁝ ⁝

⁝ ⁝

若 坂東本﹁教行信証﹂成立時期再考⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝重 再説西方指南抄の編者について⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝霊

|—奥書の解明を手がかりとして—~

親鸞聖人の太子信仰の形成と四天王寺⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝武 八 学 術 講 演

> 聖徳太子略絵伝について………•…………••宮 解学と行学⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝稲

. . .

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. . .  

親鸞教と精神医学の接点⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝岸

本 鎌

葉 秀

崎 圃

田 賢

山 勝

見 林

(1

︵受

七七

︶ 行︵九 0 )

(

00

)

寿 (

‑ ︱

︱ ‑

遵︵

三四

賢 ( ‑ ︱

︱ ︱ 七 ︶

村 正 道

︵ 六 四

(6)
(7)

正面から諸仏を問題とし︑ 貫く不動の伝統である︒

しからば︑それはいかに領解せら

一方︑このような伝統を有するにもかかわらず︑元久元年(︱二

0

︶の

n

f ‑

止未孟翌一句文一奉中中破︱︱真言止観

1謗中余仏菩薩上事﹂

﹁ 叩

い 先

と︑諸仏を誹謗すべきでない旨を厳しく誡めている︒それ故︑師教に随順する親鷺は︑

② 

﹁ゆ

A 4余の善根をそしり余の仏聖をいやし︐うずることなかれとなり﹂

同時に

﹃七 箇条 起請

文﹄

こま

i

︵﹃

西方

指南

抄﹄

中末

いくたびも廃立を先としつつ︑

れを伝承する︒

︵﹃

唯信

抄文

意﹄

︶と

﹃教行信証﹄の﹁行の巻﹂に﹁諸仏称名之願﹂を挙げ︑

ついで﹁信の巻﹂現生十種の益のうち︑第四と第五に︑諸仏護念︑

る︒このことは︑諸仏について︑何らかの意義と地位が見出されたことを物語る︒

親鸞教学における﹁諸仏﹂の地位

ところで︑周知のごとく親鴛は︑第十七願の領解について︑ ひとえに︑弥陀一仏を念じて﹁ふたつならふことをきら﹂い

は じ め に

その 策一 に︑

諸仏称讃の両益を述べ ﹁よのことならはすとなり﹂とは︑

親鷺教学における﹁諸仏﹂の地位

t

代 と

俊 t

専修念仏教団を

孝 ;

(8)

義を明かすのに本経を引く︒いずれも︑弥陀と諸仏の本質が問題となる所で︑

る ︒

﹁真仏土の巻﹂においては︑﹁真仏﹂の意

⑩ ﹁諸仏中之王也光明中之極尊也﹂

﹁ み

にもかかわらず﹁行

﹃選 択集

﹄を はじ め︑

法然の著述にはほとんどこの名が用い

﹁ 信

文明本によれば﹁弥陀の大悲ふかければ

仏智の不思議をあらはして

前者

は︑

いわゆる﹁諸仏弥陀﹂﹁諸仏如来﹂といわれる立場である︒例えば︑

﹃浄 土和 讃﹄

︵﹁

大経

意﹂ 第十 首︶ には

女人成仏ちかひたり﹂

親鸞 教学 にお ける

﹁諸 仏﹂ の地 位 れたであろうか︒まず︑親鸞教学において︑諸仏とは何たるかその概念を確認するところから考えて見たい︒

親鸞においては︑直接には善導︑法然をうけて﹁釈迦の発遣︑弥陀の招喚﹂と説示され︑釈迦・弥陀二尊を挙げる︒

と同時に︑第十七願成就の諸仏に重要な意義を認めている︒しかも︑その諸仏の証誠の中に大行の根源を見るのである︒

ところで︑親鸞の場合︑諸仏は︑ある時は弥陀に摂まるものとして見られ︑ある時は釈迦と同じく見られる︒

たをしよふちとまふす 変成男子の願をたて

④ 

とある︒これに対し︑専修寺国宝本によれば﹁諸仏の大悲ふかければ:⁝.﹂とあり︑しかも︑わざわざ﹁諸仏﹂に﹁み

⑤ くわとにんたうのこ4

ろなり﹂と左訓が施してある︒すなわち︑大経異訳の﹃仏説諸仏阿弥

陀三那︱︱一仏薩棲仏檀過度人道経﹄のこころから︑諸仏即阿弥陀と見られたのである︒

また﹃教行信証﹄では︑本経は四度引用され︑そのうち︱︱︱ヶ所にこの経名が出されている︒

⑥ の巻﹂では﹃大阿弥陀経﹄という名が用いられている︒

られていることからすれば︑少なくとも吉水門下ではこの名が一般的であったように思われる︒

の巻﹂﹁真仏土の巻﹂では︑

具名が用いられている︒ さらにその中で︑

ことさら︑この長い﹃仏説諸仏阿弥陀=︱‑那三仏薩棲仏檀過度人道経﹄という

⑨ 

しかも﹁行の巻﹂では上欄外に﹁大阿弥陀経云︑廿四願経卜云﹂と註さえ付して説明してい

いず

れも

﹁行の巻﹂においては︑第十七願を異訳で確認するのに本経を引ぎ︑

(9)

たをしよふちとまふす﹂という本経のこころによって︑それを確認しているのである︒

と︑示されるごとく︑諸仏とは︑

⑫ 

﹁ゐちさいしよふちの仏になりたまふことはこのあみたのちゑにてなりたまふなり﹂

と︑示される︒諸仏の無上の智慧は︑阿弥陀つまり︑如来の智慧である︒従って︑無量無数の諸仏は︑無量無数の弥 陀の智慧である︒故に諸仏は阿弥陀であり︑同時に︱一の諸仏は︑弥陀の分身である︒弥陀はいわゆる諸仏の本師本 仏で ある

いずれも阿弥陀の徳︑阿弥

⑬ 

陀の智慧である︒すなわち︑諸仏は弥陀に統合せられ︑弥陀は﹁一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり﹂と

せられるのである︒

次に︑後者の立場は︑諸仏の代表が釈迦で諸仏は釈迦に即するものと見られる場合である︒

その例として︑

﹁釈迦諸仏是真実慈悲父母﹂︵﹃人出二門偽頌﹄︶

﹁弟 子者 釈迦 諸仏 之弟 子﹂

︵﹁ 信の 巻﹂

⑯ 

﹁如来所以典出於世は如来とまふすは諸仏とまふす也⁝⁝︵略︶⁝⁝釈迦如来のみことをふかく信受すへしと也﹂

︵﹃

尊号

真像

銘文

﹄広

本末

また﹃大経﹄の出世本懐の﹁如来﹂を釈すにあたり

等が挙げられる︒

﹃阿弥陀経﹄によれば︑六方に恒河沙の諸仏がまします︒

﹃讃阿弥陀仏偶和讃﹄第九首の﹁智慧光仏﹂の左訓

﹁無碍光仏のひかりには

無数の阿弥陀ましまして

弥陀からの智慧の来生である︒

親鸞 教学 にお ける

﹁諸 仏﹂ の地 位

しかし︑その徳は︑ ⑪ 化仏おの

A A

無数の光明無量無辺なり﹂

︵﹃

現世

利益

讃﹄

(10)

ものと言うことができる︒ いると見られるのであって︑

それ 故に

ただ

ちに

と︑示されるごとく︑

﹃末

灯紗

まことの信心を獲る人がそのまま諸仏 ⑱ 

﹁真実侶心をえたる人をは如来とひとしとおほせられて候也﹂

⑲ 

と︑示され︑御消息の中では﹃浄信房の上書﹄も含めて再三に渡り︑言及されるところである︒親鸞の場合︑

⑳ 

と﹁等﹂では︑厳密にはその意が異なるものとせられ︑

であるとは言えないものがある︒しかし︑これらによれば︑弥陀をほめとなえる諸仏の中には︑獲信の人をも含めて

﹁諸仏とひとし﹂とは︑獲信の人を五諸仏に進ずるク五諸仏に含める

の意味と解される

さらに︑﹃略論浄土安楽義﹄には︑

9

9 9

﹁一 者若 使下 無︱ 第︱ 二仏

︳乃 至無 中阿 僧祇 恒沙 諸仏 上者

︑仏 便不 レ能 レ度

︱︱ 一切 衆生

f

以 ︱

1)実能度

1︱一切衆︱故則有

1

一五 にも

まことの信心の人は︑諸仏と等しいという領解である︒

親鸞 教学 にお ける

﹁諸 仏﹂ の地 位 と︑示される︒すなわち︑これは釈迦を如来と表現し︑釈迦が諸仏であり︑

﹃阿弥陀経﹄における六方証誠の経説は︑諸仏の讃嘆がその主である︒

立場にあることになる︒

紗﹄ 七に

いわゆる﹁釈迦諸仏﹂といわれる立場である︒

そのほか

﹁ 同 ﹂

釈迦が諸仏を代表するという立場である︒

また﹃大経﹄の﹁仏々相念﹂も︑釈迦と諸仏

相互におけるものである︒諸仏の称揚讃嘆によって︑衆生が信心を獲るとするならば︑

諸仏は︑衆生の教化者という

これらの領解に対し︑親鸞は︑もう一っ特筆すべき︑諸仏の理解をしている︒すなわち︑﹃真蹟書簡﹄︑及び﹃末灯

﹁こ

のこ

Aろのさたまるを︑十方諸仏のよろこひて︑諸仏の御こAろにひとしとほめたまふなり︒

⑰ まことの信心の人をは︑諸仏とひとしと申なり﹂

同じく﹃真蹟書簡﹄及び

この

ゆへ に︑

(11)

さて︑親鸞は かなる意義を持つのであろうか︒ る存在である︒それこそ︑われわれにとって﹁よきひと﹂であり︑

しからば︑その﹁諸仏称揚之願﹂とはい されば︑諸仏は︑十方衆生の宗教的要求に応じて︑十方に具現せられ︑それは︑十方衆生をして︑弥陀を念ぜしめ

ある

とある︒この文は︑

とは

ただちに上述のごとく獲信者すなわち仏を証するものとは言えないにしても︑

ふところ﹂という点において﹁獲信の衆生即仏﹂を認めるものである︒

そ︑諸仏にほかならず︑しかも︑その十方無贔の諸仏の存在意義は︑ 故に﹁行の巻﹂に引用せられる七祖と︑中国

十師が各々︑諸仏の具体相として領受せられるのである︒前仏によって︑先だって度せられたところの無量の衆生こ

十方衆生を度したまふことにあるとされるので

﹃教行信証﹄後序の﹃安楽集﹄による

﹁欲下下使下前生者尊

1一後﹁後生者訪前一連続無窮願不中休止上﹂

かくして︑うなずかれるのである︒

注意せられ︑そこに﹁称揚﹂と﹁称名﹂の意を認めることとなった︒

親鸞教学における﹁諸仏﹂の地位

﹁善 知識

﹂と して

かくして︑我々は今︑親鸞教学の上に︑諸仏に対する三つの概念を見た︒

第十七願に﹁設我得仏十方世界無量諸仏不悉盗睦称我名者不取正覚﹂とある﹁称我名者﹂の一句に

それ

は︑

我々を導く存在である︒

﹃唯 信抄 文意

﹄に

﹁おほよそ十方世界にあまねくひろまることは法蔵菩薩の四十八大願の中に第十七の願に十方無量の諸仏にわか

⑬ なをほめられむとなえられむとちかひたまへる一乗大智海の誓願成就したまへるによりなり﹂

9 9

十方無量諸仏f

諸 仏 即 是 前 仏 所 レ 度 衆 生

﹁前仏の度したま

(12)

おい

て︑

つまり︑親鸞においては︑諸仏は第十八願に対して︑﹁十方世界普流行﹂という普遍的︑実践的世界を開 まったくその領域を同じくしている︒

と釈されるが如くであって︑それはまた﹁諸仏称名﹂の願名で示されるが如くである︒

﹃大経﹄の﹁見敬得大敬則我善親友﹂の文にもこれを確かめている︵﹃末灯紗﹄四︶︒

つまり︑諸仏の能讃︑称揚はもとより︑所讃の称名までも誓われていると領解されたのである︒

の名号は︑念仏往生の願意をその内容とするところであって︑第十八願が︑第十七願諸仏にちかわれているところの 名号・願心の意となる︒したがって︑第十八願と第十七願は﹁乃至十念﹂の称名の本願︑

﹃唯 信抄 文意

﹄に

⑭ ﹁また称名の本願選択の正因この悲願にあらわれたり﹂

と示されるごとく︑第十八願の意が︑第十七願の上に先だって顕されていると領解せられたのである︒

の上で問うならば︑まさに

﹁然 斯行 者出

=秘 空大 悲願 こ という一文である︒同時に︑この文は称名が廻向の行であるゆえんをあかし︑

親鸞が﹁選択称名之願﹂という願名を付された意も︑ここに見られるのである︒

ほ︑十方衆生に誓われたものであるが︑その十方衆生の称名は︑

いて初めて可能となるのである︒第十七願の諸仏称名において︑

生における称名は︑第十七願廻向成就の行であり︑その大行を顕す為に﹁行の巻﹂には︑

ので

ある

くものとして︑その意義を領解せられたのである︒

一方︑このような﹁行﹂の問題のみならず﹁証﹂の問題についても︑諸仏の意義が認められている︒

﹃愚 禿紗

﹄に

吝嵯す﹂という意にも解して︑

親鸞 教学 にお ける

﹁諸 仏﹂ の地 位

すなわち願心という一点に

﹁乃 至十 念﹂ は︑

⑳ ﹁十方世界普流行﹂をその心とする諸仏の称名にお

はじめて第十八願が具現せられるのである︒故に衆

この願を以って標挙とする 第十八願において 大行そのものであることを示している︒ ほめられるところ さらに﹁我が名を称する者を

, 

﹃教

行信

証﹂

(13)

おいては︑第十七願成就の諸仏証誠について

﹁ ハ 一 功 徳 証 成 畔 竺

79

証 誠 二 者

二 c

往 生 証 成

音勢至自来迎﹂

︵﹃ 五会 法事 讃﹄

︶ま でも 第十 七願 意と みて

果論を展開している︒すなわち﹁若不生者﹂の意を第十七願意にみて︑

る︒往生もまた︑諸仏の証誠を得て完きを得るのである︒

念我総迎来﹂

︵﹃ 五会 法事 讃﹄

︶を 次の よう に釈 す︒

﹁聞名念我といふは聞はきくといふ信心をあらわす御のりなり

すな わち

﹁信﹂をあらわすところの﹁聞﹂を第十七願﹁諸仏称名の悲願﹂の上に領解しているのである︒

ならず︑信心︑名号︑憶念までも第十七願上に領解しているのである︒本来︑親鸞においては︑第十八願は第十七願

の諸仏の名号讃嘆を﹁聞き﹂信ずる衆生の立場を示すものとする︒

親鸞教学における﹁諸仏﹂の地位 ⑳ ﹁如来のちかひの名号をとなえむことをす4

めた まふ

⑲ 

﹁如 来の ちか ひの 名号 なり

﹂︵

﹃唯 信抄 文意

﹄︶

それには

り念我とまふすはちかひのみなを憶念せよとなり

名は御なとまふすなり

⑱ 諸仏称名の悲願にあらわせり﹂ 続いて﹁信﹂の問題について考えてみたい︒

﹃唯 信抄 文意

﹄で は︑

さらに﹃唯信抄文意﹄では︑﹃唯信抄﹄にしたがって︑ と述べ︑往生を諸仏が証誠するというのである︒

しかのみ 如来のちかひの名号な ﹃唯信抄﹄で第十八願意とみられている﹁聞名 第十八願の内容を顕すとも言うべき﹁但有称名皆得往その釈文中で﹁自来迎﹂より︑現生正定緊に至る独自の証

往生の証誠を積極的に述べようとするのであ

それは︑念仏往生の願意を聞信することであり︑

︵﹃

尊号

真像

銘文

﹄広

本・

略本

共︶

(14)

と︑現生十種の益が説示せられる︒すなわち︑その第四と第五に諸仏護念︑

諸仏称讃の両益が挙げられている︒

り︑諸仏が念仏の行者を護念︑称讃せられるということであるが︑ここにも諸仏の重要な意義があると思われる︒

うまでもなく︑これが現生の利益である以上︑それが具体的に現実生活に顕れるか︑否かということは︑その意義の

つま

﹁ 獲

1

得金剛真心︳者横超字耳趣八難道1

1必獲=現生十種益一何者為︱︱十二者冥衆護持益二者至徳具足益三者転悪成 善益四者諸仏護念益五者諸仏称讃益六者心光常護益七者心多歓喜益八者知恩報徳益九者常行大悲益十者入

1

正定

⑳ 

緊一

益也

とこ ろで

﹁信

の巻

には

ある︒また︑諸仏称名ということにおいて︑他力廻向が成就せられ︑

確認せられたのである︒

これによって我々の真実の救いが現生において 仏は溶嵯称揚ということによって︑念仏往生そのものの︑

全法界に承認せられたところの真実性を立証せられたので

かくして

﹁ 行 ﹂

﹁ 信 ﹂

﹁証﹂各々において︑第十七願成就の諸仏の立場は決定的なものとなった︒すなわち︑諸

は︑すでに願心がこめられており

故に︑今︑ 親鸞教学における﹁諸仏﹂の地位

と言われるごとく︑選択本願の名号を称すれば︑

必ず救うという如来の願心がこもっているのである︒衆生は︑この 願心を聞くところに信心を獲る︒故に第十七願︑第十八願は︑

﹁行﹂﹁信﹂に配当されつつも︑第十七願の﹁称我名﹂

は︑第十八願の﹁乃至十念﹂と同視せられ︑第十七願は行成就の願と見られるのである︒

いわゆる信具の行が第十七願に誓われたと考えなければならない︒

﹁聞名念我﹂がすでに﹁諸仏称名の悲願にあらわせり﹂といわれるのも︑頷けるのである︒

したがって︑その﹁行﹂に

(15)

ものとして︑諸仏の慟きを感得するのである︒

親鸞教学における﹁諸仏﹂の地位 十方にこだまする称名念仏は︑諸仏の声であり

和讃

﹄︶

と示されるごとく︑念仏をとなえるとき︑我々は

﹁よろこひまも﹂られるということにおいて︑

それは仏の大悲心が我々にまで来たる唯一の道路である︒諸仏の

﹁南無阿弥陀仏をとなふれは十方無量の諸仏は 真実信心は退転することなく︑金剛の信となるのである︒

思うに︑真仏弟子釈下における触光柔軟の願文以下の経釈の引用は︑

⑲ よろこひまもりたまふなり﹂

この十種の益を具体的に説明したものである︒

その各々は︑信における護持と具徳を明かしながら︑歓喜報謝の実践を展開しているものである︒

ては︑現生十種の益を獲るところの﹁獲得金剛真心者﹂と﹁真仏弟子﹂は互いに重なり合うものとして領解せられて

いる

︒ しかも︑先に述べたところの︑獲信の人が諸仏に等しいという意からすれば︑

されば︑諸仏の護念︑称讃というのは︑現実生活において︑信心の行者が諸仏如来の徳を持ち︑

︵﹃

現世

利益

諸仏如来と等しい

位に住すること︑そのことを目醒めさせるという極めて︑積極的な意義を有することとなるのである︒信心の行者に おいては︑如来の徳を廻施されることによって大涅槃を超証し︑諸仏と等しい位に住したという厳しい自覚が促され たことになるのである︒無数の化仏︑無数の諸仏に︑

諸仏に等しい位に住したという自覚を促されることにおいて︑

百重千重囲撓して

れたいっそう積極的な実践性がうかがわれるのである︒ 本質を問う時︑たいへん重要な問題となる︒

自身に実惑される

Jの十種の益には︑現実面に顕

されば親鸞におい

(16)

※ 註

一仏 即ち 一切 仏︑

親鸞 教学 にお ける

﹁諸 仏﹂ の地 位

流布によって阿弥陀の徳が知らされるのである︒まさに︑還相の世界における諸仏の相である︒衆生を教化し︑信心

行信は︑そこに諸仏に証誠護念せられる利益を︑

専修念仏とは︑余仏余菩薩を捨てるものではない︒弥陀に専ら帰するとは︑

の誓願の顕彰となるのである︒ て諸仏に護念せられるのである︒釈迦出世の本懐は︑そのまま諸仏出世の本懐となり︑諸仏の化溝は︑そのまま弥陀

﹁汝一心正念直来﹂︵﹁散善義﹂︶の﹁應﹂は︑親鸞によるならば︑﹁諸仏出世之直説﹂

︵﹁

愚禿

紗﹂

︶で

ある

'  

﹁‑

︱諸

仏︑

こととなったのである︒ 解するのである︒他力の信はそれを倍ずる諸仏があってこそ︑はじめて信ぜられるのである︒ よろこび感得するのであり︑

また﹃大経﹄上の

9 9

9キクマフ

9 9

9 9

又放

︱︱

百千

光明

f普為1

十方

f説︱︱微炒法f

如レ

是諸

仏︑

そこに他力廻向の世界を実感として領

諸仏に帰することである︒弥陀を念じ

9 9 9

各各安︱︱立無量衆生於仏正道﹃﹂

という華光出仏もまた︑第十七諸仏称揚之願に基くところの護念証誠である︒親鶯教学においては︑弥陀と諸仏は︑

一切仏即ち一仏という完全な融合が両者に見られるのである︒

その意義を領受するのである︒同時に南都北嶺の念仏弾圧によってもたらされた

⑮ 

﹁妥 専修 之身 不レ 礼

1

余仏

f

口不

レ称

一一

余号

f其余仏余号者即釈迦等諸仏也﹂

親鶯 に関 する 引文 は﹃ 親鸞 聖人 真蹟 集成

﹄︵ 以下

﹃真 蹟 集成

﹄と 略す

︶に よっ た︒ ただ し︑ それ に収 録さ れな い

ここに本質面における諸仏の地位と

︵﹃

興福

寺奏

状﹂

という論難に︑教義的に答えるとともに︑他力廻向の念仏として︑念仏が真実普遍の大行であるとの事実を証明する

もの

は﹃

定本

親鸞

聖人

全集

﹄︵

﹃親

鸞全

﹄︶

︑﹃

真宗

聖教

全 書﹄

︵﹃ 聖全

﹄︶ 等に よっ た︒ 尚︑ かた かな はひ らが なに

の行人を囲統することは﹁よきひと﹂を仰ぎ︑親しき友を持ち︑阿弥陀の本願を互いに証誠する世界である︒往相の

1 0

 

(17)

⑱  ⑰  ⑯ ⑮  ⑭  ⑬  ⑫  ⑪  ⑩  ⑨  ⑧  ⑦  ⑥  ⑤  ④  ③  ②  ① 

﹃真蹟集成﹄五ー三九一

『同』八—――――――ニ

﹃親

鸞全

﹄和

讃篇

ー︳

︱‑

﹃真蹟集成﹄三ー八〇

﹃真蹟集成﹄一ーニ三九

﹃ 同

﹄ 一 ー ニ 九

﹃ 同

﹄ ニ ー 四

0

﹃同﹄一ーニ九︑この外﹃愚禿紗﹄でも﹃諸仏阿 弥陀三那三仏薩棲仏檀過度人道経﹄の経名が用いられて

いる

﹃ ︒

﹄ ニ ー 四

0

﹃ 同

﹄ 三 ー 三 九

『同』―――—二七

﹃唯信抄文意﹄︑﹃真蹟集成﹄八ーニ六二

﹃親鸞全﹄漠文篇I

︱二

﹃真蹟集成﹄一ーニ四二

﹃同﹄四ーニ七三︑このほか﹃尊号真像銘文﹄略

本︑﹃一念多念文意﹄にも同様の記述がある︒

﹁浄信宛御返事﹂・﹃真蹟集成﹄四ー四二

0

︑﹃

末灯

紗﹄

七・﹃親鸞全﹄書簡篇ーニ四︑﹃善性本﹄・﹃親鸞全﹄書簡

篇ー七八﹁

浄信

房御

返事

﹂・

﹃真

蹟集

成﹄

四ー

四二

六︑

親鸞教学における﹁諸仏﹂の地位

﹃末

灯紗

RR⑭  R  ⑫ R   R 

⑳  ⑳  ⑰  ⑳  ⑳  ⑳  ⑳  ⑫  ⑳  ⑳ 

⑲ 

﹃御

消息

集﹄

一五・﹃親鸞全﹄書簡篇ー九八 このほか『末灯紗』三•四・一四・一八、

10

でも

述べ

る︒

稲葉秀賢氏﹁便同弥勒と与如来等に就いて﹂

報﹄一七ーニ︶参照︒

﹃聖全﹄一ー三七二

﹃真蹟集成﹄ニー六七九

﹃ 同

﹄ 八 ー ニ 七 八

﹃ 同

﹄ 八 ー ニ 八

﹃ 同

﹄ 一 ー ニ 五

﹃五会法事讃﹄︑親鸞は﹃唯信抄文意﹄でこの文を釈す︒

すなわち︑﹃唯信抄﹄をうけて︑この文に第十七願意を

みる

﹃親鸞全﹄漠文篇ー七 ︒

﹃真蹟集成﹄八ーニ八五

﹃ 同

﹄ 八 ー ニ 八 五 広本﹃同﹄四ー一三七︑略本﹃同﹄四ー一七

﹃ 同

﹄ 一 ー ニ 三 四

﹃ 同

﹄ 一

1

ーニ

︱1 0

『親鸞全』加点篇臼—一八一――

﹃ 同

﹄ 漠 文 篇 ー 四 七

﹃聖

全﹄

一ー

ニ︱

︱︱

﹃大日本仏教全書﹄︱二四

I ‑

0

︵﹃

大谷

(18)

除くのは︑逆謗の罪であって︑逆謗の人ではない︒

その果が顕れるのは目的の世界即ち極楽に於て 一蘭提の業を取り除いて︑一蘭提その人を往生させるというの 即ち此の聖語は︑三信一念によって一蘭提がそ 第十八願に於ける﹁唯除五逆誹謗正法﹂に就ては振古の諸哲異解紛紐たるものがある︒然し︑せし康僧鎧が翻訳なされた此の八個の文字その偉を︑如来正覚の理念から最も純粋に素直に拝読するならば︑それは︑五逆と誹謗正法とを︑唯︑専ら︑しっかりと︑実除することを顕す︒

の罪体を断除せられて往生せしめられることを決定せるところの一闇提往生の本誓である︒

が唯除の誓語の意味である︒従来︑先哲が実除を怖れたのは︑人が除かれると解釈せられるからである︒然し︑此の

聖語に於ける唯除の目的・対象は罪体である︒若しも罪人を目的・対象として漠訳するのであれば︑僧鎧は﹁唯助五

0 0   逆誹謗正法者﹂或は﹁即時摂取五逆誹謗正法者﹂等と表現なされたことであろう︒

逆謗を実除するとは︑徳として実除するのである︒実除とは横超断である︒横超断は切り花である︒根を断ち切る

のである︒根を切られた活け花は︑花は咲けども実はならぬ︒横超断は六字の功徳の断である︒功徳の断である故に

切った儘が切っていない︒断而不断である︒完全に断じてはいるが︑

蘭 提 往 生 の 本 誓

一閾 提往 生の 本誓

士 ょロし

水 さ

1一切誌貫綜継練

J中たC.,ヽだ

男 ぉ

(19)

一闇提の相は一生涯付き纏わせてある︒娑婆の命のあらん限りは一圃提の儘で置いておかれるのである︒然し︑極楽 へは煩悩具足で往生しない︒逆諦の罪を持った儘で罪人が往生するのであれば︑極楽は悪人共の阿鼻大地獄となるで 此の︑大経に於けるあらゆる経典に超越せる仏の本願の深理に就て︑

たずらをする者が入らなければ︑此の花を折るべからずという禁止の札を立てる必要はないのだが︑悪人が公園の中 へ入る故に斯る禁止の立札が置かれているように︑第十八願にも︑悪人が極楽へ往く故に︑極楽へ往く者は悪事をす

たつのつみのおもきことをしめして︑

くの では なく

それが唯除の誓文である︑と見ようとするのである︒また銘文三十一丁

五逆のつみひとをきらひ︑謗法のおもきとがをしらせんとなり︒このふ ただのぞく︒方便抑止︒言うことを聞かぬからお菓子をやらぬと一応は言うが︑後から御八つに与え

るのだと論定するのである︒然し︑第十八願にそのような軽い方便の言葉が含まれているであろうか︒罪の重きこと

なぷ

して

︑ とは注意書きである︒唯除の聖語が然様な注意嘉ぎや公園の立札の如き程度のものであろうか︒それでは︑

王本願は余りにも軽きに失するのである︒般舟讃四丁に︑

‑1

9

門 門 不 同 八 万 四 為 レ 滅

︱ 無 明 果 業 因

1

利 剣 即 是 弥 陀 号 一 声 称 念 罪 皆 除 唯除とは専除であり︑滅除であり︑断除であり︑頓絶であり︑横超断である︒横超断には摂取も抑止もかからない のである︒それ故に︑唯除の誓語に就て︑抑止と摂取︑仮除︑暫除︑二罪の共単︑已造と未造︑

一閾 提往 の生 本誓

に﹁ 唯除 は︑

弥陀につくか釈迦に

十方一切の衆生みなもれず往生すへしとしらせんとなり︒﹂それは︑

本当に除 たたのぞくということばなり︒ べからずという禁止の札が立てられている︒ あ

ろう

である︒廻心しても即身に成仏しない︒往生成仏である︒

一般では平俗な喩を引いて︑もしも公園にい 一間提の罪体は横超断にかかるけれども︑不断煩悩の故に

(20)

一蘭 提往 生の 木誓 つくか︑等の論議は凡て付会の議論と見てもよいのである︒信巻末四

T

に ︑

言︱

︱横 超断 四流 一者 乃至 言レ 断者 発

1

起往相一心一故無1

1一生而当レ受生玉竺趣而更応レ到趣一已六趣四生因亡果滅

1

1[故即頓断姦竺一有生死丑ぢど断也

と︑親鸞聖人は深遠な解釈を述べられている︒

変化も見出されないけれども︑

聞信一念に仏の願力を以て五悪趣に堕する罪業を横さまに超断する︒

罪業の体が超断せられている故に︑逆謗の業相があってもそれは生死の因種にならない︒

地獄の苦はもはや実体無き仮象に堕しているのである︒

輪廻の果は自づから滅する︒因果が已に亡ぶ故に身も名も頓に絶えることを経には無人と名付けているのである︒我 々は未来が我々をどのように導きつつあるかを見抜き︑未来の摂取の必然性を自覚せねはならない︒未来へ往く者に 過去は無い︒過去が完全に清算せられるのを横超断と名付けるのである︒

横超とは︑時間系列の竪的性格を破壊し︑理念の領域に解脱せしめることである︒

一念という︒それを︑

I

夫按

1二具実信楽1

楽 有 二 念 二 念 者 斯 顕

1一信楽開発時剋之極促1

と︑絶対体験の極限を顕示せられている︒斯様な瞬間的極限には如何なる人間性も人倫性も介入の余地は全く存しな いのである︒本典の如何なる場所に於ても倫理的法則が措定せられていないのは︑

ものであるからである︒宗教的真理の倫理化を根源的に克服せる保証が教行信証の全体系の本質的な意味である︒

9

楽邦文類云宗釈禅師云裳丹一粒変レ鉄成レ金真理一言転ー一悪業面竺普業︱

阿閣世が如何に極悪を尽そうとも︑如来正覚の理念に包摂せられ︑

聖なる解脱の領域にまで意志が昇華せられた時には︑ 現実の生活の相には何等の

この絶対的直観の飛躍を信楽の

本典が純粋宗教の理念を開顕する

仏陀の感化によってその根底を突き破られて︑

巳に犯した罪が大悲闇提の菩提心にまで転化せられるのである︒

六逍の因が取り除かれる故に

一 四

(21)

願に於て仏の方に成就せし仏心そのものであって 神的理念は如何なる悪をも苦化し得る絶対性を意味する︒宗教に於ける真理のロゴスは︑如来正覚の理念自体を意味を見ずという経語は︑涅槃経自体の矛盾であった︒然るに涅槃経の全体が翻訳せられて︑遂に︑犯四重禁作五逆罪一蘭提等皆有一一仏性ー︵真仏土谷一四丁︶の聖語によってその背反性の難過を完全に取り除いたのである︒がそれまで排除して来た一蘭提の極悪の機の成仏が証明せられた︒の不可欠の領域を肯定する経典となったのである︒

一 五

大経では仏の本願の功徳の大益として︑ 一闇提を殺すとも罪

今︑浄士真宗で悪人正機を論じても︑若しも此の涅槃経の体義が第十八願成就の中に見出されなければ︑悪人正機

の実義は妄想に堕するものである︒然るに︑涅槃経の中に大信心は仏性なりと論明されたその大信心自体は︑第十八

来の仏性が悪人の性体に充満するのである︒涅槃経は圃提仏性を論じて証の側の開顕となり︑第十八願は十方衆生の

機の上に仏性を成就し給う︒即ち第十八願は涅槃経の体義である仏性を︑

に開顕するのである︒真仏土巻二九丁に︑

n

9

故知到︱︱安楽仏国一即必顕

1仏性元空本願力回向故亦経言下衆生未来具=一足荘 1 1

1

厳清浄之身一而得;見︱︱仏性 1

1

涅槃経では涅槃の徳による破砕によって一闇提の現身成仏を要請しており︑

万善万行の総体である仏の正覚の名によって︑

一閾 提往 生の 本誓

此の仏心を聞信の極促に無智の凡夫に廻向することによって︑如

信楽の一念によって真実報土に於て具体的

無善の凡夫が涅槃の徳の領域にまで止揚せられるのである︒涅槃経の

優位性は闇提成仏にあるけれども︑涅槃経の立場ではその成仏が現身成仏である故に︑ 涅槃経が一切衆生の仏性を認めながらも︑ すると同時に︑それは仏行としてのタートであるからである︒

自証に於ける実践的困難性が この意味で涅槃経は︑善悪撥立の聖道一代の教え

一間提堕地獄の義蝦子を殺すも殺罪を得るが

即ち︑仏教 宗釈禅師の此の臀喩は錬金術に似ているけれども︑行巻に於ける大行の体系的な深釈は唯此の一句に尽るのである︒

(22)

一閾 提往 生の 本誓

付き纏っている︒然るに︑大経に於ては︑本典総序に欲レ恵

逆謗闇提ーと開顕せし如く︑1 1

功徳が充実すれば︑その表面は一閾提その盛の相であるけれども︑

るのである︒本願力の法は未来法である故に︑

宗教の最高極限の表示が教行信証であり︑その証の具体的内容を取り扱ったのが涅槃経である︒斯の涅槃経で取り扱

われた法門を略門一法句すれば︑易往而無人の五字の指標である︒

善導の四帖の疏は︑菩人は仏道を得るも悪人は仏道を得ないという仏教一般の通義に泥んだ偏見を超えて︑純粋宗

教の上で︑観経の下三品から︑悪人正機を革命的に論証したのであるが︑其処には猶善悪療立の余薫が残っているよ

うに見える︒というのは︑法を受ける機を限定して︑謗法無信等は法を得るに由無き者として︑朽林や大石には潤い

を生ずる期が無いという肯喩を玄義分七Tに引いているのである︒

ているのは︑むしろ︑第十八願成就の真実報土に於て絶対的に先証的な必然性を有っていることを看破しなければな

らないのである︒謗法無信に芦言えられているその朽林碩石も報土に於ては七宝の樹林を意味し︑

地獄餓鬼畜生も総て如来正覚の場所に作仏せしめられてゆくのである︒報土は︑世界の全体が成正覚している純粋荘

厳を意味するものである︒然らば世界全体は如何にして如来正覚の中に超凡者として作仏せしめられるかは︑

9

n

9 9 / 9 9 1

又 其 国 土 微 妙 安 楽 清 浄 若 レ 此 何 不

l ‑

力為レ善念

1一道之自然一著下於無︱︱上下一洞達無中辺際上宜下各

ヲ^〖ージルnトハ―-99シテキモ

9 9 9

勤 精 進 努 力 自 求 レ 之 必 得 中 超 絶 去 往

1

1

安 養 国 謡

5歓一一五悪趣一悪趣自然閉昇レ道無

1

窮極

1易レ往而

n l

9ジテ

9 9

9イノチ/9

無人其国不孟翌涅自然之所七牽何不下棄証一世事一勤行求中道徳出

盈p J 空 極 長 生 一 寿 楽 無 ェ 有 レ 極 願生 菩薩 横超 易往 分︶ と︑若不生者の本願の成就を開顕している︒ 下十丁

︵大

一闇提に南無阿弥陀仏の

現実の一蘭提は此の未来法に引きずられて涅槃の都に入るという絶対

然し︑現身成仏の思想が草木国土皆悉成仏を論じ

八難の場所に於ける

もし唯善人のみの往生で第十八願の真理が尽るとしたならば︑此経語に その本質は煩悩を断絶せる大涅槃の生活が徹底す

一 六

(23)

することであり︑無上上の真解脱の証徳を得た人である︒

一 七

これは真諦の辺より見た無人であって︑信楽の辺より見れ

続く五悪段胎化段の開示を要しない︒五悪段の対象は一蘭提であって︑

ちに報土に入ることを顕示されたのである︒

玄義分の誓にある朽林も碩石も総て往生することを顕開せられたのであ 八万四千の法門の終婦は真実報土の往生即成仏の証の義に於て究党するのである︒

易往而無人は︑信を獲れは易く極楽へ往けるのだが人に信慧あること難けれは往く人無し︑

せられている︒然し︑往き易いが往く人無しとは矛盾の論理である︒弥陀は如何なる個体にも一々に南無阿弥陀仏の 本願を成就し給う故に︑往く人無しという否定的結語は存しないのである︒

易往而無人の易往とは︑南無阿弥陀仏によって如何なる機も報土に直入し得るということであり︑本願三信の易往 の極限を意味する純粋原因である︒無人は︑易往に即する結果が成仏であることを顕す︒

無人の無は︑虚無之身無極

之体︑即ち第十一願成就の無上涅槃の意味から見るべきである︒此の往生は生即無生である故に︑無人とは涅槃を証 ば無作の人である︒即ち︑易往而無人とは︑本願力に値遇する瞬間に︑唯除の本誓によって人間のあらゆる与件から

超越し解脱せしめられることを意味する︒それは︑易往にして而も直ちに成仏するという聞信一念即得往生の意味で あって︑絶対未来の永劫性を瞬間に即する因果同時の極限を開示するものである︒論註上六丁に︑

9

問日依︱︱何義元型往生一答曰於︱︱此間仮名人中及誓五念門一前念与二後念元り因稿土仮名人浄土仮名人不レ得︱︱決定

n

9

9ナ︐ご不レ得︱︱決定異1

前心後心亦復如レ是何以故若一則無

i

因果一若異則非ー一相続一是義観i

i i

一異

一門

一蘭 提往 生の 本誓

という難信の義に解釈 仏の法門は八万四千に余れども︑ 小西迦葉師云諸有衆生身中各有忌口億万粒細胞1

︱︱細胞中各有二阿弥陀仏

1是 故於 二‑ 切世 界一 無レ 有

1 1

一闇

提一

是 以一 切衆 生体 一一 達弥 陀正 冥大 世界

︱ る ︒

一蘭提が易往而無人の横超の直道によって直

(24)

.  

一閾

提往

生の

本誓

仏法功徳の宝無きことを許さ

第十八願の真実なる信楽に於て︑現生正定衆という菩薩の位に住するが故に︑娑婆に居りながら娑婆の如何なる条 件にも支配せられぬから娑婆の仮名人であり︑浄土に生れながら未だ浄土に居らぬから浄土の仮名人である︒この仮

象のままを背反性の絶対的統一に於て︑親鸞聖人は何のことは無く九十オの生涯を自然に過されたのである︒

大経に難信の証示があるけれども︑その立場は釈尊の出世本懐の場所から誓願一仏乗の絶対的価値を保証せるもの

であ

って

これを弥陀招喚の願力的転換から見るならば︑

9

9

n

9 n

9 9

如 来 興 世 易 レ 値 易 レ 見 諸 仏 経 道 易 レ 得 易 レ 聞 菩 薩 勝 法 諸 波 羅 蜜 得 レ 聞 亦 易 遇

= 善 知 識

1

レ 法 能 行 此

9

亦為レ易若聞孟却経1信楽受持易中之易無レ過

1一此易

1是故本願修起法如レ是作如レ是説如レ是教応当1一信順如法

修行1

聖道の難行は行そのものが困難である︒浄土の難信とは値遇の難であって︑自力の行を以て他力の信を獲ようとす るから極難信の法となるのである︒然し︑此の値遇の難は機の方から言うのであって︑

くして直ちに成仏するのである︒寛に︑易往而無人は他力の極意を示す︒信ずれば往生するという言い方をする為に︑

︵浄

土論

二丁

法の方から論定すれば往ぎ易

此の倍の一字が呑み込めないで︑何時までも疑情の雲に覆われたように見えるけれども︑

1仏本願力

1

= 空 過 者

1能令三速満

1

足功

徳大

宝海

︱ 一心願生の内容を示している︒即ち︑値遇することが直ちに信である︒仏力によって本願力に遇わせて頂くそれ が直ちに廻向の信である︒宴に︑南無阿弥陀仏を聞く一念に往生の正因は究党するのである︒第十八願成就文に言く︑

9

9

9

諸有衆生聞︱︱其名号一信心歓喜乃至

1 1 1

<

笹 至 心 廻 向 願 レ 生

1彼国

1即得1一 往生 元茎 不退 転

1唯除

1

五逆誹謗正法1

1

仏を除いて如何なる者も一聞提に非ざる者はない︒

とも邪魔にはならないのである︒浄土論二丁に曰く︑

我々は一日として誹謗正法せぬ日は無い︒然し︑誹謗正法する

何等世界無=仏法功徳宝︱と︒

一八

(25)

逆悪もらさぬ誓願に

0 0  

ぬ︒誹謗正法と言う以上︑そこには已に誹謗せられる正法が存在する︒誹謗する直下が最早︑正法である︒仏法であ

る︒寛に︑仏法を信じようとも又謗ろうとも︑仏から見れば同じである︒

悪人正機とは︑悪が理念の王国への契機となるという意味ではない︒

せられた領域であって︑人倫の場所に於ける善悪の措定を意味しない︒若しも人問が人問自身の能力を以て善を為し

遂げ得たとすれば︑その善の為に却って最高善を産み出す神的理念の道を閉塞するのである︒

一念で言うべきものではなく︑信後から翻って自己の正機を自寛する状態である︒弥陀の本願によって助けられてみ

れば︑自己の過去はどこまでも一蘭提であったという自覚が深まる︒大経では唯除の本誓によって︑

蘭提の禍根を断絶せられる故に︑

浄土真宗に帰すれども

これが大経の五悪段である︒信を獲て後に出て来る︒信を獲たからとて善人になりきることは無い︒我々の日暮しが

命の狭悪の領域即ち宿業の内観である︒親鸞聖人は大悲の本願に任せきった生活を宿業にまで演繹なされたのである︒

大聖おのおのもろともに

凡愚底下のつみひとを

一閾 提往 生の 本誓

五悪段である︒五悪段で往生するのである︒ 清浄の心もさらになし 虚仮不実のわが身にて 真実の心はありかたし

︱つ

であ

る︒

五悪段に来て自己の一蘭提を自覚するのである︒

︵悲

歎讃

一 九 悪人正機は︑信前や初

聞信の刹那に一

五悪段に於ける深選なる意味規定は︑永遠に繰り展げられている人間運 それは︑人間が理念からの反照によって批判

(26)

如く︑世界史の上に有る聖者の意志は 又︑最高善を為し遂げようとするが如き自己の限界を自

︵本

典総

序︶

難思議を帰命せよ︵讃低讃︶

掘乃権化仁斉救=済苦悩群朋一世雄悲正欲レ恵一一逆謗蘭提一故知円融至徳嘉号転レ悪成レ徳正智難信金剛信楽除レ

疑 農 証 真 理 也

人間が真の宗教ヘタートするのは︑その苦からではない︒

覚しない偽善的な立場ではない︒人間の現実は己に一圃提の悲劇の運命に陥っているのである︒

て︑神になり得べく制約するものが︑神的理念から直接に与えられた制約性である︒

此の無制約の場所への解放が神的理念の絶対的真理である︒ この一蘭提性に対し

それ故に︑此の総序に開闇せる

一闇提の悲劇の運命の只中に在る者を直ちに無上覚の座へ止揚するのである︒ 光沢かふらぬものぞなき 一切の有碍にさはりなし 光雲無碍如虚空 で

ある

一切光明皆悉隠蔽は︑諸仏菩薩の光明さえも見えない︒このような光りの中では一闇提の如きものは徽菌

一閾 提往 生の 本誓

︵観

経讃

悲化段五悪段は如来正覚の智慧によって照顕せられた我々の姿である︒

かという問に対する答が︑五悪段に続く霊山現土である︒霊山現土の聖文は︑誓願一仏乗の出拠であり︑念仏は無碍

の一道なりの根拠である︒十方無碍人一道出

1一生死﹃皆同一色は五乗斉入であり︑皆同一色に包まれると現生正定緊

の︱つにも及ばず︑顕微鏡で見ても見えない︒唯見仏光明曜顕赫は︑唯︑摂取の光明のみ︒これは一切衆生即得往生

の益 を顕 す︒

一闇提が諸仏の仲間入りをして︑弥陀の光明と︱つになるのである︒ 方便引入せしめけり

この一聞提は永劫に救われないのではない 二

0

参照

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第二に考えられることは︑名号とは単に概念的な存在ではなく︑常に称名となって衆生の口業に現れるものである

老婆にまで及んでいる︒ 楽集﹂中にも他の場所で引用しているにおいておやである︒

親鴛への回帰と親驚からの出発

はまことに、もっともなる解明と云わねばならない。上讃傍徳とは称名が悌徳讃膜をすることになるという意味で、

中国浄土教における善知識

浄土宗一条流と蓮如 五

に親驚が﹁覚禅紗﹄所載の文に接したとするのはどうも問題があるのではないかと思われるが、これとはまったく